やすだ 😺びょうたろうのブログ仮

安田鋲倪郎(ツむッタヌアカりント@visco110)のブログです。ブログ名考案䞭。

『読んでいない本に぀いお堂々ず語る方法』に぀いお曞いおいたら色々話が脱線したがなんずかたずたった

 

 

 

 曞評文ずしおたず最初に蚀っおおきたいのだが、この本の評䟡は高い。アマゟンのレビュヌがもし本の内容を正しく反映するならばもちろんそうであった詊しなどないが、この本の評䟡は必ず星5぀でなければならない。はっきり蚀っお匷くお勧めである。

 

 ずなるず次に語るべきなのは「どういう人にお勧めか」ずいうこずなのだが、僕が以前から神経症的読曞家ず呌んでいるような、自らの教逊の䞍完党さに察する焊燥感ず、そのくせ叀兞的名著に挑んでは「匟かれ」、軜い本を手に取れば「こんな本を読んでいおいいんだろうか  」ず十ペヌゞ毎にいちいち手が止たり、䞀向に読曞が捗らないこずに眪悪感を募らせるたこずに哀れな存圚。そういう䞀矀にずっおの犏音曞ずなるのが本曞、ピ゚ヌル・バむダヌル『読んでいない本に぀いお堂々ず語る方法』である。はいそこのあなたピンず来たしたね。そう、あなたのためにある本です。

 

visco110.hatenablog.com

 神経症的読曞家に぀いお述べおいる過去蚘事。別に読む必芁はない。

 

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 ではバむダヌルの本は類曞ずどう違うのか。

 そもそも神経症的読曞家の苊しみはそれなりの歎史ず䞀般性を持぀ものであり、その凊方箋ずしお「気楜に奜きなものを読めばいいじゃない」ずいった融通無碍掟ずでも呌ぶべき朮流は、じ぀はなかなか局が厚い。
 ここではその幟぀かを挙げる留めるが、本邊では倧正十五幎に日倏耿之介が曞いた文章が兞型的か぀流麗なのでお目にかけたい。

 

 かかるわびしい繁忙の珟圚にあっお、讀曞は倚く事務で、享暂でない。勉孊であっお嗜讀でない。たたの日曜の奜日の午埌に小春日のぬくもりを暂みながら臥そべ぀お讀むずもなしに讀みかかる雑著の小册子が、かぞ぀お眞に血肉ずなりい぀たでも頭腊に残るに反し、勉孞のための専門の論究曞の翻譯が、倚く単なるその堎の知識にしかならなか぀たり、浅薄な断片知識ずしおしか残存しないのは怪しむに足らぬ事であるが、恐らく倩䞋幟十萬の教垫生掻者の過半は必ずやこの嘆を繰返す事であらう。
 日倏耿之介『サバト恠異垖』所収「挫讀臥讀嗜讀」

 

 寝そべっおいるのは日倏耿之介が虚匱䜓質でずっず座っおいられなかったからだずかそうでもないずか色々蚀われおいるが、ずにかく、あれほどの碩孊が云うのだからあながち間違いではないず思えおくる。

 

 こうした融通無碍の姿勢を実践したかのような文章が、柁柀韍圊の「読曞日録」『倪陜王ず月の王』収録である。柁柀においおは、日倏耿之介に芋られるような「かぞ぀お眞に血肉ずなりい぀たでも頭腊に残る」ずいった欲目を瀺す文蚀ももはやない。読み始めたが぀たらなかったからすぐやめたずか、倩気がいいから倖ぞ出ようずか、「読曞日録」ずいう題に察し反抗的ずも呌びうる態床で、勀勉さに察するうっすらずした蔑芖すら感じる。だが結局のずころ圌もたた倚くの曞物を著し、䞀時代を築いたのだった。

 

 日倏、柁柀に比肩しうる倧読曞家の䞀人である荒俣宏もたた、融通無碍掟ぞの傟向をはっきり瀺す文章がある。

 

 あの囜民番組『氎戞黄門』や、あるいはAVの愛すべき゚ンゞェルを楜しむようにワクワクず、あらゆるテヌマの本を自圚に読みこなす工倫はないものだろうか。どうせ限りある䞀生だもの、たずえ理解䞍胜な専門曞にうんざりしおも、気持ちだけはすっきり理解できた爜快感をただよわせおいたいではないか。本ずは、そのように付きあうべきものだ。
 荒俣宏『屋根裏の読曞虫』

 

 この、曞物ずAVのアナロゞヌに぀いおは別の機䌚に曞こうかな、ず思っおいる著者AV女優、本出挔䜜、翻蚳曞海倖女優、云々。たた曞物ず栌闘技のあいだにも䞀定のアナロゞヌが成り立぀ように思う著者栌闘家、察談たたは論争詊合、ヘゲモニヌチャンピオン。さらに曞物ずDJ文化の間にもそうしたこずが蚀えるのではないかこれは埌でたた觊れる。こうした発想は読曞から重苊しさを取り去り、玔粋な享楜に近付くために有益な発想なのではないかず思うのだが、たあ今回はさおおき。

 

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 次にポストモダン的読曞スタむルを芋おみよう。浅田地は『逃走論』のなかで次のように曞いおいる。

 

 受隓䜓制に即しおあらかじめ範囲を限定されたむンスタント公害食品から解攟されお、森の朚の実でも毒キノコでも勝手にツマミ食いできるようになる。これは絶察に必芁なこずだ。だけど、それ、あくたでもツマミ食いでいいんだよね。「じっくり腰をおち぀けお」なんおいう必芁はない。
 䞭略
 マルクスの『資本論』なんお、どう芋おも寝っころがっお読むようにできおる、しかも、そうやっお拟い読みするず実に面癜いんだな、これが。
 浅田地『逃走論』所収「ツマミ食い読曞論」

 

 日倏ずいい浅田ずいい、寝っ転がっお読むのが奜きな人たちである。しかし浅田の読曞論は日倏や柁柀らず違っおもう少し意図的なものだ。浅田は「ツマミ食い」によっお埗た知識に぀いおさらに述べる。

 

 それをトランプのカヌドのように軜やかに扱っおみるこず。䜕もかもゎチャマれにシャッフルした䞊で、そこから新たにスゎむ組み合わせが出おくる可胜性に賭けるこず。これがチャヌト匏《知のギャンブル術》の方法ならざる方法なのだった。
 同曞

 

 出たぞ、脱構築だ リゟヌムだ ず思わず叫びだしたくなる。
 ぀たり浅田の堎合は、埓来の教逊人のむメヌゞ――系統だった本を䞹念に粟読するずいったような――を拒吊し、知を掻性化させるための戊略ずしお、敢えお脳内を混沌の坩堝ず化し、新しい知の亀配が起こるこずに賭けたのであるたあ本圓はくっそ読んでるんだろうけど。


 これは䞀芋よく䌌たDJ的匕甚スタむル峰尟俊圊が柄谷行人をそう評したようなずも少し違う。DJ掟における匕甚は華麗さや珍奇さ、その緩急によっおテクストにもたらされる高揚感に泚意を払うが、浅田地が云っおいるのは知の異皮亀配䞻矩ずでも呌ぶべきものなのである。

 

 マリリン・アむノィによれは、ポストアカデミズムの連䞭――おそらく日本のニュヌアカやそれに近しい人たちのこずを指しおいる――の読曞には次のような傟向が芋られるずいう。

 

 ポストアカデミズムの連䞭は、本を最初から最埌たで読み通すのが奜きではなく、郚分的に遞んで読むのが奜きだず述べおいる。圌らは本ずいうものは偶然の出䌚いであるべきだず信じおいる。

 䞭略

 今たでずはちがっお読みの技術は、しばしば食べるこず――軜食やスナックを食べるこず――にたずえらえる。読むこず、食べるこず、消費するこずが組み合わされ、すべお䜕かを取り蟌む問題になる。䜆し、取り蟌むずいっおも、軜く、あたり投資をせずにではあるが。
 『珟代思想 総特集日本のポストモダン』所収マリリン・アむノィ「批刀的テクスト、倧衆加工品」

 

 このようなポストモダン的読曞スタむルは、それ自䜓が知の生産のための方法論であるこずから、狭矩の融通無碍掟ずはやや異なる。しかし①読曞から重苊しさを取り陀きたい、②系統立った勀勉な読曞の吊定、ずいった共通する郚分も倚いので、ここでは広矩の融通無碍掟ずしおおこう。

 

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 いい加枛、バむダヌル『読んでいない本に぀いお堂々ず語る方法』の話に戻らなければならない。
 そのためには、融通無碍掟ずピ゚ヌル・バむダヌルの接点に向かっおゆく必芁があるだろう。その接点ずは、私の知るかぎりでは「読者の暩利10ヶ条」である。

 

 ダニ゚ル・ペナックによる有名な「読者の暩利10ヶ条」  曰く、読たなくおもいい、途䞭で攟棄しおもよい、䜕床も繰り返し読んでいい  等は、それらを述べた本が、ふさわしいこずにいずれも小冊子に近い䜓裁のものでありながら、内容的には融通無碍掟の完成圢ずいっおいい。

  

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 ピ゚ヌル・バむダヌルの曞物は、ダニ゚ル・ペナックの「読者の暩利10ヶ条」に11番目の項目を付け足すものず云える。そしおそれによっお、「読者の暩利10ヶ条」はより完党䜓になったである。぀たり、こういうこずだ。

 

  11.読たずに語る暩利 ←New!

 

  そももそも、ペナックの第10条は「読んだこずを黙っおいる暩利」である。これはいかにも「読たずに語る暩利」ず察になっおいる。぀たり、11番目の怅子はすでに甚意されおおり、バむダヌルの曞物が珟れおそこに座るのを埅っおいたのだず云える。たこずに運呜的である。

 

 「読たずに語る暩利」を、䞍誠実だずか、著者が蔑ろにされおいるず短絡しおはならない。バむダヌルはそもそも「読んだ」ずは䜕を意味するのか、「読んだ」こずず「読たない」こずは明確に線匕きできるのか、ずいった議論から始める。流し読みは「読んだ」うちに入るのか か぀お粟読したがすっかり忘れおしたった本は「読んだ」ず蚀えるのか 云々。
 だがそれは正論ではあるが、それだけではこの本が読者を真に驚愕させるには至らない。

 

 バむダヌルは本曞においお、教逊神経症的読曞家にずっおのアガルマずは個別の曞物を読むこずずは関係ない、ず宣蚀する。

 

 教逊ある人間が知ろうず぀ずめるべきは、さたざたな曞物のあいだの「連絡」や「接続」であっお、個別の曞物ではない。それはちょうど、鉄道亀通の責任者が泚意しなければならないのは列車間の関係、぀たり諞々の列車の行き亀いや連絡であっお、個々の列車の䞭身ではないのず同じである。これを敷衍しおいえば、教逊の領域では、さたざたな思想のあいだの関係は、個々の思想そのものよりもはるかに重芁だずいうこずになる。
 ピ゚ヌル・バむダヌル『読んでいない本に぀いお堂々ず語る方法』

 

 ここで「鉄道亀通」のアレゎリヌが出おくるのは、か぀お偶然にも再び圌の名前が出おくるわけだが浅田地が「亀通巡査」ず評されおいたこずを圷圿ずさせる。話の補助線ずしお有益ず思われるので匕甚しおおく。

 

 柄谷ずの匷力なパヌトナヌシップで、ポストモダン・ブヌム以降の、思想界を仕切っおきたその腕力はあなどりがたく䞭略圧倒的な教逊を芋せ぀け、アグレッシブな姿勢も盞倉わらずだ。ただ、単発の仕事が倚すぎお、呚囲からは才胜の出し惜しみを危惧する声も䞭略いずれにせよ、この蟺りで䞀冊曞いおおかなければ、倩才・浅田も珟代思想の"亀通巡査"に終わりかねない。
 絓秀矎・高柀秀次・宮厎哲也『ニッポンの知識人』

 

 ここでは「亀通巡査」ずいう蚀葉は負のニュアンスで語られおいるが、それは筆者らが浅田地に察し、なにかしら教逊「以䞊」のものを期埅しおいたためである。だがこず「教逊」ずいうレベルにおいおは、圓時浅田地の右に出る者はそうそういなかった。そしおその「教逊」ずは倚少はコヌディネヌタヌ的な意味も含たれるが、「亀通巡査」的なものに他ならないのである。

 

 さらにバむダヌルは、教逊ず個々の曞物は別物ずいうばかりではなく、むしろ盞反するず蚀い切っおしたう。

 

 私自身に関しおいえば、私は本をほずんど読たなくなったおかげで、本に぀いおゆっくりず、より䞊手にコメントできるようになった。そのために必芁な距離――ムヌゞルのいう「党䜓の芋通し」――がずれるようになったからである。
 バむダヌル、同曞

 

 限られた時間を「芋取り図」教逊のほうに振るか、個々の読曞に振るかずいうのは、たしかに盞反する。我々は぀い、個々の読曞の積み䞊げの果おに教逊が手に入るず思いがちだが、そもそも教逊ずはそのようなものではない。バむダヌルによれば、そのような「欠陥なき教逊」語っおいるものに぀いお本圓に知っおいるうえで、䜕に぀いおでもひずずおり語れるずいうむメヌゞこそ重苊しく、我々を呪瞛するものなのである。

 

 むしろ教逊ずは「個人の無知や知の断片化が隠蔜される舞台」バむダヌルであり、読たずに枈たせるためのものであるずさえ云い埗る。䜕のために読たずに枈たせるのか 人生の重荷たる「必読曞」を手短にあしらいしかもそのほうが適切に語るこずが出来る、本圓に自分の読みたいもの――あるいは読曞以倖のやりたいこずに、なけなしの時間を振り分けるために。

 

 たずえば創造するこず。このあたりは本曞のクラむマックス郚分なので盎接読んでいただきたいが、僕などは「そうか、今たで読みすぎおいたからバリバリ曞けなかったんだ」ず埗心したほどである。
 只しこれは決しお無知の瀌賛ではない。むしろ「完璧に資料を読み蟌めなければ曞けない、ずいった匷迫芳念が生産性を䞋げおいる」ずいう話に近いのだが、それでも八十点くらいの芁玄で、バむダヌルは曞物の象城的ネットワヌク、ある䞀぀の曞物の䟡倀や䜍眮付けがどのようにしお決たり、たた倉化しおゆくのかずいった䞍可芖のシステムを、我々に垣間芋せおくれるのである。

 

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 さお、『読んでいない本に぀いお堂々ず語る方法』には本皿で觊れた以倖にもさたざたな問題提起があっお、ここたでで觊れたのは映画のトレむラヌ皋床ずも蚀える。たいしお長くもない本だがそれだけ内容が濃いずいうこずだ。ぜひ䞀読をお勧めする。

 それにしおも、別に原皿料もなにも貰っおないブログで、今回はえらい絶賛しおしたった  たあいいか。

  

倪陜王ず月の王 (河出文庫)

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ニッポンの知識人

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