やすだ 😺びょうたろうのブログ(仮)

安田鋲太郎(ツイッターアカウント@visco110)のブログです。ブログ名考案中。

均一本のこと

 やはり一冊の本から話を始めるのがよいだろう。

 それはなんの本でもよいのだが、今、たまたま手許にあるのは亀山巌の『裸体について』(昭和四十三年、作家社)である。限定五百部とうたっているが、市価は昔も今もせいぜい仕事帰りに一杯飲むていどだ。亀山巌は詩人、装幀家名古屋タイムズの社長としてけっして無名な人物ではないのだがプロの文筆家ではない。元版があり、そのうえで限定版五百部というのはそこそこ多い部数なのだろう。

 

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 この、彼自身が手がけた、いかにも若い読者の猟奇趣味をそそりそうな表紙をめくると、「裸体を中心として」「愛欲を支える店の話」「ポルノグラフィの黄昏」「情欲という結び合わせ」といった期待に応えそうな章題が並んでいる。そこで読み始めると、まず次のような一文がある。

 

 「古書漁りの楽しさは埃のつもった書棚や均一本の山を勝手にかきさばくところにある」

 

 そう、古書漁りの話から始まるのだ。しかも「屑拾い」(後述)たるところの均一本漁りの話からである。つい先刻、銭湯帰りに古本屋に立ち寄ってこの本を求めた読者は、こう思ったにちがいないと想像する。「これではまるで、ついさっきの自分みたいじゃないか……」

 

 亀山巌はその日の古書漁りについてこう書いている。

 

 「ストラッセ『女性裸体美の研究』という例の本をみたのは……洋書の棚の蔭にかくれたときのことであった……値段をきいてみると、財布のなかの金額とはずいぶん隔たりがあったので、かわりに『ハンス・ホルバイン、出版屋のための図様と木版画』という小型本を煙草一個ほどの金で買った。それから駄本の山をひっくり返しているうちに、『新陳代謝の衛生』というタイトルのついたフランスの通俗医学書がでてきたので、何気なくページを繰ってみると股をひろげた女の挿絵が入っていた……誘惑にかられるまま若干金をだし、さらに一冊『造科機論』というおかしな本を、まるで子供が駄菓子屋であれこれと、そのたびに金をだすような恰好で払って買ってしまった」

 

 いやはや、これぞ模範的な「屑拾い」の態度である。欲しくても、また職業上必要なもの(ここでは単に食べるための職業の意)であっても予算を越えたもの、あるいは割高なものは素通りし、それより店先の均一本であれこれと「掘り出し物」を拾うのに夢中になる。


 「裸体を中心として」というエッセイは、こうしてアトランダムに手に入れた四冊の本について紹介しながら、徒然に思い出したことや考えたことを書いてゆくという内容である。

 なるほどこれは良いアイデアだ。古本屋でたまたま目にした本について書く。これなら幾らでも書けそうだし、なんなら一冊全部それで始まるエッセイ集があったら読んでみたいものだ。亀山巌が本当に一度の古書店訪問でこれらの本に出会ったのかどうかは知らないけれど。

 

 *

 

 この「屑拾い」という言葉は、ヴァルター・ベンヤミンがエッセイのなかでフックスのことを敬意を込めて「拾い屋さん(ramasseur)タイプ」と呼んだことを、僕が多少拡大解釈して使っている言葉だ(『ヴァルター・ベンヤミン著作集2』「エードゥアルト・フックス 収集家と歴史家」)。

 

 ベンヤミンによると、フックスはエロチック美術や風刺画、風俗画研究におけるパイオニアである(もちろん異論はない)。そんな彼の資料収集は、必然的にすでに「価値がある」と認められている古書や古物ではなく、しばしば他人からはガラクタ、屑に見えるようなものに向かうことになる。

 研究において新たな分野を開拓するということは、その資料収集においては、他人から見たら「屑拾い」にしか見えない場合がある。何故ならそれは現在の価値ではなく、未来の価値を志向しているから、というわけだ。

 このような奮闘は、一例を挙げるとわが国では柳田国男について云えるだろう。まだ民俗学が学問として認められていなかった若い頃の柳田国男は、雑書ばかり読み、民衆の風俗などに関心を持つ変わり者だと周囲から見做されていたという。

 

 *

 

 またベンヤミンは、バルザックが『従兄ポンス』のなかで収集家について書いた文章を引用する。

 

 「諸君はよくパリの町でポンスのような男やマギュスのような男が、向こうから歩いてくるのを見掛けたことがあるだろう。彼らの身なりは至って貧乏くさい」

 

 「財布を空にして脳味噌をどこかへ置き忘れてきたような恰好で、言ってみれば、まず行き当りばったりに歩いている」

 

 そして、フックスの人間像はまさにこのような姿に近く、フックスこそ「バルザックの構想を越えてさらに成長したバルザック的人物」であると述べている。ベンヤミンは深くフックスを敬愛しているのだが、さらっと読むとまるで馬鹿にしているようである。

 

 さて、こうした態度は蒐集家として見た場合、アンドルー・ラングのような正統派からは逸脱したものと映るかも知れない。だが古典的名著であるラングの『書斎』には、上述のフックスの態度と驚くほどの共鳴を示している箇所もある。それは次のような箇所だ。

 

 「人間の歴史の過去の一時期、人間精神の古い一様相を研究の対象にしている連中であれば、他の蒐集家たちにとっては紙屑としか映らないような同時代の薄っぺらな本まで血眼になって集めまくるだろう

 

 「古い誹謗文書、風刺詩なども、歴史上の疑点を解く鍵となったり、過去の風俗習慣を浮かび上がらせたりすることがある」

 

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 念のために云っておくと、さすがにフックスが均一本ばかりを漁っていたわけではないし、そこまで貧乏くさい身なりをしていたかどうかも疑問ではある。どうやらフックスに対して屑拾い的なイメージを強化しているのは、ベンヤミンの同エッセイについての山口昌男の言及に原因の一端があるらしい。

 

 山口昌男は『本の神話学』に収められている「もう一つのルネサンス」のなかで、フックスのことを「(わが国では)いかもの喰いの雑食家であるという印象が一般化している」と書いている。

 またベンヤミンがすでに云っていることの引用やあくまで間接的な言及とはいえ「時にはほとんどガラクタとしてしか感じられていない物を採集するとか「彼はけっして学者タイプにはならなかった」「どうしようもない屑の中に人間の秘密を説く最も大切な鍵が見つかると信じて来た」「蒐集家=拾い屋さんの系譜」等々書き連ねており、これを若い頃に読んだ僕は、すっかりフックス=屑拾いの人という印象を抱いてしまったわけである。そう間違っていない気もするけれど。

 

 そして、その山口昌男にも均一本漁りの趣味があったらしく、同書の文庫版に収められている「補遺 物語作家たち」というエッセイは次のように始まる。

 

 「廉価本の棚を漁っているとF・S・クラウス、安田一郎訳『日本人の性と習俗 民俗学上の考察』(桃源社)という本が比較的廉価に入手することができる。筋のいい読書人・研究者は、こういった性学書的体裁で訳出される本をあっさり価値低きものと断じるきらいがないでもない」

 

 結局、ベンヤミンにしろ山口昌男にしろ、自分が信念を抱いているパイオニア的学者の理想像をフックスに投影したのだろう。

 

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 さてここまで書いてきて、均一本漁りは価値創造に繋がるということが伝わっただろうか。均一本というのは、たしかにその時の価値体系からは見捨てられているクズ本、クズ資料の山だが、それは見る人次第、将来どうなるかはわからない。胸ときめかせて「屑拾い」に出かけよう。

 

裸体について―亀山巌エッセイ集

裸体について―亀山巌エッセイ集

 
書斎

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