やすだ 😺びょうたろうのブログ(仮)

安田鋲太郎(ツイッターアカウント@visco110)のブログです。ブログ名考案中。

飲み、打ち、買い、そしてヒトは狩る

 

 神話学者のジョルジュ・デュメジルは、ある時、日本の文化人類学者である船曳建夫に次のように語ったという。「インドの神話では、英雄たちは四つの楽しみを持っている。それは酒、博打、女、狩猟だ」。
 船曳はデュメジルに対し、「日本では"飲む・打つ・買う"とは言うが"狩る"はない」と答えた。しかし、考えてみれば日本人が狩りを楽しまなかったわけではない。近世にはすでにあったという「飲む・打つ・買う」という慣用句のなかには成程"狩る"は入っていないが、江戸の大名や将軍などは巻狩りや鷹狩りを大いに好んで行ったではないか。慣用句に入らなかったのは、狩りがそれ以外の三つとは違って簡単には出来ない、特権階級の娯楽だったためであろう、と彼は考えた。
 そして船曳は、文化人類学者らしく次のように考察を進める。

 

 一九六五年にシカゴで開かれた狩猟採集民についての広範囲にわたるテーマを扱ったシンポジウムは、狩猟採集という生業生態自体が消滅しつつある中で、狩猟採集民に関するスタンダードとなる知見をいくつも提出しているが、そのうち重要な一つは、狩猟採集といいながら、獲得される食物のカロリー比は、高緯度の海獣狩猟民を別とすると、採集された植物性の食料が動物性のそれに対して三倍から五倍を占める、というものであった。もし、動物性食物の獲得行動から漁労を除くと、狩りによる食物獲得の割合はさらに下がる。狩猟採集(Hunting Gathering)といいながら、ほとんどは採集を中心とした暮らしであったのだ。
 (『大航海 特集:ゲーム 戦争/IT革命/遊戯』所収、船曳建夫「狩猟からフットボール、採集からファンタジーへ」。太字は安田による。以下も同じ)

 

 さらに農耕文明の段階に入ると、

 

 それはすでにゲームといってよいもので、デュメジルの言にあるように、大きな楽しみの一つであり、そのような楽しみとしては、両性のあいだでは男に、社会的には支配階級に特権化されていた。
 (同書)

 

 すなわち狩猟は、文明のかなり早い段階から、カロリー獲得の手段としてではなくある種の剰余、ゲームだったのだ、というわけである。

 

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 船曳の考察はここから、なぜ狩猟が「両性のあいだでは男、社会的には支配階級」のものであったのか、といった方向へ向かう。それはとても重要な問題ではあるのだが、本稿ではいったん措いて話を進めることにする。

 

 *

 

 この狩猟=遊戯の話を聞いて多くの人は、パスカル『パンセ』におけるウサギ狩りの話を思い浮かべるはずだ。パスカルのウサギ狩りについては、國分巧一郎の明解な要約を参照しよう。

 

 狩りとは何か? パスカルはこう言う。狩りとは買ったりもらったりしたのでは欲しくもないウサギを追いかけて一日中駆けずり回ることである。人は獲物が欲しいのではない。退屈から逃れたいから、気晴らしをしたいから、ひいては、みじめな人間の運命から眼をそらしたいから、狩りに行くのである。
 (國分巧一郎『暇と退屈の倫理学』)

 

 気晴らしであるからには、必ずしも狩猟である必要はない。実際にパスカルは、賭け事についてもまったく同趣のことを述べている(目的を果たすならば"打つ"でも"狩る"でも構わないわけだ)。だが、だからといって「何でもいい」わけではない。一つだけ条件がある。

 

 パスカルははっきり言っている。気晴らしには熱中することが必要だ。熱中し、自分の目指しているものを手に入れさえすれば自分は幸福になれると思い込んで、「自分をだます必要があるのである」。
 (同書)

 

 しかし実際のところ、狩猟的なものほど強烈に人を熱中させるものはなかなかないようだ。船曳建夫は、同テクストで狩猟の本質について次のように述べている。

 

 狩猟の本質は、世界が獲物の一点に集中すること、そしてそれが、予期せぬ動きをすることにある。その動く焦点を追いつめるために、人の行動は急速なピッチと協働を必要とし、それによって身体は「野生の自然」に絞り込まれ、いまや、その無意味であった「野生の自然」は、刻々移り変わる意味を発散する世界に変容し、そこから昂奮が引き出される。
 (船曳、同書)

 

 今日の我々のスポーツやゲームは、こうした狩猟的な昂奮をルーツとしている――というのが船曳の同テクストの主旨であるが、そう言われると大いに思い当たるふしがある。
 些か話が日常的かつ矮小になるので恐縮だが、いま僕が生活に退屈さ、ある種の閉塞感を感じているとすれば、まさにこうした狩猟的な享楽が欠けているためではないか――ということだ。つまり、かつては幾つか持っていたハンティング的な趣味が、さまざまな事情により、現在は不全をきたしているのである。

 

 *

 

 ここで僕が念頭に浮かべたのは、猟書趣味(ようするに古本屋をめぐって掘り出し物をあさること)、円高時代のクラシックCD-BOX漁り、エロ画像蒐集といったものだ。
 地方都市から古書街が消え、書籍の購入はもっぱらネット頼みとなった。それはとても効率的ではあるが、こと猟書の愉しみという点においては、オンライン販売は魅力に乏しいと言わざるを得ない。
 クラシックCDは今でも多数魅力的なものがリリースされているが、十年代前半の凄まじい価格破壊、それに伴いニワカでもクラシックCDを数千枚所持する者が続出した、あの頃の高揚感はもはやない。
 それからエロ画像蒐集……こればかりは今でもやろうと思えば可能だが、まあどうなんでしょうね、再開しますかね(笑)

 

 こうしたものはすべて「日常化された狩猟」と呼びうるが、興味深いことに、これらはすべて行動心理学でいうといころの「変率強化スケジュール」(Variable-ratio schedule)の要素を持っている。
 思うに、狩りと変率強化には密接な関係がある。変率強化とは、

 

 報酬(ご褒美)がもらえるかどうかが、いつも一定しない状況におくことにより、その行動を強化する方法である。たとえば、部下が同じような業績を上げても、いつも同じ対応はせず、ボーナスがもらえたり、逆に叱られたりするような状況におくことだ。
 (岡田尊司『インターネット・ゲーム依存症』)

 

 といったものである。別の文献では、

 

 スロットマシンは、ユーザーを飽きさせないために、ランダムに当たりが出るようにする「変動比率強化スケジュール」に基づいて報酬を与えているからだ。つまりギャンブラーは、その結果のランダムさに病みつきになってしまうのである。 
 (デイミアン・トンプソン『依存症ビジネス』)

 

 とあり、行動心理学のなかでも依存症を引き起こす仕組みとしてよく言及されている。
 デイミアン・トンプソンは、インターネットポルノもまた、変率強化の構造を持つがゆえに依存症者を生むとしている。

 

 ディーンという名の45歳になるアメリカ人の検査技師は、私にこんな話をした。
 「ぼくは過去5年間、インターネットポルノにかなり病みつきになってきた。ノートパソコンの前で過ごす時間は、年々長くなっている。でも、マスかきそのものについて言えば、その回数は少なくなっているんだ。なぜって、写真の整理にあまりにも時間がかかるんでね。(中略)スロットマシンに縛りつけられたみたいな感じがすることもある」
 ふだんの生活では、ディーンはOCD(安田註:強迫性障害 Obsessive Compulsive Disorder)の症状を示さない。だが、ポルノの写真と動画をひっきりなしに並べなおしてフォルダに整理するというのは、強迫的な行動に聞こえる。
 (中略)
 ヴァギナの毛を剃った何百人もの女性――彼がそそられる趣味――の写真のサムネイルをクリックしつづけていくとき、ディーンには、次の写真が自分の性的興奮をかきたてることになるかどうかはわからない(もちろん、それはウェブサイトのオーナーにもわからないが)。保存に値するほど興奮させられるのは、たとえば20枚に1枚しかないかもしれない。しかも、そういった写真はギャラリーにバラバラに散らばっているので、ディーンは疲れはてるまで、クリックしつづけることになる。
 (同書)

 

 狩猟もまた、獲物が取れるか取れないか、あるいはより価値の高い獲物が取れるかどうかは当然ながらそのつど違うのであって、これは変率強化の構造を持つと言えるだろう。
 そういえば、ナンパのことをかつてはガールハントと云ったが、これは直訳すると女狩り(!)である。ナンパは……まあ当ブログとしてはコンプライアンス的にお勧めできない(本稿では詳しく触れないが、このあたりにも船曳が、狩猟は「両性のあいだでは男、社会的には支配階級」的なものであるとし、暴力との関係で狩猟行為の分析を試みていることに必然性を見て取ることが出来るだろう。実際、トロフィールームといった言葉で画像検索してもらえば、狩猟の暴力性がビジュアル的にもよく了解されると思う)。

 

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 してみると、狩猟は依存症を引き起こすということになりはすまいか? 実際のところ、デイミアン・トンプソン自身もまた、かつてクラシックCD蒐集の依存症にかかっていたことについて記しており、しかもそこでは、クラシックCD蒐集とインターネットポルノの蒐集が「同じような興奮が得られる」ものとして並置されているのだ。

 

 *

 

 結局、狩猟的なものは同時に依存症を引き起こすものでもあるというわけだ。それは我々の退屈を好奇心や探究心および興奮に置き換えてくれるが、同時に社会生活や心身の健康にダメージを与える危険をも含む。
 いわゆる「依存の分散」戦術――ハードな飲んだくれやハードな賭博者は破滅的だが、お酒も少々、賭博もほんの少し、またポルノもちょっとだけ、云々と分散することによって、それぞれを無害化しうる――というのは、まあ妥当な提案だが、面白味はない。

 

 現代人の娯楽の大半は、「飲む」「打つ」「買う」「狩る」がマイルドに均質化されたものといえる。「打つ」は公営ギャンブルやパチンコ、宝くじ、個人投資というかたちでマイルド化されているし、「買う」も商業AVやオンラインポルノから娯楽作品におけるちょっとしたお色気シーンまで、ハードな買春に対するマイルドな選択肢が豊富にある。スロヴェニア出身のラカン派マルクス主義者っぽく言えば、「破滅抜きのバクチ」や「接触抜きの買春」というわけだ。
 「狩る」の代表的な今日的形態は何であろうか? 真っ先に思い浮かぶのはネットゲームにおける「ガチャ」だ。その次は? 諸々のコレクションということになろうか。いずれにせよ、僕もちょっと、何かしらの狩猟的要素、変率強化的なものを呼び込んだほうが、もう少し楽しく過ごせるかも知れない。打倒閉塞感。
 大体言いたいことは尽きたので、このへんで筆を擱くことにする。

 

暇と退屈の倫理学 増補新版 (homo Viator)

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依存症ビジネス――「廃人」製造社会の真実

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オープンすぎるSNSからの撤退

 

 人々が、オープンすぎるSNSから撤退している。

 

 この傾向はかなり以前(おそらくはゼロ年代後半)から断続的に観測されてきたもので、わかっている人にはなにを今さらな話だが、SNSの大海で気の合う、価値観が共有できる人を見つけ、そうした人たちをブログや動画配信サイトなどのセミオープンな場へ、さらにはDMやLINEグループ、オンラインサロンといったクローズドオンライン、またはサークルや団体、私塾(!)といった再帰的オフライン*1のコミュニティへと導く(導かれる)というのは必然的な流れで、多くの人が実感するところだろう。*2

 

 そしてその傾向が進めば進むほどSNSはコミュニケーションのためのものではなく、マッチングのためのものに変化してゆく。もはやオープンすぎるSNSが警戒心なく他人と付き合ったり、自由に意見や心情を述べたりできる場所だと思っている人は絶滅危惧種だろう(まあ形式上は自由ではあるけれど)。それもそのはず、人々がセミオープンまたはクローズドな場により安心かつ濃厚なコミュニケーションを求めて移行していった結果、オープンなSNSには「そうでない人たち」が必然的に居残ることになったからだ。

 

 一応言っておくと、彼らはオープンなSNSを専ら利用しているユーザーの一部にすぎない。ネットにそこまで人間関係を求めていない人もいるし、そもそも人間関係自体をあまり必要としていない人もいる。日々が忙しくて細かいことはやってられない人もいる。何らかの商売や宣伝目的でオープンなSNSを活用している人もいる。
 しかし、なかにはそこにしか棲息できない人達もいるのである。

 

 そこにしか棲息できない人達、すなわち常に孤独で、日々の鬱憤を晴らすべくサイバースペースを徘徊する野犬のようなアカウント……すぐ他人に喧嘩をふっかけ、ネットリンチに加担し、差別用語や底辺ネットスラングを撒き散らし、異性にキモいリプを送りつける魑魅魍魎達。
 まあそこまでは行かないにしても、本人が望んでいるにもかかわらず親密な関係を作れない(セミオープンまたはクローズドな場へ参入できない)人、なにかしら関係構築に問題がある人はいるんであって、オープンなSNSの限界を感じた人々がクローズドなコミュニティへ移行すればするほど、オープンなSNSはそうした人たちの相対的比率が上がってゆくことになる(僕もまったく他人のことを云う資格はありませんが)。

 そしてオープンなSNSはさらに殺伐とし、なおさら可能な人はクローズドなコミュニティへ軸足を移してゆくという循環的関係が促進される。一説では、こうした現象をThe Dark Forest Theory of the Internet(インターネットの暗い森理論)と呼ぶらしい。

 

 時代は変わってインターネットが闘争の場となった今、穏やかに過ごしたい人はクローズドな環境を求めるようになった。SlackやLINEのクローズドなグループチャットはその典型である。

 (インターネットの居心地の良い暗い森|ロバおじさん@脱賃金労働プログラマ|note)

 

 なんにせよ、SNSで会ったこともない人にいきなり罵声を浴びせるような人たちはただ戦場に取り残され、クローズドで居心地がよく有意義なコミュニティにはどこにも入れてもらえず、現実でも誰にも相手にされなくなっていく未来が来そうな気がします。

 (同ブログ)

 

 おい、すでに書かれとるやんけ!(汗) 

 

 *

 

 それにしても、いまにも「そんなこと言わないで、〇〇君も仲間に入れてあげなさい!」という担任の先生の叱声が聞こえてきそうだ。この現象に排除的な面があることは否めない。だが憂慮すべき一方、たしかに気の合う人だけでセミオープンまたはクローズドな場でまったりやっていたほうが快適だというのも、心当たりがなくはない(そういう人たちでも、出会い自体はオープンなSNS、あるいはそこからの芋ヅルである場合が多いのがミソ)。
 したがってとりあえずはこうした現状をスケッチするに留め、本稿では肯定も否定もしない。思えばインターネットは人間そのものを変えはしなかったが、人間関係のあり方についてはわずか数十年で大きな変化をもたらした。そしてその変化は刻々と続いているのだ。今日もまた。
 ひとまず、現場からは以上です。

*1:カール・マンハイムの「再帰的伝統主義」概念から拝借した。ネットのないころの「オフライン」と違い、ネットがあるのに敢えて「オフライン」コミュニティを選択するのは「オフライン的なものへの回帰」であり、純粋なオフラインとは異なる。第一に、それはオンラインとの相補的関係あるいは「オンラインでないもの」としてのオフラインであることを免れない。第二に、オフラインとはいっても連絡手段としてIT技術を利用している場合が殆どだからである。

*2:本文では「わかっている人にはなにを今さらな話」と書いたが、2020年は何度目かの”クローズドオンライン”ブームが来ていると思われる。新型コロナウィルスによる遠隔アプリの興隆がその直接の原因だが、たとえばそうしたアプリの一つであるZoomは、2020年の最初の二か月間で、昨年一年間を上回る222万人のユーザーを獲得した。

心はスクリーンのように出来ている

 

 ジョルジュ・デュアメルは『未来生活の情景』において、友人に無理矢理映画を観させられたときの不愉快な体験について記している。だが、彼にとって映画が愉快だったか不愉快だったかはさしあたって問題ではない。興味深いのは、彼が次のように述べていることだ。

 

 私はまだ体のあらゆる部分の感覚を維持してはいるが、もはや自分の魂をあまりしっかりと感じられなくなってきた。
 (中略)
 私はすでにもはや自分の考えたいことを考えることができない。動き続けるイマージュが私自身の思考と入れ替わってしまうのだ。

 

 立木康介はこの一節について、『露出せよ、と現代文明は言う』のなかで次のようなコメントを加えている。

 

 めまぐるしく展開されるイマージュに私たちがまず視覚を、次いで全神経を奪われてしまうその瞬間に、私たちの思考はイマージュとの競争に敗北する。だが、思考は消えるのではない。思考はイマージュに取って代わられる。いいかえれば、私たちが映画に心を奪われているあいだ、スクリーン上のイマージュの連鎖こそが私たちの思考になるのである。こうして、私たちの内面の活動がメディアによって肩代わりされ、いわば外在化される。

 

 この記述はさまざまなことを想起させる。たとえば、ショーペンハウアーが「みずから考えること」のなかで述べた有名な一節。

 

 読書は、自分の頭脳で考える代わりに、他人の頭脳で考えることです。そこで、その反対に、みずから考えること(中略)にとって、最も有害なことは、絶えざる読書により他人の思考があまりにも力強く流れこむことです。

 

 デュアメルにしてもショーペンハウアーにしても、自分自身の思考のタクトを握り続けることにずいぶんとこだわっているようで、後世に仕事を残す書き手としてはそういった、ある種の禁欲(インプットしすぎない?)が必要だったのかも知れないと思うと大変そうだな、と感慨が湧くがさておき、ここで共通認識になっているのは、何かをインプットしている時は自分で思考することが出来ない、ばかりでなくその「何か」に思考が取って代わられる、ということである。

 

 さまざまなことを想起させる、と書いたが、ショーペンハウアーの他にも、心理学用語で云うところの「外部意識状態」および「内部意識状態」(しかしこれは調べているうちにやや俗流な概念であるような気がしてきた)にも話が繋がってくるだろう。つまり映画やら何やらは、人を「外部意識状態」(外の世界に意識が向いた状態)にするわけだ。
 外部-内部意識状態の理屈では、内部意識状態(自分自身に意識が向いた状態)が長いと人は精神的にうつ状態になりやすい、と言われている。したがって、それこそ映画を観るだとか、スポーツや手作業、さまざまな方法で自己を外部意識状態に持ってゆくことで、心を摩耗させず健全に保とうとする。言ってしまえば「クサクサするときは何か気分転換しよう」ということであり、作業療法の発想もこれに近い。

 

 この外部-内部意識状態の理屈もまた、先に述べたデュアメルやショーペンハウアーと同じ前提を共有している。つまり意識はあれもこれもは同時処理できない、外部に注意を向けている時は思考することは出来ないということだ。

 

 *

 

 しかしデュアメルと立木康介の記述にはもう一つ、見落としてはならない含意がある。それは心における、言語・意識・ロジックに対するイマージュの優位性だ(キルケゴールが持ち出した「読書」もまあ、広義のイマージュである部分を含む――たとえば”月の砂漠”と書いてあればそれ相応のイメージが浮かぶ――わけだが)。人の心というのは我々がそうであると認識しているよりも、実はかなり映像的に出来ていて、言語・意識・ロジック的な部分は案外僅かな、ごく上澄みにすぎないのではないか?

 

 そうした問題意識では、『新記号論』における石田英敬のフロイトの精緻な読み返しが大変示唆に富んでいた。
 石田は言う。神経科学者の経歴をもつフロイトは、『夢解釈』で述べる「心的装置」において当時の神経科学におけるニューロンの知見をひそかに採り入れており、その知見によれば、知覚から前意識までのいわゆる「無意識」の領域はシネマトグラフィー的であって、意識はそれに対するメタ感覚、いわば無意識の「注意力Aufmerksamkeit」による能動的な捉え直しなのである。

 

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 (出典:石田英敬/東浩紀『新記号論』P.144、株式会社ゲンロン、2019)

 

 だからこそ夢は映像的なのであり、また夢という現象は、覚醒時には感覚末端(図の左端)から前意識に向けて流れる興奮が、睡眠時において感覚末端へと逆流を起こすものであるとする仮説などは、それ自体で別のブログを書きたくなるほど興味深いのだが、ともあれ、デュアメルが「私自身の思考と入れ替わってしまう」ものとして「映画」を挙げていたことと、石田-フロイトによる無意識=シネマトグラフィー論は、偶然とは思えない符合を見せている。

 

 *

 

 人文学的には、バーバラ・M・スタフォードの次の発言を引くことで話を補足しておきたい。驚異の碩学とも言うべき彼女は、自著解説的な小文「啓蒙時代の科学魔術」においてこう述べている。

 

 むしろ、この本(安田:『アートフル・サイエンス』)が第一の眼目として取りあげるのは、近代初期にあって人目を欺く現象の数々に対するさまざまな形の批判が公然と、また目に立たぬ間に、「視」を劣等な知とみなす圧倒的に否定的な見方を醸成したのであり、この偏見から空間メディアはいまでに立ち直れていないという点である。

 (中略)

 図像と言えば反射的に手品、見かけ倒しの装置、手のこんだ「仕掛け」など連想してしまう悪癖は、教義(Literacy)と言えばテクストを基礎としたものとする浅薄で機械的な定義の中に、イメージの単なる娯楽への凋落の中になお生きている。

 

 近代において不当に貶められた「視」の復権、という強い使命感を彼女は抱き続けた。バーバラ・M・スタフォードについてはいずれ機会があればじっくり読み耽りたいものだが、さておき本稿で述べてきたような、心のあり方のベースは言語・意識・ロジックではなくイマージュなのではないか、というような近年の議論は、この「イマージュへの回帰」の潮流に呼応するものと云えそうだ。

 

 *

 

 話を戻すと、立木康介は先ほどの箇所に続けて次のように述べている。

 

 内面の活動がこのように外在化されるとき、私たちがテレビやインターネットといったメディアの端末や操作機を手にしているということは何を意味するだろうか。それは、私たちが自己の内面を物理的な装置によってコントロールする可能性を手にしているということにほかならない。

 

 デュアメルやキルケゴールが忌避すべきものとして取り扱った「思考の乗っ取り」が、ここではもう一度自己の掌中に取り戻され、むしろ意図的に利用しうるものとされている。「我々は何かを見るとそれに意識を持ってゆかれるが、敢えてそれを利用することも出来る」というわけだ。
 このことは、言ってしまえば気分転換に映画を観るだとか、まあとにかく気が紛れることをしよう、という誰もが日常的にやっていることと、表面的にはさほどの違いはない。しかし、それだけのこととしては収まらない、ある認識上の可能性を持っているように思う。

 

 つまり「自分の心はスクリーンである」という認識からは、そこに何を「上映」するかについてプロモーター(興行主)的な主体を立ち上げる可能性が拓かれるのである。

 思考の側からばかり悩みや苦しみに向き合ったり、「考え方」によって人生や生活をむりやり納得ゆくものにしようとするのではなく、何を心に「上映」するか、その上映内容の質や豊かさを目指してゆく、少なくとも、そちら側からの発想がもっとあってもいいのではないか。

 

 *

 

 最後にごく私的な話になるのだが、僕はネットのある共通項を持つ場所を見に行かないようにしよう、と最近思った。一言で云うと、さまざまなサービスの「コメント欄なもの」が精神衛生上ひじょうに悪い。おそらく、映さないほうがいいものを心のスクリーンに映してしまっている(笑)
 それだったら、まだAVのほうがはるかに眺めがよい。国際ニュースやドキュメンタリーや紀行番組なんかもいいですね。それに紙媒体。……あまりに日常的で本文と関係あるかどうかわからないけれど、たぶんこれも関係あるんだと思います。

 

定義集 (ちくま哲学の森)

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