著者の知性と対峙すること
本を読むということは、知識を得るだけではなく、著者の知性と対峙することである、というのは当たり前のように聞こえるが、では著者の知性と対峙するとは実際にどのような読み方をすればよいのか。その理想的な例は、中野孝次『ブリューゲルへの旅』(昭和五十一年、河出書房新社)と、それにたいする高階秀爾・中村雄二郎・山口昌男らの書評(『共同討議 書物の世界』、昭和五十五年、青土社)に見出せる。
『共同討議 書物の世界』は、それぞれ美術史家、哲学者、文化人類学者である三人が鼎談方式でさまざまな本に論評を加えてゆくものだが、それに留まらず対象となる書物群を生み出した文化状況を問うことや、書き手の姿勢、また書評とはいかにあるべきかといった問いを同時に検討してゆくという意欲作だ。
いっぽう『ブリューゲルへの旅』は、文学者である中野孝次の思索的エッセイである。戦中派の一文学者である中野が、さまざまな西欧文化(とりわけトーマス・マン)への憧れやコンプレックスを抱いていたものの、ウィーンに留学したさいにそれらのものに幻滅し、そこでブリューゲルの絵に遭遇して、〈ブリューゲルとの対話〉による自己検討を通じて「戦後の日本の知識人の西欧への姿勢を問い直そうとしたもの」(中村)である。
ここで最も厳しい論評を加えているのは高階秀爾である。西欧美術史の第一人者が文学者のブリューゲル論を相手にすれば当然のことのように思えるが、さすがに高階もそこは最初から相手にしていない。軽く「ブリューゲルについて新しい知見を与えてくれるものではまったくない」と述べたあとは、むしろ中野の知識人としての姿勢について批判的に検討を加えてゆく。
それは、端的に云えば「なぜトーマス・マンがダメで、ブリューゲルなら大丈夫と思えるのか」ということだ。これについて高階は「かつてのトーマス・マンの〈ことば〉には、虚しいという想いを噛みしめたんだけれど、今度は〈絵〉なら大丈夫だろうと言ってるだけで、やっぱり同じことをしてるんじゃないか、という印象が非常に強いんです」と述べている。
山口昌男は杉浦明平の言葉を引いて云う。「狐に欺されて肥桶に入った男が、もう一つ別の肥桶に入って、今度こそいい湯だなと言っているのに近い」面白いが、これはあまりに辛辣であろう。
さらに批判は、中野孝次のコンプレックスの根底にある田舎者の意識だとか、野間宏『暗い絵』の影響から抜け出せておらずブリューゲル観が古くさいこと、またブリューゲルで語ったようなことをトーマス・マンでどこまで語れたかという可能性について見ていないことなど、中野の知識人としての姿勢の端々に及ぶ。
補足すると、これらは趣味としてなら何も問題ない話である。田舎者だろうがブリューゲル観が古かろうが個人の勝手だ。だがブリューゲルを論じつつ戦後知識人のあり方を問うてゆく著作のなかで、こうしたことが意識に上らず処理されることがなかったとすれば、そこは批判を免れ得ないだろう。
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ピーテル・ブリューゲル『雪中の狩人』(1565)
とはいえ実際に『ブリューゲルへの旅』を読んでみると、また違った感想も湧いてくる。というのも、評者たちにある程度共通するようなポストモダン的批評の立場からすれば、中野孝次の自意識に密着した書き方、印象批評は仮想敵と云ってもいいような批判の対象だっただろうが、今日から読み返すと、評者たちの姿勢にも幾らか過剰さがあったのではないかと伺えるのである。
『ブリューゲルへの旅』はすっかり成敗されてしまい、もはや読む価値はないのか。そうとも思えない。例えば冒頭の著者の少年時代の述懐は、今日の読者にとっても切実な問題意識を示していると云える。
「あれが始まりの合図だった。そしてわたしはそっちのほうへひたすらに突き進んでいったのだった。聞きかじりの教養主義で武装したやみくもな少年のエゴイズムで、その音のするほうへ、白線帽と近代絵画とトニオ・クレーゲルのほうへ、貧しい平凡な労働者の家庭から、遠くに西洋というものがある世界へ」
しかし中野はそのような自分の半生を振り返り、
「すべてあれは、目の前にそこにあるものを見ないようにするための、総がかりでだれもが巻き込まれていた理性のまどわしだったのではあるまいか」
という疑念に駆られるのである。
このような自意識の問題を巡っているかぎり、書き手がどのように内的に変化したと述べようが、ポストモダン的な脱アイデンティティの見地からはそれは「もう一つの肥桶」だと無限に云い続けることが出来る。
そもそも双方は異なる知的潮流に属し、異なる知をアガルマとする。そうであれば、上のような酷評は宿命づけられていたと言えると同時に、やはり真実の片面のみを表すものと見るべきだろう。
実際、本書のなかには中野の「挑発」とも読める箇所がある。
「肝腎な点、ブリューゲルの絵がなぜわたしに働きかけてくるのかという点については、知識はなんの手助けもしてくれなかった。ある研究者はそれをマニエリスムとして様式的に説明し、ある人は近ごろ流行のイコノロジーから個々の形象の「意味」を解明していた。結局わたしは何度でもまた絵に戻って、ただじっと見ているしかなかったのである」
「近ごろ流行の」という言い回しが悪意であることは云うまでもない。これはイコノロジーに深い関心を抱き、各所で発言していた山口昌男に対してかなり当てつけがましく受け取れるし、高階秀爾にとっても似たようなものであっただろう。
また次のようなことも見えてくる。中野孝次の文学的文体は読者を感情的に動員するところがある。このタイプの文学的文体はしばしば保守的な内容を包み隠し、読者に浸透させる機能を果たす。ゆえにポストモダン的批評は、このような文体の美を度外視し、その保守性を白日の下に晒し相対化することを基本的任務とする、と。
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さて、こうした検討は、思索的エッセイというジャンルのために促された部分はあるが、入門書や事実のみを追求した研究書でも原則は同じであると考える。すなわち人文書には必ず「著者がその時期にそれを書いた理由」「著者の題材に対する知的姿勢」「その本が生まれるに至った文化状況」が存在する。冒頭にも当たり前のようなことと書いたが、ここまで読めばその意図するところはわかっていただけただろう。
テーマについての知見に加えて、こうしたことを意識して読むことが読書において重要である……となにやら偉そうな結びになってしまったが、僕自身もこれからの課題として考えているところである。