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いま人!ブログ

いまどき真面目に人生とか人文学を考えるブログ

2017年に『電波男』はどう読みうるか

 本田透の問題系、すなわち恋愛資本主義へのアンチテーゼとしての二次元萌え」はもう成立しないというはてな匿名ブログを読んで思うところがあった。確かにTwitterで二十代のフォロワーさんと話していると、読書もするしオタクカルチャーにもそこそこ足を突っ込んでいるような人たちが、誰一人として「本田透を読んだことがない」というのだ。ついでに云うと、彼らはエロゲーもほとんどプレイしないという。あくまで僕が話した周囲なので本当のところはわからないが、近年エロゲーが売れているという話も聞かないし、本田透の本も出ていない。まあ「そういうこと」なんだろう。

 

 恋愛資本主義というのは本田透の造語であり、その議論は『電波男』(2005)に詳しい。彼の云うところの恋愛資本主義の核心をまとめると、企業やメディア・広告代理店といった資本が一体となって恋愛(ロマンチック・ラブ・イデオロギー)を賞揚し、それと消費を結びつけることによって人々からカネを巻き上げるという話だ。本田によれば、そこには本当の愛などなく、地位や収入やルックスといった恋愛資本主義体制下におけるヒエラルキーの低い者は、ひたすら搾取され抑圧され続ける(そこで本田が挙げた例は、非モテがキャバ嬢に貢いでもセックスさせてもらえず、一方でホストはキャバ嬢からカネを受け取ってセックス三昧、というものだった)。だが幸いなことに我々には「萌え」文化がある。さあ恋愛資本主義に背を向け、二次元に生きそして幸福になろうではないか! と彼は呼びかける。

 一種の資本主義分析という点において、また商品経済による疎外を扱っている意味においても、彼の議論にはマルクスの影響が感じられる。彼もそのことは意識していたようで、『電波男』には、手短にではあるがマルクスに触れている箇所がある。それによると「マルクスの思想はハズレである。何故なら、どんなに社会を良くしても非モテは救われないからだ」(大意)とのことである。しかしそんなことは(´・ω・` )知らんがな、とマルクスに代わって云う他にない。

 

 さて、そのような思想がなぜ近年、アクチュアリティを失ったのだろうか。というより本当にアクチュアリティを失ったのだろうか。

 僕に統計的な話を期待している人はいないと思うのでこのまま思弁的な推論を続けるが、もし二次元派がアクチュアリティを失った(ように見える)とするならば、それは最大の敵である恋愛資本主義自体が衰退したためではないだろうか。多くの記事で見かけるところの、若者の車離れだとかドラマ離れ、デート離れ、結婚式離れ、そして最も直裁的な「恋愛離れ」といったことで、ようするに恋愛資本主義の側が抑圧を弱めたので二次元派も必死になる必要がなくなったというのが事実と思われる。これだと冒頭の匿名ブログの主張とも矛盾しない。よかったよかった。

  ちなみに、Twitterでこの種のテーマに精力的に発言されている皆藤禎夫さん(現在は名前を変えて鍵垢)に意見を伺ったところ、本田透はオタク=絶対にモテないという図式を土台にしている時点で論理に脆弱性があったという。おそらくそのような論理であっても、ゼロ年代にはある程度現状と当て嵌まっていたのだろう。しかし十年代以降になってその図式が崩れたのは、上述のような恋愛資本主義が衰退し、そちら側にもあるいはオタク文化の側にも、気軽に片足を突っ込めるようになったからだろう。

 

 ではなぜ恋愛資本主義が衰退したのか。私見によれば二つ理由がある。一つは言わずもがな、経済が縮小局面に入り、資本力自体が弱まっているということ。そしてもう一つはロマンチック・ラブ・イデオロギー自体の衰退である。しかしこちらは、元来であれば膨大な傍証が必要な話であり、あまり安易なことが云えない。敢えて素描的に云うなら、ロマンチック・ラブ・イデオロギーとは「恋愛相手の崇高化」、そしてそれによる「恋愛の崇高化」であり、感受性としては十二世紀のトルバドゥールに発見され、先日も触れた中世の宮廷恋愛に具体的な様式として結実する、という議論が一般的だ(ドニ・ド・ルージュモン『愛について』)。ロマン主義文学はそれを継承し、スタンダール『恋愛論』では、そうした心的作用が自覚的に語られる。

 ひとえに恋愛相手の崇高化は、生身の相手をよく知らないから可能なのであり、トルバドゥールの詩にしても、美辞麗句で貴婦人を讃え上げるが、その描写は類型的で当の貴婦人の個性については一向に見えてこないことが指摘されている(ホイジンガ『中世の秋』)。この類型化というのはきわめてギャルゲー的ではないか。

 ロマンチック・ラブ・イデオロギーを駆動させる「恋愛相手の崇高化」が近年衰退したとすれば、月並みではあるがやはり、ネットの普及によって他者の生々しい本音を聞く機会が多くなり、他者に対する幻想を抱きにくくなったためであろう。また同時に、恋愛物語が商業的に生産されるさまも、多くの人々の知るところになったためであろう。

 

 こうして本田透の話から恋愛資本主義という短期的な話を取り去ると、あとは「ヤリチン派か妄想派か」というひじょうに普遍的な、おそらくは有史以来すべての時代を貫いてきたテーマが残る。もし本田透が今なお我々に示唆を与えてくれるとすれば、それは恋愛資本主義をめぐる議論ではなく、このような二元論に対する、彼の異様な執着でありその成果であろう。

 これでようやく、現実逃避の可能性について中世貴族とオタク的想像力の類似性という角度から語った先日の話との接続が可能になる。先日も記したが、僕は目下のところ、この二項対立においては現実逃避側・妄想側に可能性を見出している。逆に言えば現実側・ヤリチン側には、そりゃまあ実生活上逆らえない部分もあるけれど、気分としてはかなり冷淡であることを宣言というか告白というか、とにかく言っておこう。

 

 このような読みなおしによってはじめて、本田透の著書は、この先も豊かな示唆を与え続けてくれるだろう。

電波男

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トルバドゥール恋愛詩選

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愛について―エロスとアガペ〈上〉 (平凡社ライブラリー)

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中世の秋 (上巻) (中公文庫)

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恋愛論(上) (岩波文庫)

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サッポロ 黒ラベル 350ml×6本

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