やすだ 😺びょうたろうのブログ(仮)

安田鋲太郎(ツイッターアカウント@visco110)のブログです。ブログ名考案中。

「中期的コンパ」について

 

 孤独に人生をやっていると、ときどき、トンネルを抜けるように、雲間が晴れたように、突然なんだか素晴らしい(と思える)仲間たちに囲まれる時がある。一度に五人も十人も、男女入り乱れ、愉快かつ個性的かつ善良な仲間達が、なにかしらの場所に集い、自分もその一員として受け容れられるのだ。
 たとえば新入生の四月の食堂の一角。たとえばSNSで気付いたらなんらかの界隈にいた時。たとえば趣味の集いに参加して大いに盛り上がった時。たとえばLINEグループが円滑に廻っている時……。
 思わぬ僥倖に少なからず浮き足立つ。「ああなんてツイてるんだろう、こんなに良質な仲間と、いちどきに何人も知り合えるなんて!」

 彼、彼女らとの絆は半ば永遠に思えるし、これで孤独とは一生さよならだ、と考えたくなるのも無理もない。めくるめく楽しい日々が続く。一週間、二週間……

 

 だが、何かがおかしい。最初は気付くか気付かぬか程度のかすかな綻び、不協和音が、次第に堪えがたいほど大きくなってくるのだ。

 最初の兆候は、一人、また一人とあまり顔を出さなくなることだ。

 だがそれは当然ではないか? 誰だって忙しいんだから。それに、僕たちは自由な紐帯なのだから、無理に誘うなんてことはしない。顔を出せる時に出してくれればそれでいい。ほら、今日は来た……あれ、もう帰るの?

 

 次の兆候は、誰かと誰かが合わない、あるいは誰か一人が「困った人」であるといった認識が水面下で共有されることである。
 このへんから「何か変だな」ということに気付く。
 この紐帯は半ば永遠に続く理想郷だったはずではないか? 「誰それとは合わない」とか、「あの人には困ったところがある」とか、その程度のことには目を瞑って、みんな仲良くやってゆけばいいじゃないか。些細な不満からこの素晴らしい紐帯を分裂させるなんて馬鹿げている――たらいの水とともに赤子まで流してしまったら意味がないのだから(だが「あの人とは合わない」、または「困った人」だと思われているのは自分だ、という可能性もある)。

 

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 そうして、最初は床のちいさなシミほどにも目立たなかったあの軋み、不協和音はいよいよ地表に噴き出し、あわれな集団を支配する。

 さらに次の段階になると、もう誰にも止められない。「誰と誰が合わない」はもはや単数ではなく、次々と連鎖し、増殖する。われわれはビリヤードの玉のようにぶつかり合い、翻弄され、やがて剣を持ったミカエルに追放されるようにして、楽園を失う。

  もはやあの場所はない。おとといまであんなに愉快にやっていたのに、突然人が消えた船のように、不気味な静寂に支配される。
 ふと気づけば、「場」なしでも連絡を取り合う関係になっているのは、つまり「手元に残った」のは一人か二人しかいない。それならまだいいほうで、誰も残らない場合もある。


 
 *

 

 というようなことを、もう何度体験しただろう。
 だんだん慣れてきて「ああ、このパターンね」と思えるほどにそれは繰り返されてきた。「人の交わりに春夏秋冬あり」と言ったのは南方熊楠だが、そうした集団にも春夏秋冬があるようだ。そしてたいていは、実際の一年よりもサイクルが短い。
 そうするとどうなるか。たいていの人間関係は一年草であって、それっきりである。ごく稀な関係だけが二年草、多年草となる。しかしそれはとても稀少で、難しいことだ。たまに寂しさゆえに久しく連絡のない友人にメールしたりする。しかしそれは枯れた花に水をやるようなものだ。すでに関係の死んでいる友人を数時間だけ召喚することは出来るが、しょせんそれは生き返らないのだ。

 

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 ロジャー・ローゼンブラッドはこのことを正しく「孤独のほうがエッグベネディクトよりまし」と言っている。

 

 こうしたブランチ計画(「ブランチ! お昼に! なんて楽しいんだろう!」)を立てたとたんに、このイベントが当然ながら悲惨な展開になることに気づき、さまざまな恐怖の瞬間が、実際に起こる前にすでに目に浮かぶのです(「お洒落なブランチ! エッグベネディクトなんて、最後に食べたのがいつだったか思い出せないよ!」)。
 いかに孤独で寂しかろうと、心の通わない人たちと過ごす(「ベルギーワッフル! これって本当にベルギーのものだと思う? ははは!」)ことに比べて天国のように楽しいと理解すれば、悲しみも消えますよ。

 

 *

 

 だがそもそも、こうしたこと、つまり友情の楽園消失は、本当に悲しむべきことなのだろうか?
 何が言いたいのかというと、割り切ってこう考えてしまおう、ということだ。

 それは「中期的コンパ」である。

 つまり、こうした体験のさい実際には何が起きていたのかというと、元来なら一日で終わるコンパが一~数ヶ月ほど続いていたのである。
 そうであるならば、やがて解散して、ゼロ人ないし一人ないし二人くらいしか手元に残らないのも頷ける。
 コンパだったからこそ、みんな良い面ばかり出していて異常に楽しかったわけだが、それは日常の姿ではなく、いつまでもそのテンションを維持することは出来ない。
 それらは解散するほうが「自然」なことなのだ。ちょうど、あらゆる生命がやがて内的秩序を崩壊させて死に至るように、そしてその死のほうが自然にとって「自然」であるように(ちょっと、小泉進次郎風)。

 

 なので、悲しむことはない。それはもともと解散すべくしてした非日常の祝祭だったのだし、それがちょっとばかり長く続いたというだけだったのだ。それに、死があればこそ新たな生命が生まれる。つまり今後も人生のなかでまた巡って来るのだから。そのとき「ああ、また始まったな」と思えばいい。
 むしろ、こうした中期的コンパに際しては、その生成-発展から消滅までの一連のプロセスをよく見ておくことだ、と思う。そしていつか終わることを悟りつつ、最低限関係を持続させたい人は誰なのか見極めておくとよいのかもしれない。
 なんだか、そんな感じにわかってきたのが今更だというのは、我ながらどんくさい個体ですが……。