やすだ 😺びょうたろうのブログ(仮)

安田鋲太郎(ツイッターアカウント@visco110)のブログです。ブログ名考案中。

認知科学からみたゲームの効用:或いは「パターンを食べるパックマン」としての脳髄

 

 ゲームが「頭にいい」らしいことは薄々気付いていた。しかしなぜ・どのように「頭にいい」のか、今までは語る語彙を持ち合わせていなかった。ある日いつものように気ままに読書していて偶然パズルのピースが嵌まり、幾分か語れる語彙を得たので書いてみることにする。

 

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 きっかけは一冊の本だった。

 「ウルティマオンライン」「ウルティマオンライン ザ・セカンドエイジ」の制作主任、「スターウォーズ・ギャラクシー」のクリエイティブ・ディレクターを務めた他、文学修士号を持ち、シンガーソングライターでもあるという異色の経歴を持つラフ・コスターの『「おもしろい」のゲームデザイン』という本を手に取ったところ、こんなことが書かれていた。コスターいわく、

 

 脳の働き方を調べて私は自分なりの答えを見つけました。文献によると、脳は非常にどん欲にパターンを食い続けていく代物で、いわば柔らかくて丸々と太った灰色のパックマンみたいなものなのです。つまりゲームとは、食べると特においしい味がするパターンに他なりません。

 (ラフ・コスター『「おもしろい」のゲームデザイン』p.16、以下太字は安田による)

 

 脳が「貪欲にパターンを食い続けていく代物」だということは知っていた。

 人類の脳の情報処理能力は全生物のなかできわだって優れたものだが、そのぶん多大な燃料(カロリー)を必要とする。つまり高機能に見合うだけのタスク――生存-繁殖の可能性を高めることに直接・間接に繋がるような――をあてがってやらねば割に合わず、脳が遊んでいると我々は焦りのシグナルを発するのである。どうしよう、退屈だ、何かしなきゃいけないというわけだ。

 じじつ、ネアンデルタール人はホモ・サピエンスより平均して大きな脳を持っており、ある面においてホモ・サピエンスより高機能ですらあったが、いかんせんステ振りが悪かったためにうまく活かすことが出来ずに絶滅してしまったという。

 分子古生物学者の更科修によれば、脳の形状からいっておそらくネアンデルタール人は手先の器用さや性能(安田註:処理速度というようなニュアンスか)を重視したが、いっぽうホモ・サピエンスは創造性や社会性を重視したことが、投槍具や防寒着の発明、またその伝播において明暗を分けたのではないかという(『絶滅の人類史』)。

 

Anatomy of the Neanderthal brain - Keio Research Highlights

 

 ネアンデルタール人はホモサピエンスの1.2倍の基礎代謝量があったと推測されている。さらに行動時にはエネルギー消費量は1.5倍になるともされるが、それに見合う成果を得られなかった。脳以外の身体能力にしても、ネアンデルタール人のほうが力は強かったのだが、いかんせん少しばかり素手の戦いに強くても狩りの成果にはあまり関係がない。むしろ燃費が悪いため広範囲を移動出来ないことが狩りにとって大きなマイナスとなった。

 総じてネアンデルタール人の絶滅は、町工場に例えるなら強気な設備投資をしたものの思ったほど仕事が来ず爆死したようなものであった。

 

 さて、ラフ・コスターはこれをゲーム以外の、美術や音楽といったものにも応用している。

 例えばジャズが最初に出てきたとき、馴染みのない多くの人にとってやかましい雑音に過ぎなかった。だがコスターに言わせれば、それはジャズ特有のパターンを認識できなかったためである。彼いわく「雑音(ノイズ)とは認識することができないパターンのことなのです」(p.26)。しばらく聴いているとジャズ特有のパターンが認識できるようになり楽しめるようになってくる、というわけだ。そういえば大方のゲームも最初は右も左もわからず、「面白くなってくる」まで一時間~数時間ほどプレイする必要があることは多くの人の実感するところだろう。

 

 ゲーム、美術、音楽――その他スポーツ観戦からマンガやドラマまで、およそ文化的コンテンツはパターンと「外し」、予測可能性と意外性、秩序と無秩序の絶妙なバランスによって我々を楽しませる。

 強気の設備投資をした脳は、その情報処理能力を持て余すことに危機感を抱いており(どうやら農耕-定住生活後は実際に、しばしば持て余しているらしい)、そこにちょうどいい歯ごたえのあるタスクを与えられると心地よく感じるのである。

 それがコスターのいう「食べると特においしい味がするパターン」ということであろう。脳はパターンを食べるパックマンとは言い得て妙である。

 

NovelAIにて生成。

 

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 ゲームの認知的メリットについて論じて全米で広く読まれ、2006年のダボス会議においてビル・ゲイツに推薦された『Everything Bad is Good for You: How Today's Popular Culture Is Actually Making Us Smarter』(邦題『ダメなものは、タメになる』)のなかにも、興味深いことにパックマンが喩えとして出てくる。よほど白人にとってパックマンはゲームを象徴するものなのだろう。

 著者のスティーブン・ジョンソンは、ほとんどのテレビゲームに伴う作業として「調査」(プロービング)を挙げている。

 

 コンピュータのシミュレーションの進め方に微妙なパターンと傾向を感じ始めたときから、その世界の物理調査(プロービング)は始まっている。そこに質量と速度が関係することもある:鎧を着ているときは峡谷を飛び越えられない。あるいは要塞の後方から攻撃ができる武器はロケットランチャーだけであるなど。また、生理学が関係することもある:脚を怪我するよりも胸を怪我した場合のほうが出血量が多い。あるいはどんな高さから飛び降りてもキャラクターは怪我をしないなど。集団行動が絡んでくることもある:ジュークボックスとラバランプがあれば、近所の人々がパーティに参加してくれる時間が長くなる。惑星に初めて到着した際に攻めてくるロボットたちは、右から飛び込んでくる傾向があるなど。

 (スティーブン・ジョンソン『ダメなものは、タメになる』p.52)

 

 そうした調査を続けてゆくと、ある時点においてゲーム世界の皮膜が剥がれ、どんなに精巧に作られた世界であっても裏にあるのはただのアルゴリズムでしかないことに気付く。さながら『マトリックス』のネオのように。

 

映画『The Matrix』(1999)

 

 ジョンソンは続けて言う。

 

 世に知られているその最初の瞬間は、非常に人気を博したアーケードゲーム『パックマン』で、一九八〇年の初めにやってきた。このゲームのルールは非常に単純で、三つの文章で表すことができる:ステージをクリアするためにすべてのドットを食べること。大きなドットを食べてモンスターを食べられる状態になったとき以外は、モンスターを避けること。ボーナスを食べて点数を稼ぐこと。だがベテランのプレイヤーたちは、まもなくモンスターの迷路内の移動が予測可能だと発見した。そして――文字通り「パターン」と呼ばれた――ある一定のコースをプレイヤーがたどれば、何度プレイしても一度も捕まらずにステージを終えられるのだ。

 (同書、p.54)

 

 こうした「調査から仮説を立て、検証し、また再調査し…」といった作業は現実の科学的手法と一致する。したがって我々はゲームをすることによって自ずと科学的思考を培っていると言える。

 これをスティーヴン・ジョンソンはゲームの「認知的価値」あるいは「認知的利点」と呼んでいる(なおラフ・コスターも上述書においてほぼ同趣の主張をしている)。

 

 むろん、そもそもゲームや遊びといった類いのことは「何をやっても何かの役に立つ」。井上明人いわく「鬼ごっこは身体トレーニングになるし、ままごとは社会的な対人技能の獲得に貢献している。しかし、近代的/計画的な遊びと学びの再統合はしばしば、学ぶべき対象を標準化された「学ぶ価値のあるもの」=学校制度における主要五教科のカリキュラムに限定し、そのための道具としてのみ遊びの存在が許されるという形をとることになる」(『ゲンロン8』所収「ゲームはどのように社会の問題となるのか」p.140-141)。

 思うに、このような価値/無価値の選別は制度側の論理としてはあってよい、ばかりか必要なものでさえある――と曲がりなりにも大人である僕は了解するのだが、問題は、そういった制度の論理を受容するなかで、あくまで制度のフィールド上で無価値とされたものを全域的な無価値と錯覚してしまうところにあるのだろう。

 『ダメなものは、タメになる』巻末の解説において乙部一郎は、ジョンソンの議論は「ゲームの一側面にすぎない」ものであり、ゲームというメディアは「きわめて幅の広い体験を作り出すことが出来る」としている。したがい、当記事でピックアップした認知的利点もまた、そのようなさまざまなメリットのうちの一つであると了解されたい。

 

 まとめると、ここでいう認知とは対象を科学的手法によって調査し、法則性(パターン)を抽出して認識・活用可能にしてゆく作業であり能力のことである。

 よくできたゲームはほどよい難度でそうした課題を与えてくれる。我々はプレイ中の試行錯誤によってそれと意識せずとも認知能力を鍛えることが出来、かつ脳が「今日はやってるぞ!」と喜ぶ、というわけである。

 

 *

 

 さてここからの記事後半は、これらの話の情報科学・認知科学的な裏付けを少し見てゆくことにする。

 そもそも「情報」という言葉は、今日ではニュースや広告のようなものだったり、儲け話あるいは事情通といった意味で用いられがちだが、元来の「情報」はそうしたものではなく、より科学的かつ普遍的な意味を持つ言葉であった。
 情報理論の父といわれるクロード・シャノンは「情報」を定義するにあたって、ボルツマンの熱力学、とくにその第二法則のモデルを援用している。熱力学の第二法則についてはちょうど前回のブログで書いたところだが、もう一度確認しておこう。

 

 周知のように、熱力学の第二法則によれば宇宙全体のエントロピー(原子的排列および運動状態の不規則性・不可逆性)は増大はすれど決して減少することはない。したがって宇宙は最終的にエントロピー値が最大化し、いかなる運動も差異も不可能な「熱死」を迎えるとされている。
 そのような状況下で、生命がその存在を可能にしているのは、生命が宇宙全体からある程度独立した「局所系」であり、周囲の環境からマイナスのエントロピーを摂取することによって体内のエントロピーを捨てているからである、というわけだ。

 (やすだ 😺びょうたろうのブログ(仮)「死に抗う、無意味でかつ自由な生命」)

 

visco110.hatenablog.com

 

 ここでは熱力学から見た生命について述べているわけだが、シャノンによれば、情報もまた「マイナスのエントロピー」と同じ型を持っているという。

 

 シャノンは情報を次のように定義した。「その情報をうけとるとき、われわれの予想しうる可能性が限定されることによって取りのぞかれる不確かさ――エントロピー――の度合、それが情報である!」

 (情報文化研究フォーラム『情報と文化』p.64)

 

 確かに情報とは「不確かさを取り除くもの」である。

 最も単純な例としては、「バスの到着時間」についての情報は「バスがあと何分で到着するかわからない」という不確かさを取り除く。あるいは「最近彼女がサークルにやって来ないのは○○にガチ恋粘着されているからだ」という情報は、彼女がサークルにやって来ない他のさまざまな理由を除外する。

 おっぱい画像も当然ながら情報である(そもそも裸眼で見るのも「情報」に他ならない)。それは対象のおっぱいがどのような形状をしているかわからないという不確かさを取り除く。あ、ちゃんと乳首は二つあった、というわけだ。金塚貞文はその点について、ポルノとは「性的欲望を掻き立てる情報を伝えるメディア」であり、それは「他者の性器・身体・そして性的行為の情報」であると正しく指摘している(『オナニズムの仕掛け』)。

 先ほどのゲームにおける認知的利点の話を思い出していただきたい。そこで我々がやっているのも、「無秩序に見えるものを調査することによってパターンを抽出する」、すなわち「情報(=不確かさを取りのぞくもの)を作り出す」ことなのであった。

 以上の話は認知科学の正統的な見方と見做してよいだろう。ここで教科書的な、認知科学における情報・認知・科学の定義を確認しておく。

 

 情報 ものが特定の性質を持っているということや、ものとものが特定の関係にあるというようなことで、伝達、操作、貯蔵などの対象となるもの。
 [例]空気は気体であるということ。

 

 認知 人間などの知性体が外界を分節化し、それと自分との関係などを知ること(認識)。また、その結果(表象)を用いて計画立案などの内部処理を行ない、必要な場合には適切な行為を行なうこと。
 [例]目の前にいるのがライオンだとわかり、逃げようとする(あるいは、よりよく観察する)こと。

 

 科学 対象を分析し、それがいかに要素から構成されているかを記述する学問。
 [例]流体力学の理解

 

 (『岩波講座認知科学1 認知科学の基礎』所収「情報科学の方法」p.174)

 

 加えて、そもそも認知科学は情報科学を出発点としているをここで確認しておいてもよいだろう。「1つの見方として、1940年代以降盛んになった脳機能とそのモデル化の研究や心理学、言語学における情報科学的方法の勃興などを一応の出発点とみなすと、認知科学は約50年にわたる歴史を持つことになる」(『岩波講座認知科学1 認知科学の基礎』p.2-3)……以下同書では、20世紀中期以降の神経科学、心理学、言語学、動物行動学、人類学においていかに情報科学が中心的役割を果たしてきたかについて述べられている。

 

 情報(infomation)の語源はラテン語のインフォルマーレ(Informare)=「形を与えるもの」の意である。「形」とは無秩序からのパターンの抽出であり、土から器を作ることや、世界についての理論を打ち立てること、はたまた歴史上のミステリーや未解決事件を解き明かそうとすること、等々も元来の意味での「情報」の作用に含まれる。

 

 *

 

 ※この節はだいたい余談なので、急ぎの方は飛ばしていただいて大丈夫です。

 

 先日、R・D・オールティックの『ヴィクトリア朝の緋色の研究』を読んでいたのだが、当時の大衆がこぞって殺人事件の報道に熱狂したのも、平板で規律強めの生活からくる倦怠感から「おいしい情報が食べたい」という衝動が蓄積されていたと見て間違いない。

 それゆえセンセーショナルな事件が起きるたびに事件を報道したブロードサイド(低俗な読み捨て新聞)は飛ぶように売れた。オールティックいわく「女王即位の五年前に死んだウォルター・スコット卿は、ヴィクトリア朝人の殺人への熱中をいわば先取りしていたといえる」……そのスコット卿の日記にはこうある。

 

 ジルズ・ヒル事件の合注本の上にうつ伏せになって、三、四時間うたた寝。ふさぎの虫を追い払うには願ってもないご馳走だ。常軌を逸したこの殺人の残忍さもさることながら、この殺人をきっかけに、イギリス人たちが奇妙きてれつなお祭り騒ぎの群れと化し、その挙句いやに涙もろくなって、残酷無比な刺客サーテルを哀れんで涙を流し、犯行現場の庭の生垣や灌木の小枝やら葉っぱやらを、価値ある記念品として後生大事に持ち帰る――いや、それだけじゃない。やつが死体を運ぶのに使った葦毛の馬と黄色い一頭立て二輪馬車を見ようと、ちっぽけな劇場へ我も我もと押し寄せるときてはなおさらだ。

 (R・D・オールティック『ヴィクトリア朝の緋色の研究』p.22)

 

 同様の理屈で、当時流行していた怪奇小説もまた、強く労働者の無聊を慰めるものであった。

 

 『黒い修道僧――灰色の小塔の謎』、『アルミラの呪い――ブランズドルフの黒い塔』、『墓場の徘徊者――ジプシーの預言』、そしてなによりも『吸血鬼ヴァーニイ――血の饗宴』などの作品は、数知れぬ労働者やその家族を心底震え上らせ、むさ苦しい生活から一足飛びにドイツの森の奥に隠れた不吉な城の地下牢や、見習い修道女を鞭打って愉しむ尼がいる修道院へと連れ去ってくれたのだ。人殺しがいちばんよく起こる黄昏時や深夜、いやます恐怖感の中で狼男や吸血鬼、幽霊や魔女の悪逆について読むことができれば、人生もまんざら耐え難くもなかった。

 (同書、p.97-98)

 

 まさに貪欲にパターンを食べるパックマン、と言いたくなるではないか。

 殺人事件と情報・認知的欲望といったことについては高山宏が『殺す・集める・読む』のなかで論じており、当ブログでも言及したことがある。今回の記事とは扱っている語彙がやや違うが、内容的には相補うところが少なくないのでよかったらご一読されたい。

 

visco110.hatenablog.com

 

 概して不可解な出来事、歴史上のミステリーといったものが人を魅きつけるのは、わかりそうでわからない、でもわかるかもしれない――といった非常に「そそる」情報の配列、無秩序とパターンのリズムがそこにあるからだと見て差し支えない。

 また下記noteでは情報のもつ「差異」に注目している。情報の「心地よいパターン」には素材(ネタ)と調理の両面があるが、「差異」ということはとりもなおさずいいネタを持ってこい、ということに他ならない。

 

note.com

 

 ゲームもまた、こうした営為に連綿と連なっている――実際の行為というよりは予行演習という傾向が強いものの――のである。

 

 *

 

 いやはや、よかったよかった。などと勝手に胸を撫で下ろしているが、どうやらゲームがしたければ心ゆくまですればよい、ゲームをするたびに他にもっと有意義な活動があるんじゃないかと後ろめたさを感じなくとも大丈夫、と言えそうなのである(実をいうとゲーム好きなくせにそういうことを気にする自分のために書いたふしがある)。

 

 ちなみにゲーム依存症は依存症ビジネス一般にまつわる問題系であり、今回書いた話とは自ずとレイヤーが異なる。つまり学業や社会生活、はたまた健康や家計や人間関係に支障をきたすというリスクは確かにあり得る。その点でゲームが「どう付き合おうがまったく無害」とは言わないが、それは別段ゲームに限ったことではなく、酒やギャンブルやポルノやスイーツやラーメンやアイドルやSNSやYoutubeやNetflixその他諸々と同様に、という但し書きがつく。ようは対象の問題というよりも自己管理の問題である。

 

FXで有り金ぜんぶ溶かした人。NovelAI生成。

 

 僕はかなり現実逃避的な人間なので、アルコール中毒やギャンブル依存症のような実害のわかりやすいものはともかく、ゲームやポルノにどっぷりハマって何が悪いの? と思いがちである……というかぶっちゃけ、多少人付き合いが悪くなろうが小遣いがかさもうが風呂に入らなくなろうがそれがどうしたまである(まあ風呂には入ったほうがいいが)。下の記事はインターネットポルノを俎上にあげ、そうした方向性で論じたものだ。

 

visco110.hatenablog.com

 

 いずれにせよ短い人生、楽しんでいこうじゃありませんか。「もっと楽しいことがあるぞ」という人はそちらをどうぞ。だがゲームは郷里のようにいつでもあなたを待っている。ダムの底に沈んだり「二度と帰(けえ)ってくるな!」と石を投げられたりもしない。

 さてだいたい書きたいことは書き終えたのでこれで終わることにします。ではまたー(・ω・)ノシ

 

 

 

ゲンロン8 ゲームの時代

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