やすだ 😺びょうたろうのブログ(仮)

安田鋲太郎(ツイッターアカウント@visco110)のブログです。ブログ名考案中。

裸はなぜ恥ずかしいのか?/植物🌼動物🐵ヒト👩の羞恥心


 どうもこんにちは、安田鋲太郎です(・ω・)ノ ウェーイ

 

 さて僕はたいへん研究熱心な性格なので、仕事や家事や読書の合間を縫って、いや元来ならそれらに充てるべき時間の一部まで割いて、精力的にAVをフィールドワークしています。
 それでつねづね思うんですが、AV女優って人前で脱ぐことを恥ずかしがってないように見えるんですね。
 それは一体何故なのか。慣れなのか。本当は恥ずかしいけどそうではないように演技しているのか。あるいはもともと羞恥心の希薄な人がAV女優になるのか――というようなことをつらつら考えていたら、昔、パイセンに澁澤龍彦の『エロティシズム』を貸した時のことを思い出しました。
 今ならなんということもない話だけどそこは昭和生まれの学生。『エロティシズム』に出てくる次の言葉にパイセンは強い衝撃を受けたのでした。

 

 ところで注意すべきは、花とは植物の性器である、という事実だ。
 (澁澤龍彦『エロティシズム』、以下太字は安田による)

 

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 「花って性器なんですよ。これ意外と知られてないんですけど」


 「澁澤って人すげえこと言うな」とパイセンは僕に言いました。はい純粋ですね。
 さて澁澤龍彦は次のように続けます。

 

 誕生日の贈り物に、馬や猫の性器をプレゼントしようなどと考える人間は、どこにもいないにちがいない。もしそんなことを考えるひとがいれば、気違い扱いされるにきまっているだろう。女の子は気味わるがって、逃げてしまうだろう。
 植物の性器が、色彩においても匂いにおいても、あのように美しく、しかも公然と人々の鑑賞の眼ざしにさらされているのに、一方、動物の性器が、一般に醜く滑稽なものと思われ、誰もこれについて語る者さえいないのは、よくよく考えてみると、まことに不思議なことではないだろうか。
 (同書)

 

 最近『どうぶつのおちんちん学』という本が刊行され、これなどを見たら澁澤龍彦も「ようやく動物の性器について語る者が出てきたか」と溜飲を下げるかも知れないけれど、僕の知るかぎりでは『動物のおまんまん学』はまだ出ていないので、まだ澁澤を完全に満足させるには至らないかも知れない。
 閑話休題、澁澤龍彦は植物、動物ときてさらに人間に話を進めます。

 

 これが人間の場合になると、性器の露出は法律上の軽犯罪になるのだから、植物の場合とくらべて、ずいぶん違ったものである。人間の文明は、どうやら性器の隠蔽とともに始まったらしい。アダムとイヴが前を隠したイチヂクの葉っぱは、もっとも簡単かつ原始的な人間の服装であり、おそらく文明の第一歩を象徴する小道具だった。
 (同書)

 

 われわれAVヘビーユーザーも、果たしてヒトが裸――とくに性器を隠さないまま平気でいるようだったら、わざわざお金や時間を割いてまでAVを観たりヌード写真を買ったり、不届き者であれば覗き・盗撮をしたりといったことを行おうとするかはあやしい。
 ただ、デューク大学医療センターのサル園では、アカゲザルたちにフルーツジュース(人間にとっての通貨に相当する)と引き換えにメスザルの会陰部の写真を眺めることが出来るようにしたところ、オスたちは喜んで「エロ画像」を見続けた、とのこと。

 

 ウルフガングはお尻の画像を見るのが大好きだ。お気に入りは、モデルがかかがんだポーズ、大きく脚を開いたポーズ、床に手をついたポーズの画像だ。彼はそうした画像が大好きなので、見るためなら、支払いをすることもいとわない。1日に7回支払うこともある。それでは多すぎる感じはするが、びっくり仰天するほどの話ではないだろう。しかし、驚くなかれ、ウルフガングはサルなのだ。
 (オギ・オーガス&サイ・ガダム『性欲の科学』)

 

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Monkeys like porn too › News in Science (ABC Science)

 

 ということは、「メスの裸を観たい」という心は、少なくともサルの時点ですでに始まっていることになる。
 なおオーガス&ガダムにかぎらず、男性の性欲が視覚先行であるのに対し女性はそうではない(強いて言えば関係先行である)ことはつとに指摘されているので、ここでは「男の裸を見たい女だっている」とか「別に好きでもない女の裸を見たいと思わない」(本当か?)というような指摘は、頭の片隅に入れておくに留めて本文では扱わないので了解されたい。

 

 さてそろそろ本題に入ろう。どうして我々人間は、裸とくに性器を見られるのを恥ずかしがるのか?(逆に言えばなぜそれを――とくにオスは――見たがるのか?)それについて若干の考察を加えてみよう、というのが今回のブログの趣旨である。

 

 *

 

 とっかかりとなるのは、先日ふと古書店の店先で『シェーラー著作集』の端本を眺めていた時のことだった。フッサールの弟子でありハイデガーの兄弟子にあたるマックス・シェーラーは、現象学をベースとした探究からやがて哲学的人間学を提唱するに至ったことで知られているが、彼の遺稿集にあたる最終巻(第15巻)に「羞恥と羞恥心」という論文が含まれていた。

 

 僕は「なぜ人は裸を恥ずかしがるのか」というテーマにかねてから関心があったので、さっそく買い求めて読んだところ、あの澁澤龍彦の「植物の性器がうんぬん」という記述のいわば「元ネタ」とも思えるような箇所があったのだった。
 それはシェーラー自身ではなく、ショーペンハウアーの言葉としてシェーラーが引用しているくだりだ。

 

 植物は一般にみずからの生殖器をあからさまに無邪気に、しかもみずからの存在の極地であるかのように人目にさらす。あたかもそれによって植物は、その存在の意味が徹頭徹尾生殖にのみ制限されていることを言い表そうとしているかのようである。これに対して動物は(中略)全体的にみて生殖器を「隠し」、それを作用系とこれの属する神経的中枢器官とのもとにきびしく従属させるという形で生殖器を身に具えている、というのである。
 (『シェーラー著作集 第15巻』所収、「羞恥と羞恥心」)

 

 べつに澁澤龍彦がパクったとかそういうことが言いたいわけではない、というか澁澤龍彦にちょいちょい剽窃があることは羞恥、もとい周知のことで、それを今さら追及するつもりはない。しかし花は性器でうんぬん、という澁澤の記述がシェーラーまたはショーパンハウアーの影響を受けていた可能性は高いのではないか。

 

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 澁澤龍彦が例として挙げているのはダリアだ。

 

 ショーペンハウアーはそれ以上のことも言っている。あたかも植物は生殖のためだけに存在するかのようだ。だが動物はそれに対し、生殖器を「隠し」、神経的中枢器官のもとにきびしく従属させらるという形で「具え」ているという。これは何を意味するのか。
 前後のシェーラーの議論を見てみると彼は次のように主張している。植物の生殖過程がきびしく環境と季節によって拘束されているのに対して、動物の交尾期は感情や衝動にもとづいて行なわれるのだと。
 そして、このように周期的規則性から距離を置くことによって、動物には、人間であったら「羞恥」と呼ばれるような随伴的感情活動の可能性が必然的に生じるのである。

 

 人間の性的羞恥心というのは、性欲動および生殖欲動の活動の目ざめと終止という、人間の場合弱い痕跡でしか存しない客観的リズム性に代わるところの、より不安定な感情的代償でもあることを示している。そのさいこの感情的代償の不安定性と可動性とともに、もちろんまたただちに、欲動活動に対して抑制したり譲歩したりするための、事例の個体化をいっそう強力にめざすより重要な意義が結びついているのである。
 しかしまさしく人間のもとにおいて、これらの現われの内にすでに存する羞恥の感情が、その客観的=物的な装いを漸次失っていき、そして一つの感情となるのである。
 (同書)

 

 これは思い切って単純に述べるとこういうことになるだろう。
 つまり「植物がいつ生殖するかは自然の拘束で決まり、植物自身が決めているわけではない。動物は発情期なんかもあるけれど、植物に比べるとかなり自分自身でいつ誰と生殖するかを決めている。人間は動物よりもさらに自然の拘束から自由で、ほとんどすべて自分自身でセックスをコントロールしている。だがこれは逆に言えば、自然の拘束に任せることが出来ないということでもあり、代わりに羞恥心を自己コントロールに使っているのだ」云々。

 

 ここで押さえておきたいポイントは、シェーラーにとって「羞恥心」その他もろもろの心は人間においていきなり発生したわけではない、ということだ。むしろ動物や植物を含む広範な「有機的なものと心的なものとがたがいに結びついている生命領域に認められる」(E・ロータッカー)のであり、したがって「羞恥心」は、自然に律される存在としての植物に、そのはるかな原型を辿ることが出来るようなものとして想定されているのであり、人間とそれ以下の動物・植物を分かつものは、ひとえに《精神》、すなわち「有機的なものの束縛からのそれの実存的な離脱」(同)ということになる。

 

 こうした論旨は、れいの「生きた自然からのズレ」という哲学的人間学の根本的な人間観から演繹されているものだろう。哲学的人間学におけるこうした人間観について、浅田彰は次のような文言にまとめている。当ブログでも何度か言及している(下記参照)ので恐縮だが、やはりこれが僕の知るかぎり最も明解かつ簡潔だと思うので、いまいちど引用しておく。

 

 生きた自然からのズレ、ピュシスからの追放、これこそ人間と社会の学の出発点である。人間はエコシステムの中に所を得て安らうことのできない欠陥生物であり、確定した生のサンスを持ち合わせない、言いかえれば、過剰なサンスを孕んでしまった、反自然的存在なのである。
 (中略)

 シェーラーは、有機体が環境世界被拘束性(Umweltgebundenheit)を特徴とするのに対し、固有の環境世界をもたない人間は世界開放性(Weltoffenheit)を特徴とするという定式化を行ない、プレスナーは、環境世界の原点に安住している有機体を中心的(konzentrisch)、中心からずれてしまい自己との間にすら距離をもたずにはいられない人間を離心的(exzentrisch)と呼んで、そこから各々の人間学を展開したのである。特に、シェーラーが人間を「おのれの衝動不満足が衝動満足を超過してたえず過剰であるような(精神的)存在者」と呼んでいるのは興味深い。
 (浅田彰『構造と力』)

 

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 なお浅田によると、こうした哲学的人間学における人間観が、バーガー=ルックマンの社会学(つまり構築主義)の重要な基礎になっているとのことである。自然の拘束から離脱している、あるいは「本能が壊れている」からこそ、さまざまな社会的構築が文明と秩序の維持のために必要である、ということであろう。

 

 *

 

 さて本題に戻らなければならない。
 シェーラーの論旨に従うならば、我々が衣服をつけるのは恥ずかしいからであって、衣服をつけるようになったから恥ずかしくなったのではない。なぜならすでに見てきたとおり、我々は羞恥心(だけとは言わないが)によって生殖行為――人間においては性愛――を制御しているからであり、早い話が「するつもりもない時に裸が見えてしまっては不都合」なのである。

 

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https://ifunny.co/picture/my-lucky-lewd-syndrome-never-mQBYL3nB7

 

 こういう話をすると、おそらく「哲学的人類学者」ハンス・ペーター・デュルのノルベルト・エリアス批判を思い起こす方が多いのではないかと思う。
 デュルは云う。エリアスはルネサンス以前の市民や《未開》社会の成員は自らの〈動物性〉をあまり管理していないというが本当にそうか? 彼らは裸体、性、排泄、身体から発する音、体臭等々についてひじょうに大っぴらで羞恥心がずっと少なかったというが本当にそうか?
 デュルに言わせれば、裸が恥ずかしいのは人間の本性なのであって、人間がおおむね文明によって羞恥心を身に着けたとするエリアスは間違っている。

 

 デュルの「文明化の過程の神話」(これ自体がエリアスの「文明化の過程」への批判的意図が込められているのは言うまでもない)において彼が用いた傍証は、フレイザーやフックス、あるいはジャン・ドリュモーを想起させるようなすさまじい博覧強記の賜物である。
 それらの逐一を紹介するのはきりがないので出来ないが、例えばギリシア・ローマの古典劇や中世受難劇のト書にある「裸」は、デュルの検証によれば全裸を意味するのではなく、「薄物をまとった」の意であるという。

 

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 あるいはこの中世細密画にしても、エリアスはこれをもって「中世では人は浴場に大勢裸で入浴し、それに対して羞恥心はなかった」と論じているが、デュルによればこれは一般の公衆浴場ではなく売春宿なのであり、したがって、これを以て中世人一般の日常生活における羞恥心を語ることは出来ないのである。
 あるいはニューギニアのクウォマ族では女性の陰部周辺を、自然な一瞥を一秒でも越えて眺めているところを取り押さえられたり、あるいは言いつけられた男は、激しい叱責を受けたり殴られたりする。
 こういう傍証が十や二十ではなく何百と述べたてられているのがデュルの凄まじいところで、さしずめ、ひろゆきが「なんかそういうデータあるんですか?」と問うたならばデュルは、「データはありませんがこういう例があります。またこういう例もあります。またこういう例もあります。またこういう例もあります。またこういう例もあります。またこういう例もあります。また……」と際限なく傍証を挙げ続けるだろう。
 そもそもエリアスと彼のあいだの論点である「〈文明化〉以前から人は裸その他諸々を恥ずかしがっていたか?」というようなデータに頼れない問いについては、デュルのアプローチ(そしてそれを可能にする甚大な労力)に勝る方法があるだろうか。

 

 それではデュルの羞恥心についての説明はどのようなものか。
 彼は女性の陰部にたいする羞恥心について次のように述べている。まずチンパンジーの雌と人間の女性における、物理的な信号の有無について考察が加えられる。

 

 哺乳動物の雌は排卵期に明確な発情の信号を送るのに、女性の発情は隠されている。たとえば野生のチンパンジーの雌は三五日ごとに訪れる月経の半ばで、陰門を《中くらいのプディング皿の大きさ》になるまで薄バラ色に膨らませるが、女性は――嗅覚信号もわりと慎ましいものだが――それと比較できるような膨張を示すことはない。
 (ハンス・ペーター・デュル『秘めごとの文化史』)

 

 アカゲザルのウルフガングが見たがっていたのもこれだ。ウルフガングが飽きずに眺めていたメスザルの「会陰部」というのは、オーガス&ガダムの説明によれば「医学用語で、この場合はサルの内股の明るいピンクの部分を指す」とのことである。
 デュルは続けて述べる。

 

 そこで女性の陰部に対する羞恥が意味するものは、女性はこうした招待を無駄にする、つまり手当たり次第あらゆる潜在的なセックスの相手に性的魅力を贈るのではなく、特定のパートナーに制限すること、にほかならない。
 それゆえ恥じらいとは、得に〈魅力的な〉身体部分を公衆の視線にさらさず、英語で陰部を《Private Parts》と表現するように、私物化するものなのである。換言すれば、女性は自分の陰部を私的領域として扱うことにより、性交準備OKの信号を送るのをある程度まで管理するのである。
 (同書)

 

 デュルはシェーラーとほとんど同じことを主張しているように思える。
 まずチンパンジーのような哺乳動物の雌の生殖行動が、まさにシェーラーの言うような「客観的=物的な装い」を持っているのに比べ、人間女性はそれを持たず、代わりに羞恥心という「一つの感情」がその役割を担っているというのだから。
 だがこの箇所の註を見てみると、じつは両者の考え方には相違があることがわかる。

 

 この箇所の註において、まずデュルは「陰部を恥じる」ことと「陰部を見られるのを恥じる」ことを峻別している。したがってL・ヴルムザーのような、「人間がおのれの陰部を不完全なものと感じ、見せて物笑いの種になったり、拒まれたりするのを恐れるのが、陰部に対する羞恥の原因」だという主張を退ける。陰部それ自体が恥ずかしいのではなく、あくまで時ならず露出してしまうことが恥ずかしいというわけだ。

 

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『ゆらぎ荘の幽奈さん』第48話


 またたとえば「垂れ乳」のような、彼女の属する社会の美的規範とのズレに由来する羞恥も羞恥の根本原因ではないという。デュルによれば、そうした羞恥は「二次的な文化に固有の羞恥」であるにすぎない。そして、 

 

 それはまたわれわれがおのれの本性の《動物的なもの》と折り合えなかったゆえに、恥じたのとも違う(たとえばM・シェーラー、一九五七年、六八頁以下)。というのも、われわれは公の場で呼吸しても、この活動が同様に動物と共通であるとしても、恥ずかしくならないからである。私はまたしても〈垂れ乳の羞恥〉の存在を問題にしないように、この特有な羞恥が存在することにも異論を唱えようとは思わない。
  (同書)

 

 というのである。
 一九五七年というのは他でもない、シェーラーの「羞恥と羞恥心」が収録されていたSchriften aus dem Nachlaβ,Band I:Zur Ethik und Erkenntnislehre.つまり僕が古書店で買った本の原著を指している。

 

 途中までほとんど軌を一にしていたのだが、ここにきてデュルは、名ざしでシェーラーに異を唱えるのである。
 この論点はなかなか微妙である。デュルの立場に立つならば、「本性の《動物的なもの》と折り合えなかった」というような話はいかにも物語的で、確かに文句の一つもつけたくなる。そこで反証として、「《動物的なもの》のなかでも恥ずかしくないものだってあるじゃないか」ということで呼吸の例を持ち出したのだろう。
 だが〈垂れ乳の羞恥〉のように、シェーラー的な「《動物的なもの》と折り合えなかった羞恥」は存在しない、とまではデュルは主張していない。ただそうしたものは羞恥にとって本質的ではない、と述べるに留まっている。

 

 しかしシェーラーからすれば、「呼吸と一緒にされてもねえ」┐(´д`)┌とでも言いたくなるだろう。確かに呼吸じたいは恥ずかしくないにしても、例えばしゃっくりとか、くしゃみとか、息が荒いだとか、鼻が乾燥して笛のように音を立ててしまうといったような「気管支系の存在の主張」は、裸やまして陰部の時ならぬ露出ほどではないにしても、やはりそれなりに恥ずかしいではないか。

 

 つまりどちらの言い分も完全に決着するには至らないように思える。
 そこでいったん話を両者が共通しているところまで戻そう。少なくともシェーラーとデュルは「人間は羞恥心を性愛行動の制御に用いており、それは動物よりも自然の制御から切り離されていることからそうなった」というところまでは一致している。これをもって、当記事の暫定的な結論としたい。

 

 *

 

 もう一つ疑問が残っているのだった。「なぜ裸を見られるのが恥ずかしいのか」を問うと同時に「なぜ(主に男は異性の)裸を見たがるのか」も問うたのだった。
 これについては、ここまで述べてきたことを反転させれば自ずと解が得られるだろう。つまりデュルの言うように女性が羞恥心によって性交OKの信号を管理しているのだとすれば、逆に「恥ずかしい姿を見る」ことは性交OKのシグナルだと脳が受け取るのであろう。
 むろんそれは勘違いではある。過去記事で何度か触れたことがあるが(下記参照)、脳はわりとなにが現実でなにが虚構かわかっていないので、ポルノを見ても報酬物質が分泌されてしまうというのが当ブログの仮説だ。

 

 タブをいくつも開き、何時間もクリックを続けると、狩猟採集民だったご先祖が生涯かかっても体験できなかったほどの新しいセックスパートナーを、十分ごとに「体験」できる。
 (ゲーリー・ウィルソン『インターネットポルノ中毒』)

 

 これは進化論的時間単位の話なので、脳は現実のセックスとポルノのそれを完全には区別できない。
 (中略)
 おそらく前頭前野がそれを区別する役割を果たしているのだが、感覚器官やその伝導路自体は本物かどうかを判断してはいない。そして前頭前野も常にベストのパフォーマンスを発揮しているわけでもない。それゆえにポルノを観たところで生殖機会はこれっぽっちも増大していないにもかかわらず、いわば脳が騙されて一定の快楽物質が放出される。
 (当ブログ「インターネットポルノ中毒と新世紀のヒューマニズム」)

 

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 そうであるならば、たとえば覗きや「ラッキースケベ」のようなかたちで裸を見てしまっても、(少なくとも現代社会においては)生殖機会が増大するということはないわけだが、ポルノの場合と同様、脳は「実際に生殖機会が増大しているかどうか」を判断できないので、報酬物質を分泌させる=したがって見たがる、のだろう。

 

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 バルテュス《夢見るテレーズ》(1938)

 

 *

 

 さてひととおりの答えが出たので、そろそろ締めくくりたいと思う。
 そういえば、冒頭の「AV女優が人前で脱ぐことを恥ずかしがっていないように見える」ことについては、おそらくAV撮影というある意味において「性交OK」な場なのでしかるべく羞恥心が制御されている(もちろんデビュー作から、というわけにはいかないだろうけど)と理解するのが、今回の記事の論旨に添っているだろう。つまりそんなAV女優も、日常の場で不意に裸を観られてしまえばやっぱり人並みに恥ずかしいのでしょう。では一句

 

 AV女優 撮影日以外は ただの人(字余り)

 

 こうしたことはすべて暫定的、かつ私的な結論にすぎないことは申し添えておきます。
 デュルの膨大な傍証は揺るぎないとは思うし、哲学的人間学にも相応の蓄積があることはわかっているけれど、まあ結局のところ、僕の見解もやがては変わるかも知れない。けれど今のところはこれが一番妥当なんじゃないかな、という話です。
 全然おあとがよろしくねえんだが、ともあれ今回はこのへんで(・ω・)ノシ

 

 

 
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Web3はデジタル社会主義の到来か?


 新春おめでとうございます。安田鋲太郎です(・ω・)ノ✨

 

 僕は春になるとテンションが上がって、まるで新入生のように様々な新しいことにチャレンジしたくなります。そんなわけで『WIRED』の最新号で最先端(?)の世の中の動向をキャッチしようかな、と買ってみたわけです。特集は「Web3 所有と信頼のゆくえ」。そうしたら、次のような言葉が飛び込んできたわけですね。

 

 プラットフォームに搾取されてきたWeb2.0時代のクリエイターはNFTを武器にWeb3へと〝大脱出〟しようとしている。作品の〝所有〟はクリエイターに戻りファンやパトロンは単なる支援者から作品をともに〝所有〟し、収益を得られる世界へと進出する。
 (『WIRED Vol.44 特集:Web3 所有と信頼のゆくえ』、以下太字は安田による)

 

 現在のわたしたちを取り巻く「Web2.0」は、中央集権型の時代だ。要するに、グーグルやフェイスブック(現在の社名はメタ)、アマゾンなどの圧倒的な力をもつ一握りの企業が所有する閉じたプラットフォーム上で通信と商業の大部分が展開され、中央集権型の政府規制当局による管理は名ばかりという状況だ。Web3は、そんな独占的支配から世界を解放するとされている。
 (同書)

 

 Web3上につくられたプラットフォームやアプリを所有するのは、集権化したゲートキーパーではなくユーザーたちだ。そうしたサーヴィスの開発と維持に協力することで、ユーザーたちがオーナーシップを獲得することになるのだ。
 (同書)

 

 なるほど、するってえと今のWeb2.0の世の中はGAFAに支配されてるけれど、新しいWeb3の世の中じゃ、クリエイターの作品も、アプリも、プラットフォームも、クリエイターやユーザーの手に戻ってくる、それで法外な(?)ショバ代に苦しまなくてもよくなるし、無慈悲な市場競争に晒されるのではなく、「わかってくれる」ユーザーたちと一緒に価値を作ってゆける、そういうコミュニティや経済圏がどんどん広がって来るってえわけだ。畢竟、我々の働き方や暮らしも変わらざるを得ない。大変な話ですよこれは。
 「只しそうなるか、Web2.0のような中央集権体制が維持されるかは、これはまったく我々の双肩にかかっているんだよ」みたいなことも言われているが、ともあれこいつは素晴らしい。もしそういう話なら大いにやっていただきたい。

 

 そして、そういうことを可能にする中核となる技術は暗合化通信やブロックチェーンなのだそうだ。ブロックチェーンとは何かというと、

 

 ブロックチェーンは情報を記録するデータベース技術の一種で、ブロックと呼ばれる単位でデータを管理し、それを鎖(チェーン)のように連結してデータを保管する技術

 ブロックチェーンとは?意味・定義 | ITトレンド用語 | NTTコミュニケーションズ

 

 であり、したがって

 

 参加者の中に不正を働く者や正常に動作しない者がいたとしても正しい取引ができ、改ざんが非常に困難で、停止しない、多数の参加者に同一のデータを分散保持させる

 【保存版】超わかりやすいブロックチェーンの基礎知識|ビジネスブログ|ソフトバンク

 

 とのことだ。NFTとはブロックチェーン技術による代替不可能なデータ単位のことで、たとえば「NFTアート」といった場合にはクリエイターの作品を指したりする。

 

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Blockchain Asset Ecosystem Idoneus Teams With Crypto Consultancy Firm C6 Advisors - IntelligentHQ

 

 おお、なんとなくWeb3のことが理解できてしまった(気がする)。
 他にも、一つの組織に雇用される必要はなくなり、複数のDAO(分散型自律組織。これもブロックチェーン技術を利用し、決まった管理者はおらず共同経営みたいな形をとるらしい)にモチベーションに応じて貢献するというような働き方が訪れたり、ゲームで暗合通貨を稼いで法定通貨に換金できたり、学びながら暗合通貨を得る(Learn to Earn)モデルが我々の幸福(well-being)を促進するといった話もあるが、とにかくどうだろう、専門的には色々言いたいことがあるかも知れないけれど、大まかにはWeb3とはそういう話だってことでいいんじゃないだろうか。

 

 *

 

 それにしても、テクノロジーそのものには意図がないかも知れないが、こうしたテクノロジーが人類にとって何を意味/示唆するのかという話になると、Web3をとりまく言説はどうしてもマルクスの疎外論を彷彿とさせる。これは決して牽強付会ではなく、今から示すように誰が見てもそうだし、おそらくWeb3の宣教者たちの根底となっているマインドに、疎外論やカリフォルニアンイデオロギーと通底するものがあるのだろう。
 たとえば『経済学・哲学手稿』の次のくだり。

 

 それは、労働が生産するところの対象、労働の産物は労働にたいして一つの異物として、生産者からは独立な一つの力として対峙してくるということにほかならない。労働の産物はある対象のうちに定着し、物的となった労働であり、労働の対象化である。労働の現実化はそれの対象化である。労働のこの現実化は国民経済的状態においては労働者の現実性の喪失、対象化は対象の喪失および対象への隷属、そして獲得は疎外として、手放すこととしてあらわれる。
 (マルクス『経済学・哲学手稿』)

 

 では「異物」として対象化され、手放された生産物は誰の手に渡るのか。そう、資本家の手に渡るのである。

 

 こうして、疎外され手放された労働を通して労働者は、労働とは無縁な、労働の外にいる人間のこの労働にたいするあり方を産み出す。労働者の労働にたいするあり方は、資本家――そのほかのどんな名で労働をさせる主がよばれようと、――の労働にたいするあり方を産み出す。それゆえに私的所有は手放された労働、労働者の自然と彼自身とにたいする外的なあり方の産物、結果、必然的帰結である。
 (同書)

 

 誤解なきように言っておくと、ここに出てくる「私的所有」というのは俗流マルクス解釈で言われるような「私有財産」のことではまったくない。『経済学・哲学手稿』の文脈における「私的所有」とは、労働者の生産物が彼自身から引き離され、(不当にも?)資本家のもとに所有されることを指す。
 次の文も、そのことを踏まえたうえで読まれるべきだ。

 

 疎外された労働の結果として生じてきた私的所有の普遍的本質を、真に人間的かつ社会的な所有にたいしてそれがどんなあり方をしているかという点で、規定すること。
 (同書)

 

 多くを説明する必要はないだろう。先ほど見たように、Web3の根本的なイシューの一つに生産物の所有をめぐる問題があった。典型的にはアーティストがGAFA的なものに占有されたプラットフォームを媒介しなければ収益を得ることが出来ない(『WIRED』は「搾取」という言葉さえ躊躇なく使っている)こと等だが、根底にあるのは、マルクスのいうような「真に人間的かつ社会的な所有」を実現しうるかどうかなのである。
 その具体的姿は未だに曖昧模糊とした部分もあるが、少なくとも、生産者やユーザーがそうしたコミュニティ/経済圏の共同主催者となり、したがってコミュニティとの一体感を感じながら日々の仕事とともに運営をしてゆくといったものになりそうだ。
 その点について、もう少し掘り下げて考えてみることにする。

 

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 *

 

 文化人類学者マーヴィン・ハリスといえば、宗教であれ伝統的風習であれ、人間の信念体系ならばなんでも物質生活に還元して説明するという、恐るべき辣腕を振るう著者として知られている。
 彼は自らのアプローチを文化物質主義(Cultural Materialism)と呼んでいる。これは文化人類学的にいえば機能主義にかなり近しいが、僕はむしろマルクスの下部構造論を「実際にやってみた」学者、その可能性を追窮した人として畏敬している。
 そんな彼に『アメリカは、なぜ』(1981)という現代アメリカ社会について分析した本がある。この本の女性の社会進出や同性愛に対する否定的なニュアンスは問題なしとはしないが、さておき今回の記事の文脈に即して興味深い指摘がある。
 ハリスは問う。なぜアメリカは欠陥商品だらけなのか。

 

 かつて、扇風機はいつまでも使えるものだった。いまでは、プラスチック製の羽根はヒビが入りやすく、取り替えねばならない。電気掃除機のプラスチック製ハンドルはぐらぐらし、壊れる。コードがスイッチからはずれる。モーターは焼ける。クツヒモを買って一ヵ月後に、強く引っぱると、切れてくる。または、プラスチックの小さな口金が取れ、よれよれの端では穴を通らない。
 バンドエードがほしいため、救急箱を探す。「端を破り、ヒモを引いてください」と書いてある。ところが、ヒモは端にすべり、取れてしまう。同じ原理の書籍用小包袋がある。「つまみを引いてください」。つまみを引くとなかから汚い詰めものがいっぱい床の上に落ちてくる。
 (マービン・ハリス『アメリカはなぜ ひび割れ社会の文化人類学』)

 

 ハリスの一連の描写は、その集大成として欠陥自動車の問題に行き着く。
 ともあれ、そんな状態なので消費者はなにかと「手作り」というラベルを尊重し、職人の作ったものに高い金を払う。この点は現代の日本でも同様で、CMを見ると「職人が丹精を込めて一つ一つ手作りしました」とか「お客様の喜びが私たちの喜びです」的な訴えが、たんにこの商品は豪華であるとか高品質であるといったことよりも遙かに重視されている。
 その理由はもちろん、壊れにくく長持ちすることが期待されているからだが、では一体なぜ「手づくり」のものは長持ちが期待できるのだろうか?
 これについてハリスは興味深いことを言っている。彼によれば、我々が「手づくり」というラベルを尊重するのは、つくり手の技術が高いからではなく、むしろつくり手と使い手の間の社会的関係を連想させるからだというのだ。

 

 前史時代を通じ、つくられたものの最高度の信頼性と耐久性を保証したのは、つくり手と使い手が同一人物ないし肉親だという事実である。男は自分自身の槍と弓と矢と矢ジリをつくった。女は自分自身の籠と網袋を編み、獣皮や木の皮、繊維から自分の衣料をつくった。
 (中略)
 後年、テクノロジーが発達し、物質文化が複雑になると、部族や部落の異なったメンバーが陶器づくりとか、籠編み、カヌーつくりなどの職人専門職を採用した。多くの品物が物々交換や取引によって入手されたものの、つくり手と使い手の結びつきは相変わらず親密で、恒久的で、心が通っていた。
 (同書)

 

 そうなると、何故それがダメになったのかの理由も自ずとわかろうというものだ。
 現代の大量生産・大量消費社会においては、作ったものを使うのは赤の他人であるし、作る側も経営者と労働者に分かれ、労働者はさらに生産そのものに従事する人間、店員、セールスマン等々に細分化されている。そしてもちろん製作過程そのものにも細かい分業体制が敷かれている。
 こうして、品質に責任感を持たせていた個人的で親密な結びつきに、金銭関係が取って変わったのである。

 

 私の基本的主張はこうである。第二次大戦後、アメリカの製造会社がかつてなく大きく、複雑になり、それとともに疎外感を持つ無頓着な労働者と経営者が増えた結果、品質の問題は危機的状況に達した。これは、大企業だけが品質の問題をかかえているということではない。小企業も欠陥品をつくらないわけではないが、自由企業制度では、そんな企業は長続きしないだろう。大企業は疎外感を持つ労働者、管理職、欠陥品の山をつくり出すだけでなく、そのまま経営を続けやすい。
 (同書)

 

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Good riddance to social media mass production

 

 このハリスによる議論がマルクスの疎外論を演繹したものであることは明らかであろう。
 ハリスは「製品に責任感を持たせた親密で個人的な結びつき」は「金銭関係に取って代えられた」と述べているが、実はマルクスも先の著書のなかで同様の発言をしている。引用しておこう。

 

 それゆえにまたわれわれは、労賃と私的所有が同一物であることをも見抜く。けだし労働の産物、労働の対象が労働そのものに賄うところの報酬としての労賃は労働の疎外の一つの必然的帰結にすぎないのだからであり、だからこそ労賃のかたちで労働は自己目的としてではなく、かえって賃金の下僕としてあらわれるのである。
 (マルクス『経済学・哲学手稿』)

 

 またハリスは別のところで、「マルクスの疎外論は工場労働者を念頭に置いているが、現代においてはホワイトカラー、ピンクカラー(当時のアメリカでは、主にキャリアではなく生計のために働く低賃金かつ単純技能職の女性勤労者を指す)も同じように疎外感を持ちうる」という意味の指摘をしている。

 

 さていっぽう、こうした議論がWEB3側にもあるかというと、実はあるのである。
 『WIRED』に収録されたギャヴィン・ウッド(イーサリアムの共同創設者)へのインタビューで彼が語ったWeb2.0の問題点は、マーヴィン・ハリスの議論と驚くほど似通っている。

 

 Web2.0のモデルは、インターネットが存在しなかった時代の社会モデルとほとんど変わらないと思います。500年前の人々は、基本的に地元の小さな村や町に閉じこもり、知り合いと取引をしていました。要するに、社会のメカニズムに依存することで、自分たちの期待が実現するはずだという確信を担保していたのです。期待とは例えば、このリンゴは腐っていないとか、この蹄鉄は3週間使っても壊れないといったことです。町の行き来は時間もお金もかかって大変なので、その仕組みはそれなりにうまく機能していました。人々が定住したいとか町から追放されたくないと考えていたことで、高い信頼性が築かれていたのです。
 でも、社会が大規模になると、都市や国、国際機関などが登場し、そうしたある種の〝ブランド〟の評判に基づく奇妙な社会システムに移っていきました。
 (中略)
 ぼくたちはこれを超えていかなければならない。でも残念なことに、この中央集権的なモデルにおいてWeb2.0が俄然と存在し続けているんです。
 (『WIRED Vol.44 特集:Web3 所有と信頼のゆくえ』)

 

 つまり作り手(クリエイター)と使い手(ユーザー)の紐帯を取り戻すこと、そのようなコミュニティ/通貨/経済圏の生成。
 これもまた、「生産者による生産物の所有」というイシューと同じように、GAFA的なもの=資本家によって現在は阻まれているのでNFTやDAOを武器に改革しなければならない、というのが彼らの世界観でありミッションなのだ。冒頭で、Web3の宣教者たちのマインドに疎外論やカリフォルニアンイデオロギーと通ずるものがあるのではないか、と述べたのはそのためである。
 ……まあ「Web3の宣教師」というとちょっと斜に構えたように聞こえるかも知れないのでそれは訂正しておく。ここまで見てきたかぎりでは、僕はWeb3の推進者たちには比較的好意的である。ただし、それは当記事で述べたような労働者解放的なマインドを失わないかぎりにおいてであることは言うまでもない。

 

 *

 

 実をいうと、インターネットと社会主義に共通性を見出すという発想はそれほど目新しいものでも奇抜なものでもない。むしろIT文明論のなかでは繰り返し表れるモチーフであると言える。その傍証を二つほど挙げておく。

 

 『WIRED』の創刊編集長であるケヴィン・ケリーはかつて、「デジタルカルチャーにはコミューン的な性質が広く深く浸透している」「階層構造からネットワークに、中央集権化した決定機関からシェアのデフォルトである分散化したウェブへ、という流れは過去30年にわたる文化の中心テーマだった」と述べている。
 ケリーは2016年の段階ですでに「デジタル版社会主義のようなものができあがりつつある」と予見していた。彼によれば、

 

 祖父の世代の、政治的な意味での社会主義を指しているのではない。実際のところ、この新しい社会主義と過去のものが違う点は挙げればきりがない。これは階級間闘争を意味するものではない。反アメリカ主義的なものではまったくなく、デジタル社会主義はアメリカの最新のイノベーションとなり得るものだ。昔ながらの政治的社会主義は国家の手段だったが、デジタル社会主義に国家は出てこない。新しいこの社会主義は政府のものではまるでなく、文化と経済の領域で機能している――いまのところは。
 (ケヴィン・ケリー『〈インターネット〉の次に来るもの』)

 

 とのことである。

 ケリーは「いわゆる社会主義」に対しては相当に警戒的であり、自らを社会主義者と思われぬよう慎重に予防線を張っている。どこまでが読者への配慮でありどこからが彼自身の信念なのかはわからないところがあるが、ともあれ「いわゆる社会主義」ではないものの、社会主義とも相通ずるシェア、協力、コラボレーション、集産主義といったものは「デジタル版社会主義」への確かなトレンドを指している、との見立てである。

 

 全米でベストセラーとなった(と帯に書いてある)ジョージ・ギルダー『グーグルが消える日』(2018)においても、「シリコンバレーの新マルクス主義者」にまつわる議論がある。
 ただし、ギルダーの場合はweb2.0を牽引したグーグルやその他「シリコンバレーの巨人たち」のことを「新マルクス主義者」と呼んでおり、「マルクスも新マルクス主義者も今の時代を最終的な姿だと思っているがそれは間違いで、その先があるんだぞ」(大意)と述べている。
 そしてギルダーによる「その先」というのはまさにブロックチェーン技術や暗号通貨のことであり、それによって「グーグルのネットワークモデルに対抗し、インターネットを再び分散型のネットワークに戻そう」とする、つまり彼もまた今回ブログで紹介したような話をしているのである。

 

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Capitalism vs. Socialism | PolicyEd

 

 まあなにやら、ハリスにせよケリーにせよギルダーにせよ、社会主義やマルクス主義というと必ず「この点は間違っている」とか「私の言いたいことと完全に同じではないが」というように留保付きで言及するという、いかにもなアメリカ人仕草があるが、ともあれネットと社会主義の切っても切れない関係については、その気になればまだまだ傍証が示せるであろう。
 なおネットとグノーシス主義の関係については別に一文をしたためたことがあり(下記1)。そのグノーシス主義とマルクス主義とくに疎外論がきわめて近しいものであることについても書いたことがある(下記2)ので関心のある方は参照されたい。

 

visco110.hatenablog.com

 

visco110.hatenablog.com

 

 *

 

 最後に。
 忘れてはならないのは、Web3はけっきょく中央集権的なものの繰り返しになるのではないか、あるいはGAFA的なものが巧妙に姿を隠しながら支配を続けるのはないか、という危惧もちらほら耳にすることだ。
 僕自身は正直なところ、そこまでGAFAによって疎外されている自覚がない(ないんかい)ので、そのてんWeb3の推進者たちとの間では温度差があるのだが、もしGAFA的なものが現状で旨い汁を吸っているのなら、ぽかんと口を開けながらヘゲモニーが失なわれるのをただ見ている、なんてことは確かに考え難い。
 また、なにやら儲かりそうだからといって、昨日今日Web3を知ったような連中が専門家づらをしてコンサルティングしてまわったり、といった憂うべき状況もすでに起こりつつあるようだ(今回の『WIRED』のなかにそういう指摘をしている人もいる)。したがって未来はまったく楽観視は出来ない。それこそ我々一人一人の双肩にかかっている、らしいよ。

 

 ……といったところで今回のブログはここまでとします。
 あまりこういう話ばかりしているとアナログなものを求めたくなりますね。PCの壁紙を田舎の線路にして、youtubeで森林の音でも聴きます。ではまた(・ω・)ノシ

 

 

 

 なお当記事は『マルクス・エンゲルス8巻選集 第1巻』所収の「経済学・哲学手稿」から引用していますが、それは筆者の趣味なので、読むならばこちらのほうが標準的です。    

UMAと人類学的偽造の時代


 さまざまなUMA(未確認動物)を眺めていると、意外な背景を持っている者がちらほらいる。政治、宗教、あるいは狂気……そういった人間社会の闇から、それらの生物はしばしばやってくる。たとえばジャージー・デビルとクエーカー教徒の内紛、天池水怪とSARS(2003年、感染症の流行によって訪中観光客が激減した直後にこの中国版ネッシーは一斉に20頭も姿を現わした)といったような。
 そんな中で、今回はモノスというUMAについて触れたい。というのも、モノスの抱える闇はUMAのなかでもひときわ深く、複雑な事情を孕んでいるように思えるからである。

 

 *

 

 モノスは1920年、南米ベネズエラの未開の森で人類の前にはじめて姿を現わした。
 このUMAは全身毛むくじゃらの、二足歩行をする巨大な猿ような生き物であり、探検隊の隊長フランソワ・ド・ロワの友人であった人類学者ジョルジュ・モンタンドンの発表によれば、既知のいかなる動物とも特徴が一致しない新種の類人猿であった。
 発表と同時にモノスの写真が公開されると、世界中に大きな反響が起こった。見れば「ああ、あいつか」と思う読者もいるだろう。次の写真がそれである。

 

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 はい、こいつです。
 今日では、モノスの正体はド・ロワが飼っていたクモザルだったことがほぼ確定している。
 写真だと一見巨大に見える(発表によれば全長157㎝、体重50kg)が実際にはそれほどでもなく、サルのような尻尾がないのは生前に病気で切断されたからであり、歯の数が32本あったというのもド・ロワがそう主張しているに過ぎない。

 そうした証言や写真から疑わしい部分を取り除き、”確実な部分”のみを抽出するならば、クモザルの特徴を越えるものは何一つないというのが専門家の一致した見地である。加えてド・ロワの友人による告白記事があり、それによればド・ロワはかなりイタズラ好きな性格でこうした行為に及んだのだという。

 

 問題は人類学者モンタンドンのほうで、このような稚拙な嘘も見抜けずモノスに「入れ込んだ」のには、彼自身のイデオロギーが深く影響していた、という指摘がある。
 モンタンドンは過激な人種差別主義者であり、「白人はクロマニヨン人から進化したが有色人種は類人猿から進化した」という信念を持っていた。

 

 彼の主張を要約すれば、人類は共通の祖先から進化したのではなく、各人種が別々に生まれたというものである。白人はクロマニヨン人から進化したが、他の人類は類人猿から進化したという。黒人はゴリラ、アジア人はオランウータンというように。
 ところが、こうした主張では、ひとつ説明できない欠点があった。それがアメリカ先住民の祖先で、アメリカ大陸では類人猿が見つかっていなかった。
 しかし、そのミッシングリンク(失われた環)にうまく当てはまりそうな類人猿がモノスだった。モンタンドンの主張は明快で、モノスこそ、探し求めていたアメリカ先住民の祖先だというものである。
 (ASIOS『UMA事件クロニクル』、太字は安田による)

 

 モンタンドンの主張は今日ではナンセンスなものに過ぎない。現在のおおかたの見解では、人類は一千万年前から五百万年前のどこかの時点でアフリカ産類人猿(ゴリラとチンパンジー)から分岐したが、そこから人類固有の長い進化の歴史を持つのであって、ひと口に「類人猿から進化した」と呼ぶのはふさわしくないし、第一白人もその例外ではない。
 しかし「白人のみがヒトの直系であり、それ以外の人種は進化の傍流あるいは隘路にすぎない」というものの見方自体は、当時の人類学者や古生物学者の間で広くイメージされていたふしがある。
 というのも、同じような発想による捏造事件が、モノスが「発見」されるほんの10年ほど前、イギリスのイースト・サセックス州においても起きているのである。それがあの悪名高い「ピルトダウン人」である。

 

 *

 

 そのことが事実でないことを願いましょう。でもたとえ事実だとしても、そのことが広く信じられるようにならないことを祈りましょう
 ――類人猿が人類の祖先であるという説を聞いたヴィクトリア朝の女性

 

 「ピルトダウン人」は、アマチュア考古学者であったチャールズ・ドーソンが1909年から1911年にかけて、イースト・サセックス州ピルトダウンから発見した化石人骨であった。
 発表されるや否や、ピルトダウン人は古人類学者たちに大きな驚きをもたらした。というのも、それまで見つかっていたネアンデルタール人やジャワ原人の頭骨はいずれも脳を覆う部分が小さく、代わりに顎骨や歯などは現代人に近い特徴を有していたのだが、ピルトダウン人はその逆に大きな頭蓋骨とオランウータンのような顎を持っていたのである。
 この骨を鑑定した大英博物館のアーサー・スミス・ウッドワードは、「ピルトダウン人は更新世初期の、現世人類の最古の祖先である」と結論づけた。

 

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ピルトダウン人の復元模型。存在しない形態をもつ、存在しない人類。

Piltdown Man - Alchetron, The Free Social Encyclopedia

 

 古人類学者たちは躊躇し、なかには嫌疑を示す者もいたが、大勢はピルトダウン人を真正なものとして受け容れた。
 実は彼らは、これまでの「脳が小さくそれ以外が現代人的な」人類の先祖にひどく自尊心を傷つけられていたのだった。ダーウィンの進化論はすでにほとんどの学者によって受け容れられていたが、それでも人間はなにかしら特別な存在であってほしい、と彼らは願っていた。
 その特別さとは、知性あるいは精神あるいは魂、といったさまざまな呼び方があるが、いずれにせよ脳に宿る何かであった。そうであるならば、サルからヒトになるときに、まず最初に脳が大きくならなければならないはずであった。

 

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A snapshot of our mysterious ancestor Homo erectus

 

 それゆえ、これまでの「人間の身体を持つサル」とは違って「サルの身体を持つ人間」であるピルトダウン人が彼らの眼前に現れたときに、通常なら発揮されたはずの学問的慎重さを擲って「これぞ人類の真の祖先だ!」と飛びついてしまったのである。この時の彼らの心境を、ケネス・フィーダーは次のように描写している。

 

 ピルトダウン人がサルからヒトへの進化の「ミッシング・リンク(失われていた環)」だとすれば、ネアンデルタール人もジャワ原人もそうではないことになる。ピルトダウン人とジャワ原人はほぼ同じ時期に生きていたが、ジャワ原人は原始的なままやがて消滅していった傍系なのかもしれない。ネアンデルタール人はピルトダウン人よりも年代がずっと新しいが、重要な部分(つまり脳)は原始的に見えた。ネアンデルタール人は進化の梯子を滑り落ちて、原始的な段階へと後戻りした形質を示しているのかもしれない。
 (ケネス・フィーダー『幻想の古代史』)

 

 フランスの人類学者マルスラン・ブールはピルトダウン人発見以前から、ネアンデルタール人は粗野で愚鈍な、進化の袋小路に陥った存在であり、現代人とは直接繋がっていないと論じていた(プレ=サピエンス説)。そしてピルトダウン人が発見されると、これこそ「人類の最も新しい種であるホモ・サピエンスに直接つながる祖先」であると説いた。

 

 ブールのいわゆる「プレ=サピエンス」説は、長い間広い支持を集めた。そしてヨーロッパのネアンデルタール人は、優秀な新人によって「掃討された」という先史時代のシナリオがしばしばこれに随伴した。ワシントンにあるスミソニアン研究所の自然人類学者のアレシュ・ヘリチカは、この見方に組しなかったほとんど唯一の人物だった。ピルトダウン人の類人猿的な顎と現代人的な頭骨という「怪物のような」組合わせを疑い、ヘリチカはネアンデルタール人を人の直接の祖先に置く人類進化の単一の道筋を説いた(安田註:現在はネアンデルタール人は原生人類の直系の祖先ではなく、別系統の人類とされている)。
 (中略)
 しかし、ヘリチカに賛意を表したのは、ほんの一握りの学者だけだった。
 (ブライアン・M・フェイガン『現代人の起源論争』)

 

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Neanderthals - HISTORY

 

 *

 

 また、1924年に発見されたアウストラロピテクス・アフリカヌスが「類人猿ではなく人類である」という、解剖学者レイモンド・ダートの見解が当初学会に受け入れられなかったのも、ピルトダウン人の影響があったためだと更科功は指摘している。
 これもまた、「類人猿と分岐した人類というのはピルトダウン人のような形態をしていなければならない」と思われていたためである。だが問題はそれだけではない。更科は次のように述べている。

 

 アウストラロピテクス・アフリカヌスはアフリカから産出したが、ピルトダウン人はイギリスから産出したのだ。ヨーロッパの人類学者にとっては、やはり人類の進化の先頭に立っていたのは、ヨーロッパの化石人類であって欲しかったのだろう。ヨーロッパの人類は進んでいて、アフリカの人類は遅れている、と思いたかったのだ。
 (更科功『絶滅の人類史』)

 

 そうなんです。人類の祖先がどのような姿であるべきかという問題意識とは別に、それはどこで発見されたのかという問題意識があるんですね。
 「その化石人骨が産出されたのはヨーロッパか、非ヨーロッパか?」。これが当時の古人類学者にとって、もう一つの大きな関心事であった。俄然、話がモノスのような人種差別に近づいてくるのである。そのへんを意識しつつ、次にピルトダウン人とジャワ原人の関係について見てみよう。

 

 *

 

 ジャワ原人はかつてはピテカントロプス(猿人。ギリシア語でサルを意味するpithekosと人を意味するanthroposの合成語)と呼ばれていた。ピテカントロプスが間違いなくヒトであると認識されるに至ったのは研究が進んだ1940年代に入ってからであり、そのさいにホモ・エレクトゥス(直立原人)としてホモ属に組み入れられ、ピテカントロプスという呼称は廃止された。

 

 フェイガンによれば、ホモ・エレクトゥスは「猿人よりもはるかに大きい脳、すばらしい明察力、直立姿勢に完全に適応した四肢と腰を持っていた」という。彼らはハンドアックス(手斧)やクリーヴァー(鉈)その他多くの道具を作り、大型獣を狩猟し、採集旅行に出かけ、火を操り、JAVA言語を使いこなした。

 

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Art for Aid 2018: The Journey of Java Man | NOW! JAKARTA なんだか楽しそう。

 

 とはいえ、残念ながらホモ・サピエンスに比べると(おそらくはネアンデルタール人と比べても)狩猟技術が劣っていたために生存競争に敗れ、飢餓により約7万年前に絶滅したと考えられている。
 北京原人もまたそうしたホモ・エレクトゥスの一員であるが、やはりピルトダウン人の支持者らにとっては白人に比べると一段階低い存在と見做されていた。再び当時の古生物学者の思惑を、こんどはスティーヴン・J・グールドの描写で見てみよう。

 

 北京原人(かつてはシナントロプスと呼ばれたが、今はホモ・エレクトゥス[直立原人]に入れられている)は、現代人の三分の二の大きさの脳をもって中国に住みついていたのに対して、ピルトダウン人は完全に発達した脳をそなえてイギリスに生息していた。もし最初のイギリス人であるピルトダウン人が白色人種の祖先であり、その他の色の人種の祖先はホモ・エレクトゥスにさかのぼるとすれば、白人は他の人種よりずっと早く完全な人類にいたるしきいを踏みこえていたことになる。こうした高級な状態でより長く生活しつづけてきたからには、白人は文明のさまざまな技術において抜きんでたものでなくてはならない。
 (スティーヴン・J・グールド『パンダの親指』)

 

 このあたりの感性こそが、モノスにコロっとやられたモンタンドンにきわめて接近している部分だと僕は思う。彼らは人間が類人猿と比べて特別であってほしいと願うと同時に、白人が有色人種と比べて特別であって欲しいと願っていたのであり、そうした示唆を与えてくれるものにはつい判断のたがが緩んでしまうのである。

 

 1953年にオックスフォード大学で行なわれた年代測定と調査・研究によって、ピルトダウン人はオランウータンの下顎骨をもとに臼歯を現代人に近付けるためやすりで削り、そこに人間の頭蓋骨をくっつけ(接合部を除去することによって一体であるように見せかけ)、さらに薬物で着色して古い印象を持たせた真っ黒々な捏造物であることが明らかになった。
 ただしそうなる以前から、ピルトダウン後の相次ぐ人類化石の発見がいずれも首から下はヒトに近いが頭部はサルに似たものであり、ピルトダウン人はいよいよ孤立と被疑を深めていたのだった。仮にそうした外堀が埋まっていなければ、ピルトダウン人はもう少し生き永らえ、さらなる悪影響をもたらしたかも知れない。

 

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 発見者チャールズ・ドーソンほかピルトダウンの発見から発表に深く関与した面々。

 

 *

 

 ピルトダウン人やモノスが世間を騒がせた1920年代前後はまだ化石人骨の発見数が少なく、一つの発見が大きくパラダイムを転換する可能性があった。また鑑定方法も充分に進歩してはいなかったので、このような大それた嘘が跳梁し得たのだろう。今はもはやそういう時代にはない、とケネス・フィーダーは述べている。

 

 ヒトの化石記録は豊富にあり、しかもどんどん増え続けている。われわれの進化のシナリオは、わずかばかりの骨の断片にではなく、数百体の化石に基づいて構成されるようになっている。
 (中略)
 互いに支えあっている古生物学、文化、遺伝子のデータベースと矛盾する、わずかばかりの謎めいた骨が見つかっただけで、進化のタペストリーを解きほぐし、織り直すようなことにはもはやならないと言っていい。今だったら、ピルトダウン人の発見に騙される人はほとんどいないだろう。
 (ケネス・フィーダー『幻想の古代史』)

 

 UMAにしても歴史を覆すような大発見にしても、確かに心惹かれるものはあるが、いっぽうで短時間でもきちんと検討すると、到底どれも実在しそうにないと悟らざるを得ないという悲しい現状がある。
 しかしそうしたものが素朴に信じられる時代とはどういう時代だったのか、と見てゆくと、我々の未知と無知につけ込んで、詐欺や悪だくみのみならず、かなり危険なイデオロギーが紛れ込んでいることもある。今回挙げたのはほんの一例に過ぎない。
 果たしてそういったダークサイドに陥らない、少年の夢のような構えで不思議、ロマンと向き合い続けることは出来るのだろうか。ただこうした舞台裏を暴くような話も、それはそれで面白くもあるのだけれど……。