やすだ 😺びょうたろうのブログ(仮)

安田鋲太郎(ツイッターアカウント@visco110)のブログです。ブログ名考案中。

休むことについて

 うたて此世はをぐらきを
 何しにわれはさめつらむ
 いざ今いち度かへらばや
 うつくしかりし夢の夜に
 (松岡國男「夕ぐれに眠のさめし時」)

 

 初夏の頃、妻の田舎の小さな神社でひとり座っていた。

 辺りには人影もなく車の音もなかった。風で林が揺れていて、それをただ眺めているうちに、いつになく心は静まりかえっていた。それは素晴らしい時間だったが、かえって普段の慌ただしさと脳の疲れを痛感して、明日からまた殺風景な街中に戻ると思うと、暗澹たる気持ちにさえなったのだった。

 

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 僕は休むのが苦手だ。おそらく昔、フルタイムで働いていた頃に非常な時間の欠乏を味わったからだろう。あの頃にわずかな時間でも読書したり、ウェブサイトを閲覧したり、あるいは今後の予定をメモ帳に書きつけたりと、とにかく脳を休ませない癖がついてしまった。

 何もしないでおこうとしても気付けば何かをやっている。入浴中も布団の中でも何事か思案している。小池龍之介が「考えない練習」と云ったのはまことに僕のニーズに合致したものだった。ただしどうしても実践できないでいるが。

 今などさほど忙しくなくなったのだから、もう少し悠々と構えてもよさそうなものだが、相変わらず勝手に焦って勝手に疲れている。しかも、それが生産的なことと結びついているかどうかというと、甚だ怪しいのである。

 

 こんなことでは長生きできない気もする。江上波夫はかつて「若いうちは勉強しすぎないほうがいい」(大意)と云った。なぜなら燃え尽きてしまうから。七十とか八十まで学問を続けるなら、若いうちに燃焼しすぎてはいけない。但しこれは、佐原真という、江上に比べれば三十ほど若いがすでにかなりの実績を積み上げている後輩学者に向かって云った話だけれども。

 

 *

 

 ともあれ、初めて訪れたわけでもないのになぜか妻の田舎での休息が忘れがたく、ある日思い立って一週間ほど休むことにした。仕事には行くし最低限の身辺のことはするのだが、それ以外は何の活動もせず、本の一ページも読まないことにした。

 だが今、六日目の夜を迎えて、それにほぼ失敗した自分がいる。やはりどの瞬間にも、かならず何かをやってしまうのだ。

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 *

 

 もしかして肩が凝っているのが原因かもしれない。肩が凝っていると緊張状態の脳波であるβ波が出やすい状態になる。そして何かしようとしてPCやスマホの画面を見てさらに覚醒状態になる。休もうとしてもついつい何かをしてしまう原因は、こういう悪循環にあるのかも知れない。後で肩のストレッチでもググってみることにしよう。

 

 リラックス状態に出るといわれるα波は、マッサージやストレッチの他に、食事や入浴や音楽などによっても出やすくなる。さらに低周波のΘ波は、景色を眺めたり入眠時に出やすくなるという。
 いっときアンビエントやミニマルテクノといった音楽ジャンルに興味を抱いたのは、それらを聴くことによってα波やΘ波が出る状態をつくりだし、くつろいだり癒されると同時に、人為的な幻覚を見てみたい、と思ったからだった。

 

 入眠幻覚というジャンル(?)がある。簡単に云ってしまえば、寝入りばなに見る夢うつつの情景のことだ。
 吉本隆明が『共同幻想論』において、『遠野物語』で語られる山奥の怪異はようするに度の強い入眠幻覚である(大意)と論じたのは、超自然的存在である山人が実在するとは思わないにしても、あまりに身も蓋もないという意味で衝撃だった。

 吉本の関心はその先、入眠幻覚によって呼び起される無意識の性質すなわち共同幻想に向かってゆくのだが、それはさておき、怪異をたんなる入眠幻覚とすることは味気ない話だが、逆に云えば『遠野物語』のような不思議を、ちょっとした仕掛けで誰もが体験することが可能だという話でもあり、それはそれで別種の夢を与えてくれる話でもあった。

 そんなことをやっていて脳が休まるのかどうかは怪しい。方向性の違うものを同時に求めるのはいかがなものか、と思うけれど、人は二兎を追いたくなる生き物で、まあ赦していただくより他にない。

 

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 休養期間は残り一日になってしまった。
 Aphex Twinの『Selected Ambient Works Volume2』を流しながら、意識状態を極限まで下げ(ようするにボケっとするだけ)、うまい具合に脳を休めつつ不思議な幻覚が見られるだろうか。僕も休むときは休めることを証明し、明日の英気を養えるだろうか。