ブロガーを憐れむ歌
「わたしはブロガーです」はどうだ? 申し訳ない。とてもじゃないけど無理だ。懺悔しているようにしか聞こえない。
(ニコラス・G・カー『ウェブに夢みるバカ』)
ブログを書くとなると「そもそもブログって何だっけ」とか「平成も終わりの年になってブログを開始する意味とは」などと考えてしまう性格なので、ブログ論なども少し嗜むべきかなと思い、書庫から『ユリイカ 特集:ブログ作法』(2005)や『ユリイカ 総特集:ソーシャルネットワークの現在』(2011)を引っ張り出してきて、おー、かつて菊池誠(以下敬称略)のホームページの掲示板は梁山泊状態で凄かったらしいとか、後者の本は東浩紀とか濱野智史とか夏野剛とか、あと聞き手で伊藤剛とかさやわかとか、今でも頻繁に名前を目にする方々ばかりだったりして、なるほどなるほどと思いつつ読み進めていた。ブログ論を読むのに真っ先に紙媒体を参照するあたりに己の限界を感じつつも。
*
その中で印象的だったのは、前者に収められていたスズキトモユという方の「ブロガーがネットを発見する」という文章だった。それによると、スズキトモユ氏は2000年の3月から2004年の9月までかなり精力的な、いやそれを越えて強迫観念的といっていいウェブページ運営活動をされていたらしい。
ひたすらウケるネタを考え、生活を犠牲にしてページの更新を繰り返した。一日休めば客が半分に減ってしまうのではないかと怯える芸人のようだった。ゴールの見えないマラソンのような日々は三六五日休みなく続いて、続いて、やがて力尽きた。
そんな「ちょっぴり頭がおかしかった」(本人談)スズキ氏が、もしブログバブルである2005年の状況下でブロガーになっていたらどうなっていたのか、というシミュレーションがこの文章のメインなのだが、これがなんとも迫真、かつ凄絶であった。
2005年のブロガー・スズキ氏は、日夜カウンタの回転数とアクセス解析に一喜一憂し、大手ニュースサイトからリンクされれば感激し、子ニュースサイト、孫ニュースサイトとリンクが繋がれば万単位でカウンタが回ってもおかしくないと興奮し、せっせと日々ネタ集めに奔走し、職場でもたまに昼休みに更新したり(控えめな日はmixiとログアナライザのチェックに留めるとのこと)、他人の無内容なブログが上位ランクインされるのを見ては憤慨し、やがて心身ともに蝕まれ追い詰められてゆく。
なかでも「ネタ集め」にたいする描写は、文章の性質上誇張はあるにしても、当時このような神経症的ブロガーが多数いたのだろうなという手触りを与えてくれる。
まず毎朝、自分の趣味にあったサイトが約二〇〇登録された、はてなアンテナを立ち上げると、寝ている間に更新されたサイトをチェックする。片っ端からタブで開き、リンク先も残らず巡回する。(中略)はてなアンテナのチェックだけでは面白いネタは拾えない。2ちゃんねるも、各所の画像掲示板もマメに巡回する必要がある。
(中略)
ページのメインは、漫画、小説、アニメなどの感想であり、そちらの更新は帰宅後に行うことにしている。朝に更新したニュース部分は客寄せのための捲き餌に近い。今日の予定は、小説を一冊、漫画を二冊、アニメを二作だ。(中略)アニメ感想にはそれほど力を入れていないので、流し見しながら、直接エディタで感想を書いてしまう。こうすれば、三〇分番組ふたつの感想を書いても一時間強しかかからない。ページの更新は時間との戦いである。
申し遅れたが、僕も2003年から2009年頃までブログを運営しており、けっこうな頻度で文章をアップしていた。「生活を犠牲にして」とまでは言わないが、何かに憑依されているような感じはあった。今はめでたく緩解して代わりにツイッターに取り憑かれている。そんな体験もあって、次のようなスズキ氏の文章はささる。
いいネタを拾っても、自分自身、楽しむ余裕がなくなった。時間的にも精神的にもだ。長めのFLASHは最後まで観られない。ゲームもきちんと遊べない。
引用はこのくらいにしておこう。
「なんやねん」とこの種の神経症に関係ない人は苦言を呈したくなるかも知れないが、僕としてはわかる。自分もこれを少し薄めたような状態だったことがあるからだ。
このような情報ハイウェイに乗り続けていることはつらいし、やはり躁的な見かけによらず空虚なものである。しかしいったん「降りて」しまうとそれはそれで別種の空虚が襲ってくる。ベタな空虚かメタな空虚か。近代人とはことほどかように「ほどよく」生きることができない、神経症的な存在である。
*
まあしかし、だ。
このような神経症的ブロガーの悲惨な生活もそれなりに魅力的に見える部分がある。それが今日の僕にとってはとりわけ「ネタ集め」の部分なのだが、このような四方八方にアンテナを張り巡らせる生活、情報ハイウェイに「乗った」生活は「いま、ここ」にある世界に接続したいという神経症者の夢そのものだろう。
思えば僕の生活は「いま、ここ」にアクセスするということにたいへん乏しい。本は読むのも買うのも好きだがほとんどすべて古本である。ネットもまあするほうだが最新のサービスを試してみるといった熱意はない。ツイッターは2013年から始め、スマホは去年だか一昨年だかにようやく持ったのであって、いまだにLINEすらやっていない。テレビや漫画や映画やゲームともあまり関わりがないし、じゃあ好きな人文学系の話題はどうかというと、これまた新進気鋭の学者や批評家の新刊あるいは人文系雑誌の今月の特集といった鮮度の高いネタは、なんとなくストレスを感じて忌避する傾向がある。
しかしブログを始めたということは、少しは「いま、ここ」にアクセスしたほうがいいよ、というお告げのようなものではないかとも思うのだ。たまには新刊を買ってみたらどうだろう? 街中でやってるイベントに参加してみたらどうだろう? 何につけ、いま旬のものにアクセスしてみたらどうだろう? 考えるだけでもおっくうだ。では料理のレパートリーを増やしたり、ツイッターで繋がりのある人に実際に会ってみるというのは? ファッション雑誌でも買ってみる? 云々。
スズキトモユ氏の文章が「ささった」というのは、ちょっと、そのあたりの感情を刺激されたということなのでした。さて少しは身を起こしてみるか、どうしたものか。
【補遺】出目金さんから次のような指摘がありました。
「情報ハイウェイ」から得る「いま、ここ」と、古本の〈むかし、そこ〉の何が違うのか。仮に「いま」だとしてすぐに忘れられるし、読み手はいつの誰とも限らない。筆者自身が書庫から持ち出した元「いま、ここ」と同じで。
— 出目金 (@TR_727) September 10, 2018
『ブロガーは「いま、ここ」の夢を見るか』かしら。
https://t.co/Wcv0ErDDVr
安田さんの記事を読むと、ブログでもRSSで確認して更新情報を追う人達、そしてそれをターゲットにする書き手がいたようで、雑誌と書籍と言えるかも。
— 出目金 (@TR_727) September 10, 2018
そしてツイートも私のように掘り起こす人がいるように、ブログならなおさら読み手は未来の誰かかもしれませんよ。
これは重要な指摘だと思ったので少し補足します。
本文ではブログは「いま・ここ」性の強いものとして扱っていますが、これは2005年当時において、ブログの比較対象はウェブ1.0サイトだったからなんですね。ウェブ1.0サイトの多くはデータベース的な構造をしており、それに比べるとブログは、ある程度のアーカイブ性はあるものの、書いたはなから消えてゆくものと認識されていた。
しかし現状の、SNS全盛の世の中から眺めると、ブログはコンテンツの蓄積性、アーカイブ性を持つ存在に見えるわけです。比較対象が変わったからなのですね。
では通時的に云えることは何かといえば、次のようなことなのかも知れないなと思いました。
そうなんです。おそらくそれがブロガーの夢なんでしょう。「いま、ここ」にアクセスしつつ、コンテンツが蓄積されてゆき文化となり足跡となる。一挙両得の夢だったのかもしれません。 https://t.co/KVAncUmAC0
— 安田鋲太郎@ネコによってのみ魂は救われる (@visco110) September 10, 2018
たいへん欲深いことではありますが、結局人は、「いま・ここ」を生きつつ、その生きた証(あかし)が永遠に刻まれることを望む生き物なのでしょう。アキレスがトロイア戦争に命を賭けたように。
ユリイカ2005年4月号 特集=ブログ作法 あるいはweblog戦記
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ユリイカ2011年2月号 特集=ソーシャルネットワークの現在 Facebook、twitter、ニコニコ動画、pixiv、Ustream・・・デジタルネイティブのひらく世界
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