やすだ 😺びょうたろうのブログ(仮)

安田鋲太郎(ツイッターアカウント@visco110)のブログです。ブログ名考案中。

トイレットペーパーとジジェク

 

 新型コロナウィルスの影響でマスクがどこも品切れ・品薄状態になっていることは周知だが、それに続いてトイレットペーパーやティッシュペーパーがなくなるという噂が流れた。こちらについては、実際にスーパーや薬局でトイレットペーパーが消えたり「紙製品が不足しています」という張り紙が貼られたりする反面、AEONやイトーヨーカドーではこれでもかとばかりに大量陳列されたりと、実際に品薄になったかどうかは微妙なところである。

 かくいう僕はここ一週間で数度、スーパーや薬局のトイレットペーパー売り場を通る機会があったが、ほとんど品切れで上述のような張り紙も見かけたので、少なくとも小さな売り場では実際に品切れ・品薄が起こったという実感だ(以下のブログは「品切れ・品薄はあった」という前提で書いているのでご了解ください)。

 

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品切れはあった? なかった? 

 

 そんな中、スロヴェニアの哲学者スラヴォイ・ジジェクによる「トイレットペーパーの噂」への言及が、ちらほらTwitterで紹介されていた。幾つか挙げてみる。

 

twitter.com

  

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 これらのツイートは後述するジジェクの該当箇所をおおむね正しく要約しており、その点でまったく不満はない。しかしジジェクは該当箇所においてそれ以上のことも述べている。この記事では、ジジェクの論理をなぞるとともに「それ以上」の部分を見てゆきたい。

 

 *

 

 だがその前に、前提を確認しておく。
 ジジェク以前の話として、根も葉もない噂がそれ自体を実現させてゆくメカニズムは、通常は自己成就予言 self-fulfilling prophecy と呼ばれる。社会学者のロバート・キング・マートンが提唱した概念だ。

 典型的なのは「ある銀行が倒産する」という噂が流れると、噂を信じた人々によって取り付け騒ぎが起こり、実際には何ら経営に問題がなくとも銀行が倒産してしまう、といったものである。

 

 マートンはこの着想をトマスの公理 Thomas theorem から得ている。トマスの公理とは、社会学者のウィリアム・アイザック・トマスが提唱した理論をマートンが後に名付けたものであり、「もし人がある状況をリアルであると定義づけるならば、それは結果においてリアルとなる」というものだ。

 

 ジジェクが云っているのは、もう一段階ひねった話である。
 この言及は『イデオロギーの崇高な対象』第三部に見られる。

 

 一見すると、これは予言の自己実現という単純なメカニズムみたいに見えるが、実際にはもうちょっと複雑なメカニズムが働いている。各個人はこう推論する。「私は素朴でも馬鹿でもない。店にはトイレットペーパーが腐るほどあることを知っている。しかしたぶん、噂を信じる素朴で馬鹿な連中がいるだろう。連中は噂を真に受け、それにしたがって行動するだろう。つまり必死になってトイレットペーパーを買い漁るだろう。そうしたら実際にトイレットペーパーがなくなるだろう。私はトイレットペーパーがじゅうぶんあることを知っているが、それでもたくさん買い込んだ方が得策だろう」

 

 つまり、たんなる「自己成就予言」と比べて、ここには「信じているはずの他人」が介在している。

 自己成就予言においては、わたしたちは直接噂を信じ込んでしまい、銀行の窓口に殺到する。いっぽうジジェクにおいては、「私は信じないが信じる馬鹿がいるから」という媒介を通して噂が実現するのである。

 

 ……さて、ここからが「それ以上」の部分なのだが、続けてジジェクはこう述べている。

 

 重要な点は、この「信じているはずの他人」というのはかならずしも実在しているとはかぎらないのである。「実在するはずだ」と他の人びとが考えさえすれば、その効果は実際にあらわれるのである。

 

 ここではさらに一段、話にひねりが加えられている。 
 この段階においては、トイレットペーパーの買い溜めをする「噂を素朴に信じているバカ」のせいでこうなったのだ、と云うことはもはや出来ない。こうした状況を作り出すにあたって主導的な役割を果たしたのは、他でもない、理性的なはずの「私たち」である。噂を信じていると想定される「彼ら」は実際には何の役割も果たしていない。

 私たちが「噂を素朴に信じているバカがいるに違いない」と考えることによって、仮想的な他者をつくりだし、その仮想的な他者への対抗策として率先してトイレットペーパーを買わざるを得ない状態に自らを追い込んだのである。そしてその帰結として、実際にトイレットペーパーが品薄になったのだ。このプロセスにおいて「噂を素朴に信じているバカ」が実在する必要はまったくない。

 

 だが嘆くなかれ。理性ある存在であるはずの我々がこうしたプロセスに巻き込まれるのも無理からぬことなのだから。ジジェクは続けて述べている。

 

 最終的にトイレットペーパーがなくなって困る人は、まさしく真理に固執する人である。

 

 真理を認識する(トイレットペーパーが不足するという噂はデマである)ことと、それに従って行動する(トイレットペーパーを買いに走る必要はない)ことは必ずしも合致しない。これはジレンマであり、この場合どちらを選んでも我々は愚者となる。真理に固執してトイレットペーパーがなくなって困るか、率先してバカを演じるか、二つに一つしかないのだ。

 

 *

 

 最後に、話の前後をざっと眺めておく。
 この挿話でジジェクが論じようとしているのは「信じているはずの主体」である。それは、ジジェクによれば「知っているはずの主体」「楽しんでいるはずの主体」「欲望しているはずの主体」とともに四つ一組の概念を為している。ただし、このなかの中心は「知っているはずの主体」であり、他の三つはその周辺を取り巻く惑星のような地位にある。

 (ジジェクによれば)ラカンは「知っているはずの主体」こそが転移現象の中心軸であると考えた。「知っているはずの主体」――たとえば分析家にたいして患者が抱くイメージ――は幻想にすぎないが「必要な幻想」である。なぜなら、この幻想を通じて「何らかの真の知」が生み出されるからだ。
 「信じているはずの主体」も、そのような意味で「知っているはずの主体」に似ている。つまり、それは幻想であるに過ぎないが、それでもその幻想は意味を生み出し、現実を動かす力を持つからなのだ、と。

 

 以上、ジジェクの「ティッシュペーパーの噂」についての言及をなぞってみた。

 それで私たちはどうすればいいのか? やはり買い溜めに走ったほうがいいのか、それとも?

 このジレンマは案外、深淵な問題なのかも知れない。またトイレで座っている時にでもじっくり考えてみよう。