やすだ 😺びょうたろうのブログ(仮)

安田鋲太郎(ツイッターアカウント@visco110)のブログです。ブログ名考案中。

【愛のブログ】はと車縁起が若干おかしい件

 

 まあそんなに目くじらを立てる話でもない、というかまったく目くじらを立ててはおらずネタとして読んでいただきたいのだが、そうだな、どこから話そうかな、とにかく、あの長野県は野沢町が誇る人気郷土玩具「はと車」を買ったんですよ。

 

 【鳩車】
 張り子,木,土などでつくったハトに両輪をつけ、紐で引くようにした玩具。寺島良安の『和漢三才図会』は中国の鳩車について、高さ約 6.5cm、長さ約 10cm、幅約 5cm、輪径約 6.5cm、親バトが子バトを負うている形を紹介している。日本でも平安時代から鎌倉時代にかけて小さな子供に楽しまれた。今日の鳩車は、むしろ飾り物用の民芸玩具に属し、特に長野県飯山、野沢地方で産するアケビのつるでつくった鳩車が有名。

 (ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典「鳩車」)

 

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 まあとりあえず実物を見てください(・ω・)ノ

 

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 とってもかわいいですね。

 

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 先住者に仁義を通す。

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 豆が欲しいかそらやるぞ♪

 

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 おいしそうな豆ですね……

 

 上の引用にあるように、どうも元々は古代中国人が考案したようなのだが、まずハトに車輪をくっつけるという発想が素晴らしい。大戦末期のナチスでもこれほどまでに独創的な兵器は思いつかなかった。まあ兵器ではないんだが、なんでハトに車輪がついているのか、凡人には伺い知れないものがある。


 野沢村のアケビ細工によるはと車は、同地に生まれた殖産家の河野安信氏(1820-1885)があけびの蔓を裂く器具である「にぎりかんな」を考案し、これによって同村にあけび細工を広めたことに端を発する。その精巧さと愛らしい姿から「郷土玩具の東の横綱と呼ばれるほどの人気商品となり、かつては野沢温泉を訪れる客はかならず買い求めたというほどだったらしい(下記リンクに郷土玩具番付の画像あり)。

  

www.awanoyu-ryokan.com

 

  また、昭和37年に開催された長野産業文化博覧会を訪れた当時の皇太子妃(つまり美智子さま)に献上され、皇太子妃がはと車で遊ぶ様子がテレビで放送されたのも爆発的人気に火をつけたと云われている。

 

www.iijan.or.jp

 

 そんなはと車で、僕も遊び癒されている毎日だが、野沢村のはと車には独自の伝説というか縁起ばなしがある、ということを箱に入っていた紙で知った。

 

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 いちおう、中味はまったく変えずに云い回しを現代風にすると、

 

 古き昔、野沢温泉熊の手洗場のほとりに貧しい農家があった。
 ある時、小汚い格好をした旅の僧がやって来て宿を請うた。家人は快よく承諾した。
 旅の僧は別れのさいに曰く、「私はこの土地に到って鳩を見かけぬことが淋しかった。鳩は平和の使者であり福徳円満をつかさどる。私はこのたびの謝礼に鳩を贈ろうと思う。巣箱を造り養えば子孫繁昌は疑いない」と云い置いて立ち去った。
 家人は言われるがままに巣箱を造り置いた。すると幾日も経たぬうちに一対の鳩がやって来て仲睦まじく住むので、大切にこれを養うと、不思議なことに次第に幸運に恵まれるようになり、家人は大いに喜んで「末代まで鳩を飼うべし」と云い伝え、枝にて鳩を造り子供たちに与えた。
 後にこの家に生れた河野安信はあけび細工を発明するにあたり、家に伝わる遺言を思い出し、あけび細工の鳩を考案すると売行は大いに好ましかったという。
 こうして、今や郷土玩具の雄として世にその技術と共に伝わっている。

 

 といったことが書いてあるのだが、正直「ちょっとこれはおかしい」と思ったのだった。
 というのも、すでに勘のいい読者はお気付きかも知れないが、ハトが平和の使者だというのは西洋人の感覚であり、昔の日本人はそんなふうに考えてはいなかったのである。

 

 * 

 

 というか、もともとは西洋においてもハトには多様な意味が込められていた。
 偶然、手元にハトの象徴的意味について論じた一著があるので参照すると、古代では、ハトはその多産さと嘴をよく触れ合わせることからイシュタル、アスタルテ、ヴィーナスといった愛の女神に属するものとされ、転じて恋人の象徴とされていたり、あるいは胆汁を持たないと信じられていたことから信仰的敬虔あるいは素直さの象徴とされたり、また死者の魂と考えられていたりした。


 そんな方向性の定まらないハトだったがある日、ヤハウェが人類の堕落にブチギレて大洪水が訪れ、そのさいノアはあらゆる動物たちを一対ずつ方舟に乗せて、からくも生命の絶滅は免れたのだが、水が引きはじめるのを待って彼が洋上にハトを放ったところ、ハトはオリーブの葉を持ち帰った。

 

 どこかで大水の中からつき出たオリーブの木がその梢を見せていたのであろう。こうして水がしだいに確実に引きはしめていたことがわかる。神は、洪水後に生きる人間と動物たちと、ふたたび和解することを望みたもう。いわば、《神の平和》の使いとして、このハトが帰ってきたといってよい。それ以後、今日まで、オリーブの葉をくわえたハトは、平和を象徴する《原型》となった。
 (宮田光雄『平和のハトとリヴァイアサン 聖書的象徴と現代政治』)

 

 かくして『創世記』以来、ハトは平和を象徴する動物となったのである。

 

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 したがって、こうした観念が日本に入ってきたのは、少なくともキリスト教の伝播以後だということになる。このへんの正確な時期は不詳だが、限られた大名を相手にしていたり、弾圧されていた時代ではあるまい。早く見積もっても明治以降だが、可能性が高いのは1949年パリで開かれた世界平和会議のポスターからではないかと云われている。ピカソの筆によるこの鳩は世界的に有名となった。 

 

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 パブロ・ピカソ「平和のハト」。ちなみにピカソはこの時期にハトの絵をたくさん描いており、他にも有名なものが複数ある。

 

 *

 

 では日本ではどうだったのか。平凡社の『世界大百科事典』のハトの項目によると、わが国では

 

 鳩(とくに白鳩)は古来八幡神の使わしめと考えられて神聖視された。

 

 とある。また高橋秀治『動植物ことわざ辞典』によると、

 

 日本では、鳩が軍神八幡神の使者とされたことが、『源平盛衰記』『太平記』に見られる。明治時代に入ると、陸軍は通信用に伝書鳩を輸入して使った。

 

 となっている。平和どころではなく軍神の使いなのである。
 なお八幡神の軍神としての特徴については、

 

 祭神が應神天皇神功皇后であるということから伊勢と並んで二所宗廟としての地位を得、後続の裔たる源氏の氏神となり、それはやがて武士政権の成立と共に武神の最大のものとなり、以後八世紀に亘って有力な神格として全国的に祭られるに至ったのである。
 (柳田国男監修『民俗学辞典』)

 

 とか、

 

 戦闘の神としての性格は、特に武士の間に崇められた。ちなみに、武将の兜は八幡座をいただいた。
 (坂本太郎監修『風俗辞典』)

 

 といったことが一般的のようだ。なんだか、まったく平和ではない。

 

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 さらに上述のように陸軍の通信用に使われたり、

 

 第二次世界大戦末期の陸海軍の航空基地には「南無八幡大菩薩」の大幟が掲げられたり、「八幡空襲部隊(八幡部隊)」を名乗った部隊もあった。
 (wikipedia八幡神」)

 

 なんてことが書かれていたり、あげくに大戦末期に考案された兵器に「ハト」という名前がついていたりもする。

 

 陸軍は1943年~1944年にかけて制式化されたばかりの三式三十糎迫撃砲を搭載する自走迫撃砲を計画した。秘匿名称「ハト」と名づけられた新型自走迫撃砲の車台には四式中型装軌貨車が使用され、4輌が試作された。1944年~1945年にかけて陸軍士官学校ハト車の実用試験が行われたが戦力化されないうちに終戦となり、実戦に参加することはなかった。
 (中略)
 ハト車の開発と同時期に陸軍は噴進砲(ロケット砲)の実用化に成功したため、コスト面・運用面で噴進砲に劣るハト車は存在が疑問視されていた。また、大型の砲弾を使用するためには専用の補給車輌を生産せねばならないなどの欠点が存在した。加えて資材難から大量整備は行われなかった。
 (wikipedia「試製四式重迫撃砲」太字は安田による)

  

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 試製四式重迫撃砲ハト

 

 まあ戦時中はさておくとしても、日本におけるハトはこのように、全体的に険しいイメージがある。

 

 *

 

 ただ、無理矢理日本に関わりのあるなかでハト=平和の使いという話を捜すならば、仏教に放生会(ほうじょうえ)という行事があり、これは殺生を戒めるために捕獲した動物を野に放つという「放ち亀」とか「放ち鳥」といった行事がまれによく行われている(ちなみにこの行事も八幡信仰と繋がりが深いのだがここでは省く)。

 これをもって日本、あるいは東洋においてもハト=平和の象徴とする、という意見もあるようだが、それは苦しい。

 

 というのも、もともと放生会は「釈迦がある前世で流水長者だった頃、死にかけた魚たちに説法をして川に放ったところ、魚たちは三十三天に転生して感謝報恩した」という云い伝えが発端となっており、そもそもが魚の話であってハトの話ではないのである(『金光明最勝王経』長者子流水品)。

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 そして日本に伝わる放生会は、浮世絵といい落語『佃祭』といい、あるいは一茶の俳句「放し亀 蚤もついでにとばす也」といい、全体的にカメを放つ物語が目立つ(そう、浦島太郎のルーツである!)。

 カメの他には鯉や金魚、鮎などを放っており、ついでに云うとインドの放生会では蛙や貝、タイではそのほかに鰻なども放ったりするようだが、とにかくハトも放つ場合があるにしても、あまりハトが主役の行事ではないのである。 

 

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 歌川広重 『深川万年橋』。亀の放生を描いた絵とされる。

 

 それから、はと車の縁起物語を読んでいただけばわかるように、これはハトを飼う話であって野に放つ話ではない。つまり徹頭徹尾、放生会とは無関係なのである。

 

 *

 

 かくして日本の伝統においては、おおむねハトは軍神であるところの八幡神の使いであって、ハト=平和の使者であるといった話は見当たらない、と云わざるを得ない。

 おそらく野沢村のハト車縁起は戦後に創作された話だと思われる。あるいは古くからの云い伝えだったとしても、僧のいう「ハトは平和の使者であり云々」という台詞はアレンジされているはずである。っていうかまあ、戦後に作った話だと思いますけども。

 

 しかし! ここまで書いておいてなんですけど、そんなことはハト車という民芸の至宝であり人類の宝にとってはまことに些細な瑕疵にすぎない。いやはや我ながら無粋な話であった。


 はと車、みなさんもぜひお手元にどうぞ。生活が潤うこと請け合いです。ぽーぽっぽぽー。

 

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平和のハトとリヴァイアサン―聖書的象徴と現代政治
 
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