やすだ 😺びょうたろうのブログ(仮)

安田鋲太郎(ツイッターアカウント@visco110)のブログです。ブログ名考案中。

空からお金が降ってきた? 幼少時のファフロツキーズの正体

 

 あれは小学生の頃だ。
 今は取り壊されてもうない生家の、軒先の畑で遊んでいた時、ふと見知らぬコインを拾った。それは銀色で穴がなく、大きさは百円玉程度だったが、僕が知っている百円玉とも、他のどの貨幣とも違っていた。
 ふとあたりを捜すと、そこかしこに同じコインが落ちていた。僕はそれを三、四個拾い集め、父に見せた。すると父は
 「これは外国のお金かも知れない。集めてきたら百円と交換する」
 と言った。


 これは、当時の僕の金銭感覚からすると物凄いことだった。

 確かその頃、小遣いといえば週に何度か百円玉が貰える程度。百円玉を握りしめて駄菓子屋へ行き、十円や二十円の駄菓子をじっくり吟味して買ったものだ。

 そう、当時の僕にとって百円は大金……大金なんだ!(利根川先生風)その百円と交換されるコインが、そこかしこに落ちている……!
 というわけで、僕ときょうだいは一生懸命コインを捜した。日が暮れるまで畑や近隣の茂みを捜し、二十枚くらいは見つけたと記憶している。きょうだいと合わせて五十枚くらいはあっただろうか。

 僕は父にコインを渡し、二千円かそのくらいの小遣いを貰った。二千円といえば当時、お年玉でなければ手に入らない額だ。舞い上がるほど嬉しかったことを覚えている。

 

 ……と同時に、不思議なことでもあった。なぜ畑に見知らぬコインが落ちているのか。
 「遠い国から鳥が咥えてきたのかも知れない」
 と父は言った。

 幼い子供に真相がわかるはずもなく、ただ不思議がりながら空を眺め、遠い国のことを想った。それはおとぎ話に出てくるような、白いお城のある国だろうか。おもちゃのような兵隊がいて、王子様やお姫様が白馬に跨っているのだろうか。

 翌日以降も、またどこかにコインが落ちていないかと家の周りを捜したりしたのだが、あの日以来一度も見つかることはなかった。やがてあの日のこともだんだん忘れてゆき、時は過ぎて行った。

 

 *

 

 話はつい先日まで飛ぶ。

 僕は所用あって父を乗せ、車を運転していた。
 話題はファフロツキーズ(Falls from The Skies)と呼ばれる、空から物体が降ってくる怪奇現象のことになった。

 これは古今東西、たびたび報告されている話で、降ってくるのはカエルや魚が多いのだが、時には石や血、肉片、トウモロコシの種、ウミガメ、ネズミ、矢尻、地衣類、それに凍結した人間も降ってくることがある(1930年ドイツのレーン山脈で、凍結された五人の男が雷雲から降ってきた。彼らはグライダー飛行中に乱気流に巻き込まれ、パラシュートで脱出を試みたが空中で凍ってしまったらしい)。

 古くはプリニウスやアテナイオスにも出てくるし、安南人の歴史年鑑にも出てきたり、中世にも近代にも現代にも、とにかく事例は何百何千とある。「ええじゃないか」のお札なんかも広義のファフロツキーズと言えるかも知れない。

 

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 時には鍬や小動物も降ってくる。


 その真相もさまざまな説があって、竜巻が運んできたとか、悪戯だとか、目の錯覚だとか(蛙については降ってきたわけではなく、大量発生したものが大雨で道に出てきたのだという説が有力)、鳥が咥えてきただとか、時空の歪みだとか、さまざまな説明が試みられている。

 チャールズ・フォートという十九世紀後半から二十世紀にかけての著名なオカルティストは、おそらく最も奇妙な説を唱えた。それは「大気圏喪海」という。

 

 この喪海は大気圏の上層部にあって、地球からの物体を一時捕獲しておき、ときどき雨のように降らせるという。フォートの著書『見よ』には、彼の魅力的な仮説のなかでもとりわけ暗示に富む事例と着想が盛られている。一九二一年、イギリス、サセクス地方での実話――十一月に掘ったばかりの池に水を溜めたが、翌年の五月には鯉が群れをなして泳いでいた。また、アメリカ、メリーランド州で農夫の作った堀に水が溜った。見ると雨水の中に五-十センチほどのスズキ二種類が泳いでいた。池沼に魚はつきもの、それゆえ池沼が自力でどこからか魚を引き込んだ――そんなふうに思えるとフォートは書く。
 (J・ミッチェル/R・リカード『怪奇現象博物館 フェノメナ』)

 

 まことに荒唐無稽な話であるが、これに対するミッチェルらのコメントが、なにやら哲学風味で面白かった。それによると、

 

 魚を招き寄せる新しい池、というフォートの考察は古代の魔術的秘儀によく適う。その秘儀とは、欠落のある存在は自然に何かを吸い込んで欠落部分を満たすというものだ。新プラトン派の神秘的哲学者プロチノスは、何かが欲しけれその欲しい物の形を模した器をこしらえればよい、と言っている。果樹園に巣箱を置けば鳥はきて巣を作る。魚を求めて池を作れば魚は降ってきて群れ泳ぐというわけだ。
 (同書)

 

 いやそのりくつはおかしい、と言いたくなってくるが、プロティスの深淵な哲学にとっては「大いにアリ」かも知れないので、一応そういうことにしておこう。

 

  なおリン・ピクネット『超常現象の事典』の邦訳では、チャールズ・フォートの説を「天上サルガッソー海」と訳している。英文ウィキペディアによると原文は「Super-Sargasso Sea」であり、サルガッソーは海藻のことなので「大気圏喪海」でも「天上サルガッソー海」でも間違いではないが、「サルガッソー」と訳した場合、実在するメキシコ湾流のサルガッソー海が思い浮かぶので、その連想がフォートの望むものだったのか、それともフォートは「海藻のある海」ということを言いたかったのかによって、どちらの訳が適切なのかが変わってくる。詳しい人がいたら教えてください。

 

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 オラウス・マグヌス著『北欧諸国史』(1555)

 

 日本人の記憶に比較的新しいファフロツキーズは、2009年6月4日、石川県七尾市中島町にある中島市民センターの駐車場に100匹ほどのオタマジャクシが降ってきたという事件だ。

 

news.livedoor.com

 

 ASIOS会長の本城達也氏は、この事件について仔細に調査・検討した結果、鳥が落とした説が最も可能性が高いと結論づけている。有力なのはアオサギで、この鳥は毎年6月ごろ、ヒナにエサを与えるために食べたものを腹に入れて巣に運ぶ習性がある。その途中で、例えばカラスに襲われるなどして吐き出したのかも知れないという。

 ちなみに本城によれば、ある老婆が調査メンバーの一人に次のような興味深いことを語ったという。

 

 「そんなの昔からよくあったんだよ。最近テレビで騒いでるけど、別にそう騒ぐほどのことでもないと思うけどね」
 (ASIOS『謎解き超常現象Ⅱ』)

 

 *

 

 なお空から物体が降ってくる記録は無数にあるものの、コインが降ってくる事例は残念ながらあまり見当たらない。

 

 ただ、神話や民話のなかには幾つかそういう話がある。たとえばギリシア神話では、アルゴス王アクリシオスが「おまえの孫がおまえを殺すであろう」という神託を受けたため、娘ダナエに子を産ませないよう、彼女を青銅の地下牢に幽閉する。

 そのダナエを見て「あの娘とセックルしてえなあ」(ゲスボ)と思ったユピテルが金貨に姿を変えて降り注ぎ、ダナエを孕ませることに成功した(その結果ペルセウスが生まれ、のちに競技で投げた円盤がアクリシオスの足に当たってアクリシオスが死ぬ)というエピソードがある。

 

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 ティッツアーノ『ダナエ』のうちの一枚(1553-1554)。ユピテル(ゼウス)が金貨に姿を変えて地下牢に降ってくる。

 

 まあ神話ですからね、といったところだ。

 

 それから山東京伝の黄表紙本『孔子縞于時藍染』(こうしじまときにあいぞめ、1789)は、寛政の改革による世情の混乱を諷刺した作品で、人々から欲がなくなり、誰も金を欲しがらなくなった世界を描いている。

 金持ちが乞食に「頼むから施しを受けてくれ」と平身低頭で頼み込むが、乞食はそんなものはいらないと断る。女郎は客に金を押しつけようとする。蕎麦屋はタダで蕎麦をふるまい、金を置いて逃げ出した客を追いかけて頭を撫でる。なかには「追い剥ぎ」ならぬ「追い剥がれ」といった、無理やり金品を押し付ける不届者? まで出る始末。
 やがて天から小判や一分金、米がどんどん降ってきて、人が傘でそれを避けているシーンには挿絵がある。このあと世界は金で埋め尽くされてしまうのだが、人々は埋もれそうになりながらもなんとか助かる。

 

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 まあ戯作ですからね、といったところだ。


 もう一つは、福島県伊達郡川俣町に次のような民話があるらしい(近隣にも類話があるかも知れない)。

 

 天から降った金と地にある金 

 

 むかし、あっとこにない、
 正直なじいさまと、欲のふけえじいさまが隣合って住んでだど。
 正直なじいさまは、いつも、
 「天から降った金は授かりもんだから、使ってもぜえが、
 地にある金は誰かが落したもんだから使えね。」
 って言ってだど。
 あっ時、正直じいさまが道を歩いてっと、
 道ばたに金のへえったかめがあんのを見づけたが、
 地にある金は使えねど、拾わねでけえって来たど。
 その話を聞ぐと、隣の欲ふけえじいさまは、
 さっそく拾いさ行ってかめの中をのぞいで見っと、
 おそろしい人間の生首が入ってたど。
 欲ふけえじいさまはカッ、カッと、ごせやいで持っでけえって、
 正直じいさまのぜえの煙出しから放りこんだと。
 すっと、生首は小判に変ってぜえの中さざらざらと降って来たんだとさ。
 正直じいさまは喜んで、
 「これは天から降った金だから使ってもぜえ金だ。」
 って近所の人さも分げでやって、楽しく使ったど。
 (川俣町サイトより https://www.town.kawamata.lg.jp)

 

 まあ民話ですからね、といったところだ。いやいい話なんだけど。

 

 *

 

 そんな会話をしていて、ふと僕はあの日のコインのことを聞いてみようと思った。
 父ももう高齢だし、別々に住んでいるのでそんなに喋る機会が多いわけではない。今日を逃したらあの話をする機会はもうないかも知れない。それに今なら、父との記憶を突き合せれば何か真相に辿り着けるかも知れない。


 「あのさ、僕が小学性くらいの時、外国のお金が落ちてた時あったじゃん?」
 「外国のお金? そんなことあったっけ」
 「ほら、拾い集めて、小遣いと交換したやつ」
 父はなかなか思い出せないようだった。そこで僕が憶えている限り、なるべく詳しくその時のことを話した。すると父は「あー、あれね」とやっと思い出しようだった。
 さてそれによって数十年ぶりに判明した真相は、次のようなものであった。

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   あれは外国のお金ではなくパチスロのコインだったのだ。
 当時、畑の隣りに町工場があって、そこでパチスロのコインを作っていたのである。
 で、何故そのコインが畑に散布されていたのかというと、父によれば、工員が暇つぶしに投げて遊んだか、もしコインが外に置いてあったのなら、カラスあたりが咥えて落とした可能性もある、とのことだった。

 

 父との会話でわかったのはそこまでだった。
 いや、まだあった。
 「なんでパチスロのコインを外国のお金かも知れないとか言って、小遣いと交換したの?」
 「そりゃまあ、そういう話にしたら子供たちが喜ぶから」
 なるほど。咄嗟のひらめきで【コインを集めて小遣いゲットだ! イベント】を開催して僕らを楽しませた、というわけだ。

 「じゃあ遠い国から鳥が咥えてきたかも知れないって言ったのも」
 「まあ、子供向けのおとぎ話だね」

 

 ……というわけで、賢明な者なら誰でも知っているように真相解明というのは十中八九夢やロマンがなくなることなのである。

 それが嫌なために、人によっては懐疑論者(Skeptist)を嫌ったりする。だが僕の考えでは、知れることは知るに越したことはない。
 世の中の不思議について、判明していることを知ったうえでそれでもなお残る謎こそが真の謎なんであって、敢えて目をつぶることによって守られる夢やロマンとは、ちゃちなおもちゃであると同時に、蒙昧への道に外ならないからだ。

 「不思議」とは「モヤり」でもある。モヤモヤを晴らしたくはないですか。僕はあの日のコインのことが知れて、夢がなくなったというよりは、どちらかというとモヤりが解消してスッキリしました(まあ、そういう性格だということもあるかも知れないけれど)。
 懐疑論者になったところでこの世から夢やロマンが消えたりはしない。世界に不思議なことはいくらでもある。わかっていることを無理やりわからないことにして水増ししなくても、ほんものの不思議は、ロマンは、いつでも僕ら待っていると言いたい。

 今回はこんな感じです。お読みいただき有難うございました(・ω・)ノ 

 

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