やすだ 😺びょうたろうのブログ(仮)

安田鋲太郎(ツイッターアカウント@visco110)のブログです。ブログ名考案中。

ゲームが文化の中心になるのかも知れない

 

 ゲームを侮ってはならない。ゲームは年々加速度的に複雑・高度化しており、ゲームをするときに脳が行っている認知的作業は、ある面においてハイカルチャーをも凌ぐからだ――という議論は、2005年の段階ですでにスティーヴン・ジョンソンが『Everything Bad Is Good For You』(邦題「ダメなものは、タメになる」)で述べ、当時大きな反響を呼んだ。
 この本のなかでジョンソンは、ゲーム独自の(したがってハイカルチャーにはない)要素として、「調査(プロ―ピング)」と「テレスコーピング」の二つを強調した。

 

 「調査(プロ―ピング)」とは、ジョンソンの用法では「ゲームのルールを解読する作業」のことである。すなわちゲーム世界におけるさまざまな事物を、歩き回ったりクリックしたりして調査し、それらがどのような意味を持つのかについての仮説を立てる。そして仮説をもとに追試し、ゲーム内での真実に近づくべく絶えず修正してゆく。これによって、例えば「どんな高さから飛び降りてもキャラクターは怪我をしない」だとか、「ジュークボックスとラバランプがあれば近所の人々がパーティに参加してくれる時間が長くなる」といった、ゲーム世界における法則に気付くこととなる。
 これは科学的方法の基礎的な手順と同じである、とジョンソンは云う。つまり、現実について合理的にものを考えるさいにも、基本的には同じ方法を採るのが有効であり、ゲームを通して我々は、世界認識のもっとも基本的な方法を学んでいる、あるいは再確認していると云える。

 

 もう一つの「テレスコーピング」とは、著者によれば「適切な作業階層の構築」のことである。諸々の作業の優先度や作業と作業の関係を把握し、作業の段取りを決めること。例えばあるアイテムを手に入れるためには村人の抱えている問題を解決しなければならない、そのためにはある怪物を退治しなければならない、そのためには怪物を眠らせる笛を入手しなければならない、そのためには廃坑で特殊な土を採集してこなければならない、そのためには廃坑に入る許可を得なければならない、そのためには廃坑の管理人の要求を満たさなければならない(くどい)……といった状況はゲームにおいておなじみのものだろう。こうしてプレイヤーの段取り能力が鍛え上げられてゆく、というわけだ。

 

 「調査」も「テレスコーピング」も、たとえば『イリアス』や『ハムレット』といった超一流の文学であっても、本を読むときに必要とされる認知的能力ではない。ゲームと文学のどちらが優れているか、といった議論をもちろん著者は「そもそも比べるものではない」と退けるのだが、彼の議論を追ってゆくと(このあと彼は本書のなかで、映画、テレビ、インターネットについても非常に興味深く論じてゆくのだがそれはさておき)、少なくともポップカルチャーを軽視して済ませる時代はとっくに過ぎ去っているのだ、と読者は感じずにはいられないだろう。

 

 *

 

 あれから14年が経つ。今日、ゲームはジョンソンが指摘した以外の要素――『Everything Bad Is Good For You』の頃にはまだ大きく差があると思われていた芸術的観点においても、ハイカルチャーと何ら遜色のない水準になっていると云える。少なくとも僕にはそう思える。

 10年後、いや5年後には、ゲームはハイカルチャー・ポップカルチャーすべての中心に座しているのではないか、文化について何事か語ろうとしたら、書物でもなく映画でもなく音楽でもなく演劇でもなく、ゲームについて語れなければ"お話にならない"状況になっているのではないか――というようなことを思いさえする。個人的には、一度そのようなことを感じたのはユリイカ『特集:RPGの冒険』(2009)を読み、そのなかで『オブリビオン』が絶賛されていたのでPS3を買ってプレイしてみた時だったのだが、こうやって書いていてあのゲームがすでに10年以上前だったことに驚く。

 さらに昨年発売の『レッドデッドリデンプションⅡ』や『ゴースト・オブ・ツシマ』の美しい風景、恐ろしく作り込まれた世界、洗練されたストーリーを観て、再び僕は衝撃を受けた。

  只し、この文章を書いてからしばらく間を置いて考えると、やはり不自然かつ頻繁な「戦闘シーン」の導入が感興を削ぐところがあり、かつそれは”ゲーム”という表現形式において(商業的理由から?)どうしても避けられぬものなのかも知れない、という疑念が首をもたげた。この制約が、いまひとつ「5年後10年後にゲームが文化の中心になる!」という確信をためらわせている大きな要素の一つではある。

 

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 ……こういう話を書くにあたっては誠に残念ながら、僕はゲーマーではない。たしかにファミコンはよくやったし、それ以降もPS2あたりまでは断続的にゲームをすることはあったが、せいぜい年に2~3本。どちらかといえば本や絵画のほうに親しんできた人間だ。
 だかそれだからこそ、スティーヴン・ジョンソンの議論にも『オブリビオン』にも無関心ではいられなかったとも言える。ジョンソンもその基本的姿勢にしているように「どちらが優れているか」といった問題ではない。しかしゲームというものが現状、そして今後いよいよ認知的水準のみならず芸術的水準においても絶頂を極めるとするならば、「自分は本を読んでいればいい」とほっかむりを決め込むのは(当然他人のことまでどうこう言うつもりはないが、自分としては)、どうにも気になってしまうのだ。

 たとえばハドソンリバー派の絵画と『レッドデッドリデンプションⅡ』の風景を比べたらどうだろう。一方は日が昇ったり沈んだりもすれば天候も変わる。風が吹けば草が揺れ、鳥や動物は動きまわり、しかもどの角度からも眺めることが出来る。街中の人物の様子や戦闘シーンですら、絵画を彷彿とさせる瞬間があり思わず見惚れることがある。一方は平面に書かれた単一の風景をただ眺めるだけ……こういう比較には皮相な部分があることはわかっている。だが「ハイカルチャーはハイカルチャーであるゆえに芸術性が高い」という信仰を僕は持っていないゆえに、『レッドデッドリデンプションⅡ』のビジュアルのほうに軍配を上げたくなる誘惑は強い。

 

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 ハドソンリバー派の代表的な作品の一つ。トマス・コール「嵐の後、マサチューセッツ州、ノーザンプトン、ホリヨーク山からの眺望 または ジ・オックスボウ(川の湾曲部) 」(1836) 。

 

 優劣ではない、と云った端からこれである(反省)。
 だが、実はそれだけではない。この世界は生命力に溢れており、人々は絶えず動き回り、喋り、争いそして大地に血を滲み込ませる。物語は荒々しく、目に映るすべてが躍動している。『さかしま』の主人公デ・ゼッサントがペトロニウス『サテュリコン』やアプレイウス『黄金の驢馬』を評したような、リアリスティックかつ猥雑な活力がみなぎっているのであり、痩せ細ってかび臭く曖昧模糊とした、二流三流の「ハイカルチャー」作品が決して持ち得ないものである。


 ジョンソンが議論したようなインタラクティヴ性からくる認知的水準と、その後の芸術的水準の劇的な向上によって、いまはゲームは翼を得た龍のようになりつつあるのではないか。
 本の虫としては、戦々恐々としながらも、ゲームについては注目してゆきたい、あるいは可能な範囲でコミットしてゆきたい、と思う今日この頃である。

 

ダメなものは、タメになる テレビやゲームは頭を良くしている

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ユリイカ2009年4月号 特集=RPGの冒険

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The Elder ScrollsIV:オブリビオン - PS3

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レッド・デッド・リデンプション2【CEROレーティング「Z」】 - PS4

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さかしま (河出文庫)

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【ボツ供養】大人のためのシャボン玉——霊感の源泉としての書物

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 ジャン・シメオン・シャルダン『シャボン玉を吹く少年』(1731-37)

 

 徐々にくだけた語り口にしてゆきたいのだが、さておき、この世に数多ある本のなかからどれを選び買うべきかというのは、本好き(僕自身は猟書家を名乗るような勇気はない)にとっての永遠のテーマであろう。それ以外では頑なな唯物論者であっても、本好きであればこの点についてだけはオカルティックにならざるを得ない。本との不思議な巡りあわせ、そしてそのなかから一冊を選ぶ時の霊感とも呼ぶべき能力について、畏敬の念をはらわずにいられようか。


 このテーマについて、最も核心的なことを述べているのは、僕の知るかぎりではベンヤミンの「蔵書の荷解きをする」という短いエッセイ(『ヴァルター・ベンヤミン著作集11』所収)における次の一節である。

 

 「カタログによって本を買う人は、そこに掲げられた品物にたいして鋭敏な嗅覚を備えていなければなりません。出版年度、出版社名、型式、前の所有者、装丁など、これらのすべてが蒐集家に何かを語りかけなければならないのです。それもこうしたひからびたそれ自体(アン・ウント・フュア・ジッヒ)において語っているだけでなく、こうした事項が共鳴し合わなければならないのです」

 

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 カタログ(目録)でなくても、書店でもAmazonでもそうだが、人は買う本についてあらかじめ完全に知ることは出来ないため、どこかで買うべきか、買わざるべきかの判断を下さざるを得ない。思えばこのような「嗅覚」が必要となるのは、書物にかぎらず、買い物全般に云えることかも知れない。


 それにしてもベンヤミンの要求は高い。なにしろ出版年度や出版社といった個別の要素だけではなく、それらが総体として語りかけてくるものを嗅ぎ取れと言っているのだから。もちろん個別には、この書き手は信頼できるとか、この出版社は良心的であるとか色々と云えることはあるだろう。だがその総体となると、やはり少々オカルティックなのではないかという気がしてくる。

 

 *

 

 じつは買う時だけではなく、蔵書との付き合い方に関しても、ベンヤミンはオカルティックに近い考えを持っていたのではないかと思えるふしがある。同エッセイで彼は蒐集家の魔術的側面について次のように述べている。

 

 「時代、風土、仕上具合、それを手放した前所有者——これらすべてが、真の蒐集家にとっては、彼の個々の所有物の中でひとつに圧縮されて魔法の百科全書となる。そしてこの百科全書の総和が彼の対象の運命なのであります。つまりここにおいて、このちっぽけな場において、偉大な観相学者——蒐集家は自分の世界の観相学者です——がいかにして運命の予言者となるか、推測されるのであります。蒐集家がガラス製の陳列戸棚のなかの自分の対象を取扱うさまをじっと観察するだけで充分です。蒐集家は、それを手に取るか取らぬうちに霊感を与えられ、眼差は対象を貫いてはるか彼方を凝視するように見えてくるのであります」

 

 つまりここで彼が云っているのは、書物とはその存在において総体的に世界についての知を体現するものであって、読むという行為によって得られるのはその一部分にすぎないということが一つ。またそれに関連して、書物の物質性からさまざまな書誌学的(?)情報が得られるということが一つ。だがどうやらそれだけではないらしい。ここで殊更に「手に取るか取らぬうちに」だとか「魔術」「霊感」という言葉が出てくるのは何故なのか。

  
 アンドルー・ラングは『書斎』において次のように述べている。

 

 「古書はしばしば文学的〈聖遺物〉であり、別種の聖遺物が宗教信者にとってそうであるように、文学愛好家にとっては神聖かつ貴重な品物なのである」

 

 つまり古書はフェティシズムの対象であるというわけだ。このあたりが、縁のない人から見て「小汚い本を溜め込んでいる人種」が愚かしく見える所以でもあるのだろう。

 

 ベンヤミンはこういうフェティシズムのことを云っている、と受け取るのが近いといえば近い。しかしたんに恍惚となるという話ではなく、そこには別種の叡智があると彼は言いたいのではないか。運命的に懐にやってきた書物という霊媒によって、手に取るか取らぬうちに世界についての霊感的な観相を得ると同時に内なる叡智が引き出される、そうしたものについて彼は語っているように、どうしても読めるのだ。

 

 ベンヤミンはこのエッセイを愉しんで書いており、それゆえ魔術だの霊感だのといった浮かれた言葉がしばしば出てくる、 というのが実際のところかも知れない。僕のような読みはいかにも誘われて出たものであり、彼の思惑どおりであったとするならば、本望と云うべきか。

 

 *

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  ジャン・シメオン・シャルダン『さいころ独楽に見入る宝石商ゴドフロワ氏の息子』(1738)

 

 ジャン・シメオン・シャルダンの描く子供たち。シャボン玉やさいころ独楽に魅入る彼らの心は、いかにも現実の場所には存在しないかのようだ。霊媒に導かれる心の旅、このような精神的体験よって、子供は通常の意味の学習では得られない、自然、世界、そして生命に対する感受性や洞察を育む。

 

 それは大人にはもはや必要ないものであろうか。確かに我々は、もはやシャボン玉や独楽に夢中になることはない。だがそれは子供のための霊媒が効果を失ってしまい、大人にふさわしい霊媒を見出してはいない、またそうしたくともそのやり方を忘れてしまった、あるいは端的に時間がないだけのことではないだろうか。

 

 ベンヤミンが語る書物とは、まさにそのような、霊感の源泉としての大人のためのしゃぼん玉でありさいころ独楽である。もし大人になってからそのようなものに出会えたならば——それは書物であってもなくても構わないのだが——とても幸運なことであると云えるだろう。

 

ヴァルター・ベンヤミン著作集 11 (11) 都市の肖像

ヴァルター・ベンヤミン著作集 11 (11) 都市の肖像

 

【ボツ供養】死を内包する音楽 アンビエント・ミュージック、とくに『MUSIC FOR AIRPORTS』について

 

 古代シュメールの住民たちは、死者の行く先を〈不帰の国〉と呼んでいた。

 シュメール語の文献には、この〈不帰の国〉は次のように描かれている。死者の吐息は生き延びがたく、どんよりとして、土気色、羽におおわれ、苦しげだ、まるで「洞窟に住む夜の鳥」のように。

 (パスカル・キニャール『音楽への憎しみ』)

 

 音楽、このかけがえのない無用物。月明りのような、束の間に頬を撫でる風のような、際限がなく掴みどころのない、人を魅きつけてやまぬ空虚な財貨。
 音楽は空腹を満たさない。音楽は溺れる子供を救わない。音楽はいかなる現実の困難も解決しない。音楽に鼓舞されてさまざまな困難を解決したとしても、それらはすべて我々の手が為したことである。そして、それは常に音楽なしでも可能だったかも知れないのだ。
 「たかが音楽、されど音楽」と誰かが嘯くとき、「されど音楽」とは一体何を指すのか。その問いに答えることは難しい。
 その問いに答えることは難しい。がおそらく、我々はかつて人の手による音楽 musica humana の原初的形態である大いなる自然の音楽 musica mundana と交信することによって、自らを絶えず自然のなかに定義(チューニング)し直す、そのような存在だったのだ。生来的志向性を失った、E・モランの云うところの《錯乱せる人》 Homo demens たる我々よりも、きょうび野生動物のほうが、そのことをよく心得ている。

 

 だが、その大いなる自然の音楽、言い換えれば環境とともにあることを目指した音楽がアンビエント・ミュージックである、と云ってしまうのはあまりに短絡な予定調和であり、ためらわれる。そうでなくとも、そういう発想は些かエコロジー的、ニューエイジ的すぎはしないだろうか。
 大いなる自然の音楽との切断が、われわれ文明人の神経症を悪化させている……チューニングを失った文明人は神経症に侵され、自殺や鬱病、差別やハラスメント、はては戦争や虐殺などという愚行に走る……などという臆面もないことはとても云えない。
 そんな臆面もないことはとても云えない。だがアンビエント・ミュージックにニューエイジ的要素がないと言ったらそれも嘘になるだろう。創始者のブライアン・イーノからして、シンセサイザーや東洋音楽への傾倒、従来の襟首掴んで聴かせるような音楽への反抗、とニューエイジ思想との類似点は随所に指摘できる。

 

 *

 

 ブライアン・イーノが七〇年代半ばにアンビエント・ミュージックのコンセプトを提唱したさい、彼はアンビエント・ミュージックを「静けさと考えるための空間を作り出す音楽」であり、「特定の聴き方を強制せず、さまざまな聴き方が共存することを可能とする音楽」であると述べた。そして七十年から八二年にかけて、「アンビエント」シリーズとして四枚のアルバムを発表する。

 

 ビリー・バーグマンおよびリチャード・ホーンは著書のなかで、アンビエント・ミュージックに対して手厳しい批評を述べている。まず、彼らは「座ってアンビエント・ミュージックを聴き、音と距離を置くことは、長く押しつけがましい時代のあとのポストモダンの世界にちょうど必要とされた淡泊さなのかもしれない」としつつも、最終的にアンビエントを次ように結論づける。

 

 アンビエント・ミュージックは、リスナーが聴きながら全く自由に考えを巡らせられるほど、ニュートラルであるわけではない。そのムードはたいへん独特で、ロックビデオ同様、たいへん狭い。たいていは、甘い悲しみか静けさへの耽溺といったところなのだ。
 (『実験的ポップ・ミュージックの軌跡』)

 

 アンビエントを聴きながら考える? そんなうまい具合には行きはしない。心地よいことは認めるにしても、まあ考えているというより耽っているだけさ……とつまるところ彼らは言う。
 他にも、当時アンビエント音楽にたいする賛否両論は激しいものであり、批判側にはバーグマン&ホーンに近い発言が見られる。マイケル・ブルームは「(『MUSIC FOR AIRPORTS』は)拡散した、だらしない聴かれ方を意図している」と苦言を呈し、ケン・エマーソンは「ある者にとっての涅槃は、他者にとっては居眠りに過ぎない」と述べている。
 だが、この議論は日本人としては少々首をかしげたくなるのではないだろうか。
 ここで対置されているのは「考える」ことと「耽溺すること」、あるいは「覚醒していること」と「ぼんやりしていること」である。前者が目標とされ、後者はその失敗の形態であるとされる。しかしその発想はあまりに西洋的ではないだろうか。まあ西洋的-東洋的という対置も単純ではあるのだが、我々の感覚からすると「考える」ことと「耽溺する」ことはそこまで明確に切り分けられるものではないし、どちらが良いとか悪いといったことも一概に言えない。
 したがって、これらの批判自体が、すでにイーノがアンビエントで目指しているものを捉え損ねているようにも見えるのである。

 

 では、イーノ自身は「考える」ということをどう捉えていたのか。
 これが、残念ながら僕にはよくわからない。今回、そのへんを探ろうとしてイーノのインタビューを幾つか読んだのが、いずれも掴みどころがなく(主観です)、そのような疑問に応えるような箇所は見つからなかった。しかし、彼のそうした「掴みどころのなさ」が、もう一度読めばなにかわかるのではないか、と繰り返しインタビューを読ませる結果にはなったので、そういうあたりはイーノの東洋的というか、飄々としたところなのかもしれない。

 

 *

 

 ともあれ、「アンビエント」シリーズのうち一枚目、つまり同ジャンル初のアルバムとなるのが(イーノ以前の音楽を遡ってアンビエント史に位置づける活動はされているが、それはともかく)『MUSIC FOR AIRPORTS』である。

 

youtu.be

 

 このアルバムは、タイトル通り空港でのBGMを想定しており、実際にニューヨーク・ラガーディア空港のマリン・ターミナルで一時期使われていた。いわゆるイージー・リスニング的なものではなく、むしろ不気味すれすれなほど寂寞とした雰囲気をもつ。どう感じるかは人それぞれだが、私は前後のアンビエント史を見渡してもかなり寂寞とした部類だと感じる(たとえばThe KLFの『Chill out』にはもっと能天気なものを感じる)。
 イーノはこのアルバムについて不穏な発言を残している。

 

 イーノはたとえ飛行機が墜落しても鳴り続けることが可能な音楽という条件を課し、結果的に死を内包した音楽であるという性格を帯びることになる。時間が止まったような音楽。
 (三田格監修『AMBIENT definitive 1958-2013』)

 

 死を内包した音楽。確かにその言い方は、このアルバムから匂い立つような不穏さをうまく言い表している。とはいえ、もちろん一聴して「ヒーリング・ミュージックのようだ」と思う人も多いだろう。だが果たしてそれだけなのか。
 日本においてヒーリング・ミュージックを含むいわゆる「癒し文化」をインテリ肌の人間が嘲笑する風潮、その原因、それに対する対抗言説について詳述するのは僕の能力に余る。私見では、平成不況後の一時期に「癒しブーム」があったことが関係しているのではないかと思う。その時期に「癒し」とともに占い、開運、風水といったスピリチュアル・ビジネスがひとしきり興隆をきわめ、また関連用語のインフレ―ションが起こった。そのことがインテリ肌の人間にとって「癒し文化」全般を嘲笑し、蔑む結果を招いたのだろう。
 その対抗言説といえば、小谷真理による次の発言が印象深い。

 

 小谷 癒し系がラディカルではない、という意見は、まったく理解できないけどね。癒されてなにがよくないのかもわからないわね。わたしにはそういう言い方そのものが「しょせん女こどもの傷のなめあいですからなぁ」という男のテクハラ風に聞こえる。わたしとしては「癒し系」そのものをさげずむ言い方にすでにして女性嫌悪的な匂いを感じる。そういう紋切型で安心して思考停止してはまずいのではないかな。癒しとは一番再構築と直結しているセクションだと思うし。
 (『網状言論F改』所収「ポストモダン・オタク・セクシュアリティ」)


 確かに、癒しにいかなるラディカリズムもないと決めてかかるよりは、癒しについてそのルーツ、可能性を突き詰めて検討するほうがずっとラディカルだろう。そうしたこともあって、僕は決して癒し文化を一段低いものとは見做していないのだが、それにしても『MUSIC FOR AIRPORTS』はヒーリング・ミュージックなのか。
 イーノはそういう聴き方を否定しない、という意味ではそうとも言える。だがこのアルバムはあきらかに癒しとは言えない、ある種の畏れや不安を喚起するところがある。あたかもジジェクが「仮想化しきれない残余」と呼んだような、いかなる象徴化からも取りこぼされた《猥雑な現実》が横たわっているかのように。

 

 *

 

 だが、ここでジジェク的に「《崇高なもの》は調和的な美しいものではなく、むしろ畏怖を掻き立てるようなグロテスクなものである」というような話で説明してしまいたくなる自分をぐっと堪え、もう少し考えてみたい。「癒し」であるかないか、あるいはそれ以上のものであるかといった二分法はこのさい、忘れよう。
 いわゆるヒーリング・ミュージックには「安心」だとか「くつろぎ」といったメッセージが込められる。それはビーダーマイヤー的な「生活の安泰」や「快適な家」という方向性を持っている。ブラームスやシューマンの室内楽的世界。死を忌避し、牧歌的風景で覆い隠した世界。だが『MUSIC FOR AIRPORTS』はむしろ死を内包し、死と同化しようとする。いわば「死」という究極の破滅ともにある癒しを志向しているとすれば。

 

 死とは人為を失うこと、意図を離れすべてを自然に委ねることでもある。
 エリック・タムが『ブライアン・イーノ』で仔細に述べている、『MUSIC FOR AIRPORTS』の2曲目のトラックである「2/1」についての、またその前後の時期の曲の分析によれば、アンビエントのジャンルの構想において、イーノはジョン・ケージらの「偶然性の音楽」の影響を強く受けており、音楽からなるべく人為を取り除こうとしている。
 またイーノは八五年のインタビューのなかで次のように述べている。

 

 一九六〇年代の初めにラ・モンテ・ヤングが、非常に長いドローンを持続する音楽的な環境によって実験を始めました。彼には、〈夢の家〉と呼ばれるものがあります。それは、幾つかの単音を反復する一連の発振器です。それらは最新の注意を払って組み立てられた発振器だったので、音が揺れることは全くなく、何ヶ月もの間、可能な限り一定だったのです。この奇妙な仕掛けは、実際何ヶ月も作動しました。それこそ、今の私が共鳴している考えだったのです。つまり、そこに入ったり、しばらく留まったり、再びでて行ったり、そんな音楽作品(a piece of music)だったのです。〈ミュージック・フォー・エアポート〉が意図していたことは、まさにそれでした。
 (『現代思想 特集=Contemporary Music』所収「エレクトロニックな環境への回遊」)

 

 死を内包する音楽、偶然性の音楽、〈夢の家〉……それらはいずれも、音楽を、人の手から解放しようとする試みである。これは冒頭で述べた大いなる自然の音楽 musica mundana 立ち返ろうとする方向性でもあると言えるだろう。

 

 あるいはこうしたことも、すでにさんざん言われてきたことかも知れない。少し言葉は違うにしても、おそらくそんなことを云っている評論家はいるだろう。私はこの音楽を、そして音楽を取りまく言説を、自分だけのためものであるとも、自分だけのものにしたいとも思わない。おそらく、すべてはすでに言われているし、体験されていることなのだ。
 自分を捨ててゆきたい。音楽を聴く時に人が求めるものはさまざまだが、アンビエント・ミュージックは僕にとって、自分という荷物を降ろさせてくれるものであり続けてほしい。

 

AMBIENT1/MUSIC FOR AIRPOR

AMBIENT1/MUSIC FOR AIRPOR

実験的ポップ・ミュージックの軌跡―その起源から’80年代の最前線まで

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ブライアン・イーノ

ブライアン・イーノ