「逃げてもいい」「弱音を吐いてもいい」って本当ですか？

　逃げてもいいんだよ、弱音を吐いてもいいんだよ（でもその責任はとらないよ）

　カッコ内は幻聴ですが、「逃げてもいいんだよ」「弱音を吐いてもいいんだよ」みたいなことは毎日のように耳にする。けれども、ちょっと紋切型っぽくもある。そこで検討を加えてみることにする。

　もちろん、ブラック企業だとか学校でいじめられているとか配偶者がDVだとか、サクッとエスケープしたほうがいいケースは世の中にたくさんある。だがそれも、あくまで逃げることによって失うもの（所属やそれに伴う便益等）よりも得るもの（心身の安全、新たな生活の可能性）のほうが大きいから逃げるのであって、合理的に行動しただけであり、べつに逃げることが正義というわけでも我慢して居続けることが悪というわけでもない。

　思うに、昔は社会の流動性が低く、いったんそうした所属（会社、学校、夫婦）から離脱した人が以前並みやそれ以上の水準に復帰するチャンスは少なかった。また離脱に対するスティグマ性も強く、ゆえに「苦しくても耐えろ」という根性論はそれなりに合理的だったのではないか。現在は幸いなことに、昔より復帰のチャンスが増え、スティグマ性も薄れている。学校を中退したとかバツイチだからといってさほど驚くことでも珍しいことでもなくなったのは社会の進歩だろう。

　そんなわけで年配世代に根性論の人が多いのは、昔は何事もいっぺん離脱するとリカバリーが困難だったからであり、またそうした感覚から若者に良かれ（成功してほしい）と思って根性論を垂れてくるのであって、あれはあれで善意だったりする。ただ状況に合わない場合が増えたので残念なことになってしまっているのだが。

　□

　しかしである。
　明らかにエスケープしたほうがいいケースではなく、ちょっと不満がある、ちょっとここがイヤだ、というくらいの相談や愚痴でも、わりと簡単に「やめてもいいんじゃない？」的な答えが帰ってくるのは何故なのか。おそらくその理由は三つある。

　一つは根性論が衰退し、それに代わって「逃げてもいい論」が有効性を獲得する過程において、話者に新しい方法を普及させる意図があったため。未だ根性論が優位なフィールド（相談者は無理にその場に居続けようとしている）という想定ゆえに、「こういう方法もあるよ！」ということで「逃げてもいい論」がアピールされた、その名残りではないか、ということ。

　二つ目は恒常原則（現状を変えることはそれ自体がストレスになる）ゆえに相談者は単純な損得よりも現状維持のほうにバイアスがかかっており、それを補正する意味で「逃げてもいい」側の選択肢が強調されるのではないか、ということ。いわゆる「背中を押す」というやつだ。

　三つ目は最も単純なことで、何か（たとえば恋人）のダメな点を話すとき、話者は往々にしてダメな点ばかりが目につく心境になっている。ましてや聞き手においては、いい点についての情報がまったく入ってこないのである（そんな男さっさと別れちゃいなよ！）。

　主に一つ目、そして二つ目の理由を勘案しても、「逃げてもいい論」はもはや特別推す必要がないくらいメジャーになったと思える。むしろ「ここはやり遂げるまで／状況が変わるまで耐えよう」みたいな意見のほうがなかなか口に出しにくい状況になっているのではないか。

　当然ながらエスケープすれば失うものはある。そしてそのリスクを負うのは完全に本人だ。そうなると、なかなか「やめてもいいんだよ」的なことを言うのも怖いことで、かといって「とにかく歯を食いしばって耐えろ」などと言って玉砕されても困るので、相談を受けるというのはなかなか難しいことではある。

　□

　弱音とか愚痴も、逃げてもいいかどうかよりはかなり些細なことだが、基本的に同じ難点がある。

　 いくら他人が「弱音を吐いてもいいんだよ」「愚痴を言ってもいいんだよ」と言ったところでリスクを背負うのは当人である。弱音を吐いたら弱い奴だと思われるかも知れない、愚痴を言えばウジウジした奴だと思われるかも知れない、最悪ナメられたりイジられたりするかも知れない。そうなるかどうかは愚痴ってみないと、いや愚痴った後もけっこう時間が経ってみないとわからない場合もある。予測不可能性が高いのである。

　わざわざ書くのもどうかというくらい当たり前のことだが、人は通常、誰かの弱い部分を見れば「ああ、弱いんだな」と認識するし、暗い部分ばかり見続ければ「暗い人だな」と認識する。そして、どうしても世の中には安定した人、明るい人が好まれる傾向が誠に遺憾ながらあって慙愧の念に堪えない。

　「笑い話風の愚痴」「あなたにだけは本音を言える風の愚痴」「愚痴の分散」「愚痴のプライマリーバランス」といった諸々の愚痴テクニックが出てくるのもそういう、愚痴は元来はマイナスのもの、という前提があるからだ。

　そんなわけで「弱音を吐いてもいいんだよ」「愚痴を言ってもいいんだよ」的なことをわりと簡単に言うけれど、それってけっこうどうなんだろう、とは常々思う。

　□

　「根性論」も「逃げてもいい論」も、あるいは「弱音を吐いてもいい論」も「愚痴は我慢すべき論」も、いずれも不自然に推されることなく、ケースに即して良さげなほうを選べるようになったほうがいい、ぼちぼちそういう潮目なんじゃないかな、というのがこのブログの云いたかったことである。

　【追記】

　このブログに関しては予想以上にさまざまな反応をいただいた。とくに「逃げること」よりも「弱音を吐くこと、愚痴ること」についての言及が多かったのだが、僕自身の関心も今にして思えばそちら寄りだし、多くの人にとってそうなのは自然なことなのかも知れない。職場・学校・結婚生活をやめるかどうかといったことは、切実ではあるけれど日常的ではなく、弱音や愚痴のほうが多くの人にとってより身近な話題だからだ。

　そうした指摘・感想や、僕自身が書いた後に気付いたことも含め、いくつかの事柄について補足しておく。

　まず「弱音を吐くことのリスク」について、本文では弱い奴だと思われる、暗いやつだと思われるといったことを書いたが、他に次のようなリスクが指摘された。

　①仲の良いうちに愚痴ったり相談したことが、将来的に暴露されたり弱みを握られることに繋がるリスク。

　フォロワーさんいわく「友人は未来永劫友人とはかぎらない」。とくに相談内容が社会的にまずいものであった場合、のちに関係が悪くなればなるほど事態は深刻になる。

　②立場の強い者が弱い者に向かって愚痴ったり相談することは、精神的慰安労働、搾取につながる畏れがあること。

　たとえば上司と部下、扶養者と被扶養者。これは自覚的に搾取している場合のほかに、愚痴る側も自覚せず、聞き手は苦もなく聞いてくれているものと勘違いするというケースもなかなかありそうである。そして両者の中間といったケースも。

　次に、愚痴ることをもっと肯定的に評価したい、少なくとも社会が愚痴や弱音に対してより寛容になることを求める声も少なくなかった。そうした意見からすると、僕は現状是認、あるいは反動的にすら見える可能性もある。それは今回、「社会がこうなればいいという話ではなく、いまの社会や人々の心を前提としたうえで可能な選択・利益について語る」というルールを課したからなのだが、それでも次のような意見は印象深かった。

　③「弱音を吐く強さ」。弱音を吐くことは相応の決断力・行動力、別の言い方をすれば勇気や覚悟を必要とするわけで、それは必ずしも弱いこと・暗いことではないのではないか。

　そうかも知れない。そもそも本ブログは愚痴を否定するものではまったくないので、そうした内的価値が存在することを認めるのにやぶさかではない。

　またこれに関連して④パートナー間で愚痴を聞き合うというのは一般的なことではないかとか、⑤弱いと思われる、暗いと思われるのはそんなにいけないことなのか、という意見もあった。手短に云うとパートナー間でそうした関係が成り立っているのは良い事だとは思うが、同時にけっこう稀有なことではないかと思える。そもそもパートナーはいるのか、いたとして仲は良いのか、仲が良いとしても相互にそういうことを聞き合う習慣や能力があるのか、と考えると、けっして誰しもが手に入る前提では語れない。

　⑤については、僕は愚痴や弱音は、自己肯定感の回復や承認を得るためにやっているであろうから、弱い、暗いあるいは視野が狭い、愚鈍という印象を相手に持たせてしまうかも知れないこと、そうした結果忌避されるかも知れないことはそもそもの愚痴や弱音の目的に反しているのではないかと思えるのである。

　そして、そうならないように本文でも書いたような諸々の愚痴テクニック、例えば笑い話風に語ったり、「いつもこういうことを言う性格ではないんだけど、今だけちょっとね」といったことを匂わせたり、ある程度愚痴を聞いたことのある相手に分量が釣り合うよう意識しながら語ったりといった、さまざまな技術が駆使されるというわけだ。

　これも哀しいことではあって、誤解なきように云うと別に愚痴テクニックを強く推奨しているわけではない。ただ「選択肢を増やす」という意味で、諸々の愚痴テクニックは使うかどうかは別としてあったほうがいいとは言える。

　⑥「制御された愚痴」と「アンコントロールな愚痴」という論点もあった。「制御された愚痴」とは、なんとか社交的な会話の型を維持している愚痴であり、これをベースにして諸々の愚痴テクニックが構築されてゆく。いっぽう「アンコントロールな愚痴」はそうした文明化を拒絶する、ぐちゃぐちゃの、沼に沈んでゆくようなカオスな愚痴である。前者には最低限の社会性、恥の概念、他者の存在への意識がある。だが後者には自分の感情以外の何もない。しかしそれこそが愚痴の原初形態、なんの制約もない、「エデンの愚痴」といえるのかも知れない。

　最後にこれは処方箋の話になるのだが、

　⑦しかるべきカウンセリングや相談機関、スナック、メンズリブ、匿名でネットに書き込む等のアウトプット先はどうかといったことがある。

　これは僕はほぼ賛同する。カウンセリングはわが国では普及しているとは言い難く、相談機関も認知が足りないのではないかとは思うのだが、やはり餅は餅屋であり、悩み相談はそれ相応の専門家に委ねるのがよいのではないか。

　他にここで述べたアウトプットは、それぞれに利点と難点、個人の向き不向きがあると思うのだが、少なくとも選択肢を増やしてくれるものとしては歓迎すべきだろう。

　ひととおり述べたが、なかなか話が収束しそうになく、納得していない人がこれで納得するとも思っていない。ただ、叩き台としてより「使える」ように、以上の事柄を補足した次第です。あしからず。 

　【追記2】

　このブログは当初「逃げること・弱音を吐くこと」で書いたのだがネットでの反響は圧倒的に「弱音を吐くこと」「愚痴ること」のほうにあった。さらに、ほどなく話は「男が」弱音を吐くことをめぐるものになった。

　読まれた方はおわかりのように、本文ではとくに男性に話を限定しなかった。というのも、女性だって愚痴や弱音が多ければメンヘラちゃんだとかハイメンテナンス（精神的ケアのコストが高い女性のこと。デイビッド・クープランド『モテる技術』にこの用法が見られる）だとか「面倒くさい女」などと呼ばれ、恋愛対象としても友人としてもマイナス要素と見做されかねないリスクがある、という点ではべつに男女で変わらなくないか、と思うからだ。

　……とは思うのだが、やはり「男の弱音」というように話がフォーカスされていくことには何か意味があるのだろう。ひとことで言えば男性規範ということになるのだろうが、とにかく「べつに男女で変わらなくないか」というのはいったん棚上げして考えることにする。

　□

　エマ・ワトソンは2014年の国連スピーチで次のように述べている（https://www.buzzfeed.com/jp/eimiyamamitsu/emma-watson-heforshe-speech）。

　「精神病に苦しんでいても、「男らしくない」と見られることを恐れて助けを求めることができない若い男性を見てきました。イギリスでは、20歳から49歳男性の最大の死因は、自殺なのです」

　「男という固定概念に囚われている男性について、話すことは多くありません。しかし、私には固定概念を押し付けられていることが見えます。彼らが固定概念から自由になれば、自然と女性にも変化が起きるのです」

　「男性も女性も、繊細でいられる自由、強くいられる自由があるべきです。今こそ、対立した二つの考えではなく、広範囲な視点で性別を捉える時です」

　これに対し、「そんなことを言ってもあなたたち（女性）は弱者男性をパートナーとして選ばないではないか」という反応は、よく見られる。なかにはエマ・ワトソンのパートナーこそ典型的な高スペック男性ではないか、といった揶揄もあったりした。
　そういう物言いには、個人的にはまったく共感できない。もちろんそういう事実（弱者男性はパートナー候補としてはおおむねマイナスである）はあるだろうが、それを当の女性にあてこすってゆくという態度が理解できないのだ。そう思うんだったら弱音を吐かずに頑張るか、あるいはパートナーのことでマイナスになるのは諦めて思う存分弱さをさらけ出すならわかるのだが、そのどちらでもなくあてこすりを続けるのって一体何になるんだろう、と。
　だが、彼らの批判のためにこの文章を書いているわけではないし、その言説が有効ではないにしても、そうした発言に至る心情がまったくわからないことについてはむしろ僕の共感性の限界だろう。なんか女性に恨みを募らせてきたとかそんな感じなんですかね……。

　こうした言説に対しては「〈弱い男性〉を受容することはパートナーにすることとは違う」という返しが標準的なようだ。この返しの側からすると、上のような反発はそこを混同している。弱くたって「おともだち」にはなれる。だがパートナー（結婚・恋愛・セックスの対象）に至っては、本質的に〈弱さの受容〉といったレベルで選ばれるものではあり得ない。

　議論レベルではそれで片付いているとは思う。しかしこうして見てくると、いくらエマ・ワトソン的な受容があったところであくまでパートナーを獲得したい男性にとっては弱音・愚痴を吐きづらい状況は残るということは言えるようだ。そしてパートナーがいなければ救われないという堅固な信念を持っている人は少なからずいる。
　このあたり、すでにパートナーのいる人が独り身に向かって「弱音を吐いてもいい」というのはどうなんだ、という指摘もあった。いやお前はもう相手いるやん、と。

　又、「パートナーこそ愚痴を言い合える関係であるのが望ましいはずではないか」という指摘もあった。再び「愚痴テクニック」の話になるが、出会った当初は我慢して、そこからパートナー候補から外れない程度に少しずつ出してゆく、みたいな話になるんじゃないでしょうか、それは。

　□

　以上、ネットで話がスライドしてゆくのを少し追いかけてみた。

　最後に、男性規範について云えば、異性とかそういった事情を除いても自分自身で強くありたいという気持ちが多かれ少なかれあるだろう。それはべつに旧弊な男性規範の残滓とは思わない。男性規範は緩和されたほうがいいにしても、完全になくせる、なくすべきかどうかとなると怪しい。