やすだ 😺びょうたろうのブログ(仮)

安田鋲太郎(ツイッターアカウント@visco110)のブログです。ブログ名考案中。

人間関係が上手くいく4つのルール

 

 その筋ではよく知られている話ではあるが、政治学者のロバート・アクセルロッドによる「囚人のジレンマ」を使ったアルゴリズムの大会がかつて開催されていた(「囚人のジレンマ」についてわからない人はググって下さい)。その第一回は1980年に開かれ、14のアルゴリズムが総当たり戦を行った。

 

 優勝したのはアナトール・ラパポートの作ったアルゴリズムで、それは「しっぺ返し戦略」(tit for tat)と呼ばれるものであった。このアルゴリズムは、最初のターンでは「協調」を選び、二ターン目以降は先のターンの相手の選択を反復するというだけのきわめて単純なものである。
 この単純なアルゴリズムが、なぜ他の参加者の、より複雑なアルゴリズムを出し抜き、優勝することが出来たのだろうか?

 

 興味深いのは、一対一の戦いにおいては「しっぺ返し」アルゴリズムに勝つ他のアルゴリズムもそれなりにいたということだ。だが「しっぺ返し」アルゴリズムが総当たり戦において安定して高い成績を収めるのに対し、ライバルはたとえ「しっぺ返し」アルゴリズムには勝利していてもトータルでの成績がふるわず、なんのかんので優勝を逃したという。

 

 また「しっぺ返し」アルゴリズムは、第二回大会(したがって「しっぺ返し」アルゴリズムが参戦することがわかっていた)でも再び優勝を果たした。依然として総当たり戦においてそれを上回るアルゴリズムがなかったのである。
 アクセルロッドは、こうした結果は長期的人間関係における次のような教訓を示唆しているのではないか、と言う。

 

 a.こちらから裏切ってはならない

 

 b.裏切られたら必ず報復する

 

 c.だが謝ってきたら許す

 

 d.以上のことをわかりやすくする

 

 これはどういうことかというと、最初のターンで「協調」を選び、以降は先のターンの相手の選択を反復する「しっぺ返し」アルゴリズムは、当然ながら先のターンで相手が「裏切り」を選ばない限り自ら「裏切り」を選ぶことはない。(a)
 しかし相手が「裏切り」を選んだ場合は、次のターンでそれを反復(つまり報復)する。(b)
 相手が「協調」に戻れば、その次のターンからは自らも「協調」に戻る(許す)。(c)
 そして他の「高度な」アルゴリズムのように、乱数を用いたり、試合の途中から(例えば11ターン目から)行動原則が変わったり、相手が何をどれだけやったかの回数を自らの行動に反映させたりするような凝った仕掛けがないので、とてもわかりやすい。(d)

 

 ゲーム内においては単に相手の行動を反復するだけのアルゴリズムが、人間関係のアナロジーとして見た場合にこのような多様なニュアンスを獲得することにまず感嘆するが、そこで得られた四つの行動原則は、ある統合された人間像を浮かび上がらせる。
 つまり誠実だが、不当な仕打ちには毅然として戦い、だが永遠に許さないわけではない、そしてそれらが常に一貫している人間である。うーん、立派な人だ……

 

 そしてそうなると、他のアルゴリズムも同様に擬人化した場合、あまりにも他人を出し抜こうとしたり、何があっても恭順したり、いきなり別人のように豹変したり、一度対立したものは絶対に許さないマンだったりと確かにお近付きになりたくない感じがするのである。そうした人たちは、一対一の人間関係においてはたまにボロ勝ちすることがあっても、トータルとしての成績はけっして良くない=豊かな長期的人間関係を築くことが出来ない、ということになる。

 

 *

 

 先日気付いたのだが、まったくジャンルが違うのにきわめて酷似したことを云っているテクストがあったので紹介したい。それは戦場における休戦についてのものだが、驚くべきことに上に挙げた四つの原則がすべて含まれているのである。

 

 たとえば、ある区域で戦っていたイギリスの軍隊は、毎日の砲撃をきっかり午後一時に開始することにした。それから数日後、敵対するドイツ軍は十二時四十五分まで壕の外に出て、あたりをぶらぶら歩きながら陽光を楽しむようになった。そして時刻が近づいて、イギリス軍の砲弾がドイツ兵にぶつからないようにぽつぽつ落とされはじめると、彼らはまた要塞の奥に戻っていくわけだ。

 

 休戦を保つために重要なもうひとつの要素は、決まりごとが破られたら限定的であれ、かならず罰を与えることだ。もし片方の側が、非公式のルールを破ってじっさいにだれかを殺そうとしたり、あるいは指定の時間よりも早く爆撃を開始したりしたら、された側は報復措置をとることになる。

 

 ある連隊はこれを、経験則にまとめさえした。「絶対にこちらからは先に撃つな。けれどもし撃たれたら、きっちり二倍にして返せ」この「一に対して二の罰を」に内在するのは、ひとたび罰が終われば、それでぜんぶ水に流すという考えだ。罰を与えたことで両者のスコアは五分五分になり、また以前の休戦状態に戻ることができる。
 (テリー・バーナム&ジェイ・フェラン『いじわるな遺伝子』。太字は安田による)

 

 これはゼッタイ、直前か直後に「囚人のジレンマ」の大会の話をしているな、と思ったがしていなかった。偶然の一致なのだろうか?
 そういえば日露戦争でも、休戦時間には日本兵とロシア兵が一緒に弁当を食べながら「俺たちが組めばどこの国と戦争しても負けないのになあ! ワハハ、それじゃ」とかいってお互いの陣地に引き返し、また凄絶な争いを繰り広げたという話がある。以前はそんなこと有り得るのか? と思っていたが、なるほど休戦中に相手を攻撃するのは結局のところ自分たちも安心して休めなくなってしまうわけだ。

  

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 続けて著者は云う。

 

 戦時下での協力関係は、現代のより平和的な環境での生活に、何か意味をもつのだろうか? もちろんだ。平時において良い人間関係を結ぶための鍵は、戦時下でのそれとまったく同じだ。人はみな「友情は無条件のものだ」と夢想を抱きがちだが、私たちは先の軍隊と同様、自己の利益によって友情へと動機づけられているのだ。
 (同書。太字は安田)

 

 つまり我々は、無条件に誠実だったり無条件に他人を許す習慣を持っているわけではなく、「裏切ると報復されてひどい目に遭うから裏切らない」のであり、「報復しないと際限なくナメられるから報復する」のであり、また「いつまでも争いを続けたくないから水に流す」のである。
 さらにそこに第三者の目も加わる。『三国志演義』に、魏延を斬ろうとする孔明を「余の軍門に降ってきた者を斬れば今後余に降ってくる者がいなくなる」と劉備が止めたという挿話があるが、社会的信頼は財産である、という話だろう。

 

 バーナム&フェランの議論はそこから、動物の利他行動はそうしたほうが生き延びやすいので行われている、という話になる(例えばチスイコウモリは、自分がエサにありつけなかった時の保険として、余裕があるときは他の個体にエサを分け与える)。彼らによれば、人間の「友情」もその延長線上にあり、我々は理由もなく利他心を持っているわけではない。ようするに「困ったときはお互いさま」「情けは人のためならず」ということだ。それはそうだろう。「とんでもない! 自分の利他心はまったく無償のものだ」という人はまず僕に100万円ください。一切なんの見返りもないので、無償の利他心の証明にはうってつけです。

 

 *

 

 そんなわけで、個々の関係では自分本位な奴やズルい奴や攻撃的な奴に出し抜かれるかも知れないが、結局そういう連中はトータルではうまく行かない。トータルで良好な人間関係を築くためには、上の四つの原則をもう一度挙げるが

 

 a.こちらから裏切ってはならない

 

 b.裏切られたら必ず報復する

 

 c.だが謝ってきたら許す

 

 d.以上のことをわかりやすくする

 

 というのがどうやら良さそうなのである。

 まあアクセルロッドには色々と批判もあって、本稿に関係するものとしては「少しルールが違っていたらしっぺ返し戦略は優勝していなかった」とか「そのゲームの結果からなぜ長期的人間関係についての教訓が引き出せるのか」といったものがある。はい。確かにただのアナロジー、精巧な例え話に過ぎないという面はあります。そもそも人間関係についての教訓が科学的に証明されているなどと主張する気はまったくないわけで。
 まあ僕はアナロジーでものを考えるのが好きなんですよね。森羅万象に勝手に人生のアドバイスを読み取るというか。

 

 というわけで、ここ数年念頭に置いている、これが良いのではないか、という人間関係のルールを紹介しました。参考になることがあれば幸いです。

 

『読んでいない本について堂々と語る方法』について書いていたら色々話が脱線したがなんとかまとまった

 

 

 

 書評文としてまず最初に言っておきたいのだが、この本の評価は高い。アマゾンのレビューがもし本の内容を正しく反映するならば(もちろんそうであった試しなどないが)、この本の評価は必ず星5つでなければならない。はっきり言って強くお勧めである。

 

 となると次に語るべきなのは「どういう人にお勧めか」ということなのだが、僕が以前から神経症的読書家と呼んでいるような、自らの教養の不完全さに対する焦燥感と、そのくせ古典的名著に挑んでは「弾かれ」、軽い本を手に取れば「こんな本を読んでいていいんだろうか……?」と十ページ毎にいちいち手が止まり、一向に読書が捗らないことに罪悪感を募らせるまことに哀れな存在、ピーキーなゴミムシ。そういう一群にとっての福音書となるのが本書、ピエール・バイヤール『読んでいない本について堂々と語る方法』である。はいそこのあなたピンと来ましたね。そう、あなたのためにある本です。

 

visco110.hatenablog.com

 神経症的読書家について述べている過去記事。別に読む必要はない。

 

 □

 

 ではバイヤールの本は類書とどう違うのか。

 そもそも神経症的読書家の苦しみはそれなりの歴史と一般性を持つものであり、その処方箋として「気楽に好きなものを読めばいいじゃない」といった融通無碍派とでも呼ぶべき潮流は、じつはなかなか層が厚い。
 ここではその幾つかを挙げる留めるが、本邦では大正十五年に日夏耿之介が書いた文章が典型的かつ流麗なのでお目にかけたい。

 

 かかるわびしい繁忙の現在にあって、讀書は多く事務で、享樂でない。勉学であって嗜讀でない。たまの日曜の好日の午後に小春日のぬくもりを樂みながら臥そべつて讀むともなしに讀みかかる雑著の小册子が、かへつて眞に血肉となりいつまでも頭腦に残るに反し、勉學のための専門の論究書の翻譯が、多く単なるその場の知識にしかならなかつたり、浅薄な断片知識としてしか残存しないのは怪しむに足らぬ事であるが、恐らく天下幾十萬の教師生活者の過半は必ずやこの嘆を繰返す事であらう。
 (日夏耿之介『サバト恠異帖』所収「漫讀臥讀嗜讀」)

 

 寝そべっているのは日夏耿之介が虚弱体質でずっと座っていられなかったからだとかそうでもないとか色々言われているが、とにかく、あれほどの碩学が云うのだからあながち間違いではないと思えてくる。

 

 こうした融通無碍の姿勢を実践したかのような文章が、澁澤龍彦の「読書日録」(『太陽王と月の王』収録)である。澁澤においては、日夏耿之介に見られるような「かへつて眞に血肉となりいつまでも頭腦に残る」といった欲目(?)を示す文言ももはやない。読み始めたがつまらなかったからすぐやめたとか、天気がいいから外へ出ようとか、「読書日録」という題に対し反抗的とも呼びうる態度で、勤勉さに対するうっすらとした蔑視すら感じる。だが結局のところ彼もまた多くの書物を著し、一時代を築いたのだった。

 

 日夏、澁澤に比肩しうる大読書家の一人である荒俣宏もまた、融通無碍派への傾向をはっきり示す文章がある。

 

 あの国民番組『水戸黄門』や、あるいはAVの愛すべきエンジェルを楽しむようにワクワクと、あらゆるテーマの本を自在に読みこなす工夫はないものだろうか。どうせ限りある一生だもの、たとえ理解不能な専門書にうんざりしても、気持ちだけはすっきり理解できた爽快感をただよわせていたいではないか。本とは、そのように付きあうべきものだ。
 (荒俣宏『屋根裏の読書虫』)

 

 この、書物とAVのアナロジーについては別の機会に書こうかな、と思っている(著者=AV女優、本=出演作、翻訳書=海外女優、云々)。また書物と格闘技のあいだにも一定のアナロジーが成り立つように思う(著者=格闘家、対談または論争=試合、ヘゲモニー=チャンピオン)。さらに書物とDJ文化の間にもそうしたことが言えるのではないか(これは後でまた触れる)。こうした発想は読書から重苦しさを取り去り、純粋な享楽に近付くために有益な発想なのではないかと思うのだが、まあ今回はさておき。

 

 □

 

 次にポストモダン的読書スタイルを見てみよう。浅田彰は『逃走論』のなかで次のように書いている。

 

 受験体制に即してあらかじめ範囲を限定されたインスタント公害食品から解放されて、森の木の実でも毒キノコでも勝手にツマミ食いできるようになる。これは絶対に必要なことだ。だけど、それ、あくまでもツマミ食いでいいんだよね。「じっくり腰をおちつけて」なんていう必要はない。
 (中略)
 マルクスの『資本論』なんて、どう見ても寝っころがって読むようにできてる、しかも、そうやって拾い読みすると実に面白いんだな、これが。
 (浅田彰『逃走論』所収「ツマミ食い読書論」)

 

 日夏といい浅田といい、寝っ転がって読むのが好きな人たちである。しかし浅田の読書論は日夏や澁澤らと違ってもう少し意図的なものだ。浅田は「ツマミ食い」によって得た知識についてさらに述べる。

 

 それをトランプのカードのように軽やかに扱ってみること。何もかもゴチャマゼにシャッフルした上で、そこから新たにスゴイ組み合わせが出てくる可能性に賭けること。これがチャート式《知のギャンブル術》の方法ならざる方法なのだった。
 (同書)

 

 出たぞ、脱構築だ! リゾームだ! と思わず叫びだしたくなる。
 つまり浅田の場合は、従来の教養人のイメージ――系統だった本を丹念に精読するといったような――を拒否し、知を活性化させるための戦略として、敢えて脳内を混沌の坩堝と化し、新しい知の交配が起こることに賭けたのである(まあ本当はくっそ読んでるんだろうけど)。


 これは一見よく似たDJ的引用スタイル(峰尾俊彦が柄谷行人をそう評したような)とも少し違う。DJ派における引用は華麗さや珍奇さ、その緩急によってテクストにもたらされる高揚感に注意を払うが、浅田彰が云っているのは知の異種交配主義とでも呼ぶべきものなのである。

 

 マリリン・アイヴィによれは、ポストアカデミズムの連中――おそらく日本のニューアカやそれに近しい人たちのことを指している――の読書には次のような傾向が見られるという。

 

 ポストアカデミズムの連中は、本を最初から最後まで読み通すのが好きではなく、部分的に選んで読むのが好きだと述べている。彼らは本というものは偶然の出会いであるべきだと信じている。

 (中略)

 今までとはちがって読みの技術は、しばしば食べること――軽食やスナックを食べること――にたとえらえる。読むこと、食べること、消費することが組み合わされ、すべて何かを取り込む問題になる。但し、取り込むといっても、軽く、あまり投資をせずにではあるが。
 (『現代思想 総特集:日本のポストモダン』所収マリリン・アイヴィ「批判的テクスト、大衆加工品」)

 

 このようなポストモダン的読書スタイルは、それ自体が知の生産のための方法論であることから、狭義の融通無碍派とはやや異なる。しかし①読書から重苦しさを取り除きたい、②系統立った勤勉な読書の否定、といった共通する部分も多いので、ここでは広義の融通無碍派としておこう。

 

 □

 

 いい加減、バイヤール『読んでいない本について堂々と語る方法』の話に戻らなければならない。
 そのためには、融通無碍派とピエール・バイヤールの接点に向かってゆく必要があるだろう。その接点とは、私の知るかぎりでは「読者の権利10ヶ条」である。

 

 ダニエル・ペナックによる有名な「読者の権利10ヶ条」……曰く、読まなくてもいい、途中で放棄してもよい、何度も繰り返し読んでいい……等は、それらを述べた本が、ふさわしいことにいずれも小冊子に近い体裁のものでありながら、内容的には融通無碍派の完成形といっていい。

  

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 ピエール・バイヤールの書物は、ダニエル・ペナックの「読者の権利10ヶ条」に11番目の項目を付け足すものと云える。そしてそれによって、「読者の権利10ヶ条」はより完全体になったである。つまり、こういうことだ。

 

  11.読まずに語る権利 ←New!

 

  そももそも、ペナックの第10条は「読んだことを黙っている権利」である。これはいかにも「読まずに語る権利」と対になっている。つまり、11番目の椅子はすでに用意されており、バイヤールの書物が現れてそこに座るのを待っていたのだと云える。まことに運命的である。

 

 「読まずに語る権利」を、不誠実だとか、著者が蔑ろにされていると短絡してはならない。バイヤールはそもそも「読んだ」とは何を意味するのか、「読んだ」ことと「読まない」ことは明確に線引きできるのか、といった議論から始める。流し読みは「読んだ」うちに入るのか? かつて精読したがすっかり忘れてしまった本は「読んだ」と言えるのか? 云々。
 だがそれは正論ではあるが、それだけではこの本が読者を真に驚愕させるには至らない。

 

 バイヤールは本書において、教養(神経症的読書家にとってのアガルマ!)とは個別の書物を読むこととは関係ない、と宣言する。

 

 教養ある人間が知ろうとつとめるべきは、さまざまな書物のあいだの「連絡」や「接続」であって、個別の書物ではない。それはちょうど、鉄道交通の責任者が注意しなければならないのは列車間の関係、つまり諸々の列車の行き交いや連絡であって、個々の列車の中身ではないのと同じである。これを敷衍していえば、教養の領域では、さまざまな思想のあいだの関係は、個々の思想そのものよりもはるかに重要だということになる。
 (ピエール・バイヤール『読んでいない本について堂々と語る方法』)

 

 ここで「鉄道交通」のアレゴリーが出てくるのは、かつて(偶然にも再び彼の名前が出てくるわけだが)浅田彰が「交通巡査」と評されていたことを彷彿とさせる。話の補助線として有益と思われるので引用しておく。

 

 柄谷との強力なパートナーシップで、ポストモダン・ブーム以降の、思想界を仕切ってきたその腕力はあなどりがたく(中略)圧倒的な教養を見せつけ、アグレッシブな姿勢も相変わらずだ。ただ、単発の仕事が多すぎて、周囲からは才能の出し惜しみを危惧する声も(中略)いずれにせよ、この辺りで一冊書いておかなければ、天才・浅田も現代思想の"交通巡査"に終わりかねない。
 (絓秀美・高澤秀次・宮崎哲也『ニッポンの知識人』)

 

 ここでは「交通巡査」という言葉は負のニュアンスで語られているが、それは筆者らが浅田彰に対し、なにかしら教養「以上」のものを期待していたためである。だがこと「教養」というレベルにおいては、当時浅田彰の右に出る者はそうそういなかった。そしてその「教養」とは(多少はコーディネーター的な意味も含まれるが)、「交通巡査」的なものに他ならないのである。

 

 さらにバイヤールは、教養と個々の書物は別物というばかりではなく、むしろ相反すると言い切ってしまう。

 

 私自身に関していえば、私は本をほとんど読まなくなったおかげで、本についてゆっくりと、より上手にコメントできるようになった。そのために必要な距離――ムージルのいう「全体の見通し」――がとれるようになったからである。
 (バイヤール、同書)

 

 限られた時間を「見取り図」(教養)のほうに振るか、個々の読書に振るかというのは、たしかに相反する。我々はつい、個々の読書の積み上げの果てに教養が手に入ると思いがちだが、そもそも教養とはそのようなものではない。バイヤールによれば、そのような「欠陥なき教養」(語っているものについて本当に知っているうえで、何についてでもひととおり語れる)というイメージこそ重苦しく、我々を呪縛するものなのである。

 

 むしろ教養とは「個人の無知や知の断片化が隠蔽される舞台」(バイヤール)であり、読まずに済ませるためのものであるとさえ云い得る。何のために読まずに済ませるのか? 人生の重荷たる「必読書」を手短にあしらい(しかもそのほうが適切に語ることが出来る!)、本当に自分の読みたいもの――あるいは読書以外のやりたいことに、なけなしの時間を振り分けるために。

 

 たとえば創造すること。このあたりは本書のクライマックス部分なので直接読んでいただきたいが、僕などは「そうか、今まで読みすぎていたからバリバリ書けなかったんだ!」と得心したほどである。
 只しこれは決して無知の礼賛ではない。むしろ「完璧に資料を読み込めなければ書けない、といった強迫観念が生産性を下げている」という話に近いのだが、それでも八十点くらいの要約で、バイヤールは書物の象徴的ネットワーク、ある一つの書物の価値や位置付けがどのようにして決まり、また変化してゆくのかといった不可視のシステムを、我々に垣間見せてくれるのである。

 

 □

 

 さて、『読んでいない本について堂々と語る方法』には本稿で触れた以外にもさまざまな問題提起があって、ここまでで触れたのは映画のトレイラー程度とも言える。たいして長くないも本だがそれだけ内容が濃いということだ。ぜひ一読をお勧めする。

 それにしても、別に原稿料もなにも貰ってないブログで、今回はえらい絶賛してしまった……まあいいか。

  

太陽王と月の王 (河出文庫)

太陽王と月の王 (河出文庫)

ニッポンの知識人

ニッポンの知識人

そもそもなんでツイッターを始めたのかという話

 

 

 まだこの世に安田鋲太郎が存在しなかった頃の話だ。

 

 そう、2014年秋。僕は30代後半で、職場と家を往復するだけの単調な日々を送っていた。働いては読書、あと酒。ひたすらこの繰り返し。友達はといえば、地元の無教養な連れがかろうじて数人いる程度だった。

 

 その日、僕は珍しく仕事帰りにライブを聴きに行った。5組か6組のバンドが数曲ずつ演奏する、よくある形式の野良ライブだ。知り合いに「演奏するから聴きに来てくれ」と頼まれたので、それほど興味もないけれどまあ、みたいな感じで行ったのだった。

 

 なにせ相当なインドア派なので生演奏を聴く習慣はまったくないのだが、行ったら行ったでBARを貸し切った会場にいろんな肌の色の人たちが入り混じっており(この店では以前パンク男の鉤十字のアクセサリーにイスラエル人客がブチギレて一触即発という騒動があった)、ハイネケンを飲みながらすっかり非日常感を楽しんだ。

 

 とにかく 生のネオロカビリーの迫力!

 

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 ネオロカビリーといえばストレイ・キャッツ。そしてウッドベース。

 

 ……については今回はどうでもいい。また黒人のサックス演奏にもかなり感動したのだがその話もパスする。

 今回話したいのは、そう、ガールズパンクバンドだ。略してガルパン。

 ガルパンの演奏の間、僕はステージに釘付けだった。全員小柄なのに大物感溢れる演奏。特にドラムの疾走感が凄まじかった。やはり人は舞台上で輝く。だから王様や大富豪が舞台女優を見初めるなんて話が古今東西にあるわけだ。サロメも踊らなかったらヘロデ王の興味をそこまで惹きはしなかっただろう。戦闘美少女がコアなファンを掴むのも、ようするに戦いというのが最高の舞台だからだ。

 

 とはいえ素人は素人なので、演奏が終わると、ネオロカビリーも、サックスも、ガルパンも、ちょっと楽屋に引っ込んだかと思うと、しばらくして客席にひょいと座り他バンドを聴いたりしていた。
 客席では「良かったよ!」と客が代わる代わる声をかけていた。僕も「良かったよ!」とガルパンに声をかけると、彼女らは「ありがとうございますー」とニコニコ返事してくれた。

 

 しかしその時、ふと思ったのである。


 「声をかければニコニコ返事してくれる、けれどそれだけで、僕は誰なんですかと問われれば誰でもない、ただのモブファン。それってなんだか、少し悲しいな」と。


 職場と家の往復にすぎない生活。そのうち何かしようと思ったり思わなかったりしつつも、どんどん日々は過ぎ去ってゆく。やがて僕はあっという間に40歳になり、50歳になり、60歳になるだろう。分不相応な夢を持っていたのは、遙か昔の事だ。

 しかし、自分も何か表現したい、何か「外に出すもの」が欲しい。もしそうなったら、

 

 「いまの演奏すごく良かったよ!」
 「ありがとう。ところであなたは?」
 「いやその、僕はただのモブファンです」

 

 ではなく、

 

 「いまの演奏すごく良かったよ!」
 「ありがとう。ところであなたは?」
 「喪部田モブ夫という者ですが」
 「え、あの有名な喪部田さんだったんですね!」

 

 ……こんな感じにならねえもんかな、と。

 

 虚栄心っぽく聞こえるかも知れないが、というか書いててかなり恥ずかしいのだが俺の本音だ聞いておけ。健全な名誉欲だって世の中にはあるはずだ。その時自分が感じたのは、とにかくそんな感情だった。

 

 □

 

 かくしてその数週間後、僕はツイッターを始めた。


 アカウント名は、フックスの翻訳者である安田徳太郎と、日本におけるゲームブック・TRPG・ボードゲーム紹介の第一人者である安田均、それから強そうなイメージが欲しいので、昭和のロボットヒーローのボディの接合部分に鋲(リベット)が打ち込んであるあのイメージで「鋲」を入れ、

「安田鋲太郎」

 に決定。

 

 アカウントのキャラづけは、澁澤龍彦・南方熊楠的なペダントリーと、ジジェクのような舌鋒鋭い批評家を足して二で割ったような感じで行きたい、と考えたのだった(赤面)。

 

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 やはり格好いいといえばこの人たちでしょう。

 

 そして6年が経った。

 いきなりアルファになってドカーン、みたいな感じではなかったが、こつこつ続けて、フォロワーは先日ようやく3000人を越えた(祝!)。前回のブログも2日間で1000以上のアクセスがあった(祝!)。いっちょまえにアンチもそこそこいる(呪!)。友達もけっこうたくさん出来た(祝!)。そして一番大事な事なのだが、さまざまな他人の話に耳を傾けることによって多くの学びがあった。

 

 もしツイッターを始めていなかったら、僕はいまよりも頭が固く、発想が旧弊で、なにより鬱屈と不全感を溜め込んだ人間になっていただろう。あぶないあぶない。

  6年ぶりにあの空想をしてみる。

 

 「いまの演奏すごく良かったよ!」
 「ありがとう。ところであなたは?」
 「安田鋲太郎という者ですが」
 「……えーと、どういう方でしたっけ?」

 

 まだ少しフォロワーが足りないな!

 

 けれど、少なくとも僕は、名乗る名前は手に入れた。まあ現実としては安田鋲太郎なんて誰も知らんだろうが、とりあえず言ってみることは可能になった。それは、そういう答えがなにもない頃に比べたら、それなりの進歩じゃないでしょうか。

 あの時の自分に教えてやりたい。6年後の僕はそれなりに頑張ってるよ! と。