やすだ 😺びょうたろうのブログ(仮)

安田鋲太郎(ツイッターアカウント@visco110)のブログです。ブログ名考案中。

ゲームが文化の中心になるのかも知れない

 

 ゲームを侮ってはならない。ゲームは年々加速度的に複雑・高度化しており、ゲームをするときに脳が行っている認知的作業は、ある面においてハイカルチャーをも凌ぐからだ――という議論は、2005年の段階ですでにスティーヴン・ジョンソンが『Everything Bad Is Good For You』(邦題「ダメなものは、タメになる」)で述べ、当時大きな反響を呼んだ。
 この本のなかでジョンソンは、ゲーム独自の(したがってハイカルチャーにはない)要素として、「調査(プロ―ピング)」と「テレスコーピング」の二つを強調した。

 

 「調査(プロ―ピング)」とは、ジョンソンの用法では「ゲームのルールを解読する作業」のことである。すなわちゲーム世界におけるさまざまな事物を、歩き回ったりクリックしたりして調査し、それらがどのような意味を持つのかについての仮説を立てる。そして仮説をもとに追試し、ゲーム内での真実に近づくべく絶えず修正してゆく。これによって、例えば「どんな高さから飛び降りてもキャラクターは怪我をしない」だとか、「ジュークボックスとラバランプがあれば近所の人々がパーティに参加してくれる時間が長くなる」といった、ゲーム世界における法則に気付くこととなる。
 これは科学的方法の基礎的な手順と同じである、とジョンソンは云う。つまり、現実について合理的にものを考えるさいにも、基本的には同じ方法を採るのが有効であり、ゲームを通して我々は、世界認識のもっとも基本的な方法を学んでいる、あるいは再確認していると云える。

 

 もう一つの「テレスコーピング」とは、著者によれば「適切な作業階層の構築」のことである。諸々の作業の優先度や作業と作業の関係を把握し、作業の段取りを決めること。例えばあるアイテムを手に入れるためには村人の抱えている問題を解決しなければならない、そのためにはある怪物を退治しなければならない、そのためには怪物を眠らせる笛を入手しなければならない、そのためには廃坑で特殊な土を採集してこなければならない、そのためには廃坑に入る許可を得なければならない、そのためには廃坑の管理人の要求を満たさなければならない(くどい)……といった状況はゲームにおいておなじみのものだろう。こうしてプレイヤーの段取り能力が鍛え上げられてゆく、というわけだ。

 

 「調査」も「テレスコーピング」も、たとえば『イリアス』や『ハムレット』といった超一流の文学であっても、本を読むときに必要とされる認知的能力ではない。ゲームと文学のどちらが優れているか、といった議論をもちろん著者は「そもそも比べるものではない」と退けるのだが、彼の議論を追ってゆくと(このあと彼は本書のなかで、映画、テレビ、インターネットについても非常に興味深く論じてゆくのだがそれはさておき)、少なくともポップカルチャーを軽視して済ませる時代はとっくに過ぎ去っているのだ、と読者は感じずにはいられないだろう。

 

 *

 

 あれから14年が経つ。今日、ゲームはジョンソンが指摘した以外の要素――『Everything Bad Is Good For You』の頃にはまだ大きく差があると思われていた芸術的観点においても、ハイカルチャーと何ら遜色のない水準になっていると云える。少なくとも僕にはそう思える。

 10年後、いや5年後には、ゲームはハイカルチャー・ポップカルチャーすべての中心に座しているのではないか、文化について何事か語ろうとしたら、書物でもなく映画でもなく音楽でもなく演劇でもなく、ゲームについて語れなければ"お話にならない"状況になっているのではないか――というようなことを思いさえする。個人的には、一度そのようなことを感じたのはユリイカ『特集:RPGの冒険』(2009)を読み、そのなかで『オブリビオン』が絶賛されていたのでPS3を買ってプレイしてみた時だったのだが、こうやって書いていてあのゲームがすでに10年以上前だったことに驚く。

 さらに昨年発売の『レッドデッドリデンプションⅡ』や『ゴースト・オブ・ツシマ』の美しい風景、恐ろしく作り込まれた世界、洗練されたストーリーを観て、再び僕は衝撃を受けた。

  只し、この文章を書いてからしばらく間を置いて考えると、やはり不自然かつ頻繁な「戦闘シーン」の導入が感興を削ぐところがあり、かつそれは”ゲーム”という表現形式において(商業的理由から?)どうしても避けられぬものなのかも知れない、という疑念が首をもたげた。この制約が、いまひとつ「5年後10年後にゲームが文化の中心になる!」という確信をためらわせている大きな要素の一つではある。

 

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 ……こういう話を書くにあたっては誠に残念ながら、僕はゲーマーではない。たしかにファミコンはよくやったし、それ以降もPS2あたりまでは断続的にゲームをすることはあったが、せいぜい年に2~3本。どちらかといえば本や絵画のほうに親しんできた人間だ。
 だかそれだからこそ、スティーヴン・ジョンソンの議論にも『オブリビオン』にも無関心ではいられなかったとも言える。ジョンソンもその基本的姿勢にしているように「どちらが優れているか」といった問題ではない。しかしゲームというものが現状、そして今後いよいよ認知的水準のみならず芸術的水準においても絶頂を極めるとするならば、「自分は本を読んでいればいい」とほっかむりを決め込むのは(当然他人のことまでどうこう言うつもりはないが、自分としては)、どうにも気になってしまうのだ。

 たとえばハドソンリバー派の絵画と『レッドデッドリデンプションⅡ』の風景を比べたらどうだろう。一方は日が昇ったり沈んだりもすれば天候も変わる。風が吹けば草が揺れ、鳥や動物は動きまわり、しかもどの角度からも眺めることが出来る。街中の人物の様子や戦闘シーンですら、絵画を彷彿とさせる瞬間があり思わず見惚れることがある。一方は平面に書かれた単一の風景をただ眺めるだけ……こういう比較には皮相な部分があることはわかっている。だが「ハイカルチャーはハイカルチャーであるゆえに芸術性が高い」という信仰を僕は持っていないゆえに、『レッドデッドリデンプションⅡ』のビジュアルのほうに軍配を上げたくなる誘惑は強い。

 

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 ハドソンリバー派の代表的な作品の一つ。トマス・コール「嵐の後、マサチューセッツ州、ノーザンプトン、ホリヨーク山からの眺望 または ジ・オックスボウ(川の湾曲部) 」(1836) 。

 

 優劣ではない、と云った端からこれである(反省)。
 だが、実はそれだけではない。この世界は生命力に溢れており、人々は絶えず動き回り、喋り、争いそして大地に血を滲み込ませる。物語は荒々しく、目に映るすべてが躍動している。『さかしま』の主人公デ・ゼッサントがペトロニウス『サテュリコン』やアプレイウス『黄金の驢馬』を評したような、リアリスティックかつ猥雑な活力がみなぎっているのであり、痩せ細ってかび臭く曖昧模糊とした、二流三流の「ハイカルチャー」作品が決して持ち得ないものである。


 ジョンソンが議論したようなインタラクティヴ性からくる認知的水準と、その後の芸術的水準の劇的な向上によって、いまはゲームは翼を得た龍のようになりつつあるのではないか。
 本の虫としては、戦々恐々としながらも、ゲームについては注目してゆきたい、あるいは可能な範囲でコミットしてゆきたい、と思う今日この頃である。

 

ダメなものは、タメになる テレビやゲームは頭を良くしている

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ユリイカ2009年4月号 特集=RPGの冒険

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The Elder ScrollsIV:オブリビオン - PS3

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レッド・デッド・リデンプション2【CEROレーティング「Z」】 - PS4

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さかしま (河出文庫)

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