やすだ 😺びょうたろうのブログ(仮)

安田鋲太郎(ツイッターアカウント@visco110)のブログです。ブログ名考案中。

「血の窓」、あるいは人の行き違いについて

 

 明治十四、五年の頃、河内の生駒山の麓の住道(すみのどう)村に、辰造とお留という若くて仲睦まじい夫婦がいた。ところが夫の辰造は眼を患い、仕事に就けなくなってしまった。
 生活は貧窮し、やむなくお留は奉公に出る決心をした。こうして二人はしばらくの間、離れ離れに暮らすこととなった。
 お留は奉公先で一生懸命働き、主人の受けもよかったが、ある時、肥屋が同じ郷里の出だというので夫の様子を問うたところ、
 「辰造はすでに病気もなおり、美人の嫁をもらって楽しく暮らしている」
 と肥屋が言ったのでお留は愕然とした。

  その夜、お留は早めに休みを貰って二階に上がったが、翌朝になっても起きてこなかった。

  不審に思い御寮人が様子を見にゆくと、お留は窓の手摺を両手でしっかり握り、黄楊(つげ)櫛を逆さまにくわえた状態で息絶えており、あたり一面は血だらけであった。
 驚いていると、住道村の者たちがやって来て「お留さんはいますか」という。
 村人たちによると、今朝がた三時ごろ、辰造がにわかに叫び声をあげ、驚いて近隣の者が駆け付けると、辰造は何者かに喉笛を喰いちぎられ、血まみれで死んでいたのだという。

  二人は同じ墓に埋められた。
 のちに判明したのだが、肥屋は別人と勘違いしていたのだった。肥屋もまもなく死んでしまい、お留が息絶えた窓では夜な夜なお留の幽霊が現れるというので、しばらくして壁にしてしまった。

 

 以上は、幻の怪談本といわれる『怪談実話揃』を紹介した志村有弘編『怪談実話集』所収「血の窓」をあらすじを、僕なりに要約したものである。

 

 行き違いによって悲劇が生ずるという説話や伝説は数多い。
 ちょっと思い浮かべただけでも、『遠野物語』の「郭公と時鳥」の話(芋の甘い部分を妹に与えていたら、逆に甘い部分を独り占めしていると勘違いされて姉が殺される話)があるし、忠犬ゲラートの伝説(犬が主人の息子を蛇から守ったのだが、逆に息子を殺したと勘違いされ殺される話)もある。また現代アメリカの、早とちりした夫の話(妻が夫にプレゼントするため内緒でお金をため、新品のキャデラックを買うが、車とセールスマンを見て間男だと勘違いした夫がキャデラックをセメント漬けにしてしまう)などもその類いだろう。他にも挙げればきりがない。

 

 これらの物語群を「早とちりせずにきちんと連絡・確認すること」という教訓話として受け止めてしまうと、なんとなくつまらなく感じてしまう(まあそれも決して間違ってはいないというか、確かにホウ・レン・ソウは大事なのだが)。
 そこで、こうした物語をもう少し深読みしてみよう、というのが今回のブログの趣旨である。

 

 *

 

 いわゆる「携帯電話があれば起きずに済んだ悲劇」――古今東西の悲劇や悲惨な結末を迎える物語の大半は、登場人物が携帯電話を持っていれば避けられたのではないか。そのような物語は携帯普及以後の現代人にとって読む価値があるのだろうか? 少なくとも、多少は醒めた眼で読まざるを得ないのではないか――という問題提起。
 この問題提起を憤慨や嘲笑とともに即座に却下する態度は、たんに物語・文学を崇めたてまつっているのであり、真に感情移入しているとは言えない。真に感情移入しているなら、現代ならとうてい起こりようのない、したがってもはや意味があるとは思われないすれ違い(たとえば『トリスタンとイゾルテ』における白い手のイズーの策略のような)であればあるほど中途で感情移入を醒まされ、そのことに戸惑うということを経験しているはずだ。

 

 これへの標準的な解答は、「こうした物語は人間にとっての根元的な不安を描いている」というものだ。
 他人の意図や思惑がわからない。自分もわかってもらえない。すぐに対面できない距離や不透明な状況、微妙な言葉やジェスチャーにいよいよ疑心暗鬼がつのる。「彼くんなに考えてるの?」。
 こうした不安が、現代では携帯電話やスマホ、あまつさえSNSがあるからといって解消しただろうか。全然そんなことはない。むしろ人々の誤解や相互悪魔化、悲しい行き違いはどんどん増幅しているではないか、と。

 

 冒頭の「血の窓」の話にはそれを思わせるところがある。
 というのも最後の夜に、お留と辰造は「窓」を媒介にして確かに接触しているのである。窓=ウィンドウというとダジャレめいてくるが、実際、喉を噛みちぎれるくらいなら顔も見えたし会話も出来たはずだ。二人はZOOMだかSkypeだかで繋がっていたようなものではないか。それにもかかわらず、結局のところ誤解はとけなかった。

 

 ……そうだろうな、と思う。こういうことは、たいていはうまく行かないのだ。
 もしかして、お留は辰造に真意を問いただすことが出来なかったのかも知れない。お留は夫の口から心離れを聞くのがあまりに恐ろしくて、いっそうやむやのままで終わらせようとしたのかも知れない。そうすれば、少なくとも夫が裏切ってはいなかった、最後まで自分を愛していた可能性を持つことが出来るからだ。
 或いは辰造は「心変わりなどしていない」と懸命に弁明したが、それがどうにもお留には信じられなかったのかも知れない。或いは夫は潔白だったが問い詰められているうちにお留から心が離れていったのかも知れない(「そんなに疑うんだったら実際にそうしてやる!」)。或いは二人の心が決定的に離れてしまうことを避けるための、一種の心中だったのかも知れない……或いは。或いは。

 

 *

  

 そうした中で僕が最もリアリティを感じるのは、「懸命に弁明したが、それがどうにもお留には信じられなかった」という見立てである。
 『列子』説符篇のなかに、「窃斧之疑」という話がある。次のようなものだ。

 

 ある村人の家から斧がなくなった。
 彼は「隣りの子が盗んだに違いない」と思った。
 そうして見ると、その子の顔はいかにも盗人の顔つきだった。その子の声は盗人の声だった。その子のしぐさは間違いなく盗人のしぐさであった。
 ところがあくる日、盗まれたと思っていた斧が自分の家から見つかった。
 あらためて隣りの子を見ると、盗人と思われるような態度はどこにも見当たらなかった。

 

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 これが真実だったのではないか。
 つまり辰造が懸命に弁明しようと、あるいは「俺を信じてくれ」と言って沈黙しようと、あるいはふてくされようと、とにかく何をしようがお留にはますます裏切り者の仕草に見えたのである。
 いったん人の見立てが完成したあとに、それに抗うことの恐ろしいほどの無力。そこから辰造は逃れることが出来なかったし、お留もまた自分の思い込みから逃れられなかった。
 「血の窓」の恐ろしさは、ひとたび不信の種が撒かれたときに我々がいかに無力であるか、いかに否応なく別離に引きずり込まれてゆくか、という恐ろしさなのだろう。

 

 我々は実は血塗られた放浪者、つまり「血ノマド(nomad)」だったのだ(なんだってー!)
 ……おあとがよろしいようで。

 

怪談実話集 (河出文庫)

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