やすだ 😺びょうたろうのブログ(仮)

安田鋲太郎(ツイッターアカウント@visco110)のブログです。ブログ名考案中。

展示される怪奇

 

 ナイジェル・ブランデルとロジャー・ボアの共著『世界怪奇実話集』は、なつかしの教養文庫「ワールド・グレーティスト・シリーズ」に収められ、ネットがない頃の子供たちを震えあがらせた怪奇読み物のうちの一冊である。今となってはどことなく牧歌的な幽霊や呪い話が収められているが、そのうちの一つ「ブラッドストーンの指輪」という話を読んで「おやっ」と思った。この話には怪奇そのものの他にも一箇所、たぶん実際は違うんだろうなと思わせる記述がある。
 以下要約しつつ引用する。

 

 話は一八七三年、イングランドのイースト・アングリアの小村ウィリシャムで起こった。そこでメアリー・グレイという花嫁が、ハネムーンに出発する日に忽然と消えてしまう。花婿が迎えに来ても二階の部屋から出てこないので、家族が鍵を壊して入ると、そこにはすでにメアリーの姿はなく、バルコニーから中庭へ続く窓が一枚空いていたのだった。
 彼女の消息はわからなかった。捨てられた花婿はショックのあまり一ヶ月ほどで亡くなった。

 

 そして十八年経ち、村人たちもメアリーのことを忘れた頃、村に嵐が吹き荒れ、巨大なカシの老木が倒れた。すると四方に張っていた根が周囲に大穴をあけ、そこからメアリーの死体が出てきたのである。
 骨となったその死体にはブラッドストーンの指輪がはめられており、それはメアリーの妹エレンが結婚祝いに贈ったものであった。またメアリーは首の骨が折れており、ようやく村人は、十八年前にメアリーに何が起こったのかを知ったのだった。
 妹のエレンは、メアリーの手だけは絶対に手離せないと言った。そしてエレンは亡くなるさいに遺書をのこした。それによれば「遺産は家政婦のマギー・ウィリアムズに贈るが、マギーは姉の手を人目につくところに置かなければならない。手はいつの日か、そこで殺人者と対決するだろう」というのだった。
 そこでマギーは遺言を実行するため、パブを開き、壁にブラッドストーンの指輪を嵌めたメアリーの手を飾った。

 

 一八九五年のある嵐の夜、パブの新客が壁に飾られた手のいわくを聞いたとたん、悲鳴をあげてよろよろと壁にもたれこんだ。彼の指先からは血が滴っていた(イギリスの古い言い伝えでは、殺人を犯した者は証拠を突きつけられると指から血を流すことがあるとされている)。
 じつはこの客はメアリーのかつての恋人ジョン・ボドニーであった。彼はあの日、メアリーにさるぐつわをはめて拉致したのだが、カシの木の下まで来たとき、彼女がひどく暴れたので首の骨が折れてしまい、途方に暮れてそのまま埋めたのだという。
 ボドニーは拘置所に収容されたが、公判の日を待たずに「未知の病」によって死を遂げたのだった。

 

 非常によくできた話だとは思う。
 だがさておき、引っかかった箇所というのは他でもない、「マギーが遺言を実行するためパブを開き、壁にメアリーの手を飾った」というくだりである。
 おそらくこれは因果が逆なのではないか。つまりいわくつきの手を飾るためにパブを開いたのではなく、パブを開いたからいわくつきの手を飾ったのではないか?
 あくまでパブの客寄せが欲しい(「よし、みんなでその手を見に行ってみよう!」)という事情が先にあったのであり、この怪奇じたいがそのために作られたか、どこかで語られていた話を結びつけたものなのではないだろうか。
 憶測だが根拠はある。というのも、どうやらいわくつきのアイテムを飾るのは「イギリスのパブあるある」らしいのだ。

 

 *

 

 イギリスのヨークシャー州サークスという小さな街にバスビー・ストゥーブというパブがあり、そこにはかつて「座った者は悲惨な死に方をする」という呪われた椅子があった(呪いの信憑性はともかくとして、椅子そのものは今でもバスビーの博物館に展示されている)。
 この椅子にもいかにもな因縁話があり、それは一七〇二年にこの椅子を送られたトーマス・バスビーという贋金作りの悪党が、椅子を贈ってくれたダニエル・オーティーという仲間に酒びたりを咎められたさいに発作的に殺してしまい、やがて絞首刑になったのだが、それから二五〇年後に偶然椅子を手に入れたパブのオーナーが冗談半分で店に飾ったところ、度胸試しに座った者が次々と非業の死を遂げた、というものだ。

 

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  The Busby's Stoop Chair

 

 ところがトーマス・バスビーという悪党自体は実在するものの、椅子は彼の処刑から少なくとも百年以上後のヴィクトリア朝様式のものであったり、椅子に座った人が次々死んだという事実そのものがなかったり、話の出所がでたらめを書くことで有名なタブロイド誌であったりと、まあ相当にいい加減なものであることが判明しているのだが、このあたりの種明かしをわかりやすく書いているASIOS『謎解き超常現象Ⅱ』のナカイサヤカ氏による注によると、

 

 イギリス人は怪談好きな側面があり、幽霊の出るホテルやアパート、パブはむしろ人気がある。バスビーの怪談はイングラム氏の後のオーナーが客寄せのために考案した可能性が高い。

 

 のだそうである。
 ……それだったら、ウィリシャムのパブに飾られていた「ブラッドストーンの指輪を嵌めた手」というのもそういうオーナーの趣向だったのではないか、ということである(付言すると、こうした指摘によっていわくつきの手が飾られていたパブそのものが実在した可能性は高まるわけだ)。

 

 *

 

 そんなわけで、イギリスの怪談で「パブに飾られている」といったシチュエーションを目にしたら、まずはオーナーの話題作りなのではないか? と疑ったほうがよい。まあ疑った方がよいといっても、別に信じても差し支えはなさそうだが。
 それにしても、教養文庫の「ワールド・グレーティスト・シリーズ」のような比較的古い本を読んでいると、今日の知見からすれば「これはこういうことなんじゃないか?」というツッコミ、もとい発見があったりして、なかなか面白いことだなと思いました。

 

 

 

謎解き超常現象 II

謎解き超常現象 II

  • 作者:ASIOS
  • 発売日: 2010/04/16
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)

予言、第六感、虫の報せについて

 

  かつてロンドンに有名な手相見の女がいた。なんでも、よく当たるというのでかのウィンストン・チャーチルも彼女から助言をもらっていたという。そこで作家オスバート・シットウェルの友人であった士官たちが手相を見てもらったところ、彼女はなぜか突然、彼らの手を押し返して叫んだ。
 「わからない、また前と同じだわ! あと二、三月で生命線が切れて、何も読み取れない!」
 なんだ大した手相見じゃないな、わからないのでそんな言い逃れをしているんだ、と友人たちは思った。しかしこの話を聞いたシットウェルは、これは何の前兆であろうかといぶかしんだ。

 この「事実」が起きたのが1914年だったといえば、勘のいい読者はすぐオチに気付くかも知れない。まもなく第一次大戦が勃発し、彼らはみな数か月後に戦死してしまったのである。

 

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 コリン・ウィルソンはシットウェルのこの話を紹介したあとに続け、「かなり多くの人は、この話にはいくらかの真実性はあるが、何らかの点で誇張されていると感じるのではないか」と述べている。また「大部分の人は(中略)さして重要なことではないと考えるだろう。少なくとも、これについて考えてみようという気を起こさない」という。
 コリン・ウィルソンがこの話について本当に言いたかったことは、少し後の頁に出てくる。いわく、

 

 私たちの周囲には「意味」が浮遊しているのであるが、通常は、その意味から私たちは習慣や無知や五感の鈍さによって遮断されている、という認識である。いわゆる秘教(エソテリック)の伝統は、あるいは無知な蛮人どもの迷信以上のものではないかもしれないが、同時にそれは、日常の陳腐さの彼方に達する意味をふと垣間見る経験の一つ、人間というラジオが未知の振動をキャッチする瞬間というものを説明する試みにもなりうるであろう。
 (コリン・ウィルソン『オカルト』、以下太字は安田による)

 

 つまりこの手相見は、われわれのような日常生活に埋没した意識の持ち主には感知できない何らかの情報、予知をも含むその情報を受信していたのだ、というわけである。
 通常は感じ取れないものを感知しようとする営為、という意味では前回ブログに書いた「微分回路的認知」とも共通するところが多い。
 わざわざ前回のブログを読まなくてもいいようにざっくり書いておくと、「微分回路的認知」とは強い不安や恐怖によって、なんとか状況を改善しようと感覚計器を研ぎ澄まし、普段なら気付かないような微細な状況の変化からも情報(とくに予兆)を感じ取ろうとする認知モードのことである。健常者でも切羽詰まると微分回路的認知が前景化するが、とくに統合失調症者は慢性的に微分回路的認知が前景化しており、それによって妄想や幻覚を生み出しているという。

 

visco110.hatenablog.com

 

  もちろん妄想や幻覚自体は他の原因でも起こりうる。いずれにせよこうした見方を採るならば、シットウェルの話を超自然的な能力の存在を示す傍証のひとつだとするのは疑わしい。手相見がなにを思ってそう言ったのか、という内在的な論理ついてもそうだが、そもそも「作家」の友人たちが手相見を訪ねたというこの話自体が、どの程度事実に基づくものなのか?(これについては後ほどまた述べる)
 コリン・ウィルソンによれば、科学が今日まで捉えそこなっているこうした潜在能力に我々が目を向けそして覚醒すれば、色々と凄いことになるというかハジマルというのだが、果たしてそうなのだろうか。今回はそれについて検討を加えてゆく。

 

 *

 

 似たような別の話に目を向けてみよう。例えばこちらは女手相見ではなく尼僧であり、また第一次大戦の勃発ではなく、第二次大戦の終結についての話である。

 

 この奇妙な話は去年の冬、このあたりに広まった。わたしはこの話を友人から聞いた。その友人はシカゴの友人から、またその人は近所の人から聞いたという。
 タクシー運転手のマイクは、一二月の初めに乗せた不思議な乗客についてこんな話をした。シカゴの繁華街を流していて、カソリックのかなり年配の尼僧を乗せた。彼女は〇〇通りへ行って欲しいと言った。マイクはカーラジオをつけっぱなしにしていた。二人は真珠湾攻撃についてしばらく話した。「この戦争はあと四ヵ月も続かないでしょうね」と彼女は言った。しばらく走って、マイクは彼女の言った所へ車を乗りつけ、運転席から降りて彼女のためにドアを開けようとした。ところが、何と彼女は消えていたのだ。
 マイクはその小柄な年寄りの尼僧が料金を踏み倒して逃げたのかと思い、そこの修道院に話をつけに行った。担当の修道院長に「どんな人だったのですか」と尋ねられたので、マイクはその金を払わずに消えた尼僧について説明した。だが、院長は今日は誰も街には出ていないと言う。すると偶然、院長の机の後ろにかかっている写真が目に入った。「この人ですよ」とマイクは言い、これでやっと料金を払ってもらえると思った。だが、院長は静かにほほえんで言った。「でも、この人はもう一〇年前に亡くなっていますよ」
 (ジャン・ハロルド・ブルンヴァン『消えるヒッチハイカー』)

 

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 尼僧という職業はいかにも超自然的なメッセンジャーにふさわしく、女手相見と同じように物語に「らしさ」を与えている。またどちらも女であるということも霊媒的性質の強調であろう。
 ブルンヴァンによればこの事例は1941年12月に採集されている。つまり興味深いことに予言としては外したことになる。あの世から出張してわざわざご託宣を垂れたわりには、常人のあてずっぽうと大して変わらないようだ。
 次の話も戦争の終結をめぐるものである。

 

 インディアナ州ブラフトン発一月二五日。インディアナ州エルウッドのミセス・ロバート・ナディンはその日そこでこのような話をしてくれた。彼女と夫は、妹のミセス・オーガスト・レイムグルーバーを訪ねてインディアナポリスへ車を走らせていた。その時、ひとりの老人が道を歩いていたので乗せてあげた。車を降りる時、老人は「わたしにはご好意に対してお払いするお金がありませんが、あなた方が聞きたいと思うことに対して何でもお答えしましょう」と言った。ナディンさんは「戦争はいつ終わるでしょうね」と聞いた。「簡単なことですよ。六月には終ります」と老人は答えた。ナディン夫妻は笑ったが、その老人は自分の予言を繰り返した。「これは本当のことですよ。これからあなた方が家にたどりつくまでに車に死体を乗せることになるのと同じくらい、本当の話です」と言った。
 インディアナポリスの近くで、救急車がナディンさんの車を追い越していったが、スリップして溝にはまり横転してしまった。救急車の運転手はナディンさんに患者をインディアナポリスの病院へ運んでくれと言った。ところが、その病人は着く前にナディンさんの車の中で死んでしまった。
 (同書)
                     
 こちらは「ザ・フランシスコ・クロニクス」紙に1942年1月に掲載された記事である。残念! またもや外れだ。もっともこの性別も素性もわからぬ老人は、車に死体を乗せることになるという、よりありそうもない予言のほうは見事に「当てて」いるが。
 これらの話はシットウェルのいちおう実話という体裁の「回想」とは違い、都市伝説にカテゴライズされている。おそらく戦争がもたらす強い緊張と不安、終戦への願望がこうした都市伝説を生んだのであろう。そういう意味ではこれらの話も「微分回路的認知の前景化」に寄せた説明が可能かも知れない。
 都市伝説の生成は統合失調症とは違って集団的なプロセスだが、テレンス・ハインズの集団ヒステリーについての議論などを見ると、妄想や幻覚は必ずしも集団になれば抑制されるというものでもないようだ。むしろ私も見た、聞いた、と集団によって妄想や幻覚が増幅される場合もしばしばあるのである……

 

 *

 

 デマ研究の第一人者であるオルポートとポストマンの挙げる事例では再び女占い師が登場する。また車に死体を乗せることになる、というモチーフもブルンヴァンと共通している。

 

 ある占い師は六ヶ月以内にヒトラーが死ぬだろうと予言したという調子の、馬鹿々々しい話が、全国にひろまったことがある。この予言を告げられた男は、疑わしげな素振りを見せた、とこの話は続いている。するとこの女占い師は、そのお告げにこうつけ加えた。「そうですよ。六ヶ月以内にヒトラーは確かに死にます。それから近い将来のことですが、あなたの自動車には死体がおかれるはずですが、これも同様に確かなことですよ。」それからしばらくたって、ドライヴ中だったその疑い深い男は道端で怪我人に出会い、病院に連れて行くために車にのせた、ところが病院に着いてみると、その男は既に車内でこと切れていたということである。
 (オルポート/ポストマン『デマの心理学』)

 

 オルポートとポストマンはこうした話を「願望デマ」と呼んでいる。そしてここが重要なのだが、願望デマは「ドイツの破局が目前に迫るまでは、あまり見られなかった」が1945年の4月になると「洪水のように流れ始め」たという。

 

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 してみると、ブルンヴァンが挙げた事例ではいずれも予言を外していたものの、全体として見ると当たった予言(デマ)のほうが多かったということになる。これをどう解釈すればよいのか。やはり占い師や尼僧などの特殊な人には(あるいはそういう都市伝説を伝言ゲームで作り上げた人たちには)なんらかの予知能力、第六感が備わっていたのだろうか?

 おそらくそうではない。人々は(大本営発表よりは信頼できたであろう)報道や暮らしのなかでの物資や市場にたいする感触、戦地から漏れ伝わる話等々によって、実際に勝利が近いのだとおおかたの察しがついていたのだろう。
 結局のところ、はっきり意識せぬとも「なんとなく察しがついていた」というのが、我々の第六感とか虫の報せと呼ぶものに関係しているのではないか。
 このことに思い至ったのは、吉本隆明が『共同幻想論』のなかで展開しているある議論に接したためであった。

 

 *

 

 吉本隆明は『共同幻想論』所収の「憑人論」において、柳田國男『遠野物語』のなかから予兆、虫の報せに関する話を五つほど抜き出している。そのなかの一つは次のようなものだ。

 

 或る男が奥山に入って茸を採るため、小屋掛けをして住んでいたが、深夜に遠い処で女の叫び声がした。里へ帰ってみると同じ夜の同じ時刻に自分の妹がその息子に殺されていた。
 (柳田邦男『遠野物語』)

 

 遠く離れた麓から、届くはずのない妹の断末魔の叫びが聞こえたという。
 この挿話について、吉本は超自然的な解釈を採らない。彼によればこういった予兆譚の背後には、かならず入眠幻覚に類する心の体験があるという。
 入眠幻覚とは、半睡状態のときに見る、ひじょうにリアリティを伴った幻覚のことだ。身も蓋もない言い方をすれば「寝ぼけて見たもの」ということになる。男が聞いた妹の叫び声もその類いだというのだが、なぜそんな内容の入眠幻覚を見たのかといえば、

 

 フロイト的にいえば『遠野物語』の村民は、じぶんの妹が息子の嫁と仲が悪く、板ばさみになった息子は母親を殺すか嫁を離別するかどちらかだとおもいつめていることを予め知っていたために、山奥で妹の殺される叫び声をきいたのであろう。その時刻がほんとうに妹が息子から殺される時刻と一致したということにはさしたる重要な意味はない。もっと条件を緊密においつめてゆけば、おもいつめた息子が母親を殺すのは今日か明日かという時間の問題であることをも、山奥にいたその村民は知っていたとかんがえられるからである。
 (吉本隆明『共同幻想論』)

 

 と吉本は云う。
 なんとなく察しがついていたことによって入眠幻覚がそのような内容になった、というわけだ(ちなみにこの幻聴を微分回路的認知の前景化のためだと解釈することも容易だ。妹が殺されることが充分予想できており、しかも深夜の山奥で一人過ごしているというのは、強い不安と恐怖とともにあったはずである。そしてこの解釈は「なんとなく察しがついていた」解釈と両立しうる)。

 

 こうした予兆、虫の報せについての話はひじょうに数多い。遠方にいる近親者や友人が亡くなる前にふと現れたり、その人に関係する持ち物がどうにかなったりする例のパターンだが、霊魂やテレパシーといった超自然的解釈以外で考えられるのは今のところ、この「なんとなく察しがついていた」パターンと「後から思えば」パターンが有力ではないかと思う。超自然的解釈は「どうしてもそれ以外の解釈ができない時」にはじめて検討すればいいのではないか。
 ちなみに「後から思えば」パターンというのは、人間は思った以上にさまざまなことを思い浮かべては忘れており、何か重大なことが起きた時に、思い返せばそれなりに「虫の知らせ」のようなものが見つかってしまうのではないか、ということである。たとえば飛行機に乗る人は「もし墜落したら」ということを一瞬くらいは考えるのであり、また年老いた親や幼い子供やかけがえのないパートナーのことを考えるとき、その人の死について少しくらい頭をよぎるのは当たり前のことではないか、ということだ。

 

 冒頭のコリン・ウィルソンが挙げているシットウェルの回想には、こうした「後から思えば」パターンを疑うべき箇所がある。というのもウィンストン・チャーチルは1914年にはいち海相にすぎなかったのである。となると、シットウェルはかなり後になってからチャーチル首相の海相時代のお気に入りの手相見の名前を知ったのだろうか。そして、偶然にもそれが友人たちを診た手相見と同一人物であることに気付いたのだろうか。
 むしろこう考えたほうが自然なのではないか。つまりこの話はまったくの作り話ではないにしても、幾つかの事実の断片、当時の噂、作家的想像力などを組み合わせ構成したものなのではないか、と。

 

 こうして見てゆくと、一見不思議に思える話も、どうしても予知能力や第六感、虫の報せといった超自然的な説明を持ち出さなければ理解できぬものではない。
 むしろ、今回見てきたような話をつくりあげる人間の心の作用のほうが、僕には不思議で、解き明かしたくなる魅力を持っているように思える。

 

遠野物語 (角川文庫)

遠野物語 (角川文庫)

 『遠野物語』については、「山の人生」とカップリングされている岩波文庫版で読む人が多いだろうが、「遠野物語拾遺」とカップリングされている角川文庫版も捨てがたい。なお「拾遺」のほうが日露戦争など、やや時代の新しいエピソードが多め。

改訂新版 共同幻想論 (角川ソフィア文庫)

改訂新版 共同幻想論 (角川ソフィア文庫)

 

誰もが幻聴を聞くことについて

 

 統合失調症、といえば妄想や幻覚を主な症状とする精神疾患である。長年にわたって日本を代表する精神病理学者であった中井久夫は、この統合失調症の回復期にある患者が週に一、二回、数十分から二、三時間ほど妄想や幻覚を"軽度再燃"してしまうのを何度も診てきたという。
 しかしどういう状況で"軽度再燃"が起こりやすいのかについては、一見どうしてそれが、と思えるケースもある。中井がある時期に関心を抱いたのは、当時研究仲間であった安永浩の論文「分裂病症状機構に関する一仮説――ファントム論について」による、自転車で人ごみのなかを突っ走ると"軽度再燃"が起こりやすいという報告についてであった(「分裂病」はいうまでもなく、統合失調症の旧称)。
 中井の解説よれば、自転車で人ごみのなかを突っ走れば、追い抜く人々の会話が断片的に聞こえてくる。

 

 この切れ切れに耳に入ってきた人のことばは、それ自体はほとんどなにも意味しないのだが、いやそれゆえにと言うべきか、聴きのがせぬ何かの(たとえば自分への批評の)兆候となる。そこからさまざまな"異常体験"への裂け目がはじまる。
 (中井久夫『分裂病と人類』)

 

 つまり声は聞こえるのだが何を言っているかまでは聞き取れないので、「自分のことを悪く言ってるんじゃないか」と思えてきて、それがさらなる"異常体験"への引き金となってゆくわけだ。

 

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 中井は、こうした断片的な会話から幻聴がつくられるような思考回路を「微分回路的認知の前景突出」という言葉で説明している。今回のブログは、この「微分回路的認知」について考えてみたい。

 

 *

 

 「微分回路的認知の前景突出」は統合失調症者の認知パターンによく当てはまるが、べつに健常者であっても、思考が微分回路的認知のモードに切り替わること自体は時々起きているという。というか、じつは健常者も数秒や数十秒といった長さでは統合失調症の体験(つまり妄想や幻覚体験)をしているのだ、というオランダの臨床精神医学者リュムケの指摘を中井は援用している。
 では健常者もたまにそういう状態になるという「微分回路的認知」モードって一体なんなの? という話なのだが、その性質については斎藤環による以下の説明がわかりやすいので引用しておく。
 
 「微分回路的認知」は、「先取り的な構え」とも言い換えられる。微分回路とは、「航空機の速度計」や蛙の視覚のように、過去の経験の蓄積に依存せず、刺激の変化分だけに反応する回路のことだ。ごく微妙な変化にも敏感に反応するかわりに、急激な変化や不意打ちには弱く、動揺しやすく不安定で、長期的には非常に疲労しやすいシステムである。
 (『ビューティフル・マインド』解説 by 斎藤環)

 

honz.jp

 

  「長期的には非常に疲労しやすいシステム」という言葉からも察せられるように、これはある種の緊急事態に特化したモードである。いっぽう平常時は「積分回路的認知」とか「比例回路的認知」と呼ばれ、こちらは入ってくる情報に過敏に反応せず、これまでの経験を参照してじっくり判断してゆくモードと言える。
 健常者が「微分回路的認知」モードになるのはどんな時か。典型的な例として中井は「山で道に迷った時」を挙げている。これはかなり緊張度が高まる状況と言えるだろう。どの道が正しい下山道なのか? それを示すかすかな兆候をさぐり、我々は必死にに周囲を観察する。その時われわれの感覚はまさに「航空機の速度計」のように過敏になっているだろう。夜道でいきなり「ワッ」と人を驚かすと心臓が止まるほどビックリするというあの状態もおそらく同様。そうした認知状態は妄想や幻覚にひじょうに接近する。
 次の例では、実際に健常者が幻聴を発症している。

 

 第一次大戦でドイツのロシア人捕虜集団が、自分たちの知らないドイツ語を、処刑を合議しているロシア語ととってパニックを起こしたことは有名。
 (同書)

 

 捕虜たちは統合失調症者ではない。だがこれは聞き間違いではなくれっきとした幻聴だ。冷静に考えればドイツ兵がロシア語で込み入った話をするはずもない。にもかかわらず、彼らの会話がロシア語で自分たちを処刑するかどうかという、怖ろしいが実際にはありもしない合議に聞こえてしまったのだから。

 リュムケ-中井のいう「健常者も短時間であれば統合失調症体験をする」というのはこうしたことだ。

 

 ようは微分回路的認知というのは「不安や恐怖により、ささいな兆候から過剰に情報を読み取ろうとしている状態」と理解してよいのではないか。
 素人の気安さで拡大解釈すれば、恋愛でも似たようなことが起こる。ご存じのとおり、既読がつくのがいつもより早いとか遅いとか、恋人の細かい表情、声色、言い回しにどんな意味があるのだろうかと延々と悩んだり、別の人を好きになったんじゃないかという疑念にしじゅう駆られたりする、あれである。各計器がビンビンになっているわけだ。
 また個人的には、幽霊や超常現象を「見て」しまうメカニズムにも、しばしば微分回路的認知が関わっているように思う。だがこれらについては、また別の機会に述べる(別の機会に述べるとは言っていない)。

 

 *

 

 そこでふと思ったのだが、これまで民俗学的に「前兆」とか「キザシ」と呼ばれていたものは、いわば微分回路的認知を外在化-共有したものと言えるのではないか。
 たとえば「前兆」についての次のような辞書的説明は、それが個人のものであるか共有されているかを別とすれば、ここまで見てきた微分回路的認知とよく似たことを言っている。

 

 前兆とそれが意味することとの関係は神秘的、超自然的であり、それぞれの社会で恣意的に定められている。しかし、前兆のなかには、たとえば動物の異常な行動と地震の関係、ハチの巣の位置と洪水の関係のように、長年の観察と経験に基づき、ほとんど自然的因果関係と考えられるものも少なくない。いずれにせよ前兆に対する信仰は、人知の及ばないことをなんとかして知りたいと欲する人間の心理に根ざしており、現代社会でも伝えられている。
 (『日本大百科全書』「前兆」、太字は安田による)

 

 さらに民俗学者の今野圓輔の記述には、こうした「キザシ」が幻覚や幻聴に近しいことがはっきり述べられている。

 

 キザシのもっとも発達し、また全国に共通しているのは、人間にとって、もっとも重大な関心事である死の予示、その前兆である。身近な存在であった犬や鶏、馬などの、常とは変わった挙動、カラス、狐、フクロウの鳴き声や植物の異常な現象などに、古風な人びとは、細心の注意を常に払っていて、少しでも早く、未来の変事を予知しようとしていたわけである。
 前兆の種類には、動植物の常ならぬ挙動、異状などのほか、神秘的な音響、たとえば山中の怪音、地鳴り、仏壇の鐘の物理的ではない場合の音や、火の玉、人魂、火柱、幻の人の姿などの幻覚、幻聴めいた現象があり、これらの他にも、人間の直感に類するもの――たとえば、老人の宗教家が、自分の死をありありと直感によって予知したという類――もある。
 (今野圓輔『日本迷信集』)

 

 言うまでもなく、「火事になる前には天井のネズミが一匹もいなくなる」とか「カラスは鳴き声で死ぬ人を報せる」といったことを信じていた人たちが統合失調症者であったわけではない。
 結局のところ、なんとか生き延びたい、現状を良くしたい、といった切実な願いはどうしても微分回路的認知に接近してゆくのであって、有効かどうか、合理的かどうかは別としてなんら異常なことではないし、それは時代や地域によっては(はっきり言えば昔の田舎では)共同体の集合知としてある種の権威を付与される場合さえある、ということなのだろう。

 

 *

 

 これまでの人生で、こりゃ統合失調症だなという人を数人見てきたのだが、なかには一時期親しくした友人だったり、四親等か五親等かそこらの(と、あいまいに書く)親戚も含まれる。
 発症してからの様子は完全にテンプレで、いわく「家中に盗聴器が仕掛けられている」とか「留守中に誰かが侵入した形跡がある、その証拠に机の上に置いてあったものの位置が微妙に変わっている」だとか「会社の人たちに監視されている」とか、驚くほど同じようなことを訴えてくる。
 こうした「狂気の凡庸さ」については、春日武彦の『ロマンティックな狂気は存在するか』がよく読まれたりして、今ではよく知られている。いちおう引用しておくと、

 

 狂気に陥ることをラジカルな形での異議申立てであるとか究極のクリエイティヴな形態として過大評価したがる気持ちは、ことに精神医療へ実際に携わったことのない者には顕著であるが、はっきり言って凡庸かつ月並みな狂気ばかりが横行している。そしてそれゆえに、そのあまりにも月並みであることこそが自ずと類型へ収束していくことを証明し、狂気の診断の拠り所となるのである。
 (春日武彦『ロマンティックな狂気は存在するか』)

 

 といった具合だ。
 ただそういうテンプレだとしても、友人やら親戚やらが罹患したことがあるとやはり気になるもので、折にふれ統合失調症についての文章を読んだりしていた。そして先日、その筋では古典的名著である『幻覚の基礎と臨床』のなかに、次のような患者の証言があるのを知ったのだった。

 

 「私は正しいのに、会社ではなにか私を悪く言つています。部長さんや皆が噂しています。会社から誰かが私の家に来て調べていつたに違いありません。そうでなければ、私の部屋のことを会社で言うわけがありません。私の部屋の中のことや貯金箱まで知つています。近くの二階家からでも望遠レンズで私のことを調べたに違いありません。聞こえてくるからわかります。会社全体がエレクトロニクスで、私に余計な心配をさせようとしていたんです」
 (高橋良、宮本忠雄、宮坂松衛編『幻覚の基礎と臨床』)

 

 これを読んだときは驚いた。統合失調症者の妄想がある程度テンプレなことは知っていたが、これは僕の親戚と言ってることがまったく同じだったのだ。いわく会社の人たちが自分のことを悪く言っている、会社の人間によって出掛けるときも家にいるときも常に監視されている、云々。
 この証言は「言っている」「噂している」「聞こえてくる」というような、おそらく幻聴であるところの記述が軸となっている。親戚にしてもそうだ。会社でみんなが自分のことを悪く言っているというのは、ようするにそういう幻聴なのだろう。

 

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 なにやら「繋がった」気がした。中井久夫のいう「自転車で人込みのなかを突っ走ると……」という例。こまぎれの声からつくりだされる自分についての悪いうわさ。統合失調症の認知傾向によく当て嵌まるという「微分回路的認知の前景化」。おそらく、親戚の身に起きていたのはそういうからくりによる幻聴だったのではないか?

 

 現在、親戚の症状は少しずつ寛解しつつある。しかし一時期親しくした友人のほうは海外の諜報機関に監視されたりなんやらかんやらしているうちに、僕もエージェントだと疑われたのか、一方的に絶縁されてしまった。
 親戚にせよ友人にせよ発症前はまったく異常なところはなかった。誰の身の上にも起こりうることなのだろう。そしてリュムケ-中井の言うように、短い時間の単位では、健常者もたまに妄想・幻覚を体験するということで、正常と狂気の境界線というのはきわめて曖昧というか、まあ、はっきり言ってあってないようなものなのだろう。

 

分裂病の精神病理 1

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新版 分裂病と人類 (UPコレクション)

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