夢のような感覚で過ごす方法
夢を観ている時の、あの現実感の希薄さ。一見昼間と変わらずに生活しているように見えて、どこかその着実さ、束縛でもある確かさから浮遊しているあの感じ。その中で私たちは、しばしば無鉄砲になり、モラルを見失い、そしてひどい悪夢に転落する。*1
もし現実があのようなものだとすれば、我々はとても暮らしてゆけないだろう。毎日のように靴を盗まれたり、重要な発表前に何も準備できていなかったり、兄弟と罵り合ったり……そればかりか、車ごと池に転落したり、家が倒壊したり、隕石が降ってきたり。決して長くは生き延びられまい。
フェリーニ『81/2』。
だが夢の現実感の希薄さにはどこか自由があるのも確かだ。
朝になって目が醒め、安堵の溜め息をつく夢もあれば、逆にそれが現実ではなかったことを惜しまずにはいられない夢もある。鈍重な、忙しいくせに変化のない日常が、未だ開けきらぬ瞼に鬱々とのしかかってくることもある。
昼間の生活を、夢のような浮揚感とともに過ごすことは出来ないだろうか? もちろん危険なしにいいとこ取りで。
僕はしばしばそのようなことを考え、脳波の状態に一つのカギがあるのではないかという仮説に至って以前少しブログに書いたこともある。*2 脳波については今後も試行錯誤して行きたいのだが、先日それとはまた違ったアプローチを思いついたのでそのことを記す。
それは、現実感を支えるものとしての生活のルーチン、「毎週同じ時間に同じ場所にいて、同じ行為をする」ことが崩されると、人は意外とあっけなく夢のような意識状態になるのではないかということである。なぜそう思ったのか。
*
ツイッターを始めてからイベントに参加したりオフ会をする機会が増えた。なかには遠方から訪れ、僕の家に泊まってゆく人もいる。あるいは日帰りでやって来るが、朝から晩までじっくり相手するために僕のほうが休暇を取る場合もある。
そういうオフ会の後は、たいてい曜日感覚が微妙に狂う。たとえば翌日に働いていて、今日が何曜日なのか、あと何日働けば休みなのかがふとわからなくなる。確認しても実感が持てなくて、あれ、おかしいなあ、変な感じだなあと何度もカレンダーを見たりする。一週間のなかの時間的座標を見失っているわけである。
空間的座標にしてもそうだ。先日やってきたフォロワーの佐々木君とは、仕事の後に待ち合わせて東北料理の店やらバーを数軒ハシゴした。いずれも初めて行く店ではないが、僕はそう普段から飲み歩くタイプでもないので、やはり日常とは違った場所にやって来た感じで、少し感覚がおかしくなるのである。
佐々木君撮影。 オフ会で行ったバーのうちの一軒。
また夜は夜で修学旅行気分のツイキャスをやり、翌朝は金山という普段の生活ではまったく利用しない駅のホームで彼を見送った。彼を載せた電車が発車し、やり遂げたな、と踵を返したその時である。僕は当然こう感じた。
「あれ? いま夢みたいな感覚じゃないか?」
その時僕は、時間的座標・空間的座標の両方を一時的に喪失していたのである。
普段ならばおそらく新聞を読んで妻と会話している頃合いだが、気付けば見知らぬ場所で、掴みどころのない中途半端な時間(たしか午前11時頃だった)に佇んでおり、「いったいここで自分は何をやっているんだろう?」と首を傾げたくなった。
時間にしても場所にしても頭ではわかるのだが、現実味に乏しく、目に映る何もかもが曖昧で意味のゲシュタルト崩壊を起こしていた。これこそまさに「夢の感覚」だなあと思い、かくしてルーチン的な時間・場所・行為を乱されることによってそれは生じるという推論を得たのだった。
追記:また、こんなこともあった。ある日、妻が仕事帰りに職場の同僚を連れて来たので、その時すでに酒で気分が良くなっていた僕は、ギョーザを焼いたりそうめんを作ったり、ウェイン・ショーターの『ネイティヴ・ダンサー』を流したりしてもてなした。
妻の同僚が帰ったあと、かなり酒が廻っていたのでそのまま横になって寝てしまった。外は台風で、木々の揺れる音や雨の打ちつける音、その他色々な物音がしていた。
そして僕は、家に何者かが侵入して来る夢を繰り返し観た。目が醒めたと思ってもまだそこは夢の中で、再び何者かが侵入してくる、というのを5~6回繰り返した。かなりリアルな夢で、今度こそ目が醒めた、こんなに意識がはっきりしているし侵入者の声がしたのだから……と思ってもそこはまだ夢の中なのだった。
そのあと、本当に目が醒めると午前2時だった。
今日あったこと、そして夢を反芻しながら、ふと僕は、普段の生活の座標軸に意識が定着していないことに気付いた。自分はいま何歳でどこに住んでおり、仕事は〇〇である、といったことは頭ではわかるのだが、実感が伴わない。まだ夢のように、意識次第ですべてが変容するような気分でいる。それで、これはあの時のあれと同じだな、と思った。
*
こうしたことについては、社会史的に一つ思い当たることがある。それは百貨店の構造と婦人の万引きについてである。
マイケル・ミラーは百貨店の「客の目をくらませ混乱させるために理性を麻痺させる環境」は意図的に作り出されたものであると分析している。*3 そのことを受け、ジョアン・フィンケルシュタインは次のように述べている。
一九世紀後半、百貨店に発生するある精神病にかんする医学初見がいくつも公表された。それは百貨店で女性たちがなんの必要性も理由もないのに、見さかいなしに万引きするというものである。
(中略)
ある万引きが心因性のものかただの犯罪かを区別するにあたっては、百貨店が重要な役割を演じていた。なぜならこの窃盗症という病気は百貨店が引き金になると考えられていたからである。百貨店は外国からの魅力的な商品をふんだんに陳列し、方向感覚をうしなわせるようにフロアを設計し、ぜいたくな品をだれの手にも届くようにすることで、女性を道徳的に堕落するようにそそのかし、その結果彼女は思わず商品を持っていってしまうというわけだ。*4
ボン・マルシェ。まるで地上にあらわれたピラネージの牢獄である。
フィンケルシュタインは「道徳的堕落」あるいは「道徳的混乱」「理性の麻痺」といった言葉を用いるが、ようするに設計者の巧妙な意図によって現実感覚を喪失させられ、夢のような気分で散財してしまう(そしてその副作用として万引きしてしまう)ということである。つまり、僕が金山駅のホームで味わったあの夢のような気分は作為的に引き起こせるということであり、またそういう時には大抵、金銭感覚やモラル感覚の一時的喪失といったリスクが伴うということでもある。
実際のところ、佐々木君を送り出した後、僕はちょっとした場所でちょっとした散財をしてしまったのである(万引きじゃなくて良かった……)。
*
かくして、昼間に夢のような感覚で過ごす方法とは「日常のルーチンを狂わせること、普段行かない場所へ行ったりいつもと違うことをすること」ということになる。またそうした状態にはリスクが伴うことも見た。顧みるに、以前のブログで書いた脳波の話にしても(註2を参照)、自分の置かれた状況を冷静に分析して次の適切な行動を導き出すβ波のモードにたいし、状況をあまり精密にスキャニングする必要のない、緊張やましてや危機の遠いα波やΘ波の状態、という対置で考えられるかも知れない。
このあたりは「旅の恥はかき捨て」とか「ひと夏の恋」とか「散財祭り」とか、よく知った語彙にもその性質に迫るものがある。ただ、ここまで書いてきて単に気分転換しろという話とも微妙に違うことが伝われば幸いである。
人はたまにはボートに乗って、オレンジ色の木やマーマレード色の空を見上げたり、誰かの呼び声に耳を傾けたり、万華鏡の瞳をした少女に会いにゆく必要があるのだろう。息抜きだけではない、謎めいたものが生活には必要だ。
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