やすだ 😺びょうたろうのブログ(仮)

安田鋲太郎(ツイッターアカウント@visco110)のブログです。ブログ名考案中。

ある錯誤のパターン 必要条件と十分条件

 

 たとえば「ロシア人は背が高い」ことを証明するためにはどうすればいいだろうか。背の高いロシア人を連れてきても無駄である。背の高いロシア人を100人連れてきても同じことだ。
 「ロシア人は背が高い」という命題にたいし「背の高いロシア人」は必要条件である。しかし、命題そのものの正しさを証明するには十分条件を提示しなければならない。ここではロシア人の平均身長と、他国の平均身長がそのような傾向を示していれば十分条件となりうるだろう。

 

 こうした錯誤のもっとも有害な例のひとつは、「〇〇〇でガンが治る」といった商法だ。その〇〇〇という治療法がガンに対して効果があることを証明するにはどうしたらいいだろうか。「げんに〇〇〇で治った人がいる」というのは「背の高いロシア人」と同じである。もちろん100人連れてきても同じことだ。
 そうではなく、「〇〇〇で治った人」と「〇〇〇で治らなかった人」の比率が、「〇〇〇以外で治った人」と「〇〇〇以外で治らなかった人」の比率に対し有意に多くなければならない(もちろんもっと直接的に、医学的に効果があることが立証されればそれでもいいのだが、どのみち効果があるなら統計に表れるので同じことではある)。

 

 有害度合いはそれに比べて少ないが、健康商品の広告にも似たようなことがある。ようは「×××を食べてから毎日調子がいい」というやつだ。健康商品については必ずしも効果がないとは思わないが、問題はその宣伝方法である。「×××を食べて調子がいい人」は「背の高いロシア人」と同じであり、「〇〇〇で癌が治った人」とも同じである。
 ようするに、そういう人を何人連れてきたところで「×××は健康にいい」ことは証明されないのである……しかしまあ、健康食品の広告くらいは大目に見よう。

 

 思い返すに、僕がこうした錯誤がとりたてて嫌いなのは、母親がガンで亡くなる前にさまざまな民間療法のカモになったからだ。そもそも人間はガンが全身に転移などしていたら冷静に物事を考えられるわけがない。僕だって同じ状況になったら、民間療法のカモになる可能性は充分にある。
 個人的には「〇〇〇でガンが治る」という類いの商法はけっこうな憎悪の対象である。が、すべての民間療法を知り尽くしているわけでもないので、公けには「本当に効果があるかどうか、きちんと検討してね(´・ω・`)」くらいのことしか言えない。

 

 *

 

 最近、ツイッターで(あまりブログで話題にしたくないけれど)「日本人男性のミソジニーは最低」という類いのツイートを目にする。一度や二度ではなく、それなりに頻繁に。
 さてこの命題を証明するためにはどうすればいいだろうか。
 ミソジニーな日本人男性の例を挙げれば十分条件と言えるだろうか? 言えない。
 ミソジニーな日本人男性の例を100個挙げれば十分条件と言えるだろうか? まだ言えない。
 正解は「日本人男性のミソジニーの質・量が、他国の男性のミソジニーの質・量と比較してより濃厚であることを示すなんらかのデータ」が必要ということだ(そんなデータがあるかって? それはこの命題を主張している人たちで捜してください)。
 いや、十歩譲って体感で語ることはべつにかまわない。それがあくまで体感の話だという自覚があるならば。
 また十歩譲って、何らかの法律であるとか要人発言に問題があるとすればともに抗議してゆくことはやぶさかではない(私は男女同権論者であり、人間は性その他のあらゆる属性にかかわらず尊厳を持つと信じている)。しかしそのことは「日本人男性のミソジニーは最低」であるかどうかとはまた別の話だ。

 

 僕自身が日本人男性だから怒っている? それはもちろんあるだろう。
 しかし、こうした錯誤はどんな属性をも脅かしうる。性別、エスニック、宗教、政治的信条、趣味、身体的特徴、その他ありとあらゆる属性を。
 なにか酷い例を挙げればその属性が最低だということになるならば、僕はどんな属性でも最低であることを証明する自信がある。

 僕の好きな西欧の慣用句に「スペインの宿屋」というものがある。これは「なんでも出てくる」という意味だ。ところで世界とは巨大な 「スペインの宿屋」ではないか? ……そういうことだ。

 

 ではなぜ彼ら/彼女らは、末期ガンでもないのにそのように判断が鈍るのだろうか。僕はツイッターでさまざまな議論をする人たちがとりたてて判断力に劣るとは思っていない。むしろ周囲の人たちより意識が高く、知識も豊富かも知れない。にもかかわらず易々とこうした錯誤に陥るのは、端的に云えば憎悪ゆえでしょうね(それについての考察はまた別の機会にしますが)。
 怒りも怖れも、ともに判断を鈍らせるものだ。

 

 *

 

 「必要条件と充分条件」以外にも、錯誤の例はさまざまある。とくに差別に結びつきやすいものとしては、T.ギロビッチの云う「パターンの非対称性」(外国人と犯罪・薬物の結びつきなど、もともと偏見を持っているものに対してはその偏見に当て嵌まる例が記憶に残りやすい)やウィリアム・パウンドストーンが紹介している「スコープ無反応性」(ウィリアム・H・デーヴスジェスらの実験による……人が統計的なデータよりも強烈なイメージに意見を左右されやすい傾向)といったものがある。


 いずれにせよ、物事を判断するときにはなるべく怒りや怖れを排除すること……は出来なくとも、少なくともそのバイアスを受けていることを自覚すること、そして人間が陥りがちな錯誤のパターンをひととおり頭に入れておくことが必要だろう。

 

 なお「人間が陥りがちな錯誤のパターン」を知るためには、T・ギロビッチ『人間 この信じやすきもの』がひじょうにうまくまとまっており、なおかつ鋭い指摘に満ちていた。この本が類書より優れているところは、やや愚かしい人間が錯誤に陥るのではなく(このての類書ではそういう印象を受けがちだ)、賢明な人でも錯誤に陥ることを示しているところにある。なぜならば、ギロビッチによれば錯誤とは認知的能力の欠如ではなく、むしろ人間が発達させてきた素晴らしい認知的能力の副作用だからである。推薦したい。

 

人間この信じやすきもの―迷信・誤信はどうして生まれるか (認知科学選書)

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クラウド時代の思考術―Googleが教えてくれないただひとつのこと―

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