雑誌、この猥雑なもの
1.余剰としての雑誌
「週刊誌の鬼」の仇名で知られ、池島信平や花森安治と並び称された雑誌編集者の扇谷正造は、『週刊朝日』の編集長時代、大阪を訪れたさい地元の有力販売店の店主に「あなた、人を訪問される時、どこからお入りになりますか」と尋ねられたという。
「玄関からです」と彼が応えると、店主は次のように続けた。
「そうですか。私たちは勝手口から入ります。そこで、新聞代金をいただく。いくら、と相手方がきく。それはその家の奥さんだったり、女中さんだったりです。『朝日新聞』の代金はコレコレといいますと、パチンと財布をひらき、パッと払ってくださる。それに『週刊朝日』が二十円ありますが……といいかけると、パチンとひらいて、しばらく考えてから払ってくださる。その時間は三分か四分かも知れない。けれども、私たちにはニ十分にも三十分にも感じられる。どうか、扇谷さん、『週刊朝日』を、パチン、パッという雑誌にしてください」*1
扇谷は考えた。なるほど新聞は水道や電気やガスのような生活財といってもいいが、雑誌は選択財にすぎない。ではどうすればよいか。そこで彼は、集金直前の第三週号にはかならず女性向けのトップ記事を載せるようにした。それらの記事は立て続けにヒットを飛ばしたという。また彼はこの頃から「平均的読者像」を想定して記事をつくるようになった。それは例えば女性であれば、「旧制女学校卒の読解力プラス人生経験十年」というものであった。
……だがそれはそれとして、こんにち雑誌が生活財になったかどうかといえば、未だ選択財に留まっている、というより生活財になどなりようがないというのが実際だろう。佐藤優も近年の著書のなかで「大多数のビジネスパーソンにとって、一部の学術誌や経済誌を除いたほとんどの雑誌は(中略)基本的に娯楽で読むもの」と述べているが*2、異論の余地はない。
『KALOS』、西洋アンティーク雑誌。おそらく8号で廃刊したと思われる。第2号の特集『カップとジョッキ』は酒好きにはたまらない。
2.軽蔑するための雑誌
『週刊新潮』編集部に長年在籍し、途中から同誌次長を務めた亀井淳は、週刊誌とは「軽蔑するために買う」ものではないかと述べている。
グロテスクな事件が多ければ多いほど、週刊誌は売れる。よくも悪くも、週刊誌は現代のカワラ版なのである。
(中略)
買って失望して、軽蔑する。死体写真やスキャンダルばなし*3を、もともとていねいに心をこめて見る人はいない。チラと眺めて捨てる。その束の間の軽い快楽と、なんだメディアといっても大したものではない、メディアよりも自分の方がずっと人格高等なのだという優越感を得るために、今、人々は週刊誌を買うのではないだろうか。*4
余剰であり、かつ蔑視されるものとしての雑誌。それは云ってみれば排泄物のようなものだ。
雑誌と排泄物は多くの共通点をもつ。どちらも人間によって定期的に生み出される。人はそれをちらっと見るかあるいはまったく見向きもせずに早々に棄て去る。そして人知れず分解され、資源やエネルギーとなって再び我々のもとへ戻ってくる。誰もそれについてフォーマルな場で、あるいは大っぴらに語ろうとはしない。だが少なからぬ人々にとっての秘かな好奇心の対象である、云々。
2ちゃんねる系雑誌。ゼロ年代前半は駅前の小さな書店にも数種類並ぶほど興隆した。
3.雑誌のスキゾ性
雑誌は横丁のラーメン屋のようなものだ。たとえ気に入った店が出来たとしても、いつ潰れるかわからないし味が変わるかもわからない。安定した長期的関係を築くのは難しい。
このあたりは新聞とはまったく違う。新聞は長いものではゆうに百年を超えるが、雑誌は五年続けば長寿なほうである。また新聞は簡単に姿勢が変わったりはしないが、雑誌はちょっと目を離すとサブカル誌がパンチラ写真誌になっていたり、詩と批評の雑誌がオタク雑誌になっていたりする。さらに雑誌は、他紙のヒット企画は節操なくパクるし、まるごとパクリ雑誌を創刊したり、パクられたほうもパクり返したりする。物事がきちんと整理されて秩序だっていないと気が済まない人にとって、じつに精神衛生上悪いスキゾ的メディアなのである。
では、このように読者を困惑させる諸特徴を持った「雑誌」というメディアと、我々はどのように付き合ってゆけばよいのだろうか。
『GS たのしい知識』。5号まで浅田彰が編集に参加している伝説的雑誌。他の現代思想系雑誌にくらべ、躁気味の賑やかさ、騒がしさがある。
4.治水からサーフィンへ
今回は雑誌についての話だが、少し広げて考えるならテレビやネットもスキゾ的なメディアである。
テレビは「人間はすべてを見ることは出来ない」ことをわかりやすく教えてくれる。なにしろ24時間休みなしに放映するチャンネルが無数に存在するのだから。いわんやネットをや。
年々加速度的に増大する情報にたいし、我々はなんとか「治水」を計ろうとする。89年、「すべてを頭に入れる必要はない、アクセスする方法を知っていればいい」「《詰め込む》ことではなく《わかる・使える》ことを重視せよ」(大意)と説いたリチャード・ワーマン*5や、97年、情報過多によるさまざまな弊害について列挙し「情報ダイエット」を奨めたデイヴィッド・シェンク*6の著作は、いずれも情報の洪水を「治水」せよ、翻弄されるがままに摂取するのを止め、付き合うメディアを厳選し、時間を絞って情報にたいする主体性を取り戻せという前提に立っている。*7
『知恵の指南 民間雑誌』明治7年創刊。主催は福沢諭吉らしい。ぱらぱら眺めていたら「外国人と内地で雑居するな」的なことが書いてあった。
だが新聞や名著ならまだしも、雑誌やテレビやネットのスキゾ性を見るにつけ、そのような「治水」の発想には限界があると云わざるを得ない。なぜなら「自分が閲覧するのはこれとこれに絞る」「こういうことについて知りたいときはここを参照する」と定めた途端に、上で述べたように対象が消えたり、まったく違うものに変質したりするからだ。「治水」の発想はスキゾ系メディアとの付き合い方とは根本的に相容れない。
それよりも、スキゾ系メディアに対しては情報の洪水を「サーフィン」したほうがよいのではないか。つまり、しょせん一期一会と割り切って、偶然見かけたとき、これぞと思ったときに乗ってみる。いい感じなら乗り続けるが、やがては移ろいゆくものだと割り切って、執着を持たず、身軽に別のもの(波)に乗り換えてゆく。
定期購読はまるで堅牢なダムのようだ。それをするなとは言わないが(かくいう僕も、現在『朝日新聞』と『Newsweek日本版』を定期購読している)、全体を漏らさず把握したいというパラノ的な欲望を突き詰めると精神状態が悪化するので、ほどほどにしたい。
小谷野敦は雑誌について次のように述べている。
しかし、と疑問に思う人がいるかもしれない。週刊誌は、たまたま雑誌のその号を買っただけであって、やり方が行き当たりばったりではないか、つまり、システマティックではないのではないか、と。気にすることはない。情報などというのはどうせランダムにしか入ってこないのだから、たまたま入ってきた材料から最大限の情報を引き出せばいいのだ。*8
僕もその通りだと思う。スキゾ系メディアと付き合うには、こちらもそれ相応にスキゾになるしかない(ところで、スキゾ-パラノって今更説明しなくてもいいですよね?)。
5.憩いとしての雑誌
こうして述べてくるとずいぶん刹那的なようだが、そうであるにもかかわらず、雑誌は「憩いの場」として機能する。
最新号を買い、喧騒を離れて落ち着いた場所で開くときの、馴染みの飲み屋のような、放課後の部室のような、あるいは地元の友達で集まった時のような安堵感。初めて買う雑誌を開くときの、新しいサークルに紹介されるような気分。
歴史的に見ても雑誌はしばしばコミュニティの形成-維持という役割を果たしてきた。それは実際の(たとえば文学や民俗学や政治活動の)団体であったり、想像上のコミュニティだったりする。商業誌においても、扇谷正造が述べたような「想定読者層」、いわゆるターゲット層たちの間には、同じ年代の、同じ(であろう)階級の、同じ趣味・価値観を持つ読者仲間……ということでなんとなしに、編集部や執筆陣をも巻き込んだ共同体意識が生まれやすい。
かつては雑誌読者ごとの派閥が出来たりもした。*9 他メディアに比べて資本の規模が小さく、たとえ商業誌であってもどこかしら「手作り感」があることもそうした共同体意識が形成される理由の一つなのかも知れない。そして投稿欄やアンケート、イベントなどがおぼろげな共同体意識にそれらしい外見を与え、幻想を補強する。
明日には消えているかも知れない、まことに儚い共同体ではある。紙面という砦に立て籠もってそこから社会をまなざしている「秘密基地」のようでもある。もしかすると、雑誌好きは儚いからこそそこに愛着を見出しているのかも知れない(よかった、今週/今月もまた会えた)。
雑誌には極小の「居場所」、極小の「他人の気配」がある。
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*2:池上彰/佐藤優『僕らが毎日やっている最強の読み方』★★★
*3:亀井がこの原稿を書いていた85年の夏から秋にかけては、豊田商事会長刺殺事件、日航機墜落事故、三浦和義逮捕、テレビ朝日やらせ事件の相次いだ時期であった。
*4:亀井淳『週刊誌の読み方』★★★★
*5:「わたしがフィラデルフィアに住んでいた子供のころ、父はこう教えてくれた。エンサイクロペディア・ブリタニカの内容を暗記する必要はない。そこに書かれている内容を見つけだす方法を身につければいいんだ」(リチャード・ワーマン『情報選択の時代』★★★★)
*6:「情報をとりすぎている人は、情報断食をときおり実行して、自分の情報摂取量をコントロールする必要がある。午後の適当な時間帯をえらんで、そのあいだは電子情報から遠ざかることを日課にするのも効果的である。インターネットの時間を週何時間かに制限する手もある。ネットサーフィンについやす時間と同じだけ読書して、バランスを保つ手もある。
完全に情報から遮断された環境に身を置いてみる。これをたまに情報ダイエットのメニューと換えてみるのもなかなか効果的である」(デイヴィッド・シェンク『ハイテク過食症』★★★)
*7:この二著を比べると、デイヴィッド・シェンクのほうが後発なだけに状況認識が深刻であり、半ば「治水」の不可能性の立場から語っているようにも読める。
*9:例えば平凡パンチ派とプレイボーイ派、ポパイ派とホットドックプレス派、ファミ通派とファミマガ派とマル勝派といったような。