やすだ 😺びょうたろうのブログ(仮)

安田鋲太郎(ツイッターアカウント@visco110)のブログです。ブログ名考案中。

「体験的読書」について

 

 このところ、新年が近づいてきたこともあって、にわかに旧習の幾つかを断ち切って新生活を迎えたいという気持が高まり、それで新聞や雑誌や本やテレビ等との付き合い方に、かねてから薄々思っていたことを実践に移してみた。

 

 その実践というのは、ようは「体験するように読む」ということである。*1

 たとえば新聞を買うとき、我々は何を買っているのだろうか? 情報の印刷された紙という「物」を買っている、というのが標準的な答えだろう。しかしジジェクもどこかで書いていたが、近年の傾向として、消費者は「物」ではなくむしろ「体験」を買うという視点がクローズアップされてきている。

 つまり我々が新聞やコーヒー豆を買うとき、それは「出勤前に淹れたてのコーヒーを飲みながら新聞を読むひととき」を買っているのだ、という視点である。マルクス経済学の云うところの「使用価値」をさらに半歩推し進め、実際に使用されたときに私たちが過ごす体験こそが、われわれが金銭の対価として得るものであるという理解モデルである。

 

 ……なぜこういう傾向が起きているのか。おそらくわれわれの生活の大部分が記号と情報に覆われたなかで、われわれは仮想化された体験ではない真摯な「体験」、五感をフルに使ったりいつもと違う場所へ行っていつもと違うことをしたりするような体験……を渇望しているためだろう。それゆえ商品を見たさいに、まず「その商品が与えてくれる体験」に意識が向くのではないか。

 

 *

 

 しかしこの文章はあくまで新聞だの雑誌だの本だのについての話である。正直、上で述べたような理想の高い「体験」と比べると、これらは所詮、机に座って情報と対峙する、どうあがいても「仮想化された体験」にすぎないともいえる。その中での、ミニマムな抵抗と思っていただきたい。

 

 さて僕も、新聞を「情報の詰まった紙」と考えることはやめて「新聞を読むひととき」と解釈することにした。そうした場合、何が違ってくるのかというと、読み方が違ってくるのである。

 まずそれは朝イチでなければならない。窓からの日差しを浴びながら、淹れたてのコーヒーとともに過ごす、出勤前のくつろぎのひと時でなければならない。

 

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 そして今までは、あくまで「情報を摂取する」という作業であったため、おおむね全ページにまんべんなく目を通していた。もちろん「さっと目を通す記事」と「きちんと読む記事」くらいの区別はつけていたが、根幹の発想として「情報をインプットする時間」だったわけだ。

 しかし「体験」ということを念頭に置いて新聞を読む場合、もう漠然と全体に目を通すことはない。1つか2つ、あるいは3つ程度、自分にとってとくべつに関心のある記事を見つけたら、そこだけを熟読するのである。

 グーグルで人物や用語を調べたり、地図を確認したり、そのニュースについての別の記事を検索したりしながら状況を思い浮かべる。

 そうこうするうちに、小一時間もして飽きてきたら終了。どれだけ読み残しがあってもおしまいである。

 むろんこうした読み方は網羅性には欠ける。だがそれでいい。網羅性への過剰なこだわりから、さしたる興味もない記事に延々と突き合わされる惰性の時間は避けたい。これはパーフェクトな方法ではなくベターな方法なのであり、ある面に対する諦めでもある。*2

 

 *

 

 このようなスタンスで読むようになってから、朝の新聞が楽しみになった。以前はどこか義務感に駆られていたのだが、今はそんなことはない。なにしろ興味のある記事以外はまったく読まなくてよいのだから。

 そしてこの原則は、新聞以外にも当て嵌まる。

 

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 雑誌もまた、目に止まった箇所を熟読しているとほんの数ページで小一時間経ってしまう。とてもじゃないが全体に目を通すことは出来ない。

 しかし、それでいいのだ。ようするに休日、新聞を読み終えた後の午前10~11時、あるいは午後2~3時あたり……この時間帯にジャズかボサノバかミニマルテクノあたりを小さめの音で流しつつ、上機嫌で、興味深い記事にのめり込むという「体験」が大事なのであって、雑誌全体の情報を漏らさずチェックするという「作業」がしたいわけではない。繰り返すが、網羅性は諦めた方がよいのである。*3

 

 テレビもまた同じだ。観るときは他事を排して画面を凝視する。たかがテレビと侮ることなく、集中力を最大限に高めてその空間に全身で没入しようとする。しかし、ふと惰性で見続けている自分を感じたら、すぐさまスイッチを切る。

 

 本もまた同じである。雑用を片付け、手を洗い、なにも気にしなくてよい状態でなるべく没入して読む。だが気が散りだしたら、惰性で読み続けることはすっぱりやめる。

 どうも世の中には通読にこだわる人が多いようだが、僕は最後の数十頁――ひどい場合には数百頁――を耐えながら読むよりは、さっさと次の心ときめく本に鞍替えすることを推奨したい。

 

 *

 

 まとめると、新聞、雑誌、テレビ、本、ネットあるいはその他に共通して、次のような態度を「体験的読書」と呼ぶことにする。

 

 ・その媒体に掲載されている情報をチェックする作業ではなく、「その媒体と過ごす時間」だと捉える

 

 ・なかでも「関心のある記事と過ごす時間」だと考え、その部分を熟読する。そうすると数ページ程度でもけっこう時間を使うので、大半が未読になっても気にしない。

 

 ・飽きてきたことに気付いた時点で躊躇なくやめる

 

 例えて云うなら、すばらしい博物館にやって来たが、あいにく小一時間で立ち去らなければならないとする。早歩きですべての展示をチラ見するか、気に云った数点をじっくり見るか。断然後者が良いであろうというのが「体験的読書」の発想だ。*4

 

 実際にそのような読み方を始めてからというもの、新聞、雑誌、書籍、テレビそれぞれと向かい合っている時間が、今までよりも濃厚になり、記憶にも残りやすくなった。

 恋愛に例えるならば、熱いうちは夢中になって全身全霊を捧げ、醒めて来る兆候を感じたらさっと離れる、というやり方。相手が人間だと非道としか言いようがないが、相手が新聞や雑誌やテレビや書籍ならば……まあ、そういう淫蕩な付き合いが、理想とされてもよいのではないか、と思う次第である。

 

本読みまぼろし堂目録―店主推奨700冊ブックガイド

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サバト恠異帖 (クラテール叢書)

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バカのための読書術 (ちくま新書)

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*1:この着想を与えてくれたのは荒俣宏『本読みまぼろし堂目録』所収のエッセイであった。なぜ我々は読んだものをすぐに忘れてしまうのか? それは紙の上で情報を追っているだけだからである。だから「読み歩き」をしてみよう、という趣旨であり、この記事とはまた少し違う方法を説いている。

*2:日夏耿之介の随筆「漫読臥読嗜読」は、題名どおり、漫然と読むこと、寝転がって読むこと、嗜みとして読むことを勧めている。いわば究極の脱力的読書の勧めであり、そのような読み方をしたほうが「かへつて眞に血肉となりいつまでも頭脳に残る」と喝破している。なるほど、確かに我々は、何のためといった思惑から解放されて、手近にあるものを「漫然と」読んでいる時こそが、もっとも読書に集中しているのではないか?

*3:小谷野敦氏は『バカのための読書術』のなかで「週刊誌だって、骨の髄までしゃぶり尽くさねばならない」「情報などというのはどうせランダムにしか入ってこないのだから、たまたま入ってきた材料から最大限の情報を引き出せばいい」と書いており、僕も一時期強く賛同していたが、今にして思えば是々非々であり、「骨の髄までしゃぶり尽く」すのは自分に関心のある記事だけでよいし、「どうせランダムにしか入ってこないのだから」(これはまったく正しい)、その中から自分の特別に気に入るものだけを咀嚼すればいい、というのが、少なくとも自分には適したスタイルであった。

*4:実際、かつてルーブル美術館では、日本人観光客が猛スピードで名画を見て廻るので「黒い旋風」と揶揄されていたそうだ。近年では、滞在時間が限られているならテーマを絞るといったような、成熟した感覚が芽生えているとは聞くが……。