やすだ 😺びょうたろうのブログ(仮)

安田鋲太郎(ツイッターアカウント@visco110)のブログです。ブログ名考案中。

マスコミの空白、ネットの退廃

 

 1998年、アメリカ・カリフォルニア州の小都市ベルにある地方紙が休刊し、市役所を担当する記者がいなくなりました。記事(安田:2011年朝日新聞デジタル)によると、そのことをきっかけに、市役所所員トップが自分の年収を500万円から12倍の6400万円まで段階的に引き上げたそうです。決して違法な手段ではなく、市議会の承認まで得ていたといいます。*1

 

 これを書いているいま、世間は日産自動車会長カルロス・ゴーン氏の金融商品取引法違反容疑による逮捕の話題でもちきりである。ゴーン氏は2011年からの5年間で100億近く受け取っていた報酬の、およそ半分しか有価証券報告書に記載していなかったという。このことをスクープしたのは朝日新聞だが*2、それにしても5年間ものあいだ、なぜ事が露見しなかったのだろう。マスメディアの監視力・取材力の衰退を感じる。

 

 そこで思い出したのが、冒頭に掲げた、カリフォルニア州ベル市の市役所の役員トップが住民の知らぬ間に自身の年収を12倍にも膨張させていたという事案("事件"とも”汚職”とも言えない。なにしろすべては合法的に行われたのだから)だ。この事案はメディアの空白という事態が生じたさいに何が起こり得るかについて、雄弁に訴えかけている。*3

 これについて、米国のジャーナリスト、スティーヴン・ワルドマンは次のように述べている。

 

 「新聞記者でなくてもいい。ネットでも雑誌でも誰か記者がときどき、ベル市役所へ立ち寄るだけで防ぐことが出来た」*4

 

 だが、「新聞記者でなくてもいい」「ネットでも雑誌でも」といいつつ、ワルドマンは次のようにも云っている。

 

 「ニュースの鉱石を地中から掘り出す作業をしているのはもっぱら新聞だという現実です。テレビは、新聞の堀った原石を目立つように加工して周知させるのは巧みだが、自前ではあまり掘らない。ネットは、新聞やテレビが報じたニュースを高速ですくって世界へ広める力は抜群だが、坑内にもぐることはしない」

 

 この指摘は正しいだろう。実際、われわれは気軽にマスメディアの弊害を論じ、なかには不要論を唱える者さえいるしまつだが、ネットメディアにベル市のような事例を、マスメディア以上に迅速かつ高確率に検知することが(つまり一つ二つのスクープを云っているのではない。監視網はスクープ力よりも、むしろ「穴」がないことのほうが重要だ)出来るだろうか。ましてや、それを信頼に足る記事としてまとめ上げることが。

 

 *

 

 マスメディアとネットメディアがそれぞれの持ち味を活かし、相補の関係を構築することが理想であることは言うまでもないが、実際には奥村倫弘氏も指摘するように、無料ニュースの氾濫はその収益構造からしてPV至上主義に陥りがちで、内容は二の次とばかりに記事の質の劣化を招くいっぽう、伝統メディアは人員削減や取材費が切り詰められることによって、取材力が低下し、従来の監視的役割を果たすことが困難になりつつある。

  こうした事態はかなり早くから予見されていた。いまや伝説となったブログ記事がある。それが2005年10月、ニコラス・G・カーのブログ「ラフタイプ」に掲載された「倫理のないウェブ2.0」だ。*5 そこで彼は次にように指摘している。

 

 ウィキペディアは、多くの点でブリタニカ百科事典に似ているだろうが、専門家ではなくアマチュアが作っているので無料である。そして無料であることは常に「よい」とされる。となれば、百科事典の執筆や編集で生計を立てるような清貧の者たちはどうなるだろうか? 撤退するしかない。同じことが、ブログやその他無料のオンライン記事や映像が、旧来の新聞や雑誌と競い合ったときにも起きる。

 (中略)

 近ごろ主流新聞社での解雇が目につくが、それはほんのはじまりにすぎないのかもしれず、そうした解雇は嘆くべきことではあっても、それで事足れりとすべきではない。ウェブ2.0に対する陶酔の視線の奥に潜むものは、アマチュアが覇権を握ることである。これ以上の恐怖を、わたしは想像できない。*6

 

 無料文化、アマチュア文化、PV至上主義――これらが三位一体となり、従来の、お金を受け取って、プロが責任を持って記事を書くという形態を破壊するというわけだ。彼の予見は2018年の今日から見るとき、残念ながらその最悪のシナリオ通りになったと云っても過言ではないだろう。

 

 *

 

 かかる状況下において何らかの希望が見出せるとするなら、伝統メディアはこのまま滅ぶわけではなくやがて均衡点に辿り着くという、決してありえなくはない見通しだろう。そのさいに、マスメディアが自らの役割を取材力を基にした確たる事実と、良識を疎かにしない報道姿勢*7 であると自認するならば、それは今なおネットよりも優れている部分であることは間違いないし、それを望む読者たちとともにある程度の規模で生き残って行くだろう。*8

  新しく、より「速い」メディアが登場すると、それまで速報を担っていたメディアはその役割を奪われ、否応なく変化させられる。典型的には1920年代、ラジオの普及によって新聞が蒙った変化がそのようなものであった。ビル・コヴァッチおよびトム・ローゼンスティールは次のように指摘する。

 

 新聞はニュースをただ伝えるだけではなく、今や、もっと分析をしなければならなくなった。

 (中略)

 いくつかの新聞はこの事態に、いっそうセンセーショナルになることで対応しようとし、「タブロイド紙」の時代が到来した。別のテクノロジーである写真を紙面に印刷する技術を活用し、劇的な効果をもたらすよう変わっていったのである。*9

 

  まさに今日、ネットメディアによってマスメディアが付きつけられている選択と酷似している。細かく言えばスマホのニュースアプリが、PCのブラウザ向けのニュースに対してそのような変化を促しつつある。

  幸いにして人はセンセーショナリズムを求めつつも、それだけではすぐに飽きてしまう生き物でもある。我々には「速報するメディア」「驚かせるメディア」だけではなく「解説・分析するメディア」そして「チェックするメディア」が必要だ。そもそもマスメディアが「第四の権力」と呼ばれるのは、立法・行政・司法を適宜監視するためであるし、大企業やメディア同士の相互チェックも重要である。

 

 役割がスライドしてゆくという観点からいえば、新聞であるとかテレビである、ネットであるというメディアの形態自体にさしたる意味はない。未来においては我々の想像もつかぬ速度と形態を持ったメディアが現れるであろう。だがそのさいにも、基本的で重要なことは変わらない。ようは情報のなかで迷子になってしまわないように、かえって事実を見失ってしまわないように、必要な事物を必要なだけ取材し、適切に伝えるというシンプルなプロセスをいかに担保するかということだ。

 

ウェブに夢見るバカ ―ネットで頭がいっぱいの人のための96章―

ウェブに夢見るバカ ―ネットで頭がいっぱいの人のための96章―

インテリジェンス・ジャーナリズム: 確かなニュースを見極めるための考え方と実践

インテリジェンス・ジャーナリズム: 確かなニュースを見極めるための考え方と実践

*1:奥村倫弘『ネコがメディアを支配する』)

*2:

www.msn.com

*3:行政官は大統領の2倍近い約78万8000ドル(2010年の事件発覚時のレートで約6700万円)の報酬を受けていた。市警本部長ら行政トップ3人の年収が市の一般会計予算の1割を占める異常事態となり、行政をチェックするはずの市議らも通常の20倍の報酬を受けていた」

https://www.yomiuri.co.jp/yolon/ichiran/20161110-OYT8T50062.html?page_no=1

*4:前掲書。この件およびワルドマン氏のコメントは、2011年10月29日朝日新聞デジタルに掲載された記事による。

*5:

http://www.roughtype.com/?p=110

この記事でのウィキペディア批判に対し、ウィキペディアの共同設立者の一人であり現在の代表者ジミー・ウェールズはカーの主張を認め、「どうすればいいのだろうか」とウィキペディアの質を改善するためのアドバイスを求めた(以下参照)。

https://lists.wikimedia.org/pipermail/wikien-l/2005-October/030075.html

*6:ニコラス・G・カー『ウェブに夢みるバカ』。同書は、上述のブログからカー氏自身が自選した記事79本その他のエッセイ等を収録している。

*7:ここでいう良識とは「優等生的な」「モラルがある」といった意味よりもむしろ「見識が深い」「鋭い指摘」というニュアンスに近い。

*8: かくいう僕も新聞を1紙、雑誌1誌を定期購読している。またそれ以外の雑誌やテレビも、なかなか時間が取れないけれど出来る範囲で付き合ってゆきたい。こうしたことが別段「消費者の選択」として状況に影響を与えるとは思っていない。そうではなく、個人的にネットにはない信頼感、良識をそこに見出すからだ。

*9:ビル・コヴァッチ&トム・ローゼンスティール『インテリジェンス・ジャーナリズム』