満たされない心の渇き
「さみしいな、彼女ほしいな」みたいな感情は、彼女ができたり、一緒に暮らしたり結婚したり子どもが生まれても、変らず心の中にあるんだよな。どーもこの満たされない心の渇きみたいなものを、ずっとあり続けると認めずに外に求め始めると危ない気がする。
— えりぞ (@erizomu) 2020年12月5日
これは昼に見かけてとても感銘を受けたツイートだ。どういう点に感銘を受けたのか、自分でも整理しながら述べてみたい。
まずこのツイートは、人には「満たされない心の渇きみたいなもの」が「ずっとあり続ける」と言っている。そしてそれは「さみしいな、彼女ほしいな」というかたちで表出するという。
さて宮台真司は、人には「内在系」と「超越系」の二つのタイプがあると云った。
「内在系」とは、仕事が認められ、糧に困らず、家族仲よく暮らせれば、幸せになれる者のこと。「超越系」とは、仕事が認められ、糧に困らず、家族仲よく暮らせても、そうした自分にどんな意味があるのかに煩悶する者のこと。〈社会内〉のポジショニングには自足できない存在です。
(宮台真司・北田暁大『限界の思考 空虚な時代を生き抜くための社会学』)
上に引用したツイートの内容は、ここでいう「超越系」の人の感覚に合致する。そしてその先の話をしている。
もう一つ云うと、ジジェクも『信じるということ』のなかで三種類の人間像を提示している。それは「標準的な人間主義」と「グノシス的伝統」と「ハイデガーの被投性」である。
「標準的な人間主義」によれば、人間はこの地球に属しており、人間はその表面でくつろぐはずだという。上でいう「内在系」にほぼ対応するわけですね。
いっぽう「グノシス的伝統」では、この世界は悪しき造物主によって造られ、人間はそこに投げ込まれたゆえに生は苦しみに満ちている。そして魂は、物質的仮象の世界を超越し、世界外のふるさとに帰ろうとする。どうしてもこの世で満足しないところ、なにか超越的な自分の存在の意味を求めるところは上でいう「超越系」の感覚ですね。
だが三つ目の「ハイデガーの被投性」においては、われわれは地球でくつろげもしないし、かといって世界外に魂のふるさとがあるわけでもないという。それはまあそうなのだが、ではどうすればよいのか。
ハイデガーはこの境遇から脱出する道を指し示す。われわれが実はこの世に「投げ込まれている」としたら、そこでは決してしっかりくつろげることはないのだとしたら、いつも本来の位置からずれていて、「間接がつながっていない」としたらどうだろう。このずれがわれわれを構成する原初的な条件、われわれの存在の地平そのものだとしたらどうだろう。前にいた「故郷」などなく、そこからこの世に投げ込まれたわけではないとしたら、そしてまさにこのずれこそが、脱-自的に世界へ開けていく人間の根拠だとしたらどうだろう。
(ジジェク『信じるということ』)
僕の解釈では、人間が生きている限りずっと世界と身辺の状況に違和感を感じ続けるのは、まさにそれが人間たるゆえんだから、ということではないか。そうでなければ我々は今ごろ、まだ洞窟暮らしで言語も持っておらず、それに満足していたかも知れない。
このどうにもならない居心地の悪さ、落ち着かなさゆえに我々は家をつくり、文明をつくり、他者を求め、動物にはない精神やコミュニケーション、恋愛様式を持ち、歴史を持ち……つまるところ、いまあるような人間の存在様式をつくりあげてきた。
冒頭のツイートは、このハイデガーの被投性と同じ趣旨のことを述べているように思う。「満たされない心の渇き」が「ずっとあり続ける」のは、まさに人間がそういう存在だからなのだ、と。
グノーシス主義者の世界外への希求。
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ここらへんでもう一度元ツイを確認しておこう。
「さみしいな、彼女ほしいな」みたいな感情は、彼女ができたり、一緒に暮らしたり結婚したり子どもが生まれても、変らず心の中にあるんだよな。どーもこの満たされない心の渇きみたいなものを、ずっとあり続けると認めずに外に求め始めると危ない気がする。
— えりぞ (@erizomu) 2020年12月5日
「ずっとあり続けると認めず外に求め始めると危ない」というのは、違和感や不全感を自分を取り巻く環境のせいと思い込むと危ないということだろう。
あたらパートナー以外の異性を「満たされない心の渇き」を解消してくれる存在であると錯覚してのめり込み、自らの生活と環境を破壊したり、とか。不倫体質ってやつですね。
このことは、「超越系」のリスクであるところの、一歩間違うとカルトにハマって搾取されたり、最悪サリンを撒いたりする「危なさ」と構造的には同じものだ。つまり「あなたの抱いている違和感、不全感は解消する方法がありますよ」という甘言に乗ってしまうのである。それ以外にも無謀な冒険をしたり、何らかの依存症になったり、詐欺に引っ掛ったり、隣人に暴力を振るったり、さまざまなリスクのある表出のバリエーションがあるだろう。
宮台真司は、「超越系」の人間はなるべくまったり生きて、自分のなかの超越的気質をごまかしつつ時間を稼げ、そのうちなんとかなるかも知れないし、なんとかならなくても少なくともサリンを撒く人間にはならずに済むから、というような処方箋をかつて提示していた。
そのようなわけで、このツイートに感銘を受けたのは、「満たされない心の渇き」を抱き続けてそれをさまざまな努力や試みに替えることはいいけれど、最終的に解消すると思ってはいけないよ、という話だと思ったからだ。
僕も「超越系」の人間なので、宿痾として「満たされない心」とともに生き、おそらく最期の瞬間も「ああ、やっぱり満たされなかったなあ」と思いながら死んでゆくのだろう。まるで癌とともに生きる、みたいな話だ。
そうするしかないものだし、それでいい。自分を駆動させるものとして「満たされない心」は大いに利用はしてゆくけれど、つまりは仕方がないんだよ、と思った次第。
- 作者:スラヴォイ ジジェク
- 発売日: 2003/03/01
- メディア: 単行本