論争はギャラリーに向けてするものである
思想も立場も違うさまざまな論者が、あるテーマについてだけは口を揃えたように同じことを言う場合がある。だからといってそれが〈真実〉そのものだという保証はないが、少なくとも個々のイデオロギーを超えた、あるていど普遍性のある〈見識〉を示しているとは言えるだろう。したがって、それを見てゆくことによって我々が得られるものもあるはずだ。
今回はそうした一致のひとつを紹介する。それは論争にまつわるものだ。
さっそく見てみよう。
討論番組っていうのは、なんというか、一発芸なんですよ。正しいことをいうとか理路整然と話すということではなくて、一発かます世界。そして、それによって自分と反対意見のやつをバカに見せる世界。こちらがアタマがよくてあいつがバカだというような劇場を作るんですね。それができるやつの勝ちなんですよ。
(竹内薫『自分は馬鹿かもしれないと思ったときに読む本』、以下、太字は安田による)
もう一つ。
「なんで? なんでとどめを刺しちゃいけないんですか?」
「その世界であなたが嫌われ者になる。それは得策じゃない。とどめを刺すやり方を覚えるのではなく、相手をもてあそぶやり方を覚えて帰りなさい。」
私は鳥肌が立った。やっぱ、本物だ、と思った。
「議論の勝敗は本人が決めるのではない。聴衆が決めます。相手をもてあそんでおけば、勝ちはおのずと決まるもの。それ以上する必要も、必然もない。」
(遥洋子『東大で上野千鶴子にケンカを学ぶ』)
これらは一見、かなりシニカルな見方のように思える。ようするに論争においては正しいことを言っている側が勝つのではなく、ギャラリーが勝ちと判断した側が正しいことになる、と言っているようにも聞こえるからだ。
だがこれは「正しさ」をないがしろにしているのだろうか? ……おそらくそうではない。
論争が始まるということは、原則として双方が自分のことを「正しい」と思っているのであり、その矛盾が論争中に解決する(一方が間違いを認める)ことはきわめて少なく、大抵は双方が終始「自分が正しい」と言い続けて終わることは、皆さん周知のことだと思う。アナ・ボル論争にしろ、「近代の超克」論争にしろ、第二芸術論争にしろ、騎馬民族国家論争にしろ、吉本-埴谷論争にしろ、あるいはテレビや雑誌の論争コンテンツからネットのリプバまで、ほとんどがそうだ。
であるならば、「正しさ」が裁定されるのは当事者間ではあり得ず(当事者はずっと自分が正しいと思っている)、また超越的な審判も存在しない以上、ギャラリーの個々の判断の中にしかない。これが「ギャラリーが勝敗を決める」ということの本質ではないか。
より正確に言うならば、ギャラリーが決めるのは「正しい側」と「間違っている側」ではなく、「支持される正しさ」と「支持されない正しさ」なのだ。負けた側は間違っていたのではなく「その正しさは支持されなかった」という以上でも以下でもない。
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又、「勝つために論争するのではなく対話のために論争するのだ」という意見もあるだろう。それについては、次の文はどうであろうか。
テレビやネットの討論番組には、必ずそれを見ている人がいて「誰が勝ったか、負けたか」を常に判断しています。じつはビジネスシーンでも同じで、議論の場にはそれを見てジャッジする人がいるわけです。つまり、大事なことは目の前の相手と討論することよりも「見ている人に自分をどうプレゼンするか」だと思うのですよ。
(ひろゆき『論破力』)
前半はここまで見てきた文とまったく同じで、ひろゆきも竹内や上野と同じく「勝敗はギャラリーが決める」と認識している。だが後半がこれまでとは若干違うと思うのですよ。
というのも「ビジネスシーンでも同じ」「どうプレゼンするか」という言葉によって新たなニュアンスが加わっているからだ。つまりギャラリーに向かってアピールする内容が、単に勝ちっぽい印象を作るだけではなく、いかに伝えたい事を印象的に伝えるか(プレゼンテーション)に変わりつつあるのだ。
このちょっとした違いを、さらに拡張したのが次の文である。
周囲の人を愉しませて巻き込み、あわよくば味方につけるのが、つっこみ力の理想です。論理的に相手を倒せなくても、相手をいじるパフォーマンスを見せることで、「そういわれりゃ、なんかヘンだ」という感覚を、多くの人の頭に植えつけることができればいいんです。検察や裁判長ではなく、裁判員を説得すればいいってことですね。
(パオロ・マッツァリーノ『つっこみ力』)
やはりここでも、基本的には同じことを言っている。
とりわけ「相手をいじるパフォーマンス」「そういわれりゃ、なんかヘンだという感覚を、多くの人の頭に植えつける」というのは、上野千鶴子のいう「相手をもてあそぶやり方」に近い。つまり相手の言説の効力の打消しである。
しかし竹内→上野→ひろゆき→マッツァリーノの順で読んでゆくと、徐々に勝ち負けの問題が後退し、ギャラリーを説得する=ギャラリーの考えを変え、味方につけることに軸足が移ってゆくことに気付くであろう。
「対話のために論争する」派へのアンサーとして言うならば、ひろゆきやマッツァリーノの立場は「一人の相手と対話するより多数のギャラリーと対話する」というスタンスになっているのだ。
なにもその場ですぐにレスポンスが返ってくることだけが対話なのではない。印象を与え、自分の考えを「持ち帰ってもらう」こともれっきとした長期的対話である(もちろん自分が持ち帰ることもある。お互い様だ)。そういう意味では、目の前の論争相手も大勢いるギャラリーの一人にすぎない、ということになる。
さて竹内薫、上野千鶴子、ひろゆき、マッツァリーノと見てきたわけだが、次は宮台真司のレスバのさいのツイートを見てみよう。
クズに返してるんじゃないよ。クズはどーでもいい。死ねば? クズをいじることで、ギャラリーに返してるんだよ。何度もそうツイートしてるんだが、あたま悪いのかな?
(宮台真司:2019年5月1日のツイート)
ひじょうに彼らしく口汚いのだが(汗)、ここで言っているのも、目の前の相手はたんなる素材にすぎず、ギャラリーに向けてメッセージを発しているということだ。
ラップバトルを例に挙げるとわかりやすいかも知れない。ラップバトルは言葉の上では相互に相手をdisるが、本当の目的はあくまでギャラリーに向けたパフォーマンスであり表現だ。
論争にも同じようなことが言える。重要なのは表面的な勝ち負けにこだわりすぎないことだ。それはdisと口喧嘩を混同するに等しい。どうせ相互勝ち名乗りで終わるのが論争の常ならば、神経症的に勝ちの体裁をつくろうとすることに大した意味はない。そうすればするほど、あのネットのオウンゴール合戦(互いに自陣のイメージを下げ合っているような不毛なバトル。下記リンク参照)に近づいてゆく。
それよりも、ギャラリーに向けて出来れば自説をミーム的に感染拡大させてゆくべく、その魅力に意を注ぐこと。そうでなければ、発信力を高めて世論に訴えてゆくことなど出来ない。
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最後に、ここまでとは似ても似つかない一文を引いて締めくくりとする。幾分か心当たりのある人が多いのではないだろうか。読まれたし。
論争は書生の遊戯である。一人前になった大人のすることではない。学者および文筆家は、常識人としての成長が途中でストップし、半分大人半分子供の未熟児で、だからほとんどどうでもよい些末事に、精出して励むことができるのである。
(中略)
そのような苦労をして何が欲しいのかと言えば、これはもう名声以外の何物でもない。ただひとつひたすら名声であり賞である。餌を求める野生動物の習性が何程かは残っているのであろう。だから論争が必要となる。すなわち僅かながら胸中に潜んでいる闘争心を、適度に発散させる模擬演習である。業界の習慣(しきたり)として続いている景気づけの行事である。一般人社会人が真似るに値しない空騒ぎである。
(谷沢永一『論争必勝法』)
自分はバカかもしれないと思ったときに読む本 (14歳の世渡り術)
- 作者:竹内 薫
- 発売日: 2013/03/20
- メディア: 単行本
- 作者:遙 洋子
- 発売日: 2000/01/01
- メディア: 単行本
- 作者:ひろゆき
- 発売日: 2018/10/12
- メディア: 新書
- 作者:パオロ・マッツァリーノ
- 発売日: 2007/02/06
- メディア: 新書