やすだ 😺びょうたろうのブログ(仮)

安田鋲太郎(ツイッターアカウント@visco110)のブログです。ブログ名考案中。

ネット論壇から距離を置く

 

 「ネット論壇」にある程度コミットしていた時期があった。リプバトルもさかんにしたし、キャスで議論っぽいこともした。多少名が知られたのかどうかわからないが、全然知らない人に「ツイキャス論客」として紹介されたこともある(リンク参照)。

 

ronri2.web.fc2.com

 

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 しかし一年近く前の、青識亜論主催のキャス討論会に登壇したあたりをピークに、次第にネット論壇から距離を置くようになった(まああれはあれで面白かったけれど)。

 

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 それは、ネット論客としての適性のなさを自覚したことが大きい。


 第一に、二次元キャラのおっぱいがどうした、このポスターはありやなしや、このCMはけしからんかけしかるか、ツイフェミが、表現の自由戦士が、インセルが、というような話に心の底からは関心を抱けない。また安倍政権がどうの、野党がどうの、ネトウヨが、リベラルがというような話も同様(これはいつも、「政治に関心はあるが政局に関心はない」と説明している)。
 かといって「そんな話どうでもよくね?」と言い放つほど無神経でもなく、実際、完全にそこまでは思い切れないので、たまに発言したり、意見を求められるとそれなりに語ったりしていたが、どうも自分で自分のことが白々しく、居心地が悪い。

 

 第二に、無価値で殺伐としたリプバトルに嫌気がさしたこと。あと普通に炎上耐性もない。
 気分によってはプロレス的に面白い時もあるっちゃあるが、まあ普通に考えて読書でもしたほうが有意義ですわな。それに、リプバトルばかりしていると一般のフォロワーさんが離れていくんですね。で、そういう「戦闘民族」と、蘊蓄ツイートやネタツイートや雑談で交わる一般のフォロワーさんと、どちらとお近づきになりたいかといえば当然後者なわけで。

 

 第三にこれは適性関係ないが、ネットの議論は政治的効果としてきわめて怪しいものだ。たしかに世の中が動くとき、ネットの動向が関係していると思われるケースはある。声を挙げ続けた成果が実ったという話は率直に賞賛するが、それはそれとして普段目につくものの大部分は、一体なんなのか。
 ネトウヨは右派のイメージを下げ、ツイフェミはフェミニズムのイメージを下げ、表現の自由戦士は表現の自由のイメージを下げ、リベラルはリベラリズムのイメージを下げ。一体、黙っているのとどちらがマシなのだろう。以前ブログにも書いたが、これでは互いにオウンゴール合戦をしているようなものではないか?

 

visco110.hatenablog.com

 

 しかし第四の、最大の理由は――これは第一の理由とも若干関係するのだが――僕が本当に関心を持っていること、語りたいことはむしろネット論壇的な「あれか、これか」という対立図式によって覆い隠されているものだったのではないか、といまは思っているのである。
 それはどういうことか。幾つか例を挙げながら述べたい。

 

 *

 

 荒俣宏は『帝都物語』第七巻「百鬼夜行篇」、六〇年安保の時代を舞台にした物語の「あとがき」で、当時の学生のメンタリティーを〈体制〉〈反体制〉〈異端〉の三つのタイプに分類している。

 

 当時の大学生たちのメンタリティーを大別すると、〈体制〉〈反対側〉〈異端〉の三つに分かれていたでしょうか。〈体制〉側と〈反体制〉の側の二つは、いわば表裏一体の関係にあり、それぞれに現実世界を支えあうプラスとマイナスの存在でした。けれど〈異端〉は、もう始めっから現世を信用せず、〈別世界〉または〈他界〉のことに関心を深めていました。この系列に属した人はごく少数でしたが、それから十数年を経て近年流行のオカルティズムや神秘学の礎となった人たちを多数含んでいたのも事実です。

 

 まあ正直なところ、曖昧さのある分類だとは言わざるを得ない。
 たとえば、いわゆるノンポリだが〈異端〉というほどでもない、大多数の学生はどこに入るのか。そういう学生は間接的に体制維持に寄与しているという理屈で〈体制〉側だと言えなくもないが、そのようにノンポリを躊躇なく〈体制〉側に入れてしまえることこそ〈反体制〉的視点に外ならない、ということは誰しも気づくであろう。
 また、この三分類では右派・ナショナリストが〈体制〉と〈反体制〉のどちらに入るのかも不明瞭だ。保守主義者から見れば極右と極左は似たように危険かつクレイジーな輩だが、極右から見れば保守主義者とリベラリストはともに腐敗した戦後民主主義の申し子であり、同じ穴のムジナである。
 だが、そうした欠点があるにしても、この三分類には重要な示唆がある。
 〈体制〉と〈反体制〉が対立しながらも現実を支えているのに対し、〈異端〉はその現実自体を信用していないというのは、別の言い方をすれば、〈体制〉と〈反体制〉はともに「我々の対立図式こそ世界のすべてであり、外側はない」というイデオロギーを固守しており、その点において、表面的な対立とは裏腹に堅く手を結んでいるということであり、その篭絡を〈異端〉のみが見抜いている、ということだ。

 

 そういえばふと、学生時代に共産党のそこそこ偉い人から聞いた話を思い出す。「冷戦ってのはアメリカとソ連が対立しているという意味じゃなく、二つの覇権主義的超大国が世界人民を支配-抑圧しているという対立なんだよ」と。
 この話には当時、いたく感心したものだった。これもまた「自由(資本)主義陣営が正しいか社会主義陣営が正しいか」という対立図式自体がそれ以外の世界の見方を隠匿しているという意味では、荒俣の分類に通ずるものがあるだろう。

 

 牽強付会だろうか? そうではない。このような「AとBの対立図式がCの世界を隠蔽する」という現象やそれについての指摘はそこかしこに見られるからだ。次の例はどうか。

 

 *

 

 高山宏と山口昌男は、『ユリイカ:特集20世紀を読む』所収の対談「よき隣人関係をめぐって」において、以下のやりとりをしている。

 

 高山 山口先生の六〇年代、七〇年代のお仕事というのは、僕ら後進に、六〇年代、七〇年代を用意するものとして、二〇年代、三〇年代があったということを教えてくれたと思うんですね。二〇世紀なんて、はっきり言ってこの二つのサイクルで全てです。そのことがお仕事で明快に「読め」ました。
 山口 うーん、それは僕も意図的だったはずだから。
 高山 そうでしょう。でも、その辺が当時の日本ではまったくわかられなかった。
 山口 いろいろ掘り起こしてみて、アルケオロジーをやろうという自覚が僕にあったんですね。要するにスターリニズム、ナチズム、ファシズム、人民戦線によって埋もれてしまった感性というものがあった。戦後の日本はそれに全然気がつかずに、相変わらず社会主義やなんかで、そういうやわらかい層を覆い隠してしまったと思うんです。

 

 これとほぼ同趣旨になるが、もう一箇所引用しておく。

 

 高山 東ヨーロッパというと、五〇年代のルカーチみたいなものばかり前に出されるけど、なんかとてつもない異様な伝統があるでしょう。
 山口 ルカーチだって、初期は異様でしょう。僕はハンガリーで少し過ごしていた時に、ルカーチが熱中していた劇場に行って確かめてみたんですがね。
 高山 異様というのは、いわゆるマルキシストではない……。
 山口 それ以前の、暴れ回って遊んでいた時代のね。だからみんな埋もれているんだよ。ファシズムと社会主義と人民戦線的感覚の下に、胚芽が埋もれているという。

 

 山口の発言、「ファシズムと社会主義と人民戦線的感覚」の下に埋もれているものたちに目を向けよ、というのはこの対談の主要なモチーフの一つとなっている。ではその埋もれているものたちとは何か。
 直接名指されている初期ルカーチ――西欧文学とりわけドイツ・北欧の戯曲に強い関心を示し、自らも戯曲を執筆した若き日の彼はそれに該当するだろう。

 だがもちろんそれだけではない。この対談が俎上に上げているのは、ワールブルク学派であるとか、ユングやエラノス会議、イザドラ・ダンカン、チューリッヒ・ダダイズム、ゴンブリッチ、ベンヤミン、ホイジンガといった面々や、戦後においては――その豊かさを感じ取っていただきたく、書名ともどもなるべく多く拾い上げることにするが――ピーター・ゲイ『ワイマール文化』、クルティウス『フランス文化論』『バルザック論』『ヨーロッパ文学とラテン中世』、ルネ・ホッケ『迷宮としての世界』、ワシリー・サイファー『文学とテクノロジー』『ルネサンス様式の四段階』、ミシェル・セール『ライプニッツの体系とその数学モデル』、クリステヴァ『セメイオティケ』、ドゥルーズ『意味の論理学』、フーコー『知の考古学』、フランセス・イエイツ『世界劇場』、リッペリーノ『魔のプラハ』、オーエハント『鯰絵』、イーニッド・ウェルズフォード『道化』、またエーコ、エーリッヒ・ケストナー、マクルーハン、バーバラ・スタフォードといったラインナップである。

 

 僕ならここにドールス『バロック論』やアリエス『死を前にした人間』、バフチン『フランソワ・ラブレーの作品と中世・ルネッサンスの民衆文化』、ホフスタッター『ゲーデル・エッシャー・バッハ』、ペンローズ『皇帝の新しい心』なんかも加えたくなる。それに、ブローデル『地中海』、アラン・コルバンの著作のどれでも、ジャック・ル・ゴフ『煉獄の誕生』、ジャン・ドリュモー『恐怖心の歴史』、バタイユ、クロソウスキー、ユイスマンス、キットラー、モンタギュー・サマーズ、J・B・ラッセル、フレッド・ゲディングス、エドゥアルト・フックス、フレイザー、エリアーデ、バシュラール……

 これらはあの「10代で読んでいないと恥ずかしい必読書」コピペとは似て非なるものである。これらはすべて、ある方向性を示している。それは「あれか、これか」という二項対立から隠されがちなもの、当人たちもどこかしら秘教的であることをまんざらでもなく思っていそうな、それなりに意識を向けていないと日々のかまびすしい「議論」にすぐかき消されてしまう、人文学的探求心に貫かれたものだ。

 

 先に挙げた荒俣宏による学生の三分類に当て嵌めるならば、「ファシズムと社会主義と人民戦線的感覚」が〈体制〉と〈反体制〉に、そして些か調子に乗って列挙したものたちが〈異端〉ということになる(なお〈異端〉という言葉は拡大解釈してかまわないだろう。六〇年代の〈異端〉といえば誰もが最初に思い浮かべる澁澤龍彦からして、その関心領域は〈別世界〉とか〈他界〉という言葉では到底おさまりきらないほど広かったので)。

 

 そんなわけで、ここでも「AとBの対立図式がCの世界を隠蔽する」というパターンが確認される。否、より具体的にこう言ってもいいだろう。「政治・アクティヴィズム的なものが豊穣な人文学的世界を隠蔽する」と。

 

 *

 

 ゲンロンカフェでの小泉義之×千葉雅也×東浩紀で行われたトークイベント「サイコパスの哲学へ――欲望と暴力について」においても、これと似たモチーフが見られた。
 小泉義之が切り出した「骨相学」について(小泉は骨相学を「その結果のほとんど全てが誤ったものであったが、心的な機能と脳の特定の位置との関連づけを初めて試みた」と評している)、次のようなやりとりがあった。

 

 泉「人格という問題はね、顔に出るんですよ」
 東「骨相学ですね、僕も結構信じてます」
 小泉「ドゥルーズも書いてます」

 

 また、

 

 東「21世紀にはハイパー骨相学が……」


 
 この話の流れで、東浩紀は「フランス現代思想が席巻したことによって、見えなくなった知的潮流が色々あるんですよね」という主旨の発言をしたのだった(なお、僕は以前この動画をレンタル購入し全編を視聴したのだが、今回ブログを書くにあたって再確認しようとしたところ、すでに公開終了してしまっていた。したがって一字一句正確な引用ではないことをお断りしておく)。
 ここでは、隠す側は政治・アクティヴィズム的なものではなく、フランス現代思想である。これは荒俣宏や山口昌男の話の流れでは、どちらかというと隠される側に属する。しかし、人文的な知的潮流のなかでも、自ずとヘゲモニーの位置に坐するものと埋もれるものが出てくるというのは示唆的だ。
 私見では、東浩紀が立ち上げた株式会社ゲンロンの諸活動は、政治・アクティヴィズム的なものの貧しい現状、またそこへと向かわせる強迫観念から勇気をもって一歩引き、オルタナティヴとしての豊穣な言論空間を創出するという意図がつねに通底しているように見受けられる。これは東浩紀のツイートからもしばしば観て取れることだ。
 つまりゲンロンは、世間の言論状況を見渡したさい、荒俣宏の分類するところの〈異端〉、山口昌男のいうところの〈埋もれたもの〉の側に属するものであり、それらのなかにあって現在最も多産な存在であると思わる。僕も素直に、折にふれ刊行物や動画を購入している。

 なお少し余談だが、実は現代思想の内部においてさえ覆う側と覆われる側が出てくるらしい。ジジェク『イデオロギーの崇高な対象』によれば、

 

 したがってわれわれの第一のテーゼはこうなる――今日(安田註:八〇年代後半)の知的状況の前面を占めている大論争、すなわちハーバーマスとフーコーの論争は、理論的にもっと重大なもうひとつの対立・論争、すなわちアルチュセールとラカンの論争を隠蔽している。

 

 とのことで、入れ子状というんですかね、隠されるものもまた別のものを隠している、みたいな話は何層にも連なっているのかも知れないですね。

 

 *

 

 そして、冒頭で述べたようなネット論壇の終わりなき戦い。
 繰り返すが、それらすべてを不毛だとは言わない。大事なテーマもあるだろう。また真摯かつ知的な人たちもたくさん参入しているだろう。そこは敢えて疑いを差し挟まない。だがしかしだ。
 ここまで見てきた例のように、やはりネット論壇の「対立図式」も、その外側の世界を覆い隠すものとして機能しているのではないかと思えてくることは正直否めない。外側の世界、それは人文学、言論、批評……呼び方はなんでもいいが、そうしたものの世界はもっと豊穣なものであるはずだ。
 確かに、僕がベタな反体制にノレない(体制にはなおのことノレない)人間だからこんなことをわざわざ言っている面はある。だが似たような違和感をネット論壇に対して抱いている人が、存外そこかしこにいるのではないか。
 いずれにせよ言いたいのはこういうことだ。「あなたは確かに言論だとか批評だとか知的世界に関心を持っている。だがネット論壇はなにかが違うとも思っている。だとすれば、その違和感は本物だ。そして辿り着く場所が必ずある」ということ。

 

 ささやかながら、当ブログは開設当初から「政治・アクティヴィズム的なもの」に覆い隠されがちな広い人文学・言論・批評的範囲を対象にし、巧拙はともかくとして、そうしたものばかりを俎上に上げてきたつもりである。そしてこれからも、このブログの続くかぎり、そうした世界について書いてゆきたいと思う。
 ……まあ、最後ちょっと力みすぎましたかね。別に楽しく更新してゆくだけといえばそうなんですが。

 そんな感じで、よろしくお願いします(・ω・)ノ

  

神秘学カタログ (The bungei critics (2))

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