モノへの愛惜について
僕は古書を売ったり買ったりする仕事をしているのだが、本を売りに来るお客さんが、しばしばこんなことを口にする。
「値段はつかなくてもいいので、できれば誰かに使って欲しい」
これを聞くたびに僕は「あー、またか……」と内心思ってしまう。捨てるのは可哀想だ、というのはわからなくもないのだが、何故かそういうことを云う人の持ってくる本は「言われなくても値段はつかない」場合がほとんどなのである。
モノにたいする個人的愛着ほど、市場的他者にとってどうでもいいものはない。
はっきり言ってほとんどの本は、この消費社会における量産品なんであって、お客さんからすればどんなに一期一会で大切な本であり、どんなやむにやまれぬ事情で手放さざるを得なくなったのかは知らないが、古本屋からすれば「その本は見飽きてる」場合がひじょうに多いのである。本当にレアな本などなかなかあるものじゃないし、本当にレアな本だったら云われなくてもとてもとても大事に扱うのである。
毎日毎日どうしようもない本を持ってきては「できれば捨てずに誰かに読んでほしい」と繰り返すお客さんたちを前に、笑顔を保ちつつも、僕の心の中の「またか感」はどんどん募ってゆくのだった。
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しかし。そんな僕にもお鉢が回ってきた。
実はこのたび、ダイニングスペースを作る都合でやむなくピアノを処分することになった。僕自身が「値段はつかなくてもいいのでできれば誰かに使って欲しい」とお願いする側になったのである。
このピアノは、僕が生まれた頃に、母がピアノを習わせようとして近所の先生の紹介で買ったものだ。僕ときょうだいがピアノを習ったが、きょうだいはすぐに辞め、いちばん長く続けたのが僕だった。
実家を出るときに貰いうけて運んできたのだが、そのせいで狭い2DKのD(ダイニング)になるはずの場所にピアノが鎮座することとなった。
やがて僕も結婚したが、Dの場所にPがずっと居座っている、いわば2PKの生活が今までずっと続いてきたのである。だがとうとう、ピアノを処分してテーブルと椅子を置くことを決断したのがつい先週だ。ダイニングづくりというのはそれなりに心躍る話であり、そうと決まればどんどん話を進めてゆきたい。
僕は当初、なんでもいいからさっさとピアノを処分しようと思っていた。別になんとも思わなかった。だが手続きを進めてゆくうちに、だんだんこのピアノへの、長く忘れていた愛着が甦ってきたのだった。
なぜ心境の変化があったのかには色々な事情がある。ツイッターに写真を載せたら「綺麗なピアノですね」「処分されるのですか、残念です(´・ω・`)」といったようなコメントがけっこう多くついて、なるほど言われてみればと愛惜の念を掻き立てられたということがある。
また一応親に報告しようと電話したさいに、父に「子供たちにピアノを習わせようとして母が買った」という思い出話をふと聞かされた。そういえば幼少期、となりに母が座って、毎日ピアノの練習を泣きながらさせられていたのを思い出した。
いろいろ思い出すうちに僕はすっかり気が変わってしまい、このピアノを処分することが本当に良いことなのかと迷いが生じてきた。
かといってPがあるうちはDがつくれない。
そこで、最初は実家にあったものなので、もう一度実家で引き取ってもらおうとしたのだがそれは断られた。
これについては「実家は広いからピアノくらい置いてくれてもいいのに」と喉元まで出かかったが、我慢した。僕もピアノを手離そうとしているのに、そんな僕が実家に置いてくれないからといって実家の家族を批判する資格があるのか? ……ない。
そんなやるせない気持ちが次のツイートになった。
子供を捨てた貧乏人が、子供を捨てた金持ちを責める資格はない。例えるならそんな気分。
— 安田鋲太郎 (@visco110) October 6, 2018
まあ大げさなのだが、ポエムである。子供とはピアノのことであり、貧乏-金持ちとは居住空間が狭いか広いかという話だ。
かくして「値段はつかなくてもいいから再利用してくれる引き取り先」を捜すこととなったのだが……
*
ここに来て、身につまされてしまったのである。そう、いつも本を売りにくる人たちの、何度も何度も聞かされたあの言葉。
「値段はつかなくてもいいので、できれば誰かに使って欲しい」
冒頭でそういう本に対して「言われなくても値段はつかない」と述べたが、むしろそういう本(客観的に見ればクズ)だとわかっているからこそ、彼らはなんとかしてモノの生命を保とうと、懇願するような言葉を発していたのではないか。それを自分はどれほど無下にしてきたことか。
……いや接客の愛想はつねに良いのだが、内心で、そういう彼らの気持を汲むということをまったく自分はしてこなかった。なんということだろう。まったく自分はやさしい顔をした人非人だったのだ。
とはいえ、著名人でもない我々の個人的愛着がモノの市場的価値を上げることは、絶対にない。
いくら半生をともにしてきた蔵書だろうが、市場的に見てクズの山であればクズの山だし、同様にいくら母との思い出が詰まったピアノだって、市場的に見たらみすぼらしい安物のピアノにすぎない。それはわかっている。だが僕は気持ちを改める。
いままで冷淡な気持ちで「残念ながら値がつきません。誰か知り合いの方に譲られるのがよいのではないですか」と云い放っていたあの場面。これからもきっと何度もあるだろう。
これからは、そういう場面に出くわしたら、他人の愛惜の気持ちがわかる血の通った人間として、真心を込めてこう言っていこうと思う。
「残念ながら値がつきません。誰か知り合いの方に譲られるのがよいのではないですか」
【追記】
その後、ピアノはあのくどいCMでおなじみの「タケモトピアノ」に買い取ってもらうことになった。タケモトピアノは、買い取ったピアノをメンテナンスして、中国や東南アジア、アメリカ等に輸出しているらしい。
正直、タケモトピアノは業界の大手ということで、我ながら安直な反資本主義感情からあまりいい先入観を持っていなかったのだが、こうやって身請け先を探す身になってみると、うちのピアノに再活躍の場を与えてくれたタケモトピアノにはなんともいえない感謝の念が沸き起こってきたのである。
まあ感謝じたいは偶然による個人的な感情にすぎないのだが、少なくとも大手だからといってマイナスの先入観を持つようなこじれた反資本主義マインドみたいなものは自己検討したほうがいい、と思う契機になったのだった。よく見ればあのCMも明朗で良いのではないかしら。
そうしてテーブルを設置し、これを書いている時点でまだ姿見でコンセントを隠すだとか、玄関をお揃いのペンダントライトにするとか幾つかの作業は残っているものの、ひとまずダイニングの原型ができあがった。Before&After的に見比べていただきたい。
このAfterにあたる写真について、ツイッターのフォロワーさんから次のようなリプライをいただいた。
なにげにあのピアノと似てますね😽
— きょ (@kyosshern) October 12, 2018
松本ピアノさん、第二の人生を謳歌して欲しいですね🌸
その言い方は泣けてしまうのである(;ω;)
そもそもピアノじたいが、僕のなかでいくばくか亡き母の記憶と結びついている。そのピアノの代わりにやってきたテーブルが、微かにピアノの面影を留めているとするならば。
なにかそこに、テーブルを通してピアノの記憶に、ひいては母の記憶につながる微細な経路の存在を指摘されたような気がして、なんとも胸に沁みたのだった。
大事なことは、このダイニングで、これから妻とさまざまな思い出を作ってゆくことだと思う。亡き母に対しては、生前に充分に親孝行できなかったという取り返しのつかない悔いがあるが、結局のところ最高の親孝行とは、僕自身が幸せになることではないだろうか?
イタリアかどこかの諺に「優雅な暮らしが最高の復讐である」というのがあるが、それを少しもじって、僕はこう言いたい。
「幸福な生活が最高の恩返しである」