死んだ母から曽祖父が生まれた話
僕の曽祖父には伝説がある。それによれば、曽祖父は一度死んで生き返った母によって出産されたのだという。そして生き返った母から生まれたため、兄たちがいるにもかかわらず一から数えなおして「一郎」という名前になったというのだ。
なるほど明治の話なので、臨終の判断も今ほど正確ではなかっただろう。誤って仮死状態の人を死んだと判断することもあったかも知れない。だからこそ地中で甦って棺桶を掻き毟るといった恐怖物語も、我々の聞き馴染みのあるところとなっている。
かくしてこの話は我が家の伝承として、親戚の集まる場などで、しめやかに語り継がれてきた。
*
だがこの話は本当なのだろうか?
さすがに大人になってからは疑わしく思うようになった。しかし嘘だとしたら何のために嘘をつくのか。調べてゆくと、じつは曽祖父には嘘をつく動機があった。
福岡県生まれの曽祖父は、どうも山師的な人物だったらしく、ほうぼうで一発当てようとしては上手くゆかず、各地を転々としていた。昭和10~15年頃は台湾に渡り、また時期は定かではないが大阪でPL教団の前身である「ひとのみち教会」に身を寄せていたこともあった。*1
曽祖父は戦後に或る新興宗教の創立メンバーとなり、教義や伝説(たとえば教祖は救世主だとか、地元の山が霊山であるといったような)をつくる役割を担った。そのさい「ひとのみち教会」での見聞を大いにパクった参考にしたそうである。*2
けっきょく曽祖父は、その新興宗教を生涯の飯のタネにするわけだが、そのような地位と人柄があいまって「母は一度死んでから生き返って自分を産んだのだ」という話を創作したのではないか。つまり宗教家として箔を付けるための「奇蹟譚」だったのではないかというのが、曽祖父の逸話を嘘と見做す場合の筋立てである。
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実は死んだ母親が子供を産むという説話は数多くある。
南方熊楠は『南方閑話』において、このような説話を数多く取り上げている。見ると死んだ母が子を産むだけではなく、幽霊となって育てるケースが非常に多い。いわゆる「子育て幽霊」と云われる説話群であり、墓場鬼太郎の出生譚だとか姑獲鳥(うぶめ)といった、小説や漫画でなじみのある物語もこの説話群に含まれる。
安田米斎画『子育て幽霊図』
熊楠が紹介する説話のうち典型的なのは次のようなものである。
京都霊山正法寺の開山国阿上人、もと足利義満に仕え、伊勢へ出陣の間に、懐妊中の妻死す。その訃を聞いて、陣中作善を営む代りに、毎日銭を非人に施す。軍おえて帰京し、妻を埋めた処へ往き見ると、塚下に赤子の声聞こゆ。近処の茶屋の亭主に聞くに、その辺よりこのごろ毎日婦人の霊来たり、銭をもって餅を買う、と。日数も銭の数も伊勢で施したところと合うから、必定亡妻が施銭をもって餅を求め赤子を養うたに相違なしと判じて塚を掘ると、赤子は活きおったが、母の屍は腐れ果ておった。よってその子をかの亭主に養わせ、おのれは藤沢寺で出家し、五十年間修業弘道した、とある。
(『南方閑話』)
こうした説話のルーツを辿ってゆくと、宋代の『旃陀越国王経』や西晋の『諸徳福田経』といった仏教説話に行きつくらしい。『旃陀越国王経』では、旃陀王の寵愛した夫人がそれを嫉んだ他の夫人たちによって謀殺され、塚のなかで産み落とした子供を母乳で育て続ける。そしてのちに仏がこの子供を出家させて羅漢となったという。
また『諸徳福田経』では、須陀耶(すだや)という比丘が、前世の罪のために胎児のうちに母が死に、塚で生まれることになったが、死んだ母の乳を七年間飲んで成長し、仏の説法を聞いて得道した(悟りを開いた)という。*3
生まれこそ墓の中ではあるが、結局どちらも仏教的にかなり高いステージに登りつめている。
こうなってくると曽祖父が、宗教的な箔付けとしてこの種の説話を自分の出生譚に繰り込んだのではないか、という解釈はますます説得力を帯びてくるのである。
余談だが、マルチン・ルターの『食案法論』にも同種のエピソードが出てくる、と熊楠はいう。*4 そこでは死んだ妻が幽霊となって出てきて、夫も喜んで生前と同じように寝食を共にし、子供まで産んだ。だがこれについて意見を求められたルターは「その女も女が産んだ子供も悪魔だ」と述べたという。
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結局のところ、どうすれば白黒はっきりするのか。
そこで僕は、曽祖父の戸籍謄本を確認することにした。*5 ようするに一郎ひいおじいさんに一人でも兄がいれば彼が一度死んだ母から生まれたという信憑性が高まり、彼が長男であればほぼ嘘だと断定してよいからだ。
曽祖父の戸籍謄本を取り寄せるにあたってのさまざまな面倒な手続き、といった話は省略する。とにかく、幾ばくかの労力と日数を割いたのち、曽祖父の戸籍謄本が届けられた。それがこれである。
五男だよ。
……曽祖父が一度死んだ母親から生まれたという話は、まんざら嘘でもないのかも知れない。いわゆる奇蹟ではないとしても、冒頭で述べたように、仮死状態や臨終の診断ミスという可能性がある。
もしそのいずれでもないとすれば、五男なのになぜ一郎なのかという疑問は残る。再婚程度でそんなことはしないだろうし、よほど事情があったのだろうか。ともあれ、今回の記事の結論としては、
・曽祖父が一度死んだ母から生まれた可能性はある
・その可能性は調べる前より高まった
と言わざるを得ないのである。
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*1:1916年(大正5年)に立教した「御嶽教徳光大教会」は、昭和6年に二度目の改称を行い「扶桑教ひとのみち教会」となる。のち昭和21年に後継団体として「PL教団」が立教された。
*2:教団名は控えるが、あまり有名ではなく、大きな問題を起こしたこともない、そこそこやっている地方宗教といったところである。教義がPL教団に似たところがあるのは曽祖父の影響か。
当時の事情を知る者に訊いたところ、戦後の農地改革によって土地を失うことをおそれた地主あるいはその周囲の人間が、宗教法人を立ち上げ、そこに土地を寄付することによって対処したという経緯があり、この時期の新興宗教ブームの背景の一つとなっているとのこと。
*3:この、母が死んでも母乳で育て続けるというモチーフはユルスナール「死者の乳」(『東方奇譚』)にも見られる。
*4:熊楠はサウゼイ『随得手録』(1876、ロンドン刊)から孫引きしている。