やすだ 😺びょうたろうのブログ仮

安田鋲倪郎(ツむッタヌアカりント@visco110)のブログです。ブログ名考案䞭。

倜の鮮烈さを以お  


 恐れる必芁などない。他人のブログを読んだずころで䜕も倉わりはしないのだから。

 

 䌑み明けの通勀、駅に向かう途䞭にふず超胜力が䜿えたら、たずえば時間を巻き戻せる胜力があったならば、すべおのミス、それも仕事だけではなく人間関係䞊のトラブルや倱敗した買い物、うっかりケガをした等、すべおをやり盎すこずが出来るし、そもそも株䟡でもりマ賭博でも結果を芋お買えばよいのであっお、人生なんだっお思い通りになる。そんなこずを想像しお、では時間を巻き戻す方法はあるのか ノェリコフスキヌずかミンコフスキヌずかいうい぀も名前がごっちゃになるあのぞんの方々は、時間の遡行に察しお珟実的な可胜性を瀺唆しおいるのであろうか、だがそういう技術が開発されたずしおも最初に享受するのはどうせ前柀某ずか某゚モンずかそういう人たちなのであり、自分のごずき现民に出来る最倧限の面圓おは、せいぜいお幎玉ツむヌトをRTしおやらないこずくらいだな、けっ面癜くもねえ、ずいった思念がよぎるのは、䞇人の経隓するずころであろう。

 あるいは宝くじに圓たったら、ずか瀟䌚が厩壊するほどの倧灜厄が起きたら、ずか。なんにせよ明るい未来も芋えず、心通わぬ茩にこづきたわされる、そんな日垞ずいう牢獄に擊り切れそうになっおいる時、燊然ず茝きだすのがオカルトずいう領域である。

 

 この問題をより広いパヌスペクティノで捉えるために、隣接事項を䞉぀ほど挙げおみる。

 

 䞀発逆転モデル
 芪や教育機関が挠然ず奜たしいず芋做すステップ・バむ・ステップな生き方進孊、就職、昇進から倖れた者が、䜕らかの「䞀発逆転」的な職業を目指す傟向。䜜家、マンガ家、ミュヌゞシャン、お笑い芞人、俳優、声優、個人投資家、youtuber、革呜家、批評家笑など。圌圌女らはすでに倱点しおいる競技を攟棄し、自分の倩分にずっお有利な競技に参入しようずする。

 

 心のスキマ産業
 カルトや詐欺商法に匕っかかるのは心の匱っおいる人である。たたヒモも心にスキマのある女性を嗅芚で芋分け、タヌゲットにする。狙われる人たちは冷静で珟実的なアドバむスを受け容れにくい。珟実ベヌスで考えるかぎり、他人よりも䞍遇な状況であるこずを認めなければならないからだ。

 そのためたずえ非珟実的であっおも、珟実におけるマむナスをいちどに棄华しおくれるものを求める誘因が匷くなる。

 

 魂の䞍滅
 コナン・ドむルは第䞀次䞖界戊による盞次ぐ家族・友人の死に衝撃を受け、心霊䞻矩ぞの傟倒を匷めた。圌は1918幎の著曞『新たなる啓瀺』においお次のように曞いおいる。
 「戊争で倚くの人の死に遭い、悲嘆を味わううちに、我々の愛する人は死埌もなお生き続けおいるはずだずの確信に達した」
 䞀般的に、人は愛する者ず死別したさいに霊魂や他界の存圚を最も信じやすくなる。これは心理的な機胜ずしおは、䞀床に衝撃を受けないための「喪倱の゜フトランディング」であるず思われる。

  

f:id:visco110:20200409113441j:plain

 コナン・ドむルの心霊写真。心霊写真ずいっおも圓時は恐怖の察象ずいうよりも、家族の肖像写真のようなものであった。

 

 いずれも共通しおいるのは、珟実的なルヌル・評䟡䜓系によっおは満たされない者が、非珟実的でもかたわないので自分に有利なルヌル・評䟡䜓系に乗り換えるずいうこずだ。結果はだいたい厳しいものになる。しかしなかには本圓に奇跡を起こす人もいるので、どうせ珟実のほうがアレならひず぀賭けおみようじゃないか、ずいう気にもなるのである。
 この延長線䞊に、時間を巻き戻しお云々ずか、䞍老䞍死ずか、より非珟実床の高い思念がある。そうしたものを総称し広矩のオカルトず呌ぶこずにしたいブログ党䜓を芋枡しおもこの䞀カ所しか出おこない蚀葉だが。

 

 

 

 什和二幎春、コロナ犍。日本が誇るお笑いスタヌであるケン・シムラは死に、街はゎヌストタりン化した。倫の収入の䞋がった家では離婚やDVが盞次いでいる。すでに䞃郜道府県䞋に緊急事態宣蚀が発什され、これを曞いおいる今珟圚、愛知県もそれに加わるかどうかずいった情勢だ。ご政道批刀をするずク゜ネトりペが寄っおくるので䞀々蚀わないが、ずにかく悲惚である。

 春だずいうのにゞャケットの䞀぀も新調せず「きょ幎の服では、恋もできない。」by眞朚準、薄暗い郚屋で昌明かりをたよりに叀本など読んでいるのは、少なからずこうした厭䞖的な気分が圱響しおいる。


 そんな䞭、柁柀韍圊『黒魔術の手垖』所収「サバト幻景」に次のような文章があった。䞭䞖のおどろおどろしい倜宎であるサバトの終焉、鶏が鳎いお倜が明ける堎面である。

 

 女劖術垫たちは、寒さにぶるぶる顫えながら、自分たちのあばら屋にもどり、こちこちのベッドにもぐり蟌む。おそろしい肉䜓の消耗のおかげで、泥のような眠りに沈む。倜のしらじら明けのなかで、ベラドンナの麻酔がさめ、奇怪な圢によじくれ硬盎しおいた身䜓が、ようやく、元にもどっお行く。目がさめれば、日々の生掻がふたたびはじたる。
 幻圱が消えおも、しかし、圌女たちは倱望しないだろう。むしろ䞀床芋たあやかしの倢は、あらゆる日々の貧苊や苊痛を色耪せさせるほどに、いやたさる匷烈な期埅の念をもっお、圌女たちの今埌の生掻を埋しお行くだろう。巚倧な牡山矊の幻圱は、たすたす烈しい讃嘆の察象になるだろう。
 柁柀韍圊『黒魔術の手垖』所収「サバト幻景」

 

   ん
 日々の貧苊や苊痛を「色耪せさせる」ずは

 

 ここでは昌の「日々の生掻」ず倜の「幻圱」が察比されおいる。そしお埌者は前者を「色耪せさせる」ほどに圌女たちを埋しおゆく、ずいうのだ。
 なにやら、サバトに仮蚗されるような匷烈な䜓隓、いわば成功した珟実逃避は、たんなる暇぀ぶしの慰み物ず違い、認識䞊の昌倜逆転を起こし、昌間の「日々の生掻」をむしろ色耪せた非本質的なものに抌しやる力を䞎えるものである、ずいう挑戊的含意がそこにはあるように思えたのである。

 

f:id:visco110:20200409114237j:plain

 Goya:El aquelarre o El gran cabrón(1820-1823)

 

 かくしお私は、サバト関係の本を曞庫から匕っ匵り出し、幟぀か繙いおみた。するずミシュレ『魔女』のなかに次のような䞀節があった。

 

 いたや矀衆は解攟され、安堵しおいる。蟲奎は、ひずずき自由の身ずなり、数時間のあいだ王の身分を味わっおいる。しかし圌にのこされた時間はごくわずかしかない。すでに、倩は倉り぀぀ある。そしお星々は傟き぀぀ある。ほんのしばらくすれば、厳しい黎明が蟲奎をふたたび奎隷の身分にかえし、敵の目の䞋に、城の圱の䞋、教䌚の圱の䞋でのあの単調な劎働に連れ戻し、ふた぀の鐘、䞀方はい぀たでもず蚀い、他方はいただか぀おず蚀うふた぀の鐘の音のたたの、氞遠の倊怠の生掻に戻らねばならないのだ。そのずきがくれば、ここに集った者たちのひずりひずりが、卑屈で陰鬱な顔をし、こわばった態床で、たるでわが家からしぶしぶ出おゆくような姿が芋られるであろう。
 しかしせめお、圌らは味わっお欲しいものだ。この短いひずずきを 人間ずしお䜕ひず぀盞続するもののなかった者たちのひずりひずりが、たった䞀床だけ心満たされ、ここでひずりひずりの倢を芋出しお欲しいものだ   なんずも䞍幞な、なんずも色あせた心の持䞻だずいうこずになろう、ずきにずりずめのない想いにふけり、なにか愚かしい矚望にずらえられ、こう口にするこずのない者は、「もしあのこずがわたしに起ったら」ず。
  ミシュレ『魔女』

 

 たるでパクったようによく䌌た文章である。前半はサバトが終わり、ずがずがず家路に着く様子、そしお再び昌間の劎苊が始たるこずに぀いお。そしお埌半は、それでも圌圌女らの心には確かに残る䜕かがあり、その「幻圱」ずか「倢」ず呌ばれるものが、圌らの意識を倉えおゆくこずを瀺唆する。

 

 では「幻圱」「あやかしの倢」柁柀ずは、「ひずりひずりの倢」「あのこず」ミシュレずは䞀䜓䜕であろうか。
 端的に云えば、想像力の根本的な機胜の䞀぀である「いたここではない堎所」「自分はこうではなかった可胜性」を認識する、ずいうこずだろう。それは「いたここ」、すなわち「日々の貧苊や苊痛」を盞察化する。

 人生は䞀床かぎりのゲヌムのようなものだ。生育環境や肉䜓、頭脳の出来ずいったカヌドは䞀床しか配られるこずがない。そしおなんのチュヌトリアルもなくゲヌムは始たり矩務教育がチュヌトリアルであるずいう指摘は圓らない。なぜなら矩務教育こそがすでに過酷なゲヌムの本番であるず蚀わざるを埗ないからだ、倱敗しおもやり盎すこずが出来ない。
 しかし、现民たる我々にしおも、䞭䞖の蟲奎にしおも、自らの悲惚な境遇が「たたたた配られたカヌドが悪かったにすぎない」ず思うこずが出来るなら。吊、たんに階玚の問題ずいうよりも自分がどこで䜕をしおいようが霊的な自己実珟は可胜であるず思えるならば、どうであろうか。 

  ミルチァ・゚リアヌデは次のように蚀う。

 

 むマゞネヌションをも぀こず、それは䞖界をその党䜓性トタリテのうちにみるこずである。なぜなら、むメヌゞの力ず䜿呜は抂念にどうしおも埓おうずしないすべおのものを「指し瀺す」こずだから。かくしお《むマゞネヌションを欠く》人間の恥蟱ず荒廃が理解されよう。そのような人間は生掻ず己れ自身の魂の深い実圚から切り離されおいるのだ。
 ゚リアヌデ『むメヌゞずシンボル』

 

 ここで゚リアヌデの云う「《むマゞネヌションを欠く》人間の恥蟱ず荒廃」は、ミシュレのいう「こう口にするこずのない者」の「䞍幞な、なんずも色あせた心」に察応する。すなわち、魂が日々の生掻のなかにすっぜり収たっおしたい、䞖界も自分も、珟にこうである以倖の可胜性など想像するこずさえ出来ない、あるいは想像出来たずしおもそこに䜕の意味も芋出さない、ずいうペシミスティックな状態である。

 

f:id:visco110:20200409114732j:plain

 モヌリッツ・フォン・シュノィント『囚人の倢』(1836)

 

 だが、そうした「霊的な自己実珟」を意志の力だけでやっおのけるこずは難しい。そのためには違う䞖界を「実際に芋る」必芁がある。そしお出来れば、その欠片だけでも持ち垰る必芁が。

 それは、運が良ければ珟実の出䌚いや出来事ずしお蚪れ、匷烈に日々を「色耪せ」させおくれるだろう。
 しかしそれはずおも皀有なこずだ。埌述のように、サバトが実際に行われたずいう確たる蚌拠はない。぀たるずころ、あたりの珟実の枇きに、圌圌女らの想像力は掻性化し、あのサバトの狂乱を、たるで実際に起こったこずのようにありありず珟前させたずいうこずなのかも知れない。

 

 埡垣守衛士の焚く火の倜は燃え 昌は消え぀぀ものをこそ思ぞ

 ――倧䞭臣胜宣

 

 ずころで、このブログの構想をたたたた家で䞀緒に飲んでいた超かおりん@chou_kaorinn)に話しおみたら、珟代のラむブにも䌌たずころがあるず蚀う。ラむブずはサバトの資本䞻矩化されパッケヌゞ化された圢態の䞀぀であろう。たあいちいちブラックサバスがどうずかキッスがどうずかいう話は割愛するが、70幎代における圌らのラむブパフォヌマンスがドラむアむスを䜿ったりレヌザヌを走らせたりずひじょうに地獄に近いむメヌゞであったこずに぀いおは高山宏の指摘がある割愛しおない。珟圚新型コロナりィルスの蔓延によっお各地のラむブは次々䞭止され、「ラむブ勢」の鬱屈はかなり危険氎域に近付いおいるらしい。由々しき問題だ。

 

 

 

   さお、出来れば避けお通りたい批刀のタヌンである。


 正盎なずころ、ミシュレや柁柀韍圊のようなサバトに《絶察を垣間芋ん》ずする態床は、問題なしずはしない。ガチっぜさでいえば柁柀よりもミシュレのほうがより《絶察を垣間芋ん》ずしおいるっぜいのだが、さおおきサバトが悪魔厇拝的なものであったずいう話、ばかりでなくサバトが実際に行われたずいう話自䜓が、宗教裁刀所の資料にしか存圚しない。そしおそれらはすべお、拷問によっお無理矢理自癜させた蚌蚀なのである。

 

 サバトのステレオタむプを定着させるのに倧きな圹割を果たした文筆家であり、たたバスク地方においお苛烈な魔女狩りを行った刀事ずしお知られるピ゚ヌル・ド・ランクル(1553-1631)は、捕えた「魔女」が䟛述するサバトの様子を恍惚ずしお聞き入っおいたずいう。これにはフランス䞭倮のむンテリにおける、呚蟺地域ぞの゚キゟティシズムもあったらしい。フランス文孊者の高橋玔によれば、

 

 ド・ランクルのこの本安田蚻『堕倩䜿ず悪魔の倉節の図』1612は、フランスの䞭の異囜ずもいうべきバスク地方ラブヌルの芋聞録ずもなっおおり、幻想的・むデオロギヌ的解釈を通しおではあれ、奇異新奇な事物ぞの奜奇の芖線に映じた䞀぀の䞖界を呈瀺しおいる。ただしそれは、裁刀の過皋で裁刀官ず被告ずの間に成立する倒錯的関係が生み出した特異な想像䞖界に他ならない。独自の異文化を成すラブヌルの地は、その土地の文化的・瀟䌚的に異質な芁玠にボルドヌ貎族出身の郜䌚人の刀事の目には、初めから魔女悪霊が跋扈するに恰奜の異界のごずく映ったにちがいない。
 『ナリむカ 特集新悪魔倧党』所収、高橋玔「サバト 神孊の虚構ず文孊の虚構」

 

f:id:visco110:20200409114433j:plain

 ド・ランクル『堕倩䜿ず悪魔の倉節の図』(1612)に収録された版画。ド・ランクルの文章ず盞俟っお、のちのサバトのステレオタむプを決定づけるのに倧きな圹割を果たした。

 

   ずころでド・ランクルずいえば、オカルチックな文脈からではなく、フヌコヌの代衚䜜の䞀぀である『狂気の歎史』を通じおその名に觊れる者も倚いのではないだろうか。それは次のような蚘述だ。

 

 十六䞖玀末、ド・ランクルは、䞀囜民の悪魔的な性向の起源が海に存するず考える。船の動きは定めがなく、䞇事は星蟰ぞたかせきりであり、いろいろな秘密は䌝わっおき、女からは離れおいる、しかも倧海原は荒れくるう、こうした理由で人間は、神信心ず祖囜ぞのいっさいの固い絆を倱い、悪魔ずその倧掋のごずき策略に翻匄される。
 フヌコヌ『狂気の歎史』

 

 フヌコヌはこの前段においお、海が䌝統的に未知なもの、幻想的なものず結び぀けられおきたこずに぀いお、トリスタンを匕き合いに語っおいる。

 

 圌安田蚻トリスタンがやっおきたのは、数々の確固たる郜垂がある確固たる倧地からではない。䞍安のたえない海から、あんなにも倚くの䞍思議な知を隠しおいるあの未知の海路から、この䞖の裏面たるあの幻想的な海原からやっおきたのである。
 同曞

 

 ここたでブログを読んできた方なら合点がゆくであろう。ド・ランクルは単玔に海を怖れおいたのではない。未知なもの、幻想的なものの源泉ずしお、海もたた圌にずっお畏怖魅了の察象だったのである。぀たりド・ランクルは「早すぎたロマン䞻矩者」であり、あたかも幻想的な小説を曞くようにしお調曞を䜜成した――それは血によっお莖われた蚱されざる䜜品であったが――のではないだろうか

 

 

 

 さすがに近代以降、サバトを反キリスト的な悪魔厇拝であるず芋做す者は、少なくずもたっずうな孊問的キャリアを積んだ者のなかにはいない。

 ダヌルケやモヌネずいった十九䞖玀の研究者は、サバトをゲルマン人の叀代異教的信仰ないしその倉圢であるず芋做した。たた圌らは実際にサバトを䞻催する組織が各地に存圚したず䞻匵したが、そのような叀代異教にルヌツを持぀組織が、十五十䞃䞖玀になるたでの千幎間、たったく資料に珟れないこずに぀いおは䜕ら説明しおいない。

  ミシュレもたた、己のロマンティシズムや「民衆の反抗」ずいったものをサバトに投圱しすぎたために、資料的な裏づけのない蚘述を倚々混ぜ蟌んでしたい、のちにノヌマン・コヌンによっお痛烈に批刀されるこずになる。ミシュレによる劖しくグロテスクなサバトの描写、そしお「女祭叞」の存圚等に぀いお、コヌンは次のように述べる。

 

 これらのうちで、魔女のサバトに関する圓時の蚘述の䞭に姿を珟わすものは、䞀぀もない。䞀぀ずしお、女祭叞に蚀及したものはなく、䞀人の女性が祭儀においお重芁な地䜍を占めるこずを暗瀺したものさえ存圚しない。
 䞭略
 特殊な䞻匵を行なっおおり、テキストが発犁凊分になり、解釈の基瀎をなす釈矩が間が抜けおいるにもかかわらず、本曞は圱響力を持たないわけではなかった。それは、『魔女』のなかでミシュレが、圌を読者の気持ちを匕き぀ける歎史家にしおいる、あらゆる幻想的で詩的な倩分のすべおを、展開したからである。
 ノヌマン・コヌン『魔女狩りの瀟䌚史』

 

 これはひどい。ボロッカスである。早い話が「みんな幻想的な文䜓に隙された」ずいうのだから。
 だがそう蚀われおみるず、確かにミシュレには自己陶酔的なずころがあるし、出兞の䞍明瞭な蚘述が倚い。たた圌は『魔女』の挿絵のために画家にむラストたで䟝頌しおいるのだが、孊術曞であるずすれば、そういうこずをするのはどうなんだろう。

 

f:id:visco110:20200409115351j:plain

 ノァン・メヌル「黒ミサ」。ミシュレ『魔女』の挿絵ずしお描かれた。

 

 小谷野敊もAmazonレビュヌでミシュレの『魔女』をこき䞋ろしおいる。いわく「孊問なんだか小説なんだか分からない」「童貞小説みたいな幻想が入っおいる」  みんな、もっずミシュレに優しくしおよ

 

 たた二十䞖玀にマヌガレット・マレヌが再び、サバトは叀代異教の祭儀の残存である旚の説を唱え、『゚ンサむクロペディア・ブリタニカ』の「魔女」の項目の執筆を四十幎間も担圓するなど、ほずんど定説扱いずいっおいい絶倧な圱響力を持ったのだが、これに察しおもコヌンは詳现な、か぀呵責ない批刀を加えおいる詳しくは『魔女狩りの瀟䌚史』を芋おいただきたい。

 以䞋、モンタギュヌ・サマヌズ、ゞェフリヌ・ラッセルらも次々斬られおゆく。


 そんなこんなで、コヌンによる先行研究の批刀が絶察正しいずは蚀えないもののそんなこずは玠人にはわからない、コヌン以降にサバトに察し玠朎なロマンチシズムや゚キゟティシズムのたなざしを向けるこずは間抜けず蚀わざるを埗なくなっおしたった。

 結局、サバトには今も昔も珟実に倊んだ者による身勝手な劄想ずいう偎面があるこずは吊めない。たあ、わかっおやっおるぶんにはいいのかも知れないが。

 しかしそのコヌンでさえ、ギンズブルグによる批刀圌は資料の範囲を限定しおいるずかそういった意味のを受け、䞡者のあいだで議論が発生しおみたり、どったんばったん倧隒ぎなのである。

 

 

 

 ここたで曞いおきお、どうにもサバト幻想の呑気さ、呑気であるにもかかわらず眪深いこずに思い至っおしたい、だいたいオカルトずいうのは埀々にしお「呑気か぀眪深い」ものになりがちである、倩譎説だずか、前䞖の因果だずか、気の持ちようで病気は治るだずか、すべお問題倧ありでしょう、ずいうこずにすっかり反省的な気分になっおしたったのだが、それでも䞀応蚀っおおく。

 

 「珟実逃避」ず䞀括りにしお蚀うもののなかに、単なるその堎限りの慰安ず、「日々の貧苊や苊痛を色耪せさせ」、「ひずりひずりの倢を芋出」す類いのものがある――それは「癒し」の消極性を吊定しおいるわけではなく、たた「英気を逊っお珟実倉革に向かっおゆこう」ずいう瀟䌚䞻矩リアリズム的䜙暇ずも少し違うなにかであり、われわれが日垞に打ちひしがれずに、凛ずしお生きるにあたっお、なにかしら導きずなるこずである――それはいかにしお可胜なのか。

 その重芁なヒントが、柁柀韍圊やミシュレの、問題倚きサバトの蚘述のなかに秘められおいるのではないか。批刀をくぐり抜けおなお、そう思えおならないのだ。䞀蚀で云えば

 

 倜の鮮烈さを以お昌を色耪せさせよ

 

 ずいうこずである。その可胜性や劂䜕。

 

魔女〈䞊〉 (岩波文庫)

魔女〈䞊〉 (岩波文庫)

魔女〈䞋〉 (岩波文庫 青 432-2)

魔女〈䞋〉 (岩波文庫 青 432-2)

 ミシュレ『魔女』はブログでは珟代思朮瀟版昭45幎を甚いおいる。内容に倧きな異動はないず思われるが、新しい版であるこちらのリンクを掲茉しおおく。叀曞奜きには珟代思朮瀟叀兞文庫版の、いかにも叀曞ずいった颚情を掚したい。