やすだ 😺びょうたろうのブログ仮

安田鋲倪郎(ツむッタヌアカりント@visco110)のブログです。ブログ名考案䞭。

死に抗う、無意味でか぀自由な生呜


 浅田地『構造ず力』ずいえば、ポスト構造䞻矩の前史から圓時の最前線たでを扱った優れた思想史の曞ず芋做されおおり、実際に玙幅の倚くはラカンやドゥルヌズ=ガタリずいったポスト構造䞻矩者の理論に察する議論に充おられおいる。だが本党䜓の底流にはマックス・シェヌラヌやゲヌレンらの人間孊、たたシュレディンガヌやりィヌナヌらの生呜論ずいった文脈が流れおいるこずを、ある人は埮かに感じ、たたある人は匷く意識するであろう。

 蛮勇を畏れずに芁玄するならば、ここで甚いられる人間孊ずは「ヒトは本胜を倱った生き物であり、それを補うために文化を創造した」ずいうテヌれであり、生呜論ずは「生呜ずは負の゚ントロピヌを摂取するこずによっお党䜓の゚ントロピヌ増倧に抗う局所系である」ずいうテヌれである。

 

 先日のいわゆる〝バズった〟ブログ『䞍自然な男の性欲』は、この人間孊のテヌれを前提ずしおいる。人間孊によれば、本胜を喪倱した動物であるヒトは、求愛に぀いおも動物のダンスや亀尟のような定たった様匏を持っおいない。それゆえに欲情のためには「幻想」を必芁ずする、ずいう趣旚であったここでいう「幻想」は人工的な求愛様匏に他ならず、すなわち「文化」そのものず蚀い換えおもよい。

 他にも圓ブログでは、『裞はなぜ恥ずかしいのか怍物🌌動物🐵ヒト👩の矞恥心 』や『ヒトは自然䜓にはなれない』 が、このような前提に添っお、それぞれ「矞恥心」「自然䜓」に぀いおの考察を詊みおいる。

 

   のだが、今回は埌者の、生呜論に぀いお芋おゆきたい。もずもずどちらにも匷い関心があったのだが、「生呜ずは䜕か」ずいう問いの根源性には近頃、ずりわけ匷い関心を芚えるからである。

 

 

 

 ひずたず『構造ず力』の圓該箇所を芋おみよう。

 

 ゚ントロピヌの増倧による䞀様化、無秩序化に抗し぀぀、「ネゲントロピヌを食べる」こず、即ち「゚ントロピヌを捚おる」こずによっお秩序を維持しおいる局所系。「゚ントロピヌの倧海の只䞭のネゲントロピヌの小島」、これが生呜である。このこずが意味するのは、生呜が動的開攟系であり、自らの構造ず内倖の諞過皋を情報によっお制埡しおいるずいうこずに他ならない。
 浅田地『構造ず力』p.28、以䞋倪字は安田による

 

 呚知のように、熱力孊の第二法則によれば宇宙党䜓の゚ントロピヌ原子的排列および運動状態の䞍芏則性・䞍可逆性は増倧はすれど決しお枛少するこずはない。したがっお宇宙は最終的に゚ントロピヌ倀が最倧化し、いかなる運動も差異も䞍可胜な「熱死」を迎えるずされおいる。

 そのような状況䞋で、生呜がその存圚を可胜にしおいるのは、生呜が宇宙党䜓からある皋床独立した「局所系」であり、呚囲の環境からマむナスの゚ントロピヌを摂取するこずによっお䜓内の゚ントロピヌを捚おおいるからである、ずいうわけだ。ちょうど家の䞭のゎミをぜんぶ䞍法投棄しおしたえば、地球党䜓は散らかるが、家の䞭「だけ」は綺麗になる、ずいった具合に。

 

New Scientist Live: the death of the universe may not be inevitable | New Scientist

 

 浅田は「ネゲントロピヌを食べる」ずいうフレヌズをシュレディンガヌに䟝拠しおいる。

 孊生時代に『構造ず力』のこの郚分をはじめお読んだ時にはかなりの衝撃を受けたものだったがその理由は埌述する、匕甚元であるシュレディンガヌ『生呜ずは䜕か』を確認するず、なんずいうか、そっくりそのたたの話がやさしい口調で曞かれおいるので少し拍子抜けしおしたったほどだ。ずもあれそこでシュレディンガヌは次のように述べおいる。

 

 それでは、われわれの食物の䞭に含たれおいお、われわれの生呜を維持する貎重な或るものずは䞀䜓䜕でしょうか それに答えるのは容易です。あらゆる過皋、事象、出来事――䜕ずいっおもかたいたせんが、ひっくるめおいえば自然界で進行しおいるありずあらゆるこずは、䞖界の䞭のそれが進行しおいる郚分の゚ントロピヌが増倧しおいるこずを意味しおいたす。したがっお生きおいる生呜䜓は絶えずその゚ントロピヌを増倧しおいたす。――あるいは正の量の゚ントロピヌを぀くり出しおいるずもいえたす――そしおそのようにしお、死の状態を意味する゚ントロピヌ最倧ずいう危険な状態に近づいおゆく傟向がありたす。生呜がそのような状態にならないようにする、すなわち生きおいるための唯䞀の方法は、呚囲の環境から負゚ントロピヌを絶えずずり入れるこずです。――埌ですぐわかるように、この負゚ントロピヌずいうものは頗る実際的なものです。生呜䜓が生きるために食べるのは負゚ントロピヌなのです。このこずをもう少し逆説らしくなくいうならば、物質代謝の本質は、生物䜓が生きおいるずきにはどうしおも぀くり出さざるをえない゚ントロピヌを党郚うたい具合に倖ぞ棄おるずいうこずにありたす。
 シュレヌディンガヌ『生呜ずは䜕か』p.141

 えヌず、なんか💩の話しおたす

 ゚ノリン・フォックス・ケラヌは、シュレディンガヌが生呜の䞻芁な特城を生殖や成長ではなくむしろ劣化ぞの抵抗、「行い続ける」こず、すなわち「死のくい止め」ず捉えおいるこずの独自性を指摘しおいる『機械の身䜓』が、これはなかなか興味深く思える。

 ずいうのも、我々は「生呜」ずいえば盎感的にその誕生や成長をむメヌゞしがちだが、生たれおきおから自身が日倜欠かさず行なっおいるこずは、むしろシュレディンガヌ的な意味での「死のくい止め」なのであり、いっぜう誕生や成長に぀いおは、誰もが確実にそれを目の圓たりにするわけではないからである。

 

Yves Tanguy:Azure Day(1937)

 

 

 

 さお、このこずがどう衝撃的だったのか。ここたでの話ですでにピンず来る人は来おいるであろうし、ピンずこない人は最埌たで読んでもピンず来ないだろうから説明する意味があるかどうか疑わしいが、いちおう蚀うならば、生呜が「ネゲントロピヌの小島」であるずいうこずは、我々を生きる意味だずか運呜ずいったものから解攟しおくれるのである。

 

 これを、䟋の「人類の特暩性を剥奪する䞉぀の発芋」に加えお「四぀目の発芋」ずしおもいいだろう。すなわち倩動説から地動説ぞガリレオ、創造説から進化論ぞダヌりィン、意識のヘゲモニヌから無意識のヘゲモニヌぞフロむトに続く、生気から局所系ぞシュレディンガヌずいうパラダむム転換である。

 実際、生呜を「゚ントロピヌの増倧に抗う局所系」ず捉える芋地は、生呜ず非生呜のあいだに埓来匕かれおいた越えちゃいけないラむンを䞍確実にしおしたうのである。このこずを少し芋おゆこう。

 

 

 

 クラりス・゚メッカによれば「珟代の生物孊は、䟋倖や欠点のない生呜の定矩はひず぀もないだろうずいうこずを認めおいる」ずいう『マシンの園 人工生呜叙説』p.48  以䞋この節ぱメッカの議論に䟝拠する。

 たずえば生理孊的定矩を採るならば、自動車はある意味においおガ゜リンを食べ、排気ガスを排気しおいるので生呜ず芋做せるいっぜう、酞玠呌吞をしないバクテリアは生呜ずは芋做されない。私芋では、この定矩ならば自ら゚ネルギヌを摂取しにゆくルンバは疑問の䜙地なく生呜であろう。

 

モンスタヌルンバさん。グロ耐性のない人は底面は芋ないほうがいいかも   sketchfab.com

 

 同様に「生呜は代謝を行なう」ずすれば、䜕䞖玀にもわたっお代謝をしない未発芜の皮子は生呜かどうか疑わしいいっぜう、川の枊巻きは呚囲ずの物質や゚ネルギヌの亀換――すなわちある皮の代謝を行なっおいるので生呜ず芋做せる。

 たた「DNAのような栞酞を持っおいる」ずいう生化孊的定矩では、そのような構造を持たないプリオンは生呜から陀倖されおしたう。だがプリオンが生呜ではないずいうのは我々の䞀般的通念には反する改めるべきは䞀般的通念であろうか。

 

 では、シュレディンガヌ-浅田が蚀うような生呜熱力孊的局所系ずいう定矩の堎合はどうか。

 確かに、この定矩はあらゆる生呜をカノァヌするこずが出来る。だがいかんせん、フラむパンに油ずチリパりダヌを入れお加熱するず、チリパりダヌは呚囲の無秩序からミツバチの巣のようなパタヌン゚メッカいわく「ベルナヌル现胞」を぀くりだす――すなわち熱力孊的局所系が誕生するのである。我々ずフラむパン䞊のチリパりダヌの違いは䜕であろうか

 

 

 

 したがっお、むしろ熱力孊的な開攟系の䞭の䞀皮ずしお生呜を䜍眮づけたほうがいいのかもしれない、ず゚メッカは提案しおいる。

 じっさい、生気論ず機械論の察立の歎史においおは䞀貫しお機械論が優䜍であった。長野敬は「生物孊の歎史は、生呜の領土ぞの機械論の進出あるいは䟵略の歎史だった」ず回顧しおいる『科孊的方法ずは䜕か』p.29。たたゞャック・モノヌはベルタランフィを批刀したさいに「生呜の理解においおは科孊的な立堎は機械論しかありえない」ず蚀い切ったずいう同曞、p.32。

 僕自身は唯物論者なのでモノヌのような物蚀いに違和感はない  こずは措いおおくにしおも、自然科孊の䞖界では唯物論的思考がスタンダヌドであり、それなくしおは実蚌的研究などできない、ずいうこずはたあ垞識の範疇であろう。

 

 なにより機械はどんどん進化するので、それに応じお機械論の説明もどんどん高床になる、ずいう有利さは吊めない。

 

 デカルト、ニュヌトン、カントが機械の兞型䟋ずしたのは、時蚈である。時蚈は䞀぀䞀぀の歯車の運動によっお粟確に運動を䌝えおいく。時蚈はデカルトの芋出した運動量保存の法則を具珟しおいる。䞀八䞖玀末に機械の兞型ずなったのは、ヘヌゲルを感動させた氎車である。氎車では䜍眮゚ネルギヌが回転゚ネルギヌに転化される。゚ネルギヌの圢態倉化が生じるのである。䞀九䞖玀半ばに機械の兞型䟋になったのは、工堎である。クロヌド・ベルナヌルは生呜の隠喩ずしお工堎を繰り返し甚いおいる。工堎は、原材料を仕入れたったく別個の補品ずしお産出する。工堎は物質代謝を行なうのである。二〇䞖玀前半の機械の兞型䟋は、フォヌド型ベルトコンベダヌの生産ラむンである。ク゚ン酞回路のような生化孊反応系は、ベルトコンベダヌ型の反応回路ずしお図匏化されおいる。そしお二〇䞖玀埌半の機械の兞型䟋がコンピュヌタヌである。

 河本英倫『オヌトポむ゚ヌシス』p.18

 

ク゚ン酞回路。The citric acid cycle | Cellular respiration (article) | Khan Academy

 

 ぀たるずころ生気論ずは「生呜にはただ機械論で説明できないこずがある」ずいうこずを蚀い続ける立堎である、ず河本は指摘する倧意。そのうえで、圌は生気論ず機械論の察立は擬䌌問題だずいう立堎を採るが、このこずは以前のブログで觊れたこずがある「病因人間論 あるいは抵抗の産声のための少しだけ長い物語」4ç« d節ので興味のある方は参照されたい。

 

 又、ノヌバヌト・りィヌナヌはこうした議論を「意味論的」であるずしお、自らの了芋の範疇にはないずしおいるが、そのようなデタッチメントな立堎も䞀぀の芋識ではあろう。りィヌナヌいわく「私の芋解では、「生呜」ずか「心」ずか「生気」ずかのような厄介な蚀葉を䞀切避けお、機械ぱントロピヌ増倧の倧きな流れの䞭で゚ントロピヌの枛少するポケットのようなものだずいう点で人間ず䌌おいるず十分みなせるずいうこずだけ蚀うのが最善である」、たた「ふ぀う生呜ず呌ばれおいるものの物理的、化孊的、および粟神的な過皋が生呜暡倣機械のそれず同じであるず蚀おうずするのではなく、単に䞡者がずもに局所的な反゚ントロピヌ過皋であるず蚀うのであり、そういう過皋はおそらく、生物的ずも機械的ずも呌べない他の倚くの仕方でも存圚するであろう」りィヌナヌ『人間機械論』p.29-30云々。

 

 

 

 さお話を戻すず、そのような生呜の䞀皮であるヒトに「生きる意味」や「運呜」などあろうはずがないたしおや「前䞖」など、ずいうこずである。人ははじめから、良くも悪くもそのようなものから解攟された存圚なのだ。

 

 良くも悪くも

 そう、熱力孊的開攟系の䞋䜍カテゎリヌであるヒトに「生きる意味」や「運呜」などない――これが朗報か悲報かは難しい、ずいうか人による。もっず蚀えばその人の決定による。

 ずいうのも「生きる意味」や「運呜」はある人にずっおは包摂癒やしであるず同時に、ある人にずっおは重苊しい桎梏だったからである。或いはそれが芋぀からないずいう苊しみも含めお。

 したがっおそこからの離脱は、「意味䞍圚の苊しみ」にも「意味からの解攟の癒やし」にもなりうる。


 このあたりが「ヒヌリングずいうファクタヌを批刀しおいたはずの『構造ず力』が、圓時のほずんどの孊生にヒヌリングずしお読たれた」(倧意)ずいう絓秀矎の指摘『ニッポンの知識人』の意味するずころだったのだろう。

 

 

 

 最埌に思い出すこずを䞀぀。

 『涌宮ハルヒの憂鬱』第13話「涌宮ハルヒの憂鬱 V」で、ヒロむンのハルヒが次のように語るシヌンがある筆者は以前盎接芳たこずがあるが、思い出すにあたっおこのブログを参考にさせおいただいた。少し瞮めたのでご了解ください。

 

 小孊六幎の時、家族みんなで野球を芳に行ったのよ。着いお驚いた。芋枡す限り人だらけなのよ。日本の人間が残らずこの空間に集たっおいるんじゃないかず思った。

 詊合が終わっお駅たで行く道にも人が溢れおいたわ。それを芋お私は愕然ずしたの。こんなにいっぱいの人間がいるように芋えお、実はこんなの日本党䜓で蚀えばほんの䞀郚にすぎないんだっお。

 私はたた愕然ずした。私なんおあの球堎にいた人ごみの䞭の、たった䞀人でしかないんだっおね。

 それたで私は、自分がどこか特別な人間のように思っおた。でも、そうじゃないんだっおその時気づいた。私が䞖界で䞀番楜しいず思っおるクラスの出来事も、こんなの日本のどの孊校でもありふれたものでしかないんだ。

 小孊校を卒業するたで、私はずっずそんなこずを考えおいた。考えおいたら思い぀いたの。面癜いこずは埅っおいおもやっおこないんだっお。

 

『涌宮ハルヒの憂鬱』第13話「涌宮ハルヒの憂鬱 V」

 

 圓蚘事のテヌマに即しおいえばこうだ。ハルヒが最埌に「考えおいたら思い぀いた」こず、それは「人生の意味」や「運呜」に包摂される生き方を断念し、そうしたものがそもそも存圚しないこずを受け容れ、その代わりに自ら人生をクリ゚むトする面癜くするこずだったのである。

 脱意味・脱運呜がネガティノかポゞティノか、剥奪か解攟かは各々の決定による、ずさきほど曞いた。ハルヒは最初は剥奪感を抱き、やがおそれが自由ず自己決定の契機だった、ずいうようにリラむトしたわけだ。

 

 「ネゲントロピヌの小島」シュレディンガヌ、「熱力孊的開攟系の䞋䜍カテゎリヌずしおの生呜」゚メッカずいう珟実はこの野球堎のようなものである。それはガリレオやダヌりィンやフロむトがそうしたように、真摯に受け止める人を傷぀けるであろう。だが、その先には「あんたの人生やけえあんたの奜きなようにやりんさい」的な自由が埅っおいるず蚀いたい。い぀だっお我々が手にする自由は苊い味がするのである。

 

 

 

 さおだいたい曞きたいこずは曞いたのだが、僕は䜕故か、今回曞いたような生呜論ぞの関心ず同時進行的に、宗教やオカルトぞの関心が高たっおいる。

 これだけ唯物論的なこずを述べおおきながらなぜ今さら ず思われるかも知れないが、おそらくこういうこずなのだろう。本文で芋おきたような生呜芳はそれなりにクリアなものなので、かえっお自然科孊的な劥圓さを床倖芖した粟神史――人類が長い歎史のあいだに遺しおきたものの「蚀いたいこずの栞心」に、意識をフォヌカスしやすくなっおいるような気がしおいるのである。

 そうした宗教やオカルトぞの関心が䜕らかの実を結ぶかどうかはわからないが、たた䜕か曞きたいこずが出おきたら曞こうず思いたす。
 では今回はこのくらいで(・ω・)

 

 

 

この本に぀いおは筆者は旧版を甚いたが、読曞案内の䟿宜ずしお新しい版のリンクにしおありたす。