あの頃、書くことが「居場所」だった
その昔、書くことが居場所だったことがある。
大学一年生の頃だ。パソコンの講義に使うとやらで半ば強制的に買わされたノートパソコンを持ち歩き、講義と講義の合間に、あと家に持ち帰っても延々と、取り憑かれたように「何か」を書きつづけた。
その「何か」というのは、いちおうは批評だったり、近未来SFみたいなものの出だしだったりした。今にして思えばよくあんなに淀みなく文章を量産できたものだ。もちろん若書きどころの話ではない。だいたい、高校を出たての小僧にどんな立派な文章が書けるというのか。三島由紀夫じゃないんだから。とにかく中二病というか、無知の極みみたいな恥ずかしい文章をいい気になって書きまくっていた。
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しかしですね、稚拙さはさておいて、そこには確かな享楽がありましたね。謎の全能感と勢いにまかせてドバドバ書いて、保存する。どんどんテキストファイルが増えてゆく。調子こいて友人に読ませたりもする。
一度など同級生が、まあ気を利かせてくれたんだと思うが
「何を書いてるの?」
と聞いてきたので
「え? ああ批評とかだね。読む?」
などとさり気ないつもりで申し立ててみたら
「いや、いい」
と苦笑いとともに拒絶されたりして、リアルタイムでもちょっと恥ずかしかったけれど、思い返すにこれは我ながら険しすぎるというか、なにを「フリスクいる?」みたいな感じに「批評読む?」とか言ってんだよ、調子こいてんじゃねえぞクソガキが、〇すぞ、みたいな案件でした。
最近、阿部幸弘という人の書いた「イタズラ描きは終らない」という文章を読んだ。これは根本敬論だ。根本敬といえばあの特徴的な、ラクガキみたいなド下品な絵を描くガロ系の漫画家で、おそらくその道ではもう、押しも押されもせぬ巨匠だ。
で、阿部幸弘の言うには、根本敬とはイタズラ描きの愉悦に執着し続けた漫画家なのだそうである。
だが、その愉悦はいったいどこから来るのだろうか? 結論から先に言ってしまえば、マンガのルーツの一つ、イタズラ描き/落書きの水準からではないだろうか。万能感あふれる子供の時間、無心に線を引き続ける事、つまりイタズラ描きする事には、表現とか創作とか言ってしまうとかき消えてしまうような、描いているその場にだけ限定された、誰のためでもなく描く事自体の愉悦があったし、また今もあるはずだ。
(『ユリイカ臨時増刊:総特集悪趣味大全』所収、阿部幸弘「イタズラ描きは終らない」)
デビュー以降、いわゆる描線の洗練(=線の自意識による制御)に一切向かわなかったという根本敬の選択は、職業マンガ家としては驚異的な決断だが、それは彼が、イタズラ描きとマンガとの接点にある、描くこと自体の愉悦から決して離れられなかったという事を示している。
(同)
なにやら、いま目指しているブログのあり方にひじょうに近い、重要なヒントを言っているような気がするのである。
余談だが、この本は外見といい中身といい僕にとってはかなり魅力的な本で、時々友人といて見かけた時など「これどう?」といって軽く勧めたりするのだが、世の中にはこういうテーマに興味がない人が圧倒的多数派らしく、「ああこれは面白そうだね読んでみるよ」となったことは未だ一度たりともなく、皆「いや、いい」と苦笑いするのである。なんでやん? 「悪趣味大全」やぞ!? どう考えても面白いやん!? と思うのだが、腑に落ちぬ。
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「やすだ😺びょうたろうのブログ(仮)」というのは前回までで51記事になる。だいたい一年半くらい真面目に書いてきたのだが、ぼちぼち自分の中での敷居を下げないとあれだな、趣味でやってるはずなのに苦行めいてくるなと思ったのである。
そこで人生のなかでいちばん書くことへの敷居が低かった時代を回顧してみたわけだ。いやそれにしてもあの「居場所感」。書いているときのみょうな落ち着き。自分はここにこそ居るんだという感じ、あれを取り戻せたら素晴らしいのに。
立派なものを書きたいという欲ももちろんあるし、そういう路線のものを書きもするだろうが、とにかくもうちょっと気楽にね、という話である。すいませんくどいですね。
これで2000字弱。これなら執筆30分/推敲30分の計1時間で更新できるけどどうでしょうか。「案外いい感じ」とか「やっぱいつもみたいに力の入った(当社比)やつがいい」とかあったら、よかったら教えてください(・ω・)ノ