やすだ 😺びょうたろうのブログ(仮)

安田鋲太郎(ツイッターアカウント@visco110)のブログです。ブログ名考案中。

神経症的読書家のために(或いはググっても救済されなかった人への三つの処方箋)

 真の勇気とは、代替案を想像することではなく、明確に述べられるような代替案は存在しないという事実から帰結することを受け容れることである。代替案という夢をいだくことは理論的思考が臆病であることの証拠であり、そうした夢は、われわれが袋小路に陥ったみずからの苦境について最後まで考え抜くことを妨げるフェティッシュとして機能する。

 (スラヴォイ・ジジェク『絶望する勇気』)

 

   神経症的読書家(※医学的に厳密な話ではなく比喩としてです)。たんに本好きというのではなく、人生と書物が深く不可分に結びつけられている、にもかかわらずどこか「こじれて」おり、つねに得体の知れない焦燥感に駆られている人たち。たとえば「自分は読まなければいけない本を全然読めていない」とか「いま読んでいる本ではなく別の本を読むべきではなかったのか」とか「この本はつまらない気がするけれど我慢して読破すべきである」とか。こうした、雑念だらけで、端的に云って本との関係が不健全かつ執着的な人たち。

 

 例えば活字中毒」という言葉を聞くと軽くイラっとするのがこの種の人物だ。活字中毒? そんなポップな言葉で語れるものじゃねーんだよ! と。また誰かが得意気に「月にニ十冊読みます!」などとプロフィールに書いているのを見るとムカムカするのもこの人種だ。「月にニ十冊読める本ってどんな立派な本だよ?」と。

 また彼らはネットで「読書に集中できる方法」など検索してみるのだが、そこに書かれている事柄は、およそスキンダイバーがナイトプールのガイドを読まされるくらいにまったく自分に関係がない。いわく正しい姿勢で座れ、いわく静かな音楽をかけろ、いわく先に雑用を済ませるべし。そんなことで長年の読書に対する焦燥感が緩解するなら初めから苦労などしない。

 

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 なお画像に深い意味はありません。

 

 ……というような人向けに、つまり座り方だのカフェインだのたまには喫茶店で読めだの、そういう表面的な処方箋ではどうにもならない人のためにこの記事は書かれている。したがって、自分は関係ないと思った人は読み続けてもかまわないがクレームは一切受け付けない。ここから先は一般的に正しい話はまったくしないのでそのつもりで。

 

 *

 

 わかっていますね、あなたは神経症的読書家です。さぞ辛かったでしょうね、でも大丈夫。ここにいるのはみんな神経症的読書家だから。祈りましょう。

 さて神経症的読書家といっても、やはり人によって症状の重さに違いがある。ここでは比較的症状の軽い人から順番に、三つの処方箋を提示する。

 

 【第一の処方箋 面白く読書する】

 

 これは日々の生活の中で読書をしたいと考えており、実際に書店で本を買ったりもするが、いまいち読書というものの門に入れているような気がしない、自分はまだ外側にはじかれている気がする、といったレベルの人向け。

 ようするに、もっと読書が面白ければ捗るという当たり前の話なのだが、そのための方法としてはまず「金をかける」ということがある。もっと言うと買いに行く時間や労力もかけたほうがよい。電車に乗って、日帰りできる範囲で最も大きな書店へゆく。そこで値段を気にせず最も読みたい本、その日から読み始めるであろう本を買う。この記事を読んでいるような人なら何かふさわしい一冊が見つかるはずだ。内容的に少し背伸びするのもいい(ただし手に負えないものは買わないように)。

 もう一つの方法は、読書という行為じたいを面白くする方法、いわばゲーミフィケーションである。ネットでは時々、夏休みの宿題をRPG風に可視化したり、「人生のログインボーナス」と称して自分に小遣いを与えたりする試みが人気を博しているがあの類いだ。

 

 

 古典的なのは読書日記をつけるとか、一定量を読んだら自分に何らかのご褒美を与えるといったやり方があるが、もう少し手が込んでくると読書会を開いたりネットで感想なり書評を発表したりといったこともこれに含まれる。ちなみに僕は南方熊楠の「ロンドン抜書」にあやかって「抜書帖」をつくっており、これが大きな励みとなっている。「抜書帖」については別の機会にまた紹介するかも知れない。

 

 【第二の処方箋 負の感情を利用する】

 

 これは、習慣的に読書しているのだけど焦燥感・雑念が多くしっくりこない、読書生活に対し、まるでサイズの合わない服を着ているような違和感がある、というような中程度の症状の人向け。

  負の感情は物事に打ち込むためのエネルギーに転換できるのでぜひ利用すべきである。たとえば仕事で腹が立ったり人間関係のトラブルで悲しくなったり、なんだかもう世間が嫌になった時、またはネットでムカつく書き込みを見た時などは、その感情を読書に向けることによって一気にモチベーションが最高潮に達することもあるので、僕などはたまにそういう感情を喚起するようなものをわざわざ読みに行ったりするほどだ。

 具体的に云うと、ツイッターの政治的に賛同できない界隈のツイートやヤフーニュースのコメント欄、まとめサイトといったような。そうすると「この蝙蝠どもに真の知性を示してやらねばならぬ、そのためには我が刀を極限まで研ぎ澄まさねばならぬ」というような心境になるのだ。いやあ、我ながら誇大妄想的。

 

 【第三の処方箋 諦めて読む】

 

 寝ても覚めても本を読まなければならないという焦燥感に駆られ、実際に調子のいい時はかなり読んでいるけれど、読めないときは半死人のように絶望しており、時に読書にたいする憎悪が噴出し、いっそ辞めてしまえばいいとも思うが、そうなると自分が自分でなくなってしまうようでたまらなく恐ろしく、どうしても焦りがほどけない、というような重篤な人。

 

 最初に事実を一つ。賢明な神経症的読書家は「そもそも本を読まなければならない理由はない」と心の奥底で気付いている。そりゃ確かに、知識になったり話題が広がったりあるいは読むこと自体が楽しかったりはするかも知れないが、読書などなくても生きていけるものである。職業知識人は別として。いや、むしろ「読書などなくても文句のつけどころがない人生は送れる」と云うべきであろう。

 読書は人生にとって最も大切なことではない。人生は本の外にある。しかし神経症的読書家は、本を読むことにたいする焦燥感から「人生そのもの」がうわの空になっていることが多い。どこにいても、何をしていても「最近本が読めていない」「いまいち熱中できない、おかしい」などと焦り、罪悪感を感じている哀れな生き物なのだ。

 

 したがって、この状態から抜け出すためにはある種の「諦め」が必要になる。

 それは「読書よりも大切なものが人生にはたくさんあり、それに比べたら読書などなんでもない」ことを率直に認めるということだ。べつに薄々わかっていることなので、これを認めるのにさしたる支障はないはずである。そしてこの次が重要である。それは「読書よりも大切なものを心置きなく楽しむために、敢えてまず最初に読書をする」ということだ。

  別の云い方をすれば、自分の読書にたいするこだわりは理不尽なものであると完全に認めたうえで、その理不尽さに従うということである。

 

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 この観点からいえば、どの本から読めばいいのかわからないとか、読み始めたけれど別の本にするべきだったか、といった雑念にはほとんど悩まされずに済む。なにしろただ読書外の時間のために読書をしているのだから。面白いから読むのでもない、ためになるから読むのでもない。読書自体には何も期待しない。そのようなことは何も考えず、焦りが収まるまでひたすら読み続けるだけである。

 

 ところが、このような諦念をもってあらためて本を読むと、案外なにを手にとっても面白く感じられたり、これまでの雑念が嘘のように集中出来たりする。これはいったんすべての期待をゼロにしたことによる効果かもしれない。ジジェクは最新刊『絶望する勇気』のなかで強調している。絶望を潜り抜ける必要があるのだ。そうしなければ真の希望は見えてこない。中途半端な解決策に固執していてはいけないのだ。

 かくして再び迷いなく読書出来るようになった神経症的読書家のみなさん、おめでとう。これからも「読書以外の時間のために読書をしている」ことを決して忘れないように、それが新たな読書人生の原点であることを、時折思い返されんことを。

  

絶望する勇気 ―グローバル資本主義・原理主義・ポピュリズム―

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