やすだ 😺びょうたろうのブログ(仮)

安田鋲太郎(ツイッターアカウント@visco110)のブログです。ブログ名考案中。

終身学習刑、認識論的引退、心の安らぎ

 

 以前一度ブログに書いたのだが、NHKのひきこもりを扱った番組に、ひきこもりの中年男性と、六十八歳になるという母親との印象的な会話があった。
 中年男性は母親に、ひきこもりについての本を読むよう促すのだが、母親は「そんな時間はない」と拒否するのだった。母親いわく、

 

 「私にはもう時間がないの。これまでの人生で色々なことを犠牲にしてきたし、一日のなかで気力のある時間は短い。だからあなたはひきこもりの本を読めというけれど、読んでいる時間はない。わたしはぼーっとしている時間がとても貴重なの」
 (NHK教育『ハートネットTV』「ひきこもり新時代」)

 

visco110.hatenablog.com

 

 彼女の言葉が、いまも時々思い出される。
 働き者でもないくせに性格だけはあくせくしている僕にとって、「ぼーっとしている時間」を貴重なものとして味わう、というのは難しいことである。

 それが彼女にとって心安らぐ、至福の時間であることは確かに想像できるし、僕じしん生活のなかでそういう瞬間がふと訪れることがまったくないわけではないのだが、あくまで束の間であり、次の瞬間にはまた「何かしなければ」と焦りだすのである。

 

 一度ブログに書いたあとも、彼女の言葉についてもう少しなにか云いたい、というモヤモヤしたものを感じ続けていたのだが、先日、ウンベルト・エーコとジャン・クロード・カリエールの対談本『もうすぐ絶滅するという紙の書物について』を読んでいたところ、次のようなやりとりがあった。

 

 E:昔は、長い学習期間を締めくくる修了試験というのがあって、それに向けて勉強したものです。イタリアのマトゥリタ、ドイツのアビトゥーア、フランスのバカロレアなどがそれです。そのあとは、大学に進学する一部のエリートを除けば、誰も学習なんかしなくてもよかったんです。知っていることは、死ぬまで、そして子供の代になっても役に立った。十八歳や二十歳で、認識論的にはみんな引退していたわけです。今日どこかの会社に雇われている人が、知識の更新を怠れば職を失います。
 (中略)
 C:終わりのない学習についてのお話は、いわゆる「退職者」の人々にも通用します。どれだけのお年寄りが情報処理の知識習得を強いられてきたでしょう。この先何年それを使って生活できるのかはっきりわからないのに、私たちは終身学習刑を宣告されているのです。
 (エーコ/カリエール『もうすぐ絶滅するという紙の書物について』太字は安田による)

 

 「おじいちゃんもスマホくらい使えなきゃダメだよ!」というわけだ。

 これは進歩(と、いちおう言っておく)著しい現代の副作用みたいなものだ。きょうび、人は若い頃に身に着けた知識、世界認識の枠組みだけではすぐに時代に取り残されてしまうのだ。
 カリエールは続けて言う。

 

 C:いわゆる原始社会では、変化するものは何もなく、老人は力を持っていた、というのも、老人は子や孫に知識を伝えたからです。世界がたえず革新的に変化している現代では、子供たちが親にエレクトロニクスを教えます。では、親たちは子供に何を教えるんでしょうか。
 (同書)

 

 そういえばマーヴィン・ハリスか誰か文化人類学者だったと思うが、昔は結婚することの大きなメリットの一つに「配偶者側の年寄りにあれこれ相談することが出来る」ということがあった、と書いてあった。昔の老人はウィキペディアとグーグルマップとYahoo!知恵袋とクックパッドその他あれこれを足したような存在であった。

 

 それにしても「終身学習刑」とはなんとも痛烈である。
 この言葉ですぐに思い浮かぶのは「生涯学習」だが、「生涯学習」というと生涯にわたって学ぶ機会を得られる、また人間側にもその伸びしろがあるという、基本的に良いことというニュアンスがある。しかし裏を返せば、時代の変化の速度ゆえにそれをするよう追い立てられているということでもあるのではないか。

 とするならば「生涯学習」とは、人を何歳になってもくつろがせずに「学習」に駆り立てるような酷な部分がある。

 

 *

 

 ひきこもりの中年男性とその母親に話を戻すならば、おそらく彼の推奨する本は良書で、それを読めばひきこもりについての進歩的な知見が得られるのだろう。そのこと自体はいい。
 だが果たして、これまでの人生でひととおりのことをやってきて、「私にはもう時間がない」と感じている六十八歳の女性に向かって、「あなたはひきこもりの息子を理解するためにその本を読むべきだ」と一体誰が言えるだろうか。言えないですよね。本人に興味があれば「コレを読んで認識をアップデートするぞい٩( 'ω' )و」となってもいいけれど、読みたくないというならばそれはもう仕方がない。
 こうした状況も、カリエールのいう「終身学習刑」と無関係ではないのではないか、と思ったわけです。

 

 こうして考えてみると、彼女のいう「ぼーっとしている時間がとても貴重」というのは、生活上の種々の義務から解き放たれた時間ということももちろんあるが、「終身学習刑」のオブセッシヴから解放された時間ということも含意するのではないだろうか。

 

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 知り合いに二人ばかりそういうことを明言している人がいる。

 一人は若い頃にかなりの学問的訓練を受けた人物だが、ある時期から「わたしはもう勉強しない」と宣言し、周囲が「いい論文書いてたのに、もったいない」と言うのも顧みずにぱたりと研究活動をやめてしまった(そうは言っても漢詩や仏教書や民俗学の本はちょいちょい読んでいるようだが、あくまで娯楽として読むだけである)。

 もう一人はなんというか、もっと生まれつき(?)知識へのオブセッシヴがない人で、いつもテレビをつけっぱなしにしているのだが、そこそこ雑談をする仲ではあるのである時、

 「テレビの知識って不確かで不安になりませんか?」

 と聞いたところ

 「確かな知識なんかいらない!」

 と言い放ったのが妙に印象的だった。


 いまにして思えば、どちらの人物も「終身学習刑」から自由になるために、敢えてそのような態度を選び採ったのではないだろうか。何のために? 心の安らぎを得るために。

 考えてみると、澁澤龍彦の態度には多分にそんなところがある。確かに彼は博覧強記で、当時としては手に入りにくいさまざまな知識を披露し我々を魅了したが、こと「認識論的」(byエーコ)次元の話になると、かなり早い段階で自ら現役を退いた感がある。具体的には、彼の六十年代のテクストには「気鋭の文明批評家」然としたところがあるが、七十年代以降は一気に脱力し、専ら玩具のように知と戯れるのみとなった。

 その点荒俣宏はやや異質で、澁澤と似たような芸風に見えてかなりの時期まで「力み」を保っていた。例えば澁澤の『フローラ逍遥』と多分にそのオマージュであるという荒俣の『花空庭園』を比べてみると、前者の脱力に比べて後者の「力み」が鮮明である。
 これもまた、澁澤の「終身学習刑」から自由になるための一つの決意、「認識論的」な成長を自ら止めて軽やかなディレッタントになることを敢えてえらんだ、ということなのかも知れない。

 

 *

 

 しかし、難しい問題だ。こう書いたところで「認識論的」な成長へのオブセッシヴを抱えている人が、簡単にそれを捨て去れるとは思えない。そうした人たちは、当面「終身学習刑」を自らに架し続けることになるのだろう。それは「ぼーっとする時間」の至福からはどうしても離れてしまうし、ある種の重苦しさでもある。
 だが少なくとも自覚することで、なにかしらの道が拓けるかも知れない。そう思って書き出してみた次第である。
 では、今回はこのあたりで(・ω・)ノ