やすだ 😺びょうたろうのブログ(仮)

安田鋲太郎(ツイッターアカウント@visco110)のブログです。ブログ名考案中。

「名誉文化」と「金持ち文化」

 

 大学講師でありながらMMAのリングに上がったという異色の経歴を持つジョナサン・ゴットシャルは、著書『人はなぜ格闘に魅せられるのか』のなかで、およそ二百年前の決闘と、現代の刑務所のあいだには「名誉」をめぐる同質の文化がある、と論じている。
 我々は「名誉を傷つけられた」――公衆の面前で侮辱されたとか、あらぬ醜聞をでっち上げられた――ことが決闘=殺し合いにまで発展し、またそのことが社会的にもある程度の理解を得ていたということを、俄かには理解し難い。現代人としてはついそこに愚かしさを見てしまうのも無理からぬことだ。しかし、

 

 ハミルトンの時代には、名誉は男の社会的な富の総体だった。名誉は些細なことなどではなかった――人生の最大のものを買うための貴重な硬貨だったのだ。そしてもしもこの硬貨の価値が毀損されれば、その男の展望――そして家全体の展望――もまた毀損される。
 (ジョナサン・ゴットシャル『人はなぜ格闘に魅せられるのか』、以下太字は安田による)

 

 フィリップ・ハミルトンとその父アレクザンダー・ハミルトンはまぎれもなく社会の上層に位置する人物だが、1801年および1804年に、相次いでピストルによる決闘で命を落とした。
 とくに父アレクザンダーは独立戦争の際にジョージ・ワシントンの副官だった人物で、合衆国憲法の実質的な起草者とも言われ、初代米財務長官、さらには十ドル紙幣にその顔を刻んだ人物である。

 

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 アレクザンダー・ハミルトンの十ドル紙幣 

 

 そしてアレクザンダーの決闘相手、つまり彼を殺した人物は、現役の米副大統領アロン・バーであった。
 決闘の原因は、新聞に書かれたバーの醜聞(バーは叛逆罪を含む多数の罪を犯している、バーは二十人以上の娼婦の上得意である、バーは「黒人舞踏会」で巨乳の娘たちを弄んだ……云々)は、政敵であるハミルトンが仕掛けたものに違いないとバーが確信し、ハミルトンを激しく罵ったためであった。
 両者の憎しみは理解できる。だが、なぜ彼らは実際に殺し合わなければならなかったのだろう。

 

 ある歴史家は、無様にも、ハミルトンがバーと闘ったのは彼がフィリップの死、娘の精神病、政治的逆境、付き纏う経済問題に、自殺したくなるほど意気消沈していたからだと考えた。だがこれは間違い。
 (中略)
 もしもハミルトンが単に闘いを拒否すれば、バーは直ちに彼を「ポスト」していただろう。つまり文字通り、ハミルトンは臆病者だというニュースを散蒔いていただろう。決闘から逃げた男と見做されることは、多くの点で、死ぬより悲惨な運命である。降伏はハミルトンの政治的野心、社会的地位、法律家としての仕事を危機に陥れる。ハミルトンの家族もまた傷付けられていただろう――妻は世間に顔向けできず、子供たちの将来は仕事の上でも婚姻の上でも暗くなる。ハミルトンは勇敢だから闘ったのではなく、闘わなければどんな酷いことになるかを恐れたために闘ったのだ。
 (同書)

 

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 こうした「名誉文化」は刑務所にも共通する、とゴットシャルは言う。
 すなわち、囚人はなにか嫌がらせを受けたとき、かならず仕返しをしないと「兎」すなわち餌と見做され、以後はずっとパシリにされ貢がされ、場合によっては尻を掘られることになるのである。とくに新入りがこの「根性検査」を受けやすい。

 

 それで思ったのが、学校のいじめにもこうした要素があるということだ。
 いじめを受けそうになったときどうすればよいか――ここでは男同士の荒々しい、肉体的な暴力を含むいじめを想定している――という質問に対し、ある経験豊富な知人は「やり返すしかない」と答えた。「勝てなくても、無抵抗ではないことを示せばいじめのターゲットではなくなる」。つまりゴットシャルのいう「根性検査」にパスしろ、というわけだ。
 この意見は、いじめをある種の「自然の摂理」として容認しかねない危険、またいじめられる側にも一定の責があると解釈されかねない危険があるため、率直に賛同できるものではない。他の選択肢があるならそうするに越したことはないだろう。
 だがいきなりその状況に投げ込まれ、代替手段もあまり見込めない場合はどうだろうか。少なくともある種の「現場のリアリティ」を感じさせる部分はある。いやでも本当にどうなんだろう。選択肢の一つとしてはあり得るのだろうか……?

 

 *

 

 「名誉文化」については、中世西欧の都市民の間にも同様の文化が見られるようで、以前の記事に次のように書いたことがある。

 

 ニコル・ゴンティエによれば、言葉の暴力は社会関係のなかで言葉が占める位置に結びついている。
 言葉の暴力は「取引や、人々の往来や、高い人口密度によって、人間同士の対話の機会がおびただしく増える都市的な環境においては、一段と影響力を持ったのである」(『中世都市と暴力』)。
 彼によると侮辱は、小さな集まりで発せられる場合と、広場で叫ばれたり居酒屋で響いたりあるいは通りの建物に反響する場所とで、意味合いがまったく異なる。なぜなら都市生活においては評判はかけがえのない身分証なのであり、侮辱するということは「彼が共同体のなかで暮らしてゆく権利に異議を唱える」ことであるためだという。
 つまり、お前は盗人だとかろくでなしだとか公然と言われたさいに、すぐさま打ち消さずに拡散してしまうと、彼(彼女)は実際にそのような存在だと共同体から疑いを持たれるようになる。それはやがて現実的な排除に繋がってゆく。かつては共同体からの排除は生命の危機を意味した。侮辱は時として物理的な暴力以上の脅威だったのである。

 

 また同記事で次の引用もした。

 

 進化心理学者デヴィッド・バスが五千人に聞き取りを行ったところ、調査対象のうち今までに一度でも誰かを殺す想像をしたことがあると答えた人は、男性の91%、女性の84%にのぼったという(『殺してやる 止められない本能』)。
 バスはこの結果に大いに驚いたそうだが、このこと自体はさほど驚くに値しないように思える。だが問題はその理由だ。他人に殺意を抱いたことのあると答えた大半の人々が、身を守るためといった切実な理由ではなく、侮辱されたので報復したいと思ったと答えたという。

 

visco110.hatenablog.com

 

 *

 

 さてここからがある意味本題なのだが、そうは言っても現実に「名誉文化」が適応的な領域は限定されている。
 現代においては、刑務所や荒れた教室、そこから予想されるのはおそらく、アウトロー社会に近づけば近づくほど「舐められたら終り」の論理が息づいているということだ。となると、このブログを読んでいる方々がゴリゴリにそういう社会に属している可能性はあまり高くなさそうである。

 

 中世や十八世紀の人間はともかくとして、現代において「名誉文化」に適応的な人間というのは早い話がバカかチンピラなのではないかという疑念は、ゴンティエの文化人類学的解釈を聞いたあとでも、やはり拭い去り難い。
 一般的にはむしろ「金持ち喧嘩せず」「実るほど頭を垂れる稲穂かな」「人の噂も七十五日」というような、些細な侮辱は受け流し、頻繁にそういうことがある人とは黙って離れる態度のほうが、余裕や格の違いを示すものとして推奨されている(まあ何事もケースバイケースなので、何をされてもヘラヘラ笑っているのも問題だが)。

 

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 つまり「名誉文化」(舐められたら終りだ!)と、それと相反する「金持ち文化」(ハハハ、これは手厳しいですな)ないし「稲穂文化」(イヤイヤ私など未熟者で……)とでも呼ぶべきものが併存しているのだ。これは社会にも併存しているし我々の心の内にも併存している。誰しもが何かムカつくことがあったときに、

 

 >舐められないためにやり返す
  余裕を見せるために受け流す

 

 というウィンドウが頭の中に開くのである。
 とはいえ繰り返しになるが、現代日本においては多くのシチュエーションにおいて「名誉文化」よりも「金持ち文化」のほうが良い結果を招くであろうし、そもそも本質からいっても後者のほうが平和的、かつ洗練されているので、基本的に社会全体にしろ身の回りの環境にしろあるいは自分自身の価値観にしろ、そちら側に進んでいったほうが良い、というのはある。「優雅な生活が最高の復讐である」云々。

 

 ただ、どうしても捨て去れないものとして、そうした男的な、獣的な、チンピラ的な――なんと言ったらいいのかわからないが「舐められたら殺す」のマインドが、心の底にくすぶっているのを感じるときがある。しかも稀でもなくわりと頻繁に。本当は安易にリプバを仕掛けてくる連中とか全員ブチ殺したいのである。いや実際。

 

 

 

中世都市と暴力

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「殺してやる」―止められない本能

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