やすだ 😺びょうたろうのブログ(仮)

安田鋲太郎(ツイッターアカウント@visco110)のブログです。ブログ名考案中。

「人間関係のリセマラ社会」について

 

 【リセマラ】
 リセットマラソンの略語。スマホゲームにおいてインストールとアンインストールを繰り返す行為のこと。
 ほとんどのスマホゲームは、最初のチュートリアルを終了すると何回かレアガチャを回すことができる。そこで高レアリティの強キャラを当てるまでアプリのアンインストール・インストールを繰り返すことで、目当てのものを所持した状態でゲームをはじめることができる。*1

 

 「人間関係のリセマラ」というのは一応僕が考えた言葉だ。ググってみたけれど他に云っている人は見当たらない。
 とはいえ「人間関係のリセマラ」ないし「人間関係のリセマラ社会」という言葉が意味するものについては、すでに多くの人が実感しているだろうし、ネーミングこそオリジナルだけれど中身は宮台真司『日本の難点』(2009)に大きく依拠している。宮台は次のように述べている。

 

 移動や交通や通信の自由が制約されていた昔は、人間関係自体が希少でした。つまり誰とも関係を結ぶわけにはいきませんでした。従って空間的な「近さ」という事実性――現に近所に住んでいるとか同じ学校に通っているとか――や血縁的な「近さ」という事実性が、大きな意義を持ちました。*2

 

 ここまでの僕の人生の大半はまさにそんな感じだった。
 ネットが普及したのはようやく二十歳を超えたあたりで、それもコミュニケーション手段という観点からはメールと掲示板とチャットが存在していた程度であり、ネットを介して新しい人とオフで会うことは三十歳くらいまでほとんどなかった。
 一方、地元や職場の繋がりはかなり幅をきかせていた。あまり気が合わない相手でも「すでに知り合いである」というだけの理由でそれなりに尊重し、維持してゆくべき関係とされた。合わないとわかっていてもなんとか自分のことを理解してもらおうとしたり、トラブルがあっても大抵のことは水に流すのが普通だった。

 2014年からSNSを(まあツイッターなんだけど)始めたがこれはまったく別世界だ。特別な努力をしていないにもかかわらず、オフで会った人はすでに二桁になるし、そこから友達も出来た。しかもその全員が、無作為ではなくなにか趣味や感覚が通じたから会ったという具合だ。
 宮台は2009年において既に次のように指摘している。

 

 人口学的流動化に加えて、情報通信技術(IT)によっても流動性の上昇が促されます。こうして、「ここがダメなら、あそこ」「あそこがダメなら、こっち」というふうに、人間関係に関していつでも代替可能性を考えられるようになりました。*3

 

 こうした指摘は、SNS全盛の十年代を経てきた我々の多くが実感するところだろう。「出会い」はもはや希少なものではなくなったのである。

 別の角度から見ると、社会の変化によりオフラインでの出会いがさらに困難になったためにSNSに依拠せざるを得なくなったという面もあるようだ。とくに若者にとっては。ダナ・ボイドは次のように述べている。

 

 フェイスブックその他のツールにヘザー(安田:取材相手の少年)が寄せる信頼は、ティーンの経験における重大な変化を示している。

 (中略)

 現代アメリカのティーンの多くは地理的な自由を制限されており、自由時間は減り、規則は増えている。合衆国の多くの地域では、放課後、暗くなって家に帰るまでは外を好きに駆け回っていられるような時代は、とうに終わりを告げている。ティーンの多くは自分で車を運転できるようになるまで家に閉じ込められている。*4

 

 たんに出会いのリソースがネットに凌駕されただけではなく、現実のリソースが縮小しているというわけだ。日本でも塾通いや空き地・雑木林・商店街の消失、ゲーテッド・コミュニティ等の影響を考えれば、似たような変化が起きていると云えるのではないか。そしていったんSNS依存が始まれば、あとは悪(?)循環でコミュニケーションにおける現実の過疎化が進んでゆく。

 だがティーンの生活実態といったことには詳しくないので、一般的な話に戻そう。

 

 *

 

 こんにち新規の出会い=ガチャを回すというのは容易なことになった。そうなると「気が合わなくても頑張って付き合ってゆく」態度よりも「始めから気が合う人を引くまでガチャを回す」態度のほうが適応的になる。
 そしてここに問題が生じる。ようはちょっとした不愉快やトラブルがあったときに関係が壊れやすくなるのである。こちらが関係維持のために努力しても相手にリセットされたら馬鹿を見る*5、というわけで互いに率先してリセットするようになる。そうこうするうちに人間関係全般に履歴的な厚みがなくなり脆弱化する。脆弱な人間関係は本当に助けが必要な時には役に立たない。


 これが「人間関係のリセマラ社会」というわけです。

 ……ふと思い出すのが、子供の頃からずっと付き合いのある友人にある日突然「お前とはもう会わない」という旨のメッセージを送られ、それっきり絶交状態になった経験だ。あれはゼロ年代の後半だった。
 おそらく、彼のほうがいちはやく「人間関係のリセマラ社会」に順応しており、それゆえ地元が同じだとか長い付き合いといったことに捉われずに関係を断ち切ることが出来たのだと思っている。あるトラブル*6でお互いにモヤモヤしていたのだが、僕は未だ「出会いのリソースが希少な」環境にいたので、冷却期間を置いてなんとかしようと思っていたのである。

 

 僕もツイッターを始めてからは、しばらく会ってない友人に「しばらく会ってないから」という理由では連絡を取らなくなった*7し、親戚や職場の人に自分のことを理解してもらおうとも思わなくなり、そういう場であまり自分のことを話さなくなった。

 また誰かとちょっとしたトラブルが起きても、頑張って解決を目指すという「擦り寄り」のムーブよりも、他の人との付き合いにリソースを割くことでトラブルが起きている人の「人間関係全体における比率」を下げるという「分散化」のムーブを選択しがちになった。適応的ですね。

 

 *

 

 インターネットが公共圏に対してどのような効果をもたらしうるのかについては、かつて肯定的・否定的の二つの立場があった*8 。『日本の難点』においてはその弊害(というより副作用)について多くが語られておりメリットについてはあまり書かれていないが、メリットはもっと強調されてもよいだろう。*9

 多くの人と出会えるということは、尊敬できる人、趣味や価値観が合う人と出会えるチャンスは確実に増えるわけで、基本的には人間関係が豊かになるはずであるし、実際に僕はツイッターを始めて以前とは比べ物にならないくらい豊かになったと思っている(以前が貧しすぎたということもあるが)。これは言葉を尽くして説明せずとも、大抵の人にはわかってもらえるのではないか。

 

 厚みのなさ、脆弱さといった弊害について構造的な解決策を示すとなると、これはもうアメリカ流のネオリベラリズムからヨーロッパ流のソーシャル・キャピタルを大切にする社会へとモデル転換することによってネット外の人間関係の豊かさを取り戻してゆこうとかいう無駄に壮大な話になるので、この小文ではとても扱えない。

 したがってどうしても「一人一人が出来ること」みたいな話になってしまうが、ならばここまでの人生の大半を「出会いが希少だった社会」で過ごした人間として数少ない成功体験を思い出し、「どうしよっかな、これ」という不愉快やトラブルが発生した時には少しだけその場に留まって問題解決や意思疎通を試みる、あっさり向こうからリセットされても、恨まずに懲りずに「少しだけ頑張る」ことを続けてゆくということではないだろうか。

 

 ……と結論しようと思ったんだけど本当かいね。ちょっとコイツ面倒くさいな、と思ったときに粘るような根気が本当に自分にあるのか、またそうすることが正しいのかというと非常におぼつかない。放置というのはただ離れるだけじゃなくて「時間が解決する」とか「水に流す」という意味をいくらか含む。次のサイクルで接触したらまたお付き合いしましょう、ということで放置イコール別離ではないところもある。くっつき過ぎないのが人間関係を長続きさせるコツ、というのはとても古典的な知恵だ。

 それに粘るの「粘」は粘着の「粘」でもある。ネットを使ったこれまでにない他人への執着、粘着もけっこうな問題であり、「少しだけ頑張ろう」というのはそれに大義名分を与えることでもある。

 したがって、無難な結論で締めくくることは出来そうにない。実際「少しだけ頑張ることを続けてゆく」で終わるつもりだったが、その結論で記事をアップロードしたからといって明日からやるかといえばやらないよなと思ってしまったので。面倒なのは切りたくなりますよ、そりゃ。

 このブログではきれいに結論が出ないことが多いのだが仕方がない。最後に書いたのが本音である。困ったものだ。

 

日本の難点 (幻冬舎新書)

日本の難点 (幻冬舎新書)

*1:「ニコニコ大百科」をもとにした。

*2:宮台真司『日本の難点』

*3:同書

*4:ダナ・ボイド『つながりっぱなしの日常を生きる』

*5:実際のところ、これまでそれなりの関係を築きあげてきたと思っていた人から些細なことでリムられたりブロックされたり、といった経験を繰り返すと、関係の修復を図ることが馬鹿々々しく、かつ徒労に思えてきて、次第にこちらもさっさと別のところへ行くようになる。

*6:ようするに金の貸し借りがきっかけとなった軋轢。どちらが悪いといったことはいまさら言わないが、当時経済的苦境に陥っていた彼に頼まれるがままに貸したのは僕のほうだった。ただし彼の認識では金の話は関係なく、僕の性格の問題だと絶交メールには書いてあった。金は返してもらっているので確かに「そのこと自体」ではないのだろうけど……。

*7:したがってロジャー・ローゼンブラッドのいう「孤独のほうがエッグベネディクトよりまし」=孤独に負けて疎遠になっている友人に連絡をとり、やはり疎遠になるにはそれなりの理由があったことを確認するだけの空虚な時間を過ごす、という問題は過去のものとなったと云えるだろう。

*8:『New Liberal Arts Selection 社会学』によると、一つはインターネットが公共圏を再生させる可能性に期待をかける見方であり、もう一つはインターネットを私的な「つぶやき」が浮遊する空間ととらえる見方。

*9:そう思う理由の一つとして、家族や学校・職場といった長期に渡って人間関係が固定される場所は昔からあまり減っておらず、むしろそのような場所の流動性は今後も何らかの方法で高めていったほうがいいのではないか、と思えるからだ(毒親やいじめっ子やパワハラ上司、リセマラしたいよね!)。固定されているからこそ他人と辛抱強く付き合ってゆく人間性が醸成されるとか、深い絆が生まれるという話はあまり信用していない。