やすだ 😺びょうたろうのブログ(仮)

安田鋲太郎(ツイッターアカウント@visco110)のブログです。ブログ名考案中。

インターネットポルノ中毒と新世紀のヒューマニズム

 

 洪水のように快楽が与えられている、と70年代生まれの僕には形容したくなる。

 YouTube、ネットフリックス、オンラインポルノ……そうした様々な無料あるいはサブスクリプション・サービスに加え、その気になればスマホひとつで始められるマネーゲーム、あるいはソシャゲー、同じくスマホ一つですぐに届くピザやマクドナルド、24時間どこでも安価で手に入るアルコール、すぐに他人と繋がれるSNS。

 

 脅威的な娯楽の増大に僕もすっかり慣れてしまった。それらは本物の洪水のように際限なく、人を押し流す。といっても、それらを(「依存症ビジネス」への警鐘には同意するにしても)根底から否定したいわけではない。

 IT技術が人の生活に与えた変化については、三つの立場があるとされている。いわゆるテクノ礼賛者、その対極にあるネオラッダイト(IT技術は原則的に人間疎外であると考え、それ以前の生活へ回帰しようとする)、そしてその中間であるテクノリアリストだ。

 

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 (Tech pioneers and the neo-Luddite revolution | Roland Bergerより)

 

 テクノリアリストはIT技術がもたらした変化を基本的には肯定的なものと捉えるが、全面的に礼賛するのではなくさまざまな副作用、弊害、人間疎外にも目を向ける。前二者と比べて折衷的な立場であり、僕もそれに属する。ただしスペクトラムで言うと僕はテクノ礼賛者寄りである。
 なにしろ僕はサイバーグノーシス主義にもかなり肯定的であるし(下記参照)、オンラインの様々なサービスのおかげで生活が向上したという実感が強いからだ。みなさんはどうだろうか。

 

visco110.hatenablog.com

 

 *

 

 こうした問題についてちょっと考えてみたくなったのは、デイミアン・トンプソンの『依存症ビジネス』のなかに次のような一節があったからだ。
 トンプソンは、ポルノに影響された彼氏の期待のためにプレッシャーをかけられている、といった英国女性の悩み(豊胸手術をしたり、ブラジリアンワックス脱毛を試みたりするも、ますますニーズについて行くのは難しくなりつつある)について次のように述べている。

 

 自分をデジタル化できない女性たちには、ポルノに夢中になったパートナーのニーズを満足させる方法などないのだ。
 なぜかって? はっきり言うと、彼女たちのボーイフレンドは、もう人間とセックスしたいとは思っていないからだ。彼らの脳は、幻想に条件づけされてしまっている。人間とのセックスはもはや、パソコンの前でやるマスターベーションとオーガズムがもたらすようなドーパミンとエンドルフィンをもたらしてはくれない。男性にとっても女性にとっても、これこそ、インターネットポルノ依存の必然的な結末だ。
 (デイミアン・トンプソン『依存症ビジネス』、以下太字は安田による)

 

 だがここで、一つの疑問が首をもたげる。「だったら無理して付き合わなくてもよいのでは?」という疑問だ。
 彼氏に変化を求める――「インターネットポルノ中毒を抜け出すべき」だというのがデイミアン・トンプソンやゲーリー・ウィルソンの処方箋だ――よりも、さっさと別れてポルノ中毒ではない男と付き合うか、性愛は別のところで調達するよう交渉するか、いずれにせよ過渡期の難しさはあるかも知れないが、「性的なパートナーシップと精神的なパートナーシップは同一の相手に求めなければならない」という社会通念(少なくともトンプソンの住むイギリスや僕の住む日本にはそうした通念はある)のほうを変えてゆけばいいのではないか、と思えるからだ。

 

 そもそも「人には親密なパートナーが不可欠だ」というのはイデオロギーにすぎない。現実に独身の人間は山ほどいるし、セックスレスでありながら関係の安定した夫婦も幾らでもいる。そもそも性欲あるいは精神的繋がりを持ちたいという欲じたいが希薄な人もいる。いったい誰が、彼ら彼女らのライフスタイルを否定することが出来るだろう? まして当人が満足しているならばなおさらだ。
 端的に言うと、僕にはインターネットポルノ中毒の男性がそのままではいけない理由が見当たらないのである。
 ゲーリー・ウィルソンはインターネットポルノ中毒の症候として、勃起不全や早漏、不安、集中力低下、鬱などを挙げているが、そもそも前二者はパートナーとの性的関係を前提とした「不都合」にすぎないし、それ以外にしても、規範から外れていることで疎外感を感じたり、いらぬむなしさや罪悪感に苛まれるといった要素を除くとどの程度精神的に害があるかは未知数だ。よしんば精神衛生上良からぬものがあるとしても、しょせんはアルコールやギャンブルと同じように愚行権の一種とも思える……もちろん「治療」したい人がするのも自由だけれど。

 

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(6 Best Apps To Overcome Porn Addiction - Android and iOS -より)

 

 最終的な大義名分としては少子化問題くらいではないかと思う。しかしそれも、言ってみれば社会側の都合である。政策的に出産・子育てを支援することにはむしろ大賛成だが、それはあくまで環境を整備することによって出産への誘因を増大させようという話であって、「結婚して子供を産まねばならない」というように個人の価値観に踏み込むべきではない。

 

 *

 

 というか、当記事で考察したいのはそういう社会の話ではなく、むしろ「現実に目を向ける」ことはなぜ必要なのかといったことだ(その「現実」には少子化問題が含まれるかも知れないが)。

 さきほどのデイミアン・トンプソンの書きっぷりを見て反射的に思ったのはこういうことだ――現実のセックスよりもインターネットポルノのほうがドーパミンとエンドルフィンを放出させるってことは、脳が現実のセックスよりも満足しているってことじゃないのか?


 素人の蛮勇を振るってざっくり言えば、快楽物質は生存-生殖機会を増大させる場面に遭遇したときに放出される。ドーパミンは機会に対して、エンドルフィンは満足に対して。つまりセックス出来そうな時にはドーパミンが、セックス後にはエンドルフィンが放出されるというわけだ(これは性欲に限った話ではなく、食物や財貨や仲間に対しても基本的には同じである)。

 しかしこれは進化論的時間単位の話なので、脳は現実のセックスとポルノのそれを完全には区別できない。前回のブログで紹介したエリエザー・J・スタンバーグの知識を借りれば、おそらく前頭前野がそれを区別する役割を果たしているのだが、感覚器官やその伝導路自体は本物かどうかを判断してはいない。そして前頭前野も常にベストのパフォーマンスを発揮しているわけでもない。

 それゆえにポルノを観たところで生殖機会はこれっぽっちも増大していないにもかかわらず、いわば脳が騙されて一定の快楽物質が放出される。そして、どうやら近年のポルノメディアの飛躍的進歩によって快楽物質の分泌量が現実のセックスを上回ってしまったらしいのである。


 とりわけドーパミンとインターネットポルノはひじょうに相性がよい。お気に入りの動画や画像を漁る行為は狩猟本能を刺激することはよく指摘される。そうしたメカニズムについては以前ブログにやや詳しく書いたことがある(下記参照)。

 

visco110.hatenablog.com

 

 また、この記事では触れなかったが、ゲーリー・ウィルソンはドーパミンとインターネットポルノの関係について次のように述べている。

 

 ドーパミンは目新しいもので急増する。新しい車、新作映画、最新デバイス……みんなドーパミンを求める。ドーパミンが急落するとワクワク感も消える。
 (中略)
 インターネットポルノは特に魅惑的だ。ワンクリックでいつも目新しいものが出てくるからだ。新しい「相手」かもしれない。見慣れない場面、変な性行為、あるいは――好きなモノを想像してほしい。人気あるポルノチューブサイトは、何十ものちがったビデオやジャンルをあらゆるページに表示している。そして人を、無尽蔵の性的目新しさで圧倒する。
 タブをいくつも開き、何時間もクリックを続けると、狩猟採集民だったご先祖が生涯かかっても体験できなかったほどの新しいセックスパートナーを、十分ごとに「体験」できる。
 (ゲーリー・ウィルソン『インターネットポルノ中毒』)

 

 「もちろん現実はちがう」とウィルソンは続ける。宝の山に思えるものは、じっさいは画面を眺めていただけにすぎず、どこか別のところにあるものを追いかけていただけなのだ、と。

 確かにそれは現実ではない。だがなぜ「現実」でなければならないのか? バーチャルなセックスでは子供が生まれないからなのか?
 "お説教"は僕の心には響かない。言ってみれば我々はみんなクィアなのであって、インターネットポルノ中毒もクィアである。そしてクィアであることはノー・フューチャーである(いわゆるアンチソーシャル・セオリーというやつ。カッコイイ言い草ですよね)。
 繰り返しになるが少子化問題は社会設計でなんとかするべき話であって一人一人のモラルに訴えるような話ではない。

 

 話を進めよう。したがって我々はなぜ「脳汁がたくさん出ることをするだけの動物」であってはならないのか? ということについて、"お説教"ではない批判があれば耳を傾けたいのである。そこでマルクス・ガブリエルの「神経中心主義」批判について見てゆきたい。

 

 *

 

 マルクス・ガブリエルが強く批判する「神経中心主義」は「私」は脳であるという考え方であり、そう考えることによって外界もまた、現実そのものというよりは脳がそのように認識したものであるとする。マルガブは「そうなると、私たちの精神が働く生活のすべては一種の幻想か幻覚であるということになってしまいます」と述べている。

 この考えを演繹すると、自ずと現実とバーチャルの価値の序列はなくなると僕には思われる。

 インターネットポルノ中毒をめぐるさきほどの話は、まさに神経中心主義の問題である。ようは「脳が現実以上の快楽物質を分泌するのなら、それは現実以上に価値あるものである」というテーゼが、神経中心主義からは自ずと導かれるのではないか。
 なお、本当はマルガブは「神経中心主義」「神経構築主義」などの言葉を微妙に使い分けているが、当記事では「神経中心主義」で統一するのでご了解されたい。また、このへんの話はもちろん『マトリックス』のサイファー問題とも深い関係があるが、その話はあまりに頻出するので今回はパスする。れいの水槽の脳の画像もパスする。漫画『ルサンチマン』も大いに関係あるがパスする。

 

 これはインターネットポルノに限った話ではなく、たとえばネットフリックスのビンジウォッチング(何話も続けて視聴すること)やソーシャルゲーム、冒頭で挙げた依存症ビジネス全般についても言えることだが、神経中心主義の立場を採るならば、現実とは脳がそのように感じるものなのであって、外部によって規定されるものではなくなる。つまり脳汁が出る以上の客観的価値はこの世界には存在しないことになるのだ。
 私見ではこの立場を取るならば、愛情だとか信頼だとか使命感といったより「人間的」な感情も、仕込みから脳汁が出るまでの期間が長期的かつ継続的な快楽追求活動として理解されるのであって、決してそれらの感情が否定されるわけではない。一元論とはこのようにすべてを単一の原理で語ろうとする思想であって、多かれ少なかれ「ものは言いよう」に帰してしまう話ではあるが、決して特定の価値観にそぐわぬものを排除する思想ではない。

 

 そう考えることは、なんと楽なことだろう! 結局のところ我々は明日以降も社会生活を営むであろうし、そのなかで複雑な関係に巻き込まれ、複雑な感情を抱き、複雑な行為をするであろう。つまりいきなり文字通りの「脳汁を垂れ流す動物」になるとは思われないのだが、こうした思想を抱くことでとても気分が軽くなることは確かだ。

 

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 (『花のズボラ飯』より)

 

 マルクス・ガブリエルは、そのような神経中心主義のカタルシスを鋭く言い当てている。 

 

 私は、その背後には解放幻想が潜んでいると考えます。自分が自由であること、そして他者もまた自由であることを直視するのは、とてもしんどい。できることなら誰かに決定を委ねたい、人生が[できることなら]楽しい映画のように内なる心の目の上で上映されてくれたらと思う。
 (マルクス・ガブリエル『「私」は脳ではない』)

 

 ところが、どうも哲学的にはあれこれ言っているけれど――たとえば神経中心主義者はなぜいま見えている世界が「世界そのものというよりも脳がそのように認識したもの」であるとわかるのか、つまり世界じたいについて脳が認識する以上の何かを知っていなければそのような主張は出来ないはずではないか、といったような――結局のところ、マルガブが神経中心主義を批判するのは「まだまだこの世界には人間的な生活を送れない人たちがいて、彼らを見捨ててはならない」(大意)というような、それ自体はもっともだけれど所謂"お説教"なのではないかと思えてくるのである。

 実際に脳汁を垂れ流す動物として生きていて、何か犯罪をおかしたり、社会生活に支障をきたすのでなければ「そういう生き方はいかがなものか」と思想レベルで言うことは出来ても、けっきょく人それぞれの価値観ですわな、という話になってしまうのではないか。
 正直なところ、マルガブのそういう「いいこと言ってるんだろうけれどそそられない」、校長先生的な感じが、いまいち精読する気にならなくて困っている。よって理解が深まったらまた何か書くかもしれない。

 

 *

 

 ノ―レン・ガーツにしてもそうだ。彼の『ニヒリズムとテクノロジー』はインターネットポルノについて直接論じてはいないが、第四章「ニヒリズムと「催眠」テクノロジー」はテレビやYouTubeやネットフリックスについて、自分を催眠にかけ(ぼおっとさせ)現実から目を背けさせるものとして描いている。そしてやはり「それのどこが悪いの?」と問いたくなるのである。

 

 私たちがスクリーンを好きな理由があるとすれば、それはまさしくゾンビ化効果だろう。仕事に対して、子どもに対して、政治の指導者に対して、何かの理由で私たちは疲れているのだ。だからテレビの前で何時間か、自らの手で獲得した特権としてぼんやりとする。言い換えると、テレビを見るのは現実逃避だと私たちは知っている。そしてまさに、それこそがテレビを好む理由なのだ。
 (中略)
 ようするに、実際は幸せでなくても、とりあえず楽しいし、満足できるということだ。
 (ノーレン・ガーツ『ニヒリズムとテクノロジー』)

 

 政治・社会について一定の意識を持つのは確かに必要かも知れない。全員が政治・社会に無関心になったらおそらくはかなり悲惨な世の中になってしまうだろう。そうなったら脳汁を垂れ流すインフラさえ奪われるわけだし、別に「遠い国の人々の生活のことなんかどうでもいい」と思っているわけでもないのだ。当然。
 その点はわかるにしても、「脳汁を垂れ流す動物としてではない人間らしい生き方」なるものは哲学者の頭の中にしか存在しない……というのが言い過ぎなら、そういうのはヒューマニズムの伝統に則った思考であって、大衆にはそんな高尚なものはインストールされていないし、インストールするキャパもあるかどうか怪しいもんですよ、とは言いたくなる。もちろん大衆の一員として。

 

 *

 

 しかし、こういうブログを書くということ自体が、どこかしら「脳汁を垂れ流す動物」になってしまうのはマズイのではないか、という感覚を持っているからではある。
 ふとスマホやPCのモニターから目を上げて部屋を見わたす。窓を開けて外を見る。「現実ねえ……どうなんだろうねえ」と冬の寒空に呟いてみる。


 わかるよ、というか知ってるんだよ。「脳汁を垂れ流す動物」ではいけないことは。

 でも、もうちょっとそれを、うまい具合に言葉で納得させて欲しいんだよ。そうじゃないと、疲れた僕の心には響かないよ、今日もAV観て酒飲んでスペースで喋って寝ちゃうよ、もう少し頑張ってよ、と言いたいのである。
 まあ、もうちょっと僕も勉強します(続く、かもしれない)

 

 

 

ボードゲームで闇堕ちするって何のこと?

 

 雨宮純氏の『あなたを陰謀論者にする言葉』のなかで、一見無害に見える「ボードゲーム」が、じつは闇落ちのきっかけとなるというさわりを見て気になり、すぐに注文した。

 いきなり余談だがこの本は新書なのに381頁もあって、標準的な枚数を大きく上回っているのは著者のパワーなり編集者の意気込みなりとにかく「何か」があるに違いないという読書歴30年の直感も即ポチに影響したことは間違いない。そして届いてみたら、これは入門書を包括する「メタ入門書」みたいなものであった。通常なら一章が一冊の入門書になるところであろう(「ヒッピーの時代」とか「ニューソートとは何か」とか「マルチ商法に騙されるな!」とか)。ところが著者はそれをぜんぶ一冊にぶち込む。当然ながらかなり薄く広い感じになっているのだが、「薄い」といっても敢えてやっていることで、一つ一つのトピックを詳細に取り上げるよりもそれらの繋がりを描いて全体の相関図を示そうという狙いなのだ。これはこれでアリだと思いましたね。

 

 さて届いてさっそく読んだところ、つまりある種のボードゲームがマルチ商法の勧誘に利用されているという話であった。それは、言ってみれば「自己啓発系ボードゲーム」とでも呼ぶべきシロモノで、代表的なのはあの『金持ち父さん貧乏父さん』をゲーム化した、「キャッシュフロー101」というゲームなのだそうだ。

 

キャッシュフロー 101 (日本語版)

キャッシュフロー 101 (日本語版)

  • マイクロマガジン(Micro Magazine)
Amazon

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amazon.co.jpより。別におすすめはしません。

 

 内容はぱっと見てだいたい察せられる通り、内側の「ラットレース」と呼ばれる雇われの状態から抜け出す(不労所得が総支出を越える)と外側の「ファーストトラック」という、不労所得がさらに増加し自由時間が謳歌できるというイヤミなゲームで、「雇われてるうちは収入にも自由時間にも限界があるので経営者か投資家になってウハウハしよう」(大意)という、ロバート・キヨサキの深遠な思想でありかつ宇宙の絶対的真理が体現されている。

 

 そんなわけで、このゲームをプレイしているうちに自ずと「雇われるのダリィ、俺もいっちょ不労所得ゲットすっか」という気運が高まってくるのである。

 そもそも『金持ち父さん貧乏父さん』を読んでる奴にもそういう賃労働者を見下す、鼻持ちならない傾向があった。ただこんな本やゲームで感心するのは無能なくせにプライドだけはやたら高いバカ(だいたい長男)ばかりなので、まともな起業や投資を始めることなど出来るはずもない。そこでマルチ商品の出番というわけだ。

 かくして「キャッシュフロー101」やその種のゲーム(他にスティーブン・コヴィーの『7つの習慣』を元にした「7つの習慣ボードゲーム」、ナポレオン・ヒルの『思考は現実化する』を元にした「アチーバス」などがあるらしい)は、たいていのボドゲカフェで持ち込み禁止になっているし、ネットの情報によれば、マルチの勧誘目的であることを伏せてこういったゲームをする会に誘われたりもするらしい。

 

togetter.com

 

tgiw.info

 

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 ブログのためにあらためて確認したのだが、『金持ち父さん貧乏父さん』は冒頭からしてシャロン・レクターという序文を寄せた人がロバート・キヨサキの開発したゲームを大学生の娘と一緒に遊んでどうしたこうしたという話が出てくるし、巻末にもしっかり「キャッシュフロー101」の宣伝ページが載っていて、そもそも本とボードゲームは切っても切り離せない関係にあるようだった。そしてそこにはロバート・キヨサキ自身によるこんな言葉が添えられていた。

 

 これから先、まだいくつもの大きな経済的変化が起こるでしょう。だからこそ、この『キャッシュフロー101』は一家に一つ、かならず必要な教材なのです。このボードゲームを、楽しみながら短期間で学ぶMBAプログラムだと考えてみてください。一ヶ月に一度テレビを消して、年齢に関係なく友達や家族と『キャッシュフロー101』をやってみてください。将来のしあわせと経済的安定のために、これほど割のいい投資はありません。

 (ロバート・キヨサキ『金持ち父さん貧乏父さん』、太字は安田による)

 

 *

 

 また安田均『ゲームを斬る』(2006)で「キャッシュフロー101」がレビューされているが、当時のボードゲームは大体3000~6000円、たまに1万くらいの豪華なものがあり、これは日本にあまりボードゲームが普及していないのでドイツなどに比べて高いほうなのだそうだが、そのなかで「キャッシュフロー101」は180ドル(約2万円)と格段に高い。ただ、つくりは確かに豪華でカセットテープなども何本か付随しており、コストとして一万円くらいなら納得いくという意味のことを安田均は書いている。

 安田によると、このゲームでは借金をして株や投資信託、不動産、事業投資などの不労所得源を手に入れ、ある時ドカンと利益が出たらそれらの一部を売り払って借金を清算することによってラットレース(無駄なあがき)を抜け出すことができる。またこのゲームには手元資金はあっても貯金という概念はなく、その代りに(?)借金はひじょうに楽で、ほとんど無尽蔵に銀行がばんばか貸してくれるらしい。

 ちょっと穿った見方をすれば、「サラ金でカネを借りてでも商材(不労所得源?)を仕入れようぜ!」というたいへんマルチと相性のいい内容になっている。まあ金持ち父さんがそこまで狙っていたとまでは言わないけれど。

 まあいずれにしても、安田均はレビューの冒頭ではこのゲームを「あからさまに怪しい(笑)」と書いており、本についても「後半は主張に繰り返しが多く、結局、不労所得で暮せるようになれと言ってるようなものだ」と的確に醒めたコメントをしているが、やってみて本当に面白かったのか、あるいは連載のお約束なのかはわからないが、最後にはわりと好意的に

 

 作者もおそらくボードゲームが好きだと、よくわかる作品。ぼくにとっては、本よりもおもしろかった。

 (安田均『ゲームを斬る』)

 

 と〆ている。果たしてどのていど本音なのかはわからない。

 

 *

 

 さて最後に、読者諸氏は「キルタイムコミュニケーション」という出版社があるのをご存じだろうか。

 『コミックアンリアル』や『二次元ドリームマガジン』というかなり攻めたポルノ雑誌、はたまた『コミックヴァルキリー』という戦闘美少女専門マンガ雑誌(現在はウェブに移行。代表的な連載は林達永/金光鉉 『フリージング』など)を刊行している、一部で有名な出版社なのだがこの出版社とロバート・キヨサキの関係について、とある噂がある。

 あくまで未確認情報として読んでほしいのだが、とにかくこんな噂だ(以下wikipediaから引用)

 

 キルタイムコミュニケーションの公式サイトでは関連会社として「株式会社マイクロハウス」および「マイクロマガジン社」が明記されているが、マイクロマガジン社の公式サイトでは関連会社として「株式会社マイクロハウス」のみ記載でキルタイムコミュニケーションの記載はない。 また、マイクロハウスおよびマイクログループのサイトでも、関連会社として紹介されていない。

 手がける出版物が、ゲーム・パソコン・その他一般の出版物からアダルト中心へと移っていった理由として、マイクロマガジン社によるロバート・キヨサキの考案の教育ボードゲーム『キャッシュフロー101』日本語版の版権取得が考えられる。つまり、キャッシュフローゲームを取り扱えなくなるリスクを減らすために、キルタイムをマイクログループのアダルト部門とした上で、関係をなるべく表に出さないようにしたというものである。[要出典]

 

 あくまで[要出典]レベルの話ではあるが、これが本当だとするとようするにマイクロハウスが『キャッシュフロー101』を出迎えるためにいかがわしい部分を「キルタイムコミュニケーション」に隔離したという、まるでオリンピックを開催するために風俗店やホームレスが追っ払われ「清浄化」された、みたいな話なのである。

 光と闇は決して交わらぬというか。そこでなんとなく、「だったら俺はキャッシュフロー側じゃなくポルノ側につく!」みたいなことを思ったりするのである。思わず「いかがわしい」と書いてしまったが大体、そういう「いかがわしさ」とああいう「いかがわしさ」のどっちがいいかと言ったら、そういう「いかがわしさ」のほうが、つまりえーとですね、今回のブログの結論と絡めて言いたいことはこういうことだ。

 不労所得とかどうでもいいからエロいコンテンツで脳汁出そうぜ!!!!!

 あ、言ってしまった……まあそんなわけです。

 

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『コミックヴァルキリー』。なお『コミックアンリアル』や『二次元ドリームマガジン』は、表紙をここに載せるのも憚らる感じなので、興味のある方は各自お調べください。

 

 いや不労所得できれば欲しいけど。不労所得で楽してる人がいないとも言わないけれど。しかしそういうのは才覚と努力と根気と運と資金のうち最低三つくらいが必要な話なわけで、慌てて目先のものに飛びついて、怪しげな儲け話の餌食になってしまうくらいならブヒってたほうがマシなわけです。

 さてそんなわけで話を終わります。ではまた(・ω・)ノ

 

 

 

 なお『金持ち父さん貧乏父さん』は現在では新版が刊行されている模様。本文で参照した(ボードゲームの宣伝が載っていた)のがこちらなのでこちらのリンクを貼っておきます。

『人はなぜ宇宙人に誘拐されるのか?』をなぜ勧めるのか

 

 ✨🍊🎍明けましておめでとうございます。安田鋲太郎です(・ω・)ノシ🎍🐅✨

 

 新年一発目はエリエザー・J・スタンバーグの『人はなぜ宇宙人に誘拐されるのか?』(原著2015/邦訳2017)という本を紹介します。

 というのもこの本、去年読んだなかで総合的に見て一番良かったんじゃないかと思うんですね(次点は立花隆の『中革VS革マル』)。何人か友人に勧める機会もあったけれどおおむね好評でした。

 そんなわけで、なにがそんなに良かったのかを述べてゆきます。

 

 Kindle UInlimitedだと現在無料で読めるらしく、勧めた友人はみんなそちらで読んでました。時代ですね。

 

 さてこの本は、脳科学の最新の成果をわかりやすい文章で紹介した科学ノンフィクションということになります。

 まあ最新といっても、何月にどこそこの学会誌で発表された論文によると――みたいな「最新」ではなく、もう少し長いスパンで定説かそれに近い地位を獲得しつつある研究を扱っており、一般読者にはそのくらいが丁度よいかと。あまり生き馬の目を抜くような情報を追いかけても次の年には「やっぱり違ってました」なんてことになると困るので。したがって刊行から数年経ってますが、そこはあまりマイナス要素にはならないと思います。

 さて目次を見てみましょう。

 

 序文 目の見えない人は夢で何を”見る”のか?


 第1章 ルーク・スカイウォーカーは側頭葉に住んでいる

 ―知覚、夢、外界の創造


 第2章 ゾンビは車で通勤できるのか?

 ―習慣、自制、人間の無意識的行為の可能性


 第3章 タイガー・ウッズは頭の中でボールを打っている

 ―運動制御、学習、メンタル・シミュレーションの力


 第4章 起きていないことを思いだすことができるのか?

 ―記憶、感情、自己中心的な脳


 第5章 人はなぜ宇宙人に誘拐されるのか?

 ―超常的な体験、物語、奇妙な信念の発達の検証


 第6章 統合失調症患者にはなぜ声が聞こえるのか?

 ―言語、幻覚、自己と非自己の識別


 第7章 催眠術で人を殺させることはできるのか?

 ―注意、影響、潜在意識への暗示の力


 第8章 "もうひとりの自分"の眼鏡を共用できないのはなぜか?

 ―人格、トラウマ、自我の防衛機制について

 

 まず最初に述べておきたいのは、目次に書かれているようなテーマに関心のある人にとって、これまで他で得てきた未完成のジグソーパズルのような知識が「なるほどそういうことだったのか」と最後のピースが嵌るように納得がゆくんですね。少なくとも僕にとってはそういう箇所が非常に多かった。

 

 たとえば序文と第1章では脳と視覚の関係が扱われますが、「夢を観るときになぜ目をつぶっているのに頭に映像が浮かぶのか」、しかも「なぜ実際にその場にいるような臨場感があるのか」という疑問について、それはレム睡眠期には目からではなく脳幹から信号が届くからである(大意)と説明しています。

 視床は「単なる配電盤」(J・A・ホブソン)のようなもので、目から受け取った信号を視覚野に送り、視覚野がそれを解釈する。そのさいにその信号がどこから来たものなのかを視床は判断しない。したがって、べつに目からでなくとも「脳幹のランダムなニューロン発火」が一定の映像、ばかりでなく状況の解釈をもつくり出すという。

 

 ……これだけでも充分に興味深い話ですが、一部の読書家にとっては、ゲンロンが2019年に刊行した石田英敬×東浩紀『新記号論』の中にきわめて近い話が出てくることに思い当たるんですね。

 『新記号論』のなかで石田は、初期フロイトの精緻な読み返しを披露し、驚くべきことに、スタンバーグの言うような21世紀の脳科学による夢のメカニズムとほとんど同じ理解にフロイトが辿り着いていたことを示しています。

 フロイト-石田によると、夢という現象は覚醒時には感覚末端から前意識に向けて流れる興奮が、睡眠時において感覚末端へと逆流を起こすもの(大意)であるとされるんですが、「感覚末端」とはようするに目のことで、「前意識」を司るのが視床および視床野、そしてその「興奮」とは信号(ニューロンの発火)をもたらす作用のことである――というように順当に今日の神経科学的語彙に置き換えれば、ここで述べられていることはスタンバーグの本とほぼ同じなわけです。

 

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 『新記号論』(2019)より。

 

 あれ? いままで夢について長年いろいろ読んできたのはなんだったんだろうな、というくらい明晰かつ簡潔な話で困惑するほどですが、ホブソンのいう「脳幹のランダムなニューロン発火」という、この「ランダム」が本当にランダムなのか、そこに色々と精神の働きがあるのじゃないか、というような方向性で考察を深めて行ったのが『夢判断』以降のフロイトであり、そのベースとして当時としては驚異的に正確な夢のメカニズムへの理解があったことは、あたらおろそかにフロイトを語る前にぜひとも踏まえておきたい話ですね。

 

 しかし! 仮にこのテーマに関する部分だけで見た場合、スタンバーグか『新記号論』のどちらか一冊しか読めないとしたらどうするか。

 フロイトの、世界的に埋もれていた事実(どう埋もれていたかは『新記号論』を読まれたし)を掘り起こした石田の労には物凄いものがあるが、詳しさと新らしさからくる使い勝手の良さで言うと、スタンバーグのほうに軍配が上がるのではないでしょうか。

 なお僕もスタンバーグを読む以前に、『新記号論』およびその他の知見を借りて夢の視覚的システムについてがんばって書いた記事があるにはあるけれど(下記)、スタンバーグを読んだ後ではいかにも痒いところに手が届いていない感が否めない。

 

visco110.hatenablog.com

 

 *

 

 このように『人はなぜ宇宙人に誘拐されるのか?』は、これまでに得ていた知識と相乗効果でビビっとくる箇所が多い。しかもたいていは他のソースよりも明確な結論を呈示しています。

 

 2章と3章では習慣や無意識的行動が扱われ、そのなかでアスリートや楽器演奏者にとってのイメージトレーニングの話が出てきますが、これも僕の知るかぎりではスティーブン・ジョンソン『ダメなものは、タメになる』(2006)やニコラス・G・カー『ウェブに夢見るバカ』(2016)のなかで触れられていたテーマです。これもニュアンスが多少違うので読み比べると面白い。

 スティーブン・ジョンソンは、アスリートや楽器演奏者ではなくゲーム(=ダメなもの)を採り上げ、ゲームをすることによって視覚的注意力や空間・時間分解能が高まるといった効用(=ためになる)を紹介しており、いっぽうニコラス・G・カーはジョンソンについての紹介もしているし、それとは別に読書のさいの神経の作用について述べています。次の箇所は以前に書いたブログからの引用ですが、

 

 カーはセントルイス・ワシントン大学の研究を紹介し、物語を読んでいる人たちを脳スキャンした結果、読者は物語内の状況に即した部位の神経細胞を活性化させていることがわかったという。そしてそれは現実で同様の活動を行ったり、想像・観察するさいの活性化と酷似していた。

 

 たとえば、物語の登場人物が鉛筆を机に置くと、脳内の動きをコントロールするニューロンが読者の脳内で発火する。ドアから部屋に入る場面では、空間認識をつかさどる脳の部分に電気信号が送られはじめる。
 (ニコラス・G・カー『ウェブに夢見るバカ』)

 

visco110.hatenablog.com

 

 ……というように、インドア原理主義である僕は本を読んだりゲームすることが、少なくとも「神経細胞への作用」という観点からは現実とは決定的に違うとは言えないのではないか、さらにはなんならAVを観るのも、実際のセックスと完全に違うとはいえないのではないか? というような方向に非常にワクワクしたので、思わずブログ記事を一つ書いたことがあったわけですね(ただしこの論点については目下、マルクス・ガブリエルによる批判がかなりの影響力を持っており、それについては後述します)。

 その問いかけにしても、スタンバーグがずばり「なぜ、他人のセックスで興奮できるのか?」という第3章の一節でミラーニューロン理論を用いて説明を試みている。ようするに感情移入すると、他人のセックスや怪我を見ていても、自分がそうなった時と同じような脳の部位が反応し、筋肉が緊張反応を示したり脈拍が上がったりするらしいんです。

 またもやスタンバーグの本が類書のなかで最も痒い所に手が届き、しかも暫定的な結論として受け入れてよいところまで話を到達させていたわけです(けっして推薦する文章だから言っているわけではなく)。

  とはいえスティーブン・ジョンソン『ダメなものは、タメになる』もニコラス・G・カー『ウェブに夢見るバカ』もかなりお勧めできる本で、前者はゲームやドラマなどの大衆文化が『イーリアス』やシェイクスピアとはまた違った意味でひじょうに奥深く、思考や認知能力の向上にとって色々と有益であることを論じたもので、それについては別の記事に書いたことがあります(下記)。後者はアメリカの有名ブログの書籍化で、とにかくデジタルテクノロジーについて簡潔で鋭い批評が読みたかったらまずはこれ、というようなテクストを堪能できます。

 

visco110.hatenablog.com

 

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 タイトルから言うとこのあたりが本書のキモになる、4章、5章も同様。

 ここで扱われている「起きていないことを思い出す」問題の背景として外せないのが、ジュディス・ハーマンらによる記憶回復運動、そしてそれに対抗するかたちで出てきた、エリザベス・ロフタスらの偽記憶症候群についての研究です。

 ハーマンらの提唱する記憶回復セラピーによって甦った過去の記憶――多くは父親による性的虐待など――はアメリカ社会で多数の訴訟を引き起こし、80年代から90年代にかけてのアメリカ社会を大混乱に陥れたとされています。「催眠療法に基づく告発は果たして信頼に足るものなのか?」ということをめぐり、ハーマンとロフタスは激しい批判の応酬を交わしました(なにせ多数の被告の命運がかかっていたので)。

 本書で扱われているスーザン・ネイソン殺人事件も、自らの父親をネイソン殺しの犯人として告発したアイリーンという女性は、ヒプノセラピー(催眠療法)を受けていたという情報がネットに載っていました。

 

www.latimes.com

 

www.thedailybeast.com

 

 現在では、米国医師会や米精神医学会がことごとく記憶回復運動に対して否定的な立場をあきらかにしたことや、それにつれ記憶回復セラピー自体がほとんど行われなくなったこともあり、両者の議論はロフタス側が正しかったということでほぼ決着がついています。

 しかしハーマンの著書『心的外傷と回復』は中井久夫の訳で日本でもよく読まれており、名著とする向きがかなり強い。それゆえ完全に終わった話とも、また(日本で催眠療法による訴訟ラッシュはないにしても)まったくの対岸の火事とも言い難いところです。

 

 僕にとってはこれに関連して、やはり記憶回復運動と関係の深い「サタニスト恐怖」のことで記事をひとつ書いたことがあるので、記憶回復運動についてはいずれもっと詳しく知りたいテーマですが、この話がスタンバーグの本ではエイリアン・アブダクション(宇宙人による拉致)へと繋がってゆきます。

 

visco110.hatenablog.com

 

 スタンバーグは、エイリアン・アブダクション(に思えるもの)の第一の原因として「金縛り」を挙げていますが、このアブダクション=金縛りという指摘はASIOSの『謎解き超常現象』(これもかなりお勧めできる本)でも、きわめて近いけれど微妙に違うことが書いてあって、興味深く呼応しあっています。

 「金縛り」は神経学者のあいだでは「睡眠麻痺」と呼ばれる現象で、通常は眠りから覚めるとき、意識と筋肉の制御は同時に取り戻されるのですが、まれに時間差が生じることもある。それは大ていは数秒から数分だが、なかには一時間ほど続くこともあるそうです。

 そうして意識のみが先に覚醒した状態が「睡眠麻痺」であり、この睡眠麻痺が起きると呼吸筋が動かなくなり、窒息感を引き起こすことが多い。さらにしばしば幻覚や幻聴を起こすそうです。それが幽霊や侵入者のように思えたり、アメリカでいえば文化的大流行という影響があって「宇宙人が侵入してきた」という解釈のラッシュを産んだのだといいます。

 

 ASIOSの前掲書もまた、エイリアン・アブダクションの原因を「金縛り」としていますが、こちらでは民族学者デヴィッド・J・ハフォードの『夜に訪れる恐怖』という金縛りの研究書を紹介しています(それにしてもロフタスやハフォードの邦訳は絶版できわめて高くなっていたり、どの古書店も扱っていなかったりする)。それによるとアメリカには金縛りに替わる言葉がなく、睡眠麻痺に関する云い伝えが1世紀以上も前にほとんど失われているのだそうです。その失われた知見の代わりに「宇宙人にさらわれた」という別の解釈が入り込んだわけですね。

 

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https://theconversation.com/some-scientific-explanations-for-alien-abduction-that-arent-so-out-of-this-world-71255

 

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 だいたいこの記事のパターンはわかってきたと思いますが(笑)、やはり触れておきたいのは6章の統合失調症者の話。

 僕は統合失調症者の幻覚といえば幻視よりもむしろ幻聴がメジャーであること、それがなぜ起こるのかという話を日本の精神病理学第二世代、とりわけ中井久夫(本日二度目の登場)の知見に依拠しながら記事を書いたことがあります。

 

visco110.hatenablog.com

 

 やはりその時点ではスタンバーグの『人はなぜ宇宙人に誘拐されるのか?』を読んでいなかったので、ここで採り上げた中井久夫の「微分回路的認知」という発想はそれはそれで興味深いけれど、スタンバーグのほうがもっと決定的かつ身も蓋もないことを書いてるんですね。

 

 スタンバーグによれば、「サブボーカル・スピーチ」という側頭葉からのニューロン信号に伴う声帯筋の不随意運動が時に本人にしか聞こえないようなきわめて軽微な音を発生させており、それが「随伴発射」という、通常は自分の声と他人の声を識別する脳機能の損傷により自分の声だと認識できないため、頭の中から他人の声のように聞こえてくるのではないか(大意)というアプローチをしており、これはあきらかに精神病理学的な統合失調症論とは一線を画している。そして正直なところ、どうしてもこういうアプローチのほうに強い説得力を感じるわけです。

 

 さきほど述べた夢と視床および視覚野の働きにしろ、この幻聴のメカニズムにしろ、いったん脳や眼球、声帯筋などのフィジカルな観点からそれが何故起こるのか、言ってみれば「物理的になぜ起こることが可能なのか」を踏まえないことには、夢判断だの臨床哲学だのといった話も本当は始まらないと思うんですよね。

 例えるならインターネットがどういう仕組みで繋がっているのか大まかなことを知らないでネット社会について論じたり、ロケットがどうやって宇宙まで飛べるのか、ざっくりとした知識さえも持たずに「宇宙時代」を語ったり、ということになりかねません。

 

 *

 

 さらにもう一つ、この本には大きな効用があると思われます。それは21世紀の現代思想を理解するうえでのベストあるいはかなりベターな取っ掛かりということです。

 

 私事で恐縮ですが、祭りがうんぬんという昨年の集大成的なブログを書いたあと、あれは力作ではあったけれど、やっぱり扱っている題材がおおむねニューアカ前後の「現代」思想と些か古い感は否めないと思い、また周囲の頭のいいフォロワー達の影響もあって、年末年始からせっせと21世紀の現代思想に片足を突っ込んでるんですが、どうやら21世紀の思想界では神経科学の強いヘゲモニーに対するヒューマニズム側の危機感というのが大きなテーマとしてあるっぽいんですね。

 

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 今のところ当ブログ最長のエントリー。本記事とは直接関係ないけど「代表作」ということで貼っておきます(・ω・)ノ

 

 そして、それがいま一つの大きなテーマである「新しい実在論」、すなわち形而上学と構築主義を止揚する試みとも密接に絡み合っている。代表的なのはマルクス・ガブリエルが『「私」は脳ではない』などで繰り広げている議論です。

 マルクス・ガブリエルは「神経中心主義」についてこう述べています。

 

 神経中心主義の基本理念は、精神をもつ生物であることは、それにふさわしい脳があるということにほかならない、というものです。ごく簡単に言えば、神経主義は「私」は脳だ、と教えているのです。

 (マルクス・ガブリエル『「私」は脳ではない』)

 

 また、

 

 「私」は脳と同一視できるとする推定の最大の弱点の一つは、そのように推定すると、あたかも脳が私たちを謀って「私」や「外界」が本物であるかのように思わせている、という印象を与えてしまうことです――というのも、私たちは実のところ現実そのものではなく、脳がその現実を基に作り上げるイメージを認識できるのにすぎないのですから。そうなると、私たちの精神が働く生活のすべては一種の幻想か幻覚であるということになってしまいます。このテーゼを、私は『なぜ世界は存在しないのか』の中で、神経構築主義というキーワードのところで批判しました。

 (同書)

 

 それから、「私」や「意識」「自己」「意思」「自由」あるいは「精神」などの概念について理解したいのなら、哲学や宗教や良識などはもはやお呼びではなく、専ら神経科学(脳科学とほぼ同義)について学ばなければならないといった信念。そうしたものに彼は強い「否」を突き付けています。

 

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 これは、僕がさきほど2・3章のところで述べた、神経科学をとっかかりに現実と空想の境界をなるべく無効化してしまいたいという欲望、これが真っ向から批判されているわけです。そういう考えはたしかにキモチがよく、解放的な面がある。しかし結局のところ良くないよと。

 また同時に、上に掲げたブログでは結局浅田-ドゥルーズ的な方向性に今後の指針を託すかたちで終わっており、その論旨を引き継ぐものとして千葉雅也の『動きすぎてはいけない ジル・ドゥルーズと生成変化の哲学』(2013)を読んだりしているんですが、この「生成変化」、あるいは「スキゾアナライズ」という概念とマルガブが批判してやまない神経中心主義の間には、けっこう切っても切れない関係があるような気がするんですね(これについてはいずれ書きたいと思ってます)。

 

 そうした議論に付き合うためには、とりもなおさず神経科学の成果のほうを知っておく必要があるわけで、それについて僕は現在、ダニエル・C・デネットだとかマイケル・S・ガザニガ、デイヴィッド・J・チャーマーズといった人たちの著書を年末のボーナスの一部で買い込んで、せっせと読んでいるわけですが、まあなかなかに大著が多くてこうした知見をインストールするのも時間がかかるので、とりあえずスタンバーグの『人はなぜ宇宙人に誘拐されるのか?』を一冊読むだけでも神経科学がどれほどのことを解き明かしてくれるのかかなり実感できるのではないかと思うわけです。

 

 そんなわけで、エリエザー・J・スタンバーグの『人はなぜ宇宙人に誘拐されるのか?』を一冊読んでおくと、いや先立って読んでおくと、かなり広範囲の読書に役立つし、そのわりにはそんなに長くもなく難しくもなく、じつにパフォーマンスに優れた本ですよ、ということでそろそろ紹介を終わろうと思います。慣れないですます調で疲れた。

 

 うまい具合に魅力が伝わったかわかりませんが、またぼちぼちブログを書いてゆきますので、今年もよろしくお願いします(・ω・)ノシ