やすだ 😺びょうたろうのブログ(仮)

安田鋲太郎(ツイッターアカウント@visco110)のブログです。ブログ名考案中。

言葉の暴力について

 侮辱、中傷、罵詈雑言は怖ろしい。それはもちろん、言われた側も恐ろしいのだが、言った側にとっても充分に恐ろしい行為である。相手の報復感情を刺激すること、また第三者の目を引くことによって、攻撃した側が攻撃される側にまわる可能性は常にある。だがそれだけではない。時には殺されることさえありうるからだ。

 人が他者に殺意を抱く理由のうち、最も多いのが侮辱されたことであるという調査がある。

 

 進化心理学者デヴィッド・バスが五千人に聞き取りを行ったところ、調査対象のうち今までに一度でも誰かを殺す想像をしたことがあると答えた人は、男性の91%、女性の84%にのぼったという(『殺してやる 止められない本能』平成十九年、柏書房)。
 バスはこの結果に大いに驚いたそうだが、このこと自体はさほど驚くに値しないように思える。だが問題はその理由だ。他人に殺意を抱いたことのあると答えた大半の人々が、身を守るためといった切実な理由ではなく、侮辱されたので報復したいと思ったと答えたという。

 

 *

 

 なぜ直接的な脅威よりも、侮辱や中傷といった言葉の暴力のほうがより強い報復感情を呼び起こすのだろうか。

 人が他人を攻撃したくなる、つまり怒りの感情というのは、自分のテリトリーが侵されたと感じた時であるとはよく言われる。ここでいうテリトリーとは、身体や家族、財産、土地といったものの他に、精神的な領域をも含む。

 

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 ペーテル・ブリューゲル『旅籠から追い出される酔っ払い』(1620頃)。乱闘の様子の背景には、静謐な教会が対照的に描かれている。

 

 ニコル・ゴンティエによれば、言葉の暴力は社会関係のなかで言葉が占める位置に結びついている。

 言葉の暴力は「取引や、人々の往来や、高い人口密度によって、人間同士の対話の機会がおびただしく増える都市的な環境においては、一段と影響力を持ったのである」(『中世都市と暴力』平成十一年、白水社)。
 彼によると侮辱は、小さな集まりで発せられる場合と、広場で叫ばれたり居酒屋で響いたりあるいは通りの建物に反響する場所とで、意味合いがまったく異なる。なぜなら都市生活においては評判はかけがえのない身分証なのであり、侮辱するということは「彼が共同体のなかで暮らしてゆく権利に異議を唱える」ことであるためだという。

  つまり、お前は盗人だとかろくでなしだとか公然と言われたさいに、すぐさま打ち消さずに拡散してしまうと、彼(彼女)は実際にそのような存在だと共同体から疑いを持たれるようになる。それはやがて現実的な排除に繋がってゆく。かつては共同体からの排除は生命の危機を意味した。侮辱は時として物理的な暴力以上の脅威だったのである。

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 今このような記述を読むと、多くの人がSNSを強く想起せずにはいられないのではないだろうか。SNSこそが現代における「人口密度の高い都市」であり、「広場で叫ばれたり、あるいは通りの建物に反響する場所」であると思えてならない。


 ニコル・ゴンティエやあるいはロベール・ミュシャンブレッド『近代人の誕生』が呈示するような、言葉の暴力が実際の暴力へ必然的に結びついてゆくさまは、各段に非暴力的な現代においては、どのように変化したのだろうか。

 もちろん、今でも実際の暴力へ発展してしまう例はあるだろう。しかしその多くは、実際の暴力という「捌け口」(決して歓迎すべきことではないが)を持たないため、泥沼の言葉の応酬、社会的な名誉の貶め合いに繋がっているのではないか。

 

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 ヤン・サンデルス・ファン・ヘメッセン『女の喧嘩』(1540)

 

 *

 

 実は僕は、罵詈雑言に対して元々は擁護したい気持ちを持っていた。

 それは民話やファブリオー、あるいは『ふらんすデカメロン』のような滑稽艶笑譚、『阿呆物語』『放浪の女ぺてん師クラーシェ』といった諷刺文学に、豊かな罵詈雑言の言語世界を見出すからだ。

 民話や風刺文学の世界において、あばずれ、与太者などといった掛け合いはありふれている。例えばファブリオーでは「神様、この人が長く生きませんように!」と夫の前で祈る妻などは非常にスパイスが効いていると思うし、柴田天馬訳『聊斎志異』だったと記憶しているが「この廃(すた)れ者!」という罵り言葉も好きである。

  こうした罵り合いは、上で述べたような排除、社会的抹殺のための侮辱や中傷とは別のものではないかと思う。

 

 このような例の最たるものは、吉行淳之介と赤線地帯の娼婦たちとの罵り合いであり、その様子については日高普(ひろし)のエッセイ「仰げば尊し吉行の恩」に活き活きと示されている。このエッセイについては谷沢永一『紙つぶて 自作自注最終版』(平成十七年、文藝春秋)において簡潔に紹介されている。

 

 とっかかりの娼家の女たちに吉行がまず声をかけた。それは誌上に収録できぬ類いの、ひやかすような馬鹿にするような調子の言葉だった。

 ただちに女たちは猛然とやり返す。その悪口雑言を浴びながら、吉行は得意そうな、どうです、と言わんばかりの表情で日高をかえりみた。次の娼家の前へさしかかるとまた同じことを始める。あがる気のないことを察知している女たちは、初めから寄ってたかって悪口の集中砲火。こうして一軒一軒やりあっているうち、見知らぬ者同士で悪口のやりとりをしている吉行と娼婦たちの間に、罵詈雑言を互いに投げつけ合うことで、そこになにかしら暖かい心が通じているのを日高ははっきりと悟った。

 

 ここに書かれていることを、ひとまずは虚心に受け止めたい。
 吉行の娼婦蔑視、また本当に吉行と娼婦たちとは心が通じていたのかという疑い、本当に心が通じていたとしても結局のところ客観的には差別なのではないかという問題、さらに過去のテクストを現代の価値観でどこまで批判しうるのかといった懸案。ポリティカル・コレクトネスが浸透する現在の我々にとって、この内容をそのまま受け止めることは、当然ながら難しい。

 

 だが、敢えて言えば娼婦うんぬんが本質なのではない。これは誰と誰のあいだにも当て嵌まる話だ。そもそも完全に対等の人間関係など存在しないのだから……と言ったら云い過ぎだろうか。

 ここで日高が云わんとしていることは、「罵詈雑言は排除とイコールではない」ということだ。罵詈雑言もまた交情であり、コミュニケーションでありうる、そのような可能性について彼は述べているのである。

 

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 *

 

 こうした、互いを殲滅しあうような誹謗中傷と、交情としてかつてあり得たかも知れぬ罵詈雑言とは一体、なにが違うのだろうか。

 もちろん違うのは奥底にある心だ。しかしそれを読み取れというのは不可能なことなのだろう。誰が他人の心を読めるというのか。SNSでは、互いのことをよく知らない者同士が、大抵は文字情報のみでやりとりする。表面上は罵っているがじつは奥底に暖かい心がある、などというやり方は通用しない。


 僕自身、SNSにおいて「おれは口は悪いが懐の深い、情けのある好人物だ」といったような態度は基本的に認めない。SNSにおいてはFtoF以上に表面上の礼儀がきわめて重要である(もちろん薄っぺらな慇懃無礼はすぐ見抜かれるので、表面だけでなくもう少し奥までは礼儀正しくなければならない)。

  正直なところ、いまの僕は罵詈雑言を擁護しようという気を失っている。

 学生時代は筒井康隆の毒舌の大ファンだった。また宮台真司が威勢よく「対米ケツ舐め外交」「ウヨ豚」等々云うのはとても痛快だが(ちなみにこれらは典型的な例にすぎず、宮台は左についても舌鋒を緩めない)、それは特殊な才能であるか、あるいは敢えて他人を傷つけることを辞さないとしているかであり、また本人にも業が返ってくることを覚悟してのことなのだろう。

 

 風通しのよい言葉のかけ合い。それは今日にあってはもはや望むべくもないのだろう。かつてはあり得たかも知れない社会的紐帯のかたちとして、罵詈雑言による交情は、フィクションのなかでのみ生き残るしかないのだろう。

 

「殺してやる」―止められない本能

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中世都市と暴力

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紙つぶて―自作自注最終版

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