やすだ 😺びょうたろうのブログ(仮)

安田鋲太郎(ツイッターアカウント@visco110)のブログです。ブログ名考案中。

ネコ訴訟から「人はなぜ相手を悪魔化するのか」を考える

 

 九十年代初頭、統一まもないドイツにおいてある裁判が行われた。訴えたのは名もない新婚夫婦。告訴内容は「自宅の前庭を隣家のネコがトイレ代わりに使っている」というものだった。
 だが係争の過程で、問題のネコは原告の前庭で排泄したことが全くないことがあきらかになった。

 すると新婚夫婦は、箒と塵取りを持って通りにゆき、そこにあったネコの糞尿をすべて集め、自分の庭に証拠として保管した。

 

 トーマス・ベルクマン『訴えてやる! ドイツ隣人訴訟戦争』(原題「Giftzwerge」)という、なんのために邦訳したのかよくわからない本がある。※1かくいう僕もなぜそんな本を買ったのか憶えていないのだが、何気なく書庫から取り出してぱらぱら眺めていたときに、上のような事例が目に止まった。
 これはいかにも奇妙な話だ。新婚夫婦は「ネコの糞尿なき前庭」を望んで訴訟を起こしたはずである。にもかかわらず、気が付けば自ら前庭にネコの糞尿を搔き集めてたというのだ。一体、どこでどう間違えてそんなことになってしまったのだろう。

 

 *

 

 ドイツがかなりの訴訟社会であることはつとに知られている。ベルクマンによると九十年代前半、原告・被告を含めて年間約250万人のドイツ人が何らかの訴訟の当事者、つまり訴えるか訴えられるかしていたという。 

 この時期にドイツに滞在していた知人は、興味深いことを云っていた。それによると「ドイツにおいて訴訟は必ずしも険悪な関係によって引き起こされるわけではない」のだという。
 なんでも、彼の知人の日本人女性は(おっとFriend of a Friend だ……まあご容赦ください)、ドイツ人男性とやむにやまれぬ事情で離婚するにあたって、夫のほうから「離婚は承知するがとりあえず訴訟してくれ」と頼まれたらしい。

 なぜ訴訟する必要があるのか、と問う妻に対し、彼は「慰謝料の支払い額や期間がきちんと決まるからだ」という意味のことを答えたという。実際、離婚の理由は夫の経営する会社の経営状況が悪化し、「年に一度は日本に帰ってよい(そのための旅費を出す)」という約束を夫が果たせなくなったためであり、その件を除けば二人の仲は決して悪くはなかったのである。

 また、そんな律儀な夫は、同時に前妻の子供たちへの養育費を滞納しており、こちらも決して仲が悪くはないのだが子供たちから「養育費を払うよう」訴訟を受けていたという。

 

 そんなわけで、かぎりなく訴訟にたいする敷居が低いのがドイツ社会である。弁護士費用も安いし書類も簡略、しかも「訴訟保険」なるものもあるらしい。※2
 それでもベルクマンの著書では互いに相手を「悪魔」と罵り合うようなきわめて敵対的な訴訟ばかり描かれているし、彼自身も訴訟はいがみ合いによって引き起こされるという前提に立っている。上の知人の話と合わせて考えたいのだが、いずれにせよさすがはイェーリングのお国柄といえる。※3

 

 ところで我が国を見渡すと、ネコの放し飼いはここ数十年ですっかり減少した。とくに都市部においては「ネコは屋内飼いが基本」という合意が形成されつつあるように見える。

 そのような世の中の変化には、交通量の増加だとかネコエイズの流行、あるいは面白半分に虐待する輩だとか、また血統書付きの猫を大事に飼う層が広まったりなど、さまざまな背景があり、その是非は一概には言えない。だが歴史的に見れば人はずっとネコを放し飼いにしてきたことは確かである。
 隣家のネコの狼藉についての別の訴訟では、マンハイム簡易裁判所の判事が、判決(またもやネコは無罪だった)を言い渡すにあたって次のように説き起こしている。※4

 

 「ドイツ及びヨーロッパでは数世紀来(十字軍の時代から)、そして他の温暖地域では五千年来、家猫(フェリス・ドメスティカ)はネズミ退治のために飼われてきた。従って猫は古来から、人間の自然環境の一部である。その行動は今日なお一般的生活の構成要素であり、ゆえに基本的には誰からも許されている」
 (トーマス・ベルクマン『訴えてやる! ドイツ隣人訴訟戦争』)

 

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 (近所のオープンカフェにて。安田撮影)

 

 ちなみに今日の日本においても、犬と違ってネコの放し飼いは法律的には認められている。動物愛護法はペットについて「動物の生態、習性、および生理にしたがって飼育するべきである」と定めており、したがって徘徊する習性のあるネコは放し飼いが自然な飼い方だということになる。

 ただし動物愛護法には「動物が人に迷惑を及ぼすことのないように努めなければならない」という条項もあって、もしネコが隣人に実害をもたらした場合には民法上の賠償責任が生じる。※5

 

 それについて思い出すのは、もう何十年も前に母が飼っていた数匹のネコたちのことだ。なおこれはあくまで昔の田舎の話であるので承知されたい。
 あのネコたちは、放し飼いされていたのか、単にエサをもらっているだけの野良猫だったのか微妙な連中だった。母が残飯をバケツに入れて勝手口に置いておくと、決まった時間にネコたちが食べにきた。残飯がない時には軒先でずっと鳴き続けていた。

 ああ、また母が野良猫にエサをやっているな、と思っていたのだが、ある日新顔のネコがやって来たときに母が「お前は違う!」と新顔だけを追っ払っていたので、やはり飼っていたらしい。

 そのネコたちも、隣家に狼藉をしたという嫌疑をかけられた。
 猛然と抗議の電話がかかってきた。というのも隣家は広い庭に砂を敷き詰めていたのだが、これがネコにとっては格好の排泄場所だったのである。これがもとで母と隣家との仲は悪くなった……わけではなく、もともと仲は悪かったので、さらに悪化したというべきだろう。
 そんな人間の争いを尻目に、ネコはその後も巨大トイレを満喫し続けた。なぜこのような素晴らしいトイレを使ってはならないのか。その道理をネコに納得させるのは、お釈迦様でも不可能だっただろう。※6

  

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  (近所のオープンカフェにて。安田撮影その2)

 

 *

 

 話を戻すが、冒頭の「自ら前庭にネコの糞尿を搔き集めた」新婚夫婦である(なお敗訴したことは言うまでもない)。
 もちろん、彼らも当初はネコの糞尿に煩わされない前庭を求めて訴訟したはずである。したがって隣家のネコが無実だった※7ということは、真犯「猫」がいるか、あるいはネコの糞便自体が錯覚、あるいはたまたま紛れ込んだものだったのであり、いずれにせよその訴訟は終わるはずである。
 だが彼らは訴訟に勝つために、わざわざ他所からネコの糞便を集めてきて自分たちの前庭に置いた。もはや当初の目的より争いに勝つことが優先されているのである。しかもその新しい目的のためであれば、前庭を自らネコの糞尿置き場にすることも辞さなかった。一体これは何なのか。

 このことを考えるにあたって、次のような記述も参考になるだろう。

 

 彼らは皆感受性を持ち、穏やかである。争いごとは望まない。誰とも仲良くやっていける。原則として。「ですが、おわかりでしょう、あの女性。彼女は人間じゃありません」
 そしてそのS夫人というのが、世界中を旅行し、高価で立派な品々を収集している、感じの良い親切な中年女性なのである。その彼女も隣人のことを話す時は、身体を硬直させながら「悪魔ですわ! おわかりいただけると思いますが、あの人は悪魔です」
 (同書)※8

 

 このあたりで我々もこの話は他人事だという考えを改めるべきだろう。

 実際、これはあまりにも日常的に目にする光景ではないか。おそらく僕もあなたも、利害が対立する相手、反りが合わない相手の「悪魔化」を多かれ少なかれ行っているはずである。

  こういうことに対し、聞きかじりの心理学用語で説明して事足れりとする気は毛頭ないのだが、しかし簡略な入門書※9などにもよく出てくる「ネガティブ・コミュニケーション」とはまさにこのような状況を指すものだろう。とくに次にようなものは。

 

 ・「悪意のマインド・リーディング」

 (相手の言動を悪意に基づくものだと解釈する傾向)

 

 ・「相互非難コミュニケーション」

 (互いに非難しあい、相手にも正当性があることを認めようとしない傾向)

 

 ・「勝負のコミュニケーション」

 (勝つか負けるかに視野が限定される傾向)

 

 こうした心理学的物言いは、闘争状態に陥っているときの我々の心理を確かにうまく表現している。なるほどネコの糞尿を前庭に集めた夫婦の行動は「勝負のコミュニケーション」の一つのケースだったのかも知れない。それにしても、なぜ我々はそのような心境に陥ってしまうのか。

 

 *

 

 心理カウンセラーの下園壮太によれば、怒りのプログラムには二つのメッセージがあるという。一つは「攻撃されたら反撃せよ」であり、もう一つは「自分のテリトリー、地位を侵すものを撃退せよ」である。そのさい、

 

 まず攻撃のための身体の準備が始まります。これは"驚きのプログラム"とほぼ同じ反応です。さらに気持ちの準備として、「自分は強い」「自分は正しい」という思考が頭を支配します(「自分は最強・(自分は)正義・(自分は)正しい」思考)。
 そう思わせなければ、命を失うことになる戦いに向かえないからです。
 (『人はどうして死にたがるのか』)

 

 現在では、権力を奪われた、資産を奪われた、自由を奪われた、人としての尊厳やプライドを傷つけられた、土地を奪われた、愛する人を傷つけられた、などの条件で発動します。これらは、裁判などで熾烈に争われる内容です。
 (同書)

 

 というのだが、これはその通りであろう。※10

 戦争プロパガンダにしても、ようは自国民に「我々の戦いは聖戦であり、我々には戦う使命がある」と信じさせることを最大の目的とする。※11それを一人でやっている、いわば自分で自分を洗脳しているのが「怒りのプログラム」だ。※12
 闘争するということは、相手を理解しようとしたり、内省しようとする心を強制的に停止することを意味する。闘争の結果が生死に直結する原始時代を生き抜いてきた人間にとって、そのほうが適応的なのはまあ当然であろう。

 なお、こうしたことを充分に理解していたであろう人物としては、レーニンの名が挙げられる。

 

 レーニンを誹謗中傷する者たちは、ベートーヴェン『情熱』を聴いたときの彼の有名なパラノイア的反応――レーニンは、まず泣き始め、次いで、こうした音楽は敵との容赦なき闘争を放棄させ、その代わりに敵の頭を撫でてやるといったように革命家を気弱にさせるので、革命家はこうした感情に身を委ねている余裕はない、と主張した――を、彼の冷酷で自制の効いた残酷さの証拠として持ち出すことを好む。(中略)むしろそれは、政治闘争を継続せねばならない限り抑え込む必要があった彼の音楽への鋭い感受性を証明したことになるだけではないのか?
 (スラヴォイ・ジジェク『迫り来る革命』)※13

 

 *

 

 かくして導き出される結論は、「われわれは相手を悪魔化しないよう気を配るべきだ」とか「他者を尊重し相互理解に務めよう」といったものではない。※14

 ここまで見てきて考えられることはむしろ逆である。いわく人は闘争に我を忘れる生き物であり、そのような「闘争」とは生の一面であるということだ。※15

 誤解のないように述べるならば、もちろん闘争に我を忘れることなどしたくはない。誰だってそうだろう。だが、そんな生物的条件の下で意志によって寛容であろうとか、相手を理解しようとすることは、それ自体は悪いことではないにしても、やはりある種の危険を孕むと言わざるを得ない。根本が克服不可能である以上、そのような意識は簡単に「裏返る」(こんなに寛容で理性的な自分に比べ、不寛容で非理性的なあいつは下等である!)リスクが付きまとうからだ。※16

 私見を述べるならば他者の理解というのはもっと不意打ちのように、突然訪れるものだと思う。それまで嫌いだった、あるいはなんとも思ってなかった他人の人間的な顔、共感できる面がふと見える瞬間。我々に出来ることはそれを待つことだけであり、それが訪れなかった他人とは訣別してゆくしかない。

 

 したがって、時に闘争に我を忘れてしまう、そのような自分のなかの混沌を受け容れ、だがそれを哀しく思う心が時折よぎる――その二つの心は決して統合※17されたりバランスを取ったりせず、常にちぐはぐであり続ける――という状態をすぐになんとかしようとはしないことが、考えられる選択肢のなかで最もましなように思う。

 それでいいのだ、とは言えないが、慌てて何らかの処方箋、「向かうべき指針」なるものを見つけて安堵しようとする発想は、神経症的で、疑わしい。

 

【注】

 ※1 この本はドイツのテレビ番組の書籍化であり、してみるとわが国でも隣人訴訟番組がいくつか思い浮かぶのだが、はるばるドイツのものまで翻訳するというのは、何かこの頃に関心の高まりがあったのかも知れない。なお訳者はのちに『怖い絵』で一世を風靡する中野京子氏である。

 

 ※2 「プロフェッショナルがいる。隣人戦争のベテラン。彼らの武器は、法律に保護してもらえるという保証だ。多くは半ダースもの事件を山積みにしてある。なぜなら年間二件をこなすと、たいてい訴訟保険の効力が切れてしまうからで、罪のあるなしには関心がない。兵站学どおり、次の生垣紛争用に補給品がくればそれでいいのだ」(『訴えてやる! ドイツ隣人訴訟戦争』)

 

 ※3 「権利は、単なる思想ではなく、生き生きとした力なのである。だからこそ、片手に権利を量るための秤を持つ正義の女神は、もう一方の手で権利を貫くための剣を握っているのだ。秤を伴わない剣は裸の実力を、剣を伴わない秤は権利の無力を意味する」(イェーリング『権利のための闘争』)

 

 ※4 只、必ずしも猫は人に愛顧されてきたわけではなく、人類の猫虐待の歴史にもそれなりの蓄積があることについては、先のブログ記事でも触れた。

visco110.hatenablog.com

 

 ※5 動物愛護法および民法の解釈についてはいつかのサイトを参考にした。たとえば次のサイトなど。

 https://noranecolumn.com/keepfreepermit/

 

 ※6 余談だが釈迦と猫の相性はあまり良くなかったらしい。涅槃図に猫が書かれていない理由についてはよく知られたエピソードがある。それ以外でも、釈迦にまつわるエピソードのなかで猫が活躍したという話はあまり聞かない。

blog.goo.ne.jp

 

 ※7 判事が調査して判明したのだろう。ベルクマンの著作にはこうした実地検分のエピソードが多数出てくる。「ニワトリの鳴き声がうるさい」という訴えがあればニワトリ小屋を測量したり測定器を設置したりと、じつにご苦労。

 

 ※8 サルトル『出口なし』における「地獄とは他人のことだ」という主人公の台詞は、人間は他者によって規定される生き物である、そのような宿命を免れ得ないことを訴えている。ある人が別の人を「悪魔」と見做すことは、狭い共同体においては充分に相手の名誉と精神を傷つける。ある意味「悪魔」と呼ばれた人は多少なりとも「悪魔」になってしまうのだ。

 この貶めと共同体内の名誉の問題については以前このブログにおいて、ニコル・ゴンティエ『中世都市と暴力』を援用しつつ触れたことがある。

 http://visco110.hatenablog.com/entry/2018/06/18/144649

 また本文では言及しなかったが、SNSはそのような狭い共同体を超克する機会を万人に与えるとともに、新たな罵り合いの「狭い共同体」を形成している面もある。

 

 ※9 たとえば斎藤勇『図解雑学 人間関係の心理学』など。

 

 ※10 下園壮太『人はどうして死にたがるのか』は、怒りや悲しみ、鬱といった一見不合理な人間の感情を長い原始時代における適応的な心的機能と位置づけ、それが現代社会の状況とは齟齬をきたしているという説明スタイルを取る。あまり具体的なソースを示してはいないものの、原始人が熊に遭遇する例えなどを多用し、何故かおそろしく説得力のある本であった。

 また「人としての尊厳やプライドを傷つけられた」ことで生まれる猛烈な怒りについては、注8にリンクしたブログの過去記事でデヴィッド・M・バスを援用しつつ軽く触れたことがある。

 

 ※11 アンヌ・モレリ『戦争プロパガンダ 10の法則』における「法則」には以下のようなものがある。

 「われわれは戦争をしたくはない」

 「しかし敵側が一方的に戦争を望んだ」

 「敵の指導者は悪魔のような人間だ」

 「われわれの大義は神聖なものである」

 「この正義に疑問を投げかける者は裏切り者である」

 

 ※12 スタンダール『恋愛論』における「恋の結晶作用」の、いわば裏面であるところの「敵意の結晶作用」とは言えないだろうか?

 

 ※13 ジジェクによる「音楽とやさしさ」についての言及には次のようなものもある。

 「エヴァ・ブラウンの髪を洗うヒトラーの姿は、十分想像がつく。いや、想像などいらない。ホロコーストの考案者ハイドリッヒが、毎晩ベートーヴェンの後期弦楽四重奏曲を友人たちと好んで演奏していたことを、われわれはすでに知っているのだから」(『大義を忘れるな』)

 これはレーニンについての記述とは逆のことを言っている(人はベートーヴェンを愉しみつつ冷酷になることも出来る)ようにも読めるが、本文ではレーニンについて言及している時点でのジジェクの意見を採用した。

 

 ※14 このようなネガティブ・コミュニケーションの悪循環を避けるために、『図解雑学 人間関係の心理学』によればゴレマン(ダニエル・ゴールマンのことか?)は「不満は具体的に云う」「相手の非難を受理する」「相手の話を聞いているということを示す」「自分が怒っていることを確認する」といった処方箋を提示しているらしいのだが、なんというか、間違っちゃいないんだろうけどたいへん優等生的ですね、といった感想である。

 

 ※15 ベルクマンも結局のところは、隣人訴訟が彼ら彼女らを活き活きとさせている面はある、という事実を溜め息混じりに認めているニュアンスがある。それでももちろん、出来れば隣人訴訟はご免こうむりたいが。

 

 ※16 ここで再びアンヌ・モレリの戦争プロパガンダの法則を参照するのもよいだろう。すなわち

 「われわれは戦争をしたくはない」

 「しかし敵側が一方的に戦争を望んだ」

 というのが戦争プロパガンダの第1項・第2項に来るというのは、日常の争いについても次のような危険性を示唆してはいないだろうか。「相手を尊重し相互理解につとめよう」という意識はたやすく「私は相手を尊重し相互理解につとめている」という意識にスリップする。そして「しかし相手はそうではない」という考えに帰結する。

 

 ※17 ここでは「積分=統合化」integrateと「微分=差異化」differentiateという、かつて浅田彰が『逃走論』においてパラノ型、スキゾ型を説明するために用いた言いまわしを多少意識している。

 

訴えてやる!―ドイツ隣人間訴訟戦争

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人はどうして死にたがるのか 「自殺したい」が「生きよう」に変わる瞬間

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