なにもしないために必要なこと
先日、NHK教育の福祉情報番組『ハートネットTV』で「ひきこもり新時代」と称し、長期化にともない高齢化するひきこもりについて特集していたが、そこで一番印象深かったのは、ひきこもり当事者ではなくその母親の言葉であった。六十八歳になるという母親は次のようなことを云っていた。「私にはもう時間がないの。これまでの人生で色々なことを犠牲にしてきたし、一日のなかで気力のある時間は短い。だからあなたはひきこもりの本を読めというけれど、読んでいる時間はない。わたしはぼーっとしている時間がとても貴重なの」
そのシーンを見ていてふと思い出したのは、ある外国の結婚式に参加した時のことだった。連日連夜のパーティに参加するなかで、ふといつも隅でじっと椅子に座っている老人を見かけた。一度その老人に挨拶をしたが、彼は握手に応じてくれたものの、終始無言で無表情だった。ただ、機嫌が悪いわけではなさそうで、どちらかというと穏やかな空気に包まれていたのを憶えている。
老人が座っていた中庭。
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ぼおっとしていることは、ただ退屈なのではない。ある条件が揃うと、しみじみとした味わいや充足感を感じられるのではないいか。
恍惚老人という、小説が元となった古い言葉が思い浮かぶ。これは現在の言葉でいうと認知症の老人という意味だ。しかし「恍惚」というのは必ずしも認知症を意味せず、元来はぼんやり・うっとりしている、あるいは物事に没頭しているという意味だ。
精神科医の斎藤環は昔(たぶん「マル激」に登場した時だったと思うが)こんなことを云っていた。「ひきこもりの患者さんの家に訪問すると、親御さんが矍鑠(かくしゃく)としていらっしゃる場合が多い」。どうも子供のことなどで不安があると、かえって意識がクリアになるらしい。だが「それは必ずしもいいことではない」、「つまりボケられないということですね」と話が続いてゆく。ここではボケることがある種のゴールインと捉えられている。
認知症と「ぼーっとすること」はもちろん違うが、ただ共通点もあるのではないか。それは何らかの「するべきこと」を終えた人が、ひっそりと充実感を噛みしめる、あるいは人生そのものを味わう時間なのではないか。
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ところで、そういう人生の晩節の大いなる恍惚とは別に、人は短期的や中期的にも、たとえば一日というサイクルのなかでもこうした時間を持ちうるのではないか。つまりその日すべきことをやり終えた後に、ただじっとしているだけでしみじみと充実感がこみ上げてくるといったような。
これは先日書いた神経症的読書家の話(http://visco110.hatenablog.com/entry/2018/08/30/175505)とも関係してくる。ここで僕は、神経症的な「すべきこと」を為した後でないと人は落ち着くことはできないと論じているが、落ち着いたあとに出来る最高のことは「ぼおっとすること」なのかも知れないと付け加えたい。
妻の実家付近。涼しい季節にここでぼおっとする時間はすばらしい。
かといって知り合いには「別に何かをやりとげた後じゃなくてもただぼーっとするのが好き」という人もいるので、そのへんは人によるのかも知れないが、少なくとも僕には「すべきことをやり終えた感」がなければ無理だ。むしろ、そのような楽しい時間が後から待っていると考えて今は頑張る、といった運用の仕方になるだろう。みなさんはどうだろうか。
※文中の引用は大意を伝えるもので、一字一句正確なものではありません。