やすだ 😺びょうたろうのブログ(仮)

安田鋲太郎(ツイッターアカウント@visco110)のブログです。ブログ名考案中。

さよなら救世主(;ω;)ノシ

 

 メサイア・コンプレックスはユング心理学の用語だ。そして多くの概念がそうであるように狭義と広義があり、ここではジム・ジョーンズ、あるいは麻原彰晃がそうであったかも知れないような狭義の、誇大妄想的なメサコンは扱わない。


 広義のメサイア・コンプレックスは、周知の通り「他人を救いたがる人たち」のことであり、何のために救いたがるのかと云えば、自尊心を補填する手段であったり、自分がこの世界に必要とされていることの確認、男でいえばかわいそうな女を庇護することによって自分の人生を充実させたい、といったことである。本稿ではこうした広義のメサコン扱う(「本稿」とかいうほど大げさな文章じゃないけれど)。

 

 さてメサイアコンプレックス、心当たりのある人は多いですよね。
 男性視点で言うならば、SNSで知り合う女性には二種類いる。軽いメンヘラと、重度のメンヘラだ。
 いっぽう、SNSをやっている男性にも二種類いる。勘の良い人はもうおわかりだろうが、軽度のメサコンと重度のメサコンである。

 いやそうでもない人もいるぞ、とか女のメサコンや男のシンデレラ願望だっているぞ、といった一見もっともな指摘は却下する。ここで俎上にあげているのは、そうでない人もいるという(当たり前の)事実ではなく、思わず「みんなそうだ」と言いたくなるほど男のメサコンと女のメンヘラがありふれている、そして両者のマッチングも非常に多い、という我々の体感的な事実についてだからだ。

 

 ※そんなわけで、些か免罪符的ではあるが――以下に書くことはすべて、男女を入れ替えても、あるいは性別についての記述は一切無視して読んでいただいても構わないので、あしからず!

 

 では救いたい男と救われたい女(ここでは一応、メンヘラ女の大半がシンデレラ・コンプレックスという前提で話を進める)の何がいけないというのか。win-winの関係じゃないか、という意見もある。確かに別にいけなくはないのだ。二人の関係がそのままであるうちは。

 だがこの関係は共依存的だ。そして共依存であることによる避けがたい問題を孕んでいる。それは何か。

 

 この問題を考えるにあたっては、ジジェクが映画『街の灯』のラストシーンについて書いた記述を参照するのが最も手っ取り早く、かつ的確だろう。

 この古典的名画では、チャップリン扮する浮浪者が盲目の少女と出会い、彼の献身的な奮闘と幾つかの奇跡によって少女が視力を回復する。だがその代償として浮浪者は窃盗罪で投獄され、少女は自分を救ってくれた人物が誰であるのかを知らない。そしてラストシーンで、それが彼女の想像していたような金持ちの「白馬の王子様」ではなく、みすぼらしい浮浪者であることを知る。

 

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 「あなただったんですか」

 「見えるのかね」

 「ええ、今は見えます」

 (『街の灯』)

 

 浮浪者はどこか自分を恥じているような、はにかんだ笑みを浮かべ、そのまま映画は終わる。彼女がその後、この浮浪者=メサイアをどのように扱ったのかはわからない。

 これについてジジェクは次のように書く。

 

 耐えがたいほどの近さでいきなり画面いっぱいに写し出されるこの汚らしい滑稽な男は、本当に少女が愛するに値する存在なのだろうか。彼女は、その(安田註:自分を救ってくれた人と再会したいという)熱烈な欲望に対する応答として手に入れたこの社会的落伍者を受け入れ、自分の身に引き受けることができるのだろうか。そして――ウィリアム・ロスマンが指摘したように――同じ疑問を反対の方向にも向けなければならない。つまり、「彼女の夢の中には、このぼろ布のような男のための場所があるのだろうか」という疑問だけではなく、「彼の夢の中にはまだ、いまや健康な普通の少女となり、商売を成功させている彼女のための場所があるのだろうか」と問わねばならない。つまり、浮浪者が少女に同情的な愛情を抱いたのは、彼女が盲目で、貧乏で、まったくよるべなく、彼の保護を必要としていたからではなかったのか。いまでは彼女のほうが彼を養ってやる立場にあるというのに、それでも彼は少女を受け入れることができるのか。
 (スラヴォイ・ジジェク『汝の症候を楽しめ』。太字は安田による)

 

 ……もうおわかりであろう。メサコン男とメンヘラ女という共依存関係が両者にとって享楽を供給し続けるためには、彼女を苦しませている境遇は決して解決されてはならないのである。

 

 *

 

 このような共依存関係の結末は三通りしかない。

 

 一つ目は問題が解決したのちに男が女への興味を失う場合。この場合は男は、別の「救うべき対象」を求めてさまようことになる。メサイア難民。いっぽう、女は苦悩から解放された代償を愛の喪失として支払わなければならない。


 二つ目は女が苦悩に留まる場合。彼女は、自分が悩み続けている限りにおいて、男が自分に関心と愛情を注いでくれることを知っている。したがって、男を繋ぎ止めるためにかえって苦悩を必要とし、苦悩に依存するのである。ジェフリー・ウィンバーグは、同じような動機で何年にもわたってカウンセリングを受け続ける患者について述べている(『ココロによく効く非常識セラピー』)。治ってしまったらカウンセラーのもとを去らなければならない、というわけだ。都合の良いことに、カウンセラーもまた、患者が治ってしまうと顧客を一人失うことになる。こうしてずぶずぶの関係が続いてゆく。


 三つ目は――そうなるに越したことはないが最も困難な道である――男がメサイア・コンプレックスを脱し、同時に女がシンデレラ・コンプレックスから脱する場合である。この場合によってのみ、苦難が解決してからも両者の愛情は続くであろう。

 メサコン男の最大の問題は、まさに「いまや健康な普通の少女」となった女性に対し、同じような関心と愛情を維持することが出来ないことである。それが、やや大げさな言い方をすれば、本当の愛と、自己肯定感の低さを埋め合わせるためのメサイア・コンプレックスとの違いなのである。

 

 以上、多分に内省を込めて書いてみた。自分のなかの救世主にそっと別れを告げるために。いままでどうもありがとう、そして、さよなら救世主(;ω;)ノシ

 

 追記1:やはりこのての話は、僕自身も個人の経験と観測に基づいて書いているし(それはじつに多くのケースであって、けっして二人や三人ではないが)、読者もそれぞれの経験と観測によって大きく印象が左右される話なので、「こういう場合もあるんじゃないか」という意見が色々出てくるのは必然だろう。その中で追記に値すると思ったのは、

 ”メサコン男の最大の問題は、相手が「健康な普通の少女」になった時に関心と愛情を維持できないことではなく、メンヘラ女に対して注いできた労力が全くのムダであることがわかったときに一気に強烈な憎悪に転じてしまうことである”

 というものであった。

 なるほどそういうケースも散見する。メンヘラ女が、昨日まではあれほど自分に縋っていたのに(しかも少なからず生活を引っ掻き回していたのに)、ある日突然冷淡になり、些細な一言で人間的に非難されたり、しまいには別の男のもとへ去ってしまうのである。映画的ファム・ファタル。あるいは僕はこれを「メンヘラの人間関係リセット癖」とか「ぼうけんのしょが消えた」と呼んでいる。愛が幻想によってレバレッジされていると、幻想が消えたときに現実の相手についてはほとんど何も見てこなかった――当然よそよそしく感じられ、親愛の情を抱きようもない—―ことに気付くのだろうか。

 とにかく、そうした事態はメサコン男にとって今後の享楽(自尊心や幻想の愛)の供給が断たれるだけではなく、より酷いことに今まで受け取っていた享楽を強制的に没収されることでもある。これが憎まずにいられようか。まあそういう享楽を受け取っていたこと自体がメサコンの自業自得とは言えるが。

 ただ、こうした心理がどのくらいメサコン男にとって必然なのかはわからない。どうでしょうかみなさん。あるあるですか? そのうち何かわかったら書く、かもしれない。

 

 追記2:メサイア・コンプレックスがユング心理学用語だと冒頭で述べたが、フロイトは、コンプレックスという言葉に一定の利便性を認めたものの、学問的に証明されていないことや、その濫用は人間の類型的理解に繋がるとし、個人の心的特殊性を重視する立場から批判的であった。又フロイトは、フィレンツィへの書簡においてコンプレックスを「人生での行動を導くもの」であるとし、解消すべきもの、純粋に病因的な中核となるものの概念と混同されることを警戒した(ラプランシュ/ポンタリス『精神分析用語辞典』)。その結果、フロイトはエディプス・コンプレックスを除いてはコンプレックス概念の使用に積極的ではない。

 本稿はフロイト-ラカンの系譜であるジジェクの引用を中心に添えており、流派的な不整合が若干気になったが、引用箇所については内容的な不整合はとくにない、というかまあエッセイだからいいかな、ということでそのままにした。

 

ポジティブ・シンキングってどうなの?

 

 

 

 「今回はポジティブ・シンキングについて肯定側と否定側に分かれて仮想討論するってことで、あたしは否定側ってことになってるんだけど、ハッキリ言って妥協してお茶を濁す気はないからね。っていうかバーバラ・エーレンライクのポジシン批判で尽きてるんじゃない? あなた、なんだかニューサイエンスとか齧って理論武装しようとしてたみたいだけど、まあ説得力には欠けるわよね」
 「あっビールください、ジョッキで。……えーとまあ、バーバラ・エーレンライクが云うようなポジシンの問題は確かにあるんだけど、それでも」

 「ちょっと待って。読者のために、一応エーレンライクが指摘しているポジシンの問題を要約しておくわね。まず第一に、ポジシンにはそこまでの効果はないこと。願うだけで上司の機嫌が良くなったり、契約が取れたりしないし、ましてや心が宇宙となんらかの方法で連動していて、運命が変わったり、何かが引き寄せられたりもしない。精神療法には延命の効果があるかどうかっていうのもエーレンライクが紹介する今世紀に入ってからの医学界の風潮でいうと、けっこう微妙。前回のブログではそのへん、少しツッコミが甘かったかも」

 

visco110.hatenablog.com

前回記事。今回と関係が深いが、まあ読まなくても差支えはない。


 「でもさあ、例えばやる気を出したら、身だしなみや喋り方とかに微妙に出るじゃない? そういうのが好印象に繋がって人間関係全般がうまく行くって可能性は」
 「それは身だしなみや喋り方が良かったからでしょ」
 「あ、うん、それをやるための気力っていうか……」
 「あのねえ、気力があるとかないとかじゃなくて、身だしなみや喋り方なんて、大人だったらみんな気を遣ってるものなのよ。とくに女はね」
 「あ、ああ」
 「まあいいわ。とりあえず他の問題をぱぱっと全部言っちゃうから、納得いかないことがあるならまた後から言って」
 「あっはい」
 「第二の問題は、安易な楽観は注意を怠る原因になるってことね。近代医学を否定してあやしげな民間療法に頼ったり、うちの子がいじめられてることなんかまさかないだろう、なんて考えて対処が遅れたり、よく見もせずに道路を渡ったり。大きなレベルではカレン・セルロが、楽観主義によってさまざまな備えを怠り、災厄を招いた事例を挙げた研究書『Never Saw It Coming:Cultural Challenges to Envisioning the Worst』がある。それによると、同時多発テロの時も、イラク戦争も、ハリケーン・カトリーナも、リーマンショックの時も、政府の不注意によって被害が拡大した局面がちらほらある……まあ時間がないから端折るわね」
 「お、おう」
 「第三の問題は自己責任論と容易に結びつくこと。前向きに目標に向かってゆくことで必ず夢が適うとしたら、適ってない人はそれをしなかったってこと? 失業者は努力が足りなかったから? 病気になるのは負のオーラを溜め込んだから? つまり、ポジシンは政治的・社会的問題を個人の心の問題に還元する傾向を持っている」
 「それは本当問題だと思うよ」
 「第四の問題は金もうけに使われること。自己啓発セミナーやポジティブ商材をすべて否定するわけじゃないわ。でも、信じやすい顧客をカモにして金儲けしてるとしか思えない人たちがいるでしょ?」
 「まあ彼らは重要な真実を伝授しているのだと思っているし、実際それで儲かれば、やっぱりポジシンの教えは正しかった、ということが証明されるので、彼らのなかではなんの矛盾もないわけだ」
 「でも顧客はみんな夢が適ったかしら? 適った人がいたとして、結局お金を払うだけ払って適わなかった人はその何倍いるのかしら?」
 「それにも同意する。政治的・社会的問題を本人の心の問題に還元したり、どう見ても内容の薄いポジシン本がベストセラーになってるのを見ると憤りを禁じ得ないね」
 「そういう本をブックオフで買ったりしてるでしょ、あなた」
 「まあその、読み捨て程度には興味があって。とにかく、権力者から見れば都合のいい人間を作り上げるとか、ポジティブ屋さんのいいカモになるといった問題を慎重に避けた上で、ポジシンにはどこかしら有益な部分があるんじゃないかっていうね」
 「じゃあそれを聞く前に最後の問題を片付けてしまいましょう。第五の問題は同調圧力。全然他人の話を聞かずに、二言目にはクヨクヨしていても仕方がない、問題点を洗い出して対策を考えなければ、みたいなことをやたら強調してくる人っているでしょ」

 「まあいるねえ」

 「八十年代にアーリー・ホックシールドの有名な研究があって、飛行機の、スッチーとかって……ほら、なんていったっけ」
 「客室乗務員」
 「そうそう、客室乗務員は常に明るく振る舞わなくちゃいけないでしょ? それでストレスがハンパないっていうね」
 「うん」
 「それから、エーレンライクのこの本(『ポジティブ病の国、アメリカ』)のなかで最も印象的だったんだけど、あたしなりの言葉で云うと、結局、明るくて溌剌とした人が好かれるっていうのはある種の自己成就予言である可能性が高いのよね。つまり社会のなかでポジティブ・シンキングに染まる人が増えれば増えるほど、実際にポジティブな人が好かれる世の中になってゆくわけ。アメリカほどポジシンが浸透していない国では、無理して明るく振る舞わなくてもさほど浮くこともない。まあ日本なんかはポジシンへの強迫観念が、けっこうアメリカに近い水準まで来ていると思うけれど」
 「あっすいませんビールおかわり」

 

 *

 

 「エーレンライクの結論は、けっきょく楽観主義も悲観主義もダメで、現実を曇りなき目で見なさい、世の中にはピンチもチャンスもあるし、夢は適うかも知れないし適わないかも知れない、でも結局そういうニュートラルな認識が最も成功する可能性を高めるという、これは至極まっとうなものだとあたしは思うな」
 「そりゃそうかも知れないけれど、なんかロマンがないっていうか」
 「は?(半ギレ)ロマンってなに?」
 「あーいや、なんていうか、世の中には科学では説明できない不思議な現象だとか、スピリチュアルな領域みたいなものが」
 「ないよね」
 「いや、ないっていう言い方はちょっと」
 「まあ現状の科学で説明のつかないこともある、くらいのお茶を濁した言い方のほうが柔軟な態度だってことになってるんでしょう。ないとか言い切っちゃうと科学を妄信してるとかなんとか。まあそういうことにしておきましょう。そんで?」
 「ロマンは言葉のチョイスが悪かった。なんていうかな、意想外のワクワクというか」
 「それって《労民は寓話と奇跡を信じる》ってやつじゃないの? こんなつらい日々の繰り返しだけれど、もしかしたら何かの間違いで財宝を手に入れて王女様と結婚できるかも知れないとか、魔法使いの弟子になれるかも知れないっていう」
 「なんかさあ、そういう身も蓋もない世界観って心が寂寞としてきませんか」
 「あなたみたいに机に座って現代思想がどうの、オカルトがどうみたいなホワワンとしたこと考えてたい人にとっては面白くないかもね。でも、どうなの? 今回ニューサイエンス系の本を読んで納得した?」
 「いや、それが全然なんだ。たとえば石川光男『ニューサイエンスの世界観』にいう、西欧社会は気候が厳しかったから、自然と人類は対立するものだと捉えられ、そのへんが東洋の、自然と人間を連続体として捉える思想とは違う、食べるものだって家畜の肉を食べるのが合理的だったから、人と動物との境界線もはっきりさせる必要があって、人間はとにかく自然とも動物とも隔絶した特別の存在だとする宗教が立ち上がった、なんていう指摘は面白かったんだけど」
 「まあそこはね」

 

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 家畜とは神からの贈り物である!


 「けれど、心と物体を切り離すという世界観から生まれた近代合理主義には見えない部分があって、現代はその限界がぽつぽつ見えてきた時代だ、ここはひとつ《連続体の思想》である東洋思想に目を向ける必要がある、なんて話になって、やれ襖だの漢方薬だの墨絵だのって話をされても、ねえ」
 「おまけに量子力学まで持ち出してたわよね。なんかオカルトの人たちって量子力学をよく持ち出すわね」
 「オカルトじゃない、ニューサイエンス」
 「ニューサイエンス(笑)」
 「(笑)はつけなくていい」
 「まあいいわ。それで例によって、ミクロの次元においては観測することによって観測対象に影響を与えてしまう、とかなんとか言って。そんな感じで西洋的な《非連続の思想》をひっくり返そうとするんだけど、でもすべてアレゴリーにすぎないわけでしょ」
 「まあそうなんだよね。フスマが庭と室内の境界線を曖昧にしていようが、漢方薬がひとつの成分を抽出するのではなくトータルとして身体に働きかけようが、X線が電子の動きを乱そうが、すべては例え話にすぎない」
 「明けない夜はない、とか云うのと同じよね。そりゃ地球が自転してるかぎりは待ってりゃ太陽の側を向くでしょうけどだから何? みたいな。つまり、けっきょく心が物質に影響を与えるなんてことは実証できない。ポジシンが良い事を起こすということはあり得ない」
 「まあ、カプラやケストラーの抽象的思考は興味深い点を多々含むとは思うけれど」
 「世の中には抽象をもてあそぶよりも楽しい事ってたくさんあるのよ? あ、ごめん言い過ぎた?」
 「いまさら気を遣うな! ……まあ大体パンチラインはわかった。でもさあ、速水健朗も『自分探しが止まらない』のラストで云ってたじゃない。自己啓発セミナーや海外放浪など安易にポジティブ・シンキングに逃げ込む姿勢を批判してきたけれど、ポジティブ・シンキングそのものを否定しているわけじゃない、って」
 「そうね。個人で前向きになろうとしてるぶんには、別に好きにすれば? って思うけど」
 「そこなんだよ。その私的な段階でのポジティブ・シンキングの肯定を試みたいんだよね……あー、でもとりあえずビールおかわりしようかな。なんか頼む?」
 「そうね、じゃあシャンティガフをもらおうかな」

 

 *

 

 「これまで出てきたようなポジティブ・シンキングの問題点を取り除いたときに、それでも根本的なポジティブ・シンキングの《核》みたいなものが残るじゃない? 死ぬまでクヨクヨしてるなんて僕自身はご免こうむりたいね。やっぱり前向きなほうが物事はうまく行くんじゃないか、人生楽しくなるんじゃないかっていう気持ちは理屈では拭えない」
 「それって信仰告白?」

 

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 「マイケル・フロッカーが『メトロセクシャル』で云ってるけど、ネガティブ思考では人も離れてゆくし仕事も上手く行かない。もちろん恋人なんて出来やしない。スポーツ心理学者いわく……」
 「あーはいはい。勝てると思ってる選手が勝つとは限らないが、負けると思ってる選手は負けるみたいなやつね」
 「そう。どんなにひどい状況でも選択肢はある、ともフロッカーは言っている」
 「あなたがそれを好きなのはいいんだけど、でもそういうのってポジティブになろうとするポジティブさが必要じゃない。それはどこから来るの? 無からは生まれないわよ。エネルギー保存の法則的に云っても」
 「だから孤立系外のエネルギーを採り入れてるんじゃないかな。お金でモチベーションを買う、みたいな。自己啓発書なんかまさにそれだし、他にも色々あるでしょう。応援ソングとか。それらはすべてぼったくりというわけじゃない。『メトロセクシャル』がそうであるように、なかにはポジシンの優良商品だってある」
 「ああ、お金で元気が買えたり、癒しが買えたりはするわね」

 

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 「起きなさいよ!」「でも、何のために?」


 「ポジティブ・シンキングの思想を持つってことは、毎回毎回外部から注入するんじゃなくて、その元気を自家発電するようなものじゃないかな。しかも怒りやストレスみたいなゴミみたいなものをポジティブなエネルギーに転換するわけだから、これはもう心のリサイクルというか」
 「う、うーん?」
 「それで本当に元気になる人もいれば、無理にポジティブにふるまってストレスをためてしまう人もいる。だから万人に良いとは言えない。けれど、少なくとも向いている人には良いはずだ」
 「そのへんの話になってくるとあたしの管轄外ね。まあそう考えるのが好きな人はそうすればいいんじゃない? 仏陀の言葉を読んでははーんと思うのも、武士道にかぶれるのもその人の自由。ま、ポジティブ・シンキングに関して云えば、エーレンライクのいうニュートラル主義が一番いいと思うけれど」
 「エーレンライクのニュートラル主義は、ポジティブ・シンキングの唯物論的な改良版という気がする。結局、ニュートラル思考が一番うまく行くぞって云うのは、みんながうまく行きたいと考えていることを前提にしているわけだから。それってすでにポジティブでしょ」

 「それはちょっと感じる」
 「だとすると、ニュートラル主義は、カモられないように、油断しないように、自己責任論や同調圧力に与したりしないように気をつけたポジティブ・シンキングと言えるんじゃないか。つまり戦術が違うだけで、成功志向であることには変わりない」
 「まあねえ……」
 「それに君だって、やっぱり変に拗ねたりいじけたりしてる人は嫌でしょ」
 「経験的にはそうかも知れないわね」
 「明るくて――もちろん騒がしくない程度にだけど――陰湿なところがなくて、ほどよく自信があって落ち着いてる人のほうがいいでしょ」
 「言葉だけ聞けばそうなるに決まってるじゃない」
 「じゃあ、そういう人間を目指して悪いはずがない」
 「あーはいはいわかったわ。それがあなたのパンチラインってわけね。じゃあ、あとはリスナーの判定に任せましょ?」
 「オーケイ。やれやれやっと終わったな。そうこう云ってるうちにもう夜だよ。明日も仕事なんだけどほんと嫌になるよね。ブログもまあ、ツイッター経由で多少読んでくれる人がいるけれど、そんなに話題になるわけでもないし、ホント何のためにやってるんだか。飲まずにはいられないよ」
 「お前けっこうネガティブだな」

 

ポジティブ病の国、アメリカ

ポジティブ病の国、アメリカ

メトロセクシャル

メトロセクシャル

「病は気から」って本当ですか?


 【免責事項】本稿は個人的見解を述べたものであり、医学的な記述について責任を負うものではありません! 本人様、ご家族・知人様の疾病につきましては! 専門的な医療機関とか! なんかそういう信頼できそうなアレを!!! もとに! ご判断! ください!!!!!!!!!1!11!

 

 1957年、心理学者ブルーノ・クロファーの患者であったライト氏は、全身に悪性リンパ腫が転移し、ベッドにのたうちまわり、死を待つばかりの状態であった。しかしライト氏は希望を捨てなかった。クレビオツェンという新薬の噂を耳にしていたからだ。
 だがクレビオツェンを投与される患者は最低でも三ヶ月の生存の見込みが必要であり、ライト氏は到底そこまでは生きられないと見做されていた。それでも彼が熱心に頼み込むので、とうとう医者はある週の金曜日に薬を投与すると約束した。実際には彼はその日までには死ぬだろうから、結局のところ新薬は(効果を試すことが出来る)別の患者に回せる、と医者は考えたのだった。
 ところがライト氏は医者の予想を裏切って約束の金曜日まで生きた。それだけでなく、その日までの数日間で腫瘍は半分の大きさにまで縮んでいた。医師が見に行った時、彼はナースと楽し気に会話までしていた。
 そうして新薬を週三回投与されることになったライト氏は、やがて病床から起き上がり、酸素マスクを外し、自家用機で空を飛べるほどまで回復した。

 

 ……この話の結末は、しかし明るいものではない。
 結局のところライト氏は数か月後に死んだのである。クレビオツェンはがん治療に効果はない、と全米医師会が新聞に最終報告を掲載した、その数日後に彼はひどい状態で再入院し、そのまま息を引き取ったのだった。

 

 *

 

 バーニー・シーゲル『奇跡的治癒とはなにか』(日本教文社)にはこうしたエピソードがこれでもかという位にたくさん書かれている。いずれも、末期患者が気の持ちようで統計的な余命よりずっと長く生きたり、絶望した者はすぐに死んでしまうというエピソードである。著者は、突き詰めれば「人は生きようと思っただけ生きる」と考えているらしい。

 

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 以下の引用はいずれも、意識のない患者にシーゲルが語りかけたものである。

 

 ひどく肥った若い男性がいた。手術室から回復室に運ぶ時、彼の心臓が停止した。蘇生術を試みたが駄目、麻酔医があきらめて部屋から出ようとした時、私が部屋じゅうにひびきわたるような大声で「ハリー、まだだよ。帰っておいで!」と言った。すると急に心電図が動き出し、のちにその男性はすっかり回復した。
 (バーニー・シーゲル『奇跡的治癒とはなにか』)

 

 回復の兆しもなく三年間昏睡状態を続ける女性に、家族がもうらくになったらと言っていること、死んでも母親失格にはならないこと、を伝えた。私は「あなたが亡くなれば、家族はきっと悲しむけれど、そのほうがらくなら好きなようになさい」と言った。すると十五分ほどで亡くなった。
 (同書)

 

 この二つ目の引用について註釈を加えておくと、シーゲルは自分の臨床経験を必ずしも「生=成功」、「死=失敗」という図式で捉えてはいない。患者が死の覚悟を決めているときはその気持ちに寄り添い、心の葛藤を解決する方向に協力する場合もある。「死を受け容れることは希望を捨てることではない。逆説的になるが、死に備えるのは生をより意義あらしめることだ」とシーゲルは言う。

 

 うちつけに飯を断つとにはあらねどもかつやすらひて時をし待たむ
 ――良寛

 

 *

 

 シーゲルは、奇跡的に生き長らえる患者のことを「例外的患者」(exceptional patients)と呼んでいる。そして例外的患者を扱ったこの本は、「病気でなくとも人生に真の喜びを見出せないでいる人にも、私が例外的患者から学んだ原理は喜びをもたらし、将来とも病気とは縁がなく暮らせるだろう」と述べている。
 つまりポジティヴ・シンキングである。「病は気から」という考え方はポジティヴ・シンキングの下位カテゴリーなのだ。

 

 ポジティヴ・シンキングという考え方は、19世紀アメリカのニューソート(New Thought)という潮流に端を発する。これはキリスト教の異端的一派であり、カルヴァン派の極端に厳格な禁欲主義に対する反発が当初のエモーションであると言われる。ナポレオン・ヒル『思考は現実化する』だとかデール・カーネギー『人を動かす』といった自己啓発本も、ルーツはニューソートである。これらは成功哲学、ポジティヴ心理学等の名で呼ばれ、宇宙的世界観を背景にしつつも、極端に現世利益的であるのが特徴だ。
 別の機会に述べることになるであろうが、行き過ぎたポジティヴ・シンキングへの同調圧力は「ある意味においてカルヴァン派以上にカルヴァン派的」とも言われている(このあたりの状況についてはバーバラ・エーレンライク『ポジティヴ病の国、アメリカ』を参照)。

 

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 ポジティヴになろうとするポジティヴさをください! 

 

 ニューソートの根幹となる思想に「人間の心は宇宙と直結している」「人間には内なる神が宿っている」といったものと並び、「病の本質は自己意識に対する無知である」というものがある。つまり「病は気から」だ。

 

 恥知らずにもウィキペディアから引用するならば、ニューソートの思想家で大きな影響力を持った人物のひとりにジョセフ・マーフィ牧師がいる。彼はいわゆる「引き寄せの法則」や「積極思考」を提唱し、精神が物質に影響を与えると説いた。そして彼は次の四項目の実践を推奨した。
 1.建設的に考えること
 2.楽しい想像をする習慣
 3.自信をもって祈ること
 4.行動すること
 日本の往年のベストセラー『マーフィの法則』は、小池靖によればジョゼフ・マーフィ思想のパロディであるという(『セラピー文化の社会学』)。なるほど『マーフィの法則』は「思考は現実化する」のアイロニーに満ちたネガといえる(「トーストを落とす時、バターを塗っている方が下になる可能性は絨毯の値段に比例する」云々)。だが訳者解説によれば、マーフィの法則はジョゼフ・マーフィにはまったく関係のない、アメリカ空軍技師エドワード・アロイシャス・マーフィ・Jr.の次の台詞

 「いくつかの方法があって、1つが悲惨な結果に終わる方法であるとき、人はそれを選ぶ」

 が一種のミームとなって、次々と似たような法則が発案され集積されたものだという。
 ん? どっちなんだ? と思うけれど、「マーフィの法則」はエドワードなんちゃらマーフィに端を発すると同時にジョゼフ・マーフィのパロディである、ということは両立しないこともないので、どっちも本当なんだろう、ということにしておく。

 

 *

 

 日本におけるニューソート団体であり、かつ世界最大のニューソート団体とも呼ばれるのが生長の家である(ニューソートはローマカトリックのようなピラミッド構造を持たず、並列かつ緩く繋がっている)。
 生長の家といえばたしかに「病は気から」という教義を一貫して持ち続けてきた。創立者である谷口雅春には『あなたは自分で治せる』といった著書があるし、二代目谷口清超にも『病いが消える』という著書がある。谷口雅春の思想は

 

 心に癌を描くと本当に肉体が癌になる、だから"思わないように"すれば治るという考え方である。癌などというものは本当は"無い"と知れば、その「無い」が顕れるというのである。
 (『それでも心を癒したい人のための精神世界ブックガイド』所収、谷口雅春『生長の家とは如何なるものか』の清水良典による書評)

 

 また、

 

 印刷物にも「仏」のヒビキが宿っているから、機関誌を大量に印刷出版することは仏の大量生産の成就である
 (中略)
 機関誌が病床に届いただけで病気も治る、といった確信がそこから出てくる。
 (同書)

 

 といったものであった(過去形にしていいかどうかわからないが)。
 後述するが、ポジシンにも色んなレベルがあり、「人間関係や仕事が円滑に行く」という唯物論者であっても比較的認めやすい、合理的説明が可能なレベルもあれば、「機関誌が届いただけで病気が治る」といった、門外漢には到底信じられないようなレベルまで様々である。まあ伝統仏教もお札やお守りを売ってるので、大差はないかも知れないが。

 

 そして生長の家関連の本を刊行しているのが生長の家出版部であり、戦後は日本教文社と名を改めた。冒頭で触れたバーニー・シーゲル『奇跡的治癒とはなにか』を出したのも日本教文社である(繋がった!)。
 他にもA・J・サティラロ『がん――ある「完全治療」の記録』だとか、アンドルー・ワイル『人はなぜ治るのか』といった同傾向の本が刊行されている。

 

 もちろん生長の家以外にも「病は気から」系の信仰はあり、それは伝統仏教にもみられる。たとえば手元の本でいえば、真言宗東寺境内にかつてあった済世病院の院長、小林参三郎は次のように書いている。

 

 人間は一つの實體でその現れが心と肉です。その心身は即ち二而不二、分つて分ち様のないものです。
 (中略)
 それですから肉に變化があれば心が悩み、心に痛みがあれば必ず身に障りを起します。これは何人も承知の事であります。然るに現代は餘りに物質的文明の進歩に眩惑させられ、不知不識、精神の方面を見落とす様な事になつたのです。
 (小林参三郎『生命の神秘 生きる力と医術の合致』)

 

 小林氏は聴診器すら使わず、患者の顔を見ただけで病気を見抜いたという。だが「物質に盲ひ、科学に眼の眩んだ下根の患者はそれを便りなく思って氏の許を去」っていったのであった(同書)。
 他の医者からことごとく「助かる見込みはない」と宣告されていた者が、小林氏の施療により完治したという例が無数にあるのだという。えーと、まあ、どうなんでしょうね。

 

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 よしお前が悪い箇所がわかったぞ!

 

 *

 

 さてポジティヴ・シンキングといってもさまざまなレベルがある、とさきほど述べた。それはつまり

 

 レベル1:前向きな人のほうが人間関係や仕事が円滑にゆき、生活も向上する

 

 レベル2:本人の心次第で出世したり運命の恋人が現れたり健康長寿を得られる

 

 レベル3:心と宇宙には影響関係があり、運命や偶然は心に左右される

 

 といったもので、三つではなく二つに分けたほうが良かったのか迷うところだが、筆者としてはレベル1は大いにあり得るがレベル3はあり得ないという立場を採る。そしてグレーなものがレベル2である。
 「病は気から」は上の基準でいえばレベル2に属するが、提唱する人、書き方によってレベル1~3までのすべてを内包している。上の例で云うとバーニー・シーゲルよりも谷口雅春や小林参三郎のほうが些か高レベルである(褒めてない)。したがって「病は気から」という発想自体はアリにしても、幾つかの注意点が出てこざるを得ない。それは次のようなものである。

 

 ・霊的治療に傾倒するあまり科学的な治療を拒否してしまう

 

 ・根拠に乏しい民間療法のカモになる

 

 ・「心がけのいい人が治るなら治らなかった人は心がけが悪かったのか」問題

 

 このてん、バーニー・シーゲルはけっして科学的治療を放棄すべきとは言っていない。むしろ医者はなるべく患者に真実を伝え、患者が望むならば病状や治療法について詳しく説明するべきである、と述べている。詐欺的な商法については、ポジティヴ・シンキング云々という以前に文明社会の起こりからおそらく存在していたのだろう。「心がけのいい人が治るなら治らなかった人は心がけが悪かったのか問題」は、もっと根深く、「病は気から」思想にとっては宿痾といえる。

 

 しかし、少なくとも自分自身の肉体についてのみ言えば「精神が物理的な現実に影響を与える」というのにも一理ある。バーニー・シーゲルは精神と肉体を中継するものとして中枢神経系、内分泌系、免疫系を挙げているが、こうしたパートが精神状態の影響を受けるということは充分にあることで、それは何ら超常的な現象ではない。
 だが自分の肉体の外側はまったく別の話である。とてつもない修行をした者が一心不乱に念じたところで、消しゴムひとつも動かすことは出来ない、と筆者は確信するものである。

 

 さて今回は「病は気から」について述べたが、より包括的な概念であるポジティヴ・シンキング自体については、稿を改め、引き続き考察を加えてゆくつもりである。ご期待いただければ幸いである。

 

生命の神秘

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