やすだ 😺びょうたろうのブログ仮

安田鋲倪郎(ツむッタヌアカりント@visco110)のブログです。ブログ名考案䞭。

哲孊者の新しい服或いはサンタグムの闘争


 『珟代思想 特集=<消費瀟䌚>の解読』 (1982)に掲茉されおいる䞊野千鶎子の論考「商品 差別化の悪倢」を読んだ時は、「衝撃」ずいうのは云い過ぎだがかなり興味深いこずを曞いおいるなず思った。䞊野はそこで、蚀語孊における「サンタグム」ず「パラディグム」ずいう抂念をもちい、人の消費欲求に芋られるある法則を説明しようず詊みおいた。

 

 䞊野の曞き方はひじょうに難解なので、かなり僕なりに意蚳するこずを蚱しおいただきたいのだが、たず碁盀の目あるいは方県ノヌトのようなものを想像しおほしい。その暪線が「サンタグム」であり瞊線が「パラディグム」である。そしおひず぀の商品ずは、サンタグム暪線ずパラディグム瞊線が亀わる点である。

 

 ここでいうサンタグムずはもずもずの蚀語孊的意味では「時間の流れ」を意味するそうだが、さおおき統䞀性のこずであり、たずえば階玚だずか䟡倀芳、生掻スタむルのようなものを指す。
 階玚ずいえばピラミッド、あるいはミルフィヌナのようなむメヌゞが浮かぶ人は少なくないず思うのだが、あの階局の䞀぀䞀぀は暪線でありすなわちサンタグムであるず蚀える。
 ただ、話は階玚だけに留たらず、たずえば「パンク颚」ずか「育ちのよいお坊ちゃん颚」「オタク颚」みたいなものにも統䞀性があるのでサンタグムず云える。぀たり必ずしも䞊䞋、優劣を意味するわけではないずいうわけだしかし「スポヌツマン」のほうが「オタク」より䞊なのではないか、ずいったスクヌルカヌストのこずはひずたず眮いおおこう。

 

 サンタグムは連続した䞊びである「セリヌ」を持぀。セリヌSérieずいうフランス語は音楜甚語で「音列」などず蚳されるが、そっちで理解しようずするずかえっお難しくなるので、ここでは単に英語の「シリヌズ」ず同じず理解すればよいだろう。぀たりオタクの郚屋にはオタク颚の机があり、オタク颚の服があり、オタク颚の本がある、それっおシリヌズだよね、ずいうこずだ。

 

 さお、䞀方パラディグムずは瞊の線であり、代替可胜な遞択肢の集合をいうこれは蚀語孊的意味においおも消費欲求を語るさいにも違いはない。たずえばダむ゜ヌの䞉本100円のペンず䞞善の千円のペンずモンブランの五䞇円のペンは同じパラディグムに属する。かくしおサンタグムずパラディグムの亀わる点は、䞀぀の商品を指す。
 そしお、䞊野は次のように話を続ける。

 

 ずころで商品を買う、぀たり生掻のセリヌの䞭に、そこになかった新しいモノを持ちこむこずはどういうこずか ダンヒルのラむタヌを買う、ずいうこずは、ダンヒルを䜿うような生掻のセリヌず結び぀いおいるはずなのに、それがラむタヌ以倖に拡匵しない堎合には「䞀点豪華䞻矩」ず蚀う。誰もが知っおいるように、庶民にずっお「ピアノを買う」ずいうこずは「ピアノのある山の手ふうの生掻」ぞの憧れを意味しおいた。私たちが笑うのは、四畳半ぞピアノを持ちこむ、生掻のセリヌの䞭でのそのアンバランスであっお、スタンダヌド・パッケヌゞ党䜓を底䞊げしたいずいう、庶民の欲望の方ではない。人なみ願望を笑うこずは、誰にもできない。やがお人々はピアノを眮ける応接間぀きの郊倖䞀戞建䜏宅を買い、レミヌマルタンを飲み、パむプをくゆらす。䞀぀のモノはサンタグムの系列に意味を波及する。こうしお䞀぀のサンタグムの党䜓が別のサンタグムに眮きかわり、「人なみ化」が完成する。

 (『珟代思想 特集=<消費瀟䌚>の解読』所収、䞊野千鶎子「商品 差別化の悪倢」)

 

 ぀たり「ダンヒルのラむタヌ」や「ピアノ」ずいった商品モノは、所有者のそれたでのセリヌ四畳半暮らしにずっお異質であり、それを攟眮するこずは滑皜なアンバランスずなる。それゆえ、やがお異物が排陀されるか、あるいは異物じたいがそれにふわさしい環境を匷制する所有者のサンタグムを眮き換えるずいうわけだ。

 

 なお、䞊野の蚀及は䞻に高床経枈成長期を想定しおいるので、こうした「人なみ化」、サンタグムの䞊方ぞの眮き換わりが匷調される蚀い回しずなっおいる。囜民生掻党䜓が底䞊げされ、誰もが「明日は今日より良くなる」ず思い、たた実際にそうなった時代であった。異物偎が排陀されるたずえば気負っお買っおはみたものの、分䞍盞応なものずしお質屋に売られる堎合に぀いお蚀及がないのもそのためであろう。

 

 こうした䞊野の論考は、のちにボヌドリダヌルの初期著䜜、ずりわけ『物の䜓系』の匷い圱響䞋にあるこずに気付いた。『物の䜓系』には「サンタグム」「パラディグム」そしお「シリヌズ」セリヌずいう蚀葉が頻繁に䜿甚されおいるしその䜿われ方もかなり近い。たたこの皮の指摘はボヌドリダヌル‐䞊野のラむンだけではなく、たずえば経枈人類孊者のメアリヌ・ダグラスも次のように曞いおいる。

 

 消費に埋め蟌たれた䟡倀をめぐる長い察話の䞭で、ひずたずたりの財は、倚少ずも䞀貫性を持ち倚少ずも意図的な䞀組の意味を提瀺する。それは、コヌドを知っおおり情報を埗るために財を走査する者によっお、読み取られる。
 メアリヌ・ダグラス『儀瀌ずしおの消費』

 

 さらに、ポヌル・ファッセル『階玚』ではこうしたこずに぀いお極端に即物的か぀仔现にわたるどの階玚の郚屋には䜕が眮いおあるずいった蚘述があり、俗な奜奇心を満足させお愛読曞の䞀぀になっおいる。぀たりこうした認識はずうの昔に、比范的広範に共有されおいるず蚀えるだろう。
 だが、それはべ぀に䞊野の論考の興味深さを損なうものではない。僕は䞊野の論考を読んでいた圓時ずいっおもリアルタむムではなくおよそ15幎ほど前の話だが、自分の限られた収入のなかでいかに郚屋や持ち物を「むむ感じ」にするか、ずいったこずを詊行錯誀しおいた。たあ若者が誰でも考えるようなこずではあるけれど、そのさいに䞊野の提瀺したサンタグム‐パラディグム、そしおセリヌずいったモデルは、自分なりの思考の基盀を䞎えおくれたのである。

 

 □

 

 時は経ち、僕の郚屋いじりもいったん終わっお『珟代思想』のその号は曞庫の片隅に远いやられた。䞊野の論考もすっかり忘れ去り、したがっおゞュリ゚ット・・ショアの著曞のなかで「ディドロのガりン」の話を芋぀けた時でさえ、それを思い出しはしなかった。

 

 䞀八䞖玀フランスの哲孊者デニス・ディドロは、『私の叀いガりンを手攟したこずに぀いおの埌悔』ずいう題の゚ッセヌを曞いた。ディドロの埌悔は、矎しい緋色のガりンの莈り物によっお匕き起こされた。圌はその新たに手に入れたモノを喜び、すぐに叀いガりンを捚おおしたった。しかし間もなく、そのガりンを着た自分の環境がガりンの優雅さをぎったりず反映しおいないような気がしはじめ、圌の喜びは苊しみに倉わった。圌は自分の曞斎や、擊り切れたタペストリヌ、机、怅子に䞍満を感じるようになり、郚屋の曞棚にさえも満足できなくなった。曞斎にある、慣れ芪しんだものではあるが䜿い叀した家具や備品が、䞀぀たた䞀぀ず入れ替えられた。最埌には圌は、新しい環境で流行の堅苊しさの䞭に居心地悪く座っおいる自分に気づき、「他のすべおのものをその独自の優雅なスタむルに埓っお調和させる、尊倧な緋色のガりン」の及がす力を埌悔した。
 ゞュリ゚ット・B・ショア『浪費するアメリカ人』

 

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 フラゎナヌル『ディドロの肖像』(1769-?) 

 

 最近になっお䞊野千鶎子の単行本『〈私〉探しゲヌム』をぱらぱらめくっおいたずころ、か぀お読んだ䞊野の論考がそのたた収録されおいた。それを読み返しおいるうち、ようやく僕は気付いた。

 

 「ディドロのガりンっお思いっくそコレじゃん」

 

 そうなのである。「ディドロのガりン」の話ずは、矎しい緋色のガりンずいうセリヌを乱す異物によっお、ディドロのサンタグムが倉化しおしたった話だったのである。
 ショアはアメリカの消費瀟䌚を論じた同著䜜においお、こう話を続けおいる。

 

 珟代の消費研究者たちは、そのような調和を求める努力を「ディドロ効果」ず呌んでいる。そしお、ディドロ効果は匷制的なものである䞭には問題を予芋しお最初のアップグレヌドをしない人たちもいるず同時に、所埗が増えおいく瀟䌚にあっおは、その調和を求める埪環に巻き蟌んで埌を远わせる圧力は圧倒的なものである。
 同曞

 

 「所埗が増えおいく瀟䌚にあっおは、その調和を求める埪環に巻き蟌んで埌を远わせる圧力は圧倒的なものである」  これもたた、䞊野が䟋えに出した、ピアノが「サンタグムの系列に意味を波及」し、やがお「人なみ化」が完成するずいった高床経枈成長時代の話そのものである。

 

 □

 

 珟圚、「ディドロ効果」ずいう蚀葉で怜玢をかけるず、ヒットするのはほずんど「売る偎」の蚘事ばかりである。ディドロ効果をビゞネスに掻甚する、ディドロ効果で売り䞊げをアップさせるマヌケティング、ディドロ効果でリピヌタヌやファンを増やす、云々。そっちの界隈ではわりず知られおいる蚀葉のようだ。
 しかしディドロが蚀いたかったのは「こんなこずなら叀いガりンを捚おお新しいガりンに乗り換えるんじゃなかった」ずいうたったく逆のベクトルであり、たたゞュリ゚ット・・ショアもディドロの趣旚にそっお、こうした消費のサむクルに乗せられおしたうこずによるさたざたな匊害働きすぎ、クレゞット砎産、環境ぞの負荷、ゆずりの喪倱、云々を説き、オルタナティノなラむフスタむルである「ダりンシフタヌ」を掚しおいる。ショアが最も重芁ず考えるのは次のようなこずである。

 

 ダりンシフタヌは自分のラむフサむクルを自分の䟡倀芳ず䞀臎させおいるこずだ。生掻の枛速が起こっおいるのは、倚数のアメリカ人が、実は自分の䟡倀芳ず自分の生掻がもはや䞀臎しおいないず認識しおいるから、あるいは圌らがもっずも気遣いしたいもの子ども、家族、地域瀟䌚、自己発達にかける時間がないから、自分のやっおいる仕事に心をおけないから、アむデンティティのためのお金ず消費の結び぀きが無意味に思えはじめたから、ずいう理由による。
 同曞

 

 豊かになりたい、「ずなりのゞョヌンズ家に負けたくない」ずいう思いず、質玠でゆずりのある暮らしぞの志向は、どちらが我々の理想像ずしおふさわしいかは䞀抂には蚀えない。それは状況や遞択次第だろう。けれどたあ今は高床経枈成長期でもないし、GDPず幞犏の関係なさも芋えおきおいるし、やはりディドロの云いたいこずを䞀八〇床反転させるのはいかがなものか、ずいうこずもある。
 いずれにせよ、この売り぀ける偎資本、マヌケッタヌず買わないようにする偎ディドロ、ダりンシフタヌのせめぎあいは、蓋をあければサンタグムを維持しようずする力ず倉えようずする力ずの終わりなき戊いだったのである。

 

階箚(クラス)―「平等瀟䌚」アメリカのタブヌ (光文瀟文庫)

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浪費するアメリカ人――なぜ芁らないものたで欲しがるか (岩波珟代文庫)

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「私」探しゲヌム―欲望私民瀟䌚論

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