心はスクリーンのように出来ている
ジョルジュ・デュアメルは『未来生活の情景』において、友人に無理矢理映画を観させられたときの不愉快な体験について記している。だが、彼にとって映画が愉快だったか不愉快だったかはさしあたって問題ではない。興味深いのは、彼が次のように述べていることだ。
私はまだ体のあらゆる部分の感覚を維持してはいるが、もはや自分の魂をあまりしっかりと感じられなくなってきた。
(中略)
私はすでにもはや自分の考えたいことを考えることができない。動き続けるイマージュが私自身の思考と入れ替わってしまうのだ。
立木康介はこの一節について、『露出せよ、と現代文明は言う』のなかで次のようなコメントを加えている。
めまぐるしく展開されるイマージュに私たちがまず視覚を、次いで全神経を奪われてしまうその瞬間に、私たちの思考はイマージュとの競争に敗北する。だが、思考は消えるのではない。思考はイマージュに取って代わられる。いいかえれば、私たちが映画に心を奪われているあいだ、スクリーン上のイマージュの連鎖こそが私たちの思考になるのである。こうして、私たちの内面の活動がメディアによって肩代わりされ、いわば外在化される。
この記述はさまざまなことを想起させる。たとえば、ショーペンハウアーが「みずから考えること」のなかで述べた有名な一節。
読書は、自分の頭脳で考える代わりに、他人の頭脳で考えることです。そこで、その反対に、みずから考えること(中略)にとって、最も有害なことは、絶えざる読書により他人の思考があまりにも力強く流れこむことです。
デュアメルにしてもショーペンハウアーにしても、自分自身の思考のタクトを握り続けることにずいぶんとこだわっているようで、後世に仕事を残す書き手としてはそういった、ある種の禁欲(インプットしすぎない?)が必要だったのかも知れないと思うと大変そうだな、と感慨が湧くがさておき、ここで共通認識になっているのは、何かをインプットしている時は自分で思考することが出来ない、ばかりでなくその「何か」に思考が取って代わられる、ということである。
さまざまなことを想起させる、と書いたが、ショーペンハウアーの他にも、心理学用語で云うところの「外部意識状態」および「内部意識状態」(しかしこれは調べているうちにやや俗流な概念であるような気がしてきた)にも話が繋がってくるだろう。つまり映画やら何やらは、人を「外部意識状態」(外の世界に意識が向いた状態)にするわけだ。
外部-内部意識状態の理屈では、内部意識状態(自分自身に意識が向いた状態)が長いと人は精神的にうつ状態になりやすい、と言われている。したがって、それこそ映画を観るだとか、スポーツや手作業、さまざまな方法で自己を外部意識状態に持ってゆくことで、心を摩耗させず健全に保とうとする。言ってしまえば「クサクサするときは何か気分転換しよう」ということであり、作業療法の発想もこれに近い。
この外部-内部意識状態の理屈もまた、先に述べたデュアメルやショーペンハウアーと同じ前提を共有している。つまり意識はあれもこれもは同時処理できない、外部に注意を向けている時は思考することは出来ないということだ。
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しかしデュアメルと立木康介の記述にはもう一つ、見落としてはならない含意がある。それは心における、言語・意識・ロジックに対するイマージュの優位性だ(キルケゴールが持ち出した「読書」もまあ、広義のイマージュである部分を含む――たとえば”月の砂漠”と書いてあればそれ相応のイメージが浮かぶ――わけだが)。人の心というのは我々がそうであると認識しているよりも、実はかなり映像的に出来ていて、言語・意識・ロジック的な部分は案外僅かな、ごく上澄みにすぎないのではないか?
そうした問題意識では、『新記号論』における石田英敬のフロイトの精緻な読み返しが大変示唆に富んでいた。
石田は言う。神経科学者の経歴をもつフロイトは、『夢解釈』で述べる「心的装置」において当時の神経科学におけるニューロンの知見をひそかに採り入れており、その知見によれば、知覚から前意識までのいわゆる「無意識」の領域はシネマトグラフィー的であって、意識はそれに対するメタ感覚、いわば無意識の「注意力Aufmerksamkeit」による能動的な捉え直しなのである。
(出典:石田英敬/東浩紀『新記号論』P.144、株式会社ゲンロン、2019)
だからこそ夢は映像的なのであり、また夢という現象は、覚醒時には感覚末端(図の左端)から前意識に向けて流れる興奮が、睡眠時において感覚末端へと逆流を起こすものであるとする仮説などは、それ自体で別のブログを書きたくなるほど興味深いのだが、ともあれ、デュアメルが「私自身の思考と入れ替わってしまう」ものとして「映画」を挙げていたことと、石田-フロイトによる無意識=シネマトグラフィー論は、偶然とは思えない符合を見せている。
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人文学的には、バーバラ・M・スタフォードの次の発言を引くことで話を補足しておきたい。驚異の碩学とも言うべき彼女は、自著解説的な小文「啓蒙時代の科学魔術」においてこう述べている。
むしろ、この本(安田:『アートフル・サイエンス』)が第一の眼目として取りあげるのは、近代初期にあって人目を欺く現象の数々に対するさまざまな形の批判が公然と、また目に立たぬ間に、「視」を劣等な知とみなす圧倒的に否定的な見方を醸成したのであり、この偏見から空間メディアはいまでに立ち直れていないという点である。
(中略)
図像と言えば反射的に手品、見かけ倒しの装置、手のこんだ「仕掛け」など連想してしまう悪癖は、教義(Literacy)と言えばテクストを基礎としたものとする浅薄で機械的な定義の中に、イメージの単なる娯楽への凋落の中になお生きている。
近代において不当に貶められた「視」の復権、という強い使命感を彼女は抱き続けた。バーバラ・M・スタフォードについてはいずれ機会があればじっくり読み耽りたいものだが、さておき本稿で述べてきたような、心のあり方のベースは言語・意識・ロジックではなくイマージュなのではないか、というような近年の議論は、この「イマージュへの回帰」の潮流に呼応するものと云えそうだ。
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話を戻すと、立木康介は先ほどの箇所に続けて次のように述べている。
内面の活動がこのように外在化されるとき、私たちがテレビやインターネットといったメディアの端末や操作機を手にしているということは何を意味するだろうか。それは、私たちが自己の内面を物理的な装置によってコントロールする可能性を手にしているということにほかならない。
デュアメルやキルケゴールが忌避すべきものとして取り扱った「思考の乗っ取り」が、ここではもう一度自己の掌中に取り戻され、むしろ意図的に利用しうるものとされている。「我々は何かを見るとそれに意識を持ってゆかれるが、敢えてそれを利用することも出来る」というわけだ。
このことは、言ってしまえば気分転換に映画を観るだとか、まあとにかく気が紛れることをしよう、という誰もが日常的にやっていることと、表面的にはさほどの違いはない。しかし、それだけのこととしては収まらない、ある認識上の可能性を持っているように思う。
つまり「自分の心はスクリーンである」という認識からは、そこに何を「上映」するかについてプロモーター(興行主)的な主体を立ち上げる可能性が拓かれるのである。
思考の側からばかり悩みや苦しみに向き合ったり、「考え方」によって人生や生活をむりやり納得ゆくものにしようとするのではなく、何を心に「上映」するか、その上映内容の質や豊かさを目指してゆく、少なくとも、そちら側からの発想がもっとあってもいいのではないか。
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最後にごく私的な話になるのだが、僕はネットのある共通項を持つ場所を見に行かないようにしよう、と最近思った。一言で云うと、さまざまなサービスの「コメント欄なもの」が精神衛生上ひじょうに悪い。おそらく、映さないほうがいいものを心のスクリーンに映してしまっている(笑)
それだったら、まだAVのほうがはるかに眺めがよい。国際ニュースやドキュメンタリーや紀行番組なんかもいいですね。それに紙媒体。……あまりに日常的で本文と関係あるかどうかわからないけれど、たぶんこれも関係あるんだと思います。
- 作者:立木 康介
- 発売日: 2013/11/21
- メディア: 単行本