やすだ 😺びょうたろうのブログ(仮)

安田鋲太郎(ツイッターアカウント@visco110)のブログです。ブログ名考案中。

愛の挫折と扁桃炎

 

 ヴィクトーア・フォン・ヴァイツゼッカーの『病因論研究』、というとなにやら小難しそうな書名だが、実際に読んでみると、さほど難しくはない代わりに「いったい自分は何を読まされているんだ……?」というような、ひじょうに困惑した気持ちになる。ちょっと、今日の医学的常識からいってそれはどうなんだという気になるのである。
 ヴァイツゼッカーは扁桃炎の患者の症例を次から次へ挙げるのだが、そのたびにいちいち、発症前後の患者の愛や結婚をめぐる困難を、重要な鍵として述べてゆくのである。
 要約しつつ幾つか紹介してみよう。

 

 ある若い女性は、十年ものあいだ同じ男から求婚を受け続け、ついに承諾したものの、何度も扁桃炎が再発するため結婚式前に扁桃腺を切除する手術を受けたところ、外科医のミスで上向咽頭動脈を傷つけられ、出血多量で手術台の上で死んでしまう。

 

 別の女性は、ひどく内気で臆病なのだがなんとか結婚したところ、結婚式の後のホテルで夫にひどく侮辱され、翌日から激しい扁桃炎にかかってしまう。そのため結婚旅行は中止となり、二人はまもなく離婚する。彼女は無能で器量の小さい夫から解放されたことを喜んだが、一度は結婚して独立したいという望みは断たれ、それ以来あらゆる希望を失ったという思いで暮らしている。

 

 ある卵巣摘出手術を受けた三十前後の女性は、少し離れた都市で知り合った男を一目で好きになり、その晩にダンスをするが、自分は子供を産めない女だと彼に告げなくてはならないことで思い悩み、翌日から扁桃炎にかかる。そのため男とそれ以上親密になることはなかったが、いまは恋愛をすっぱり諦め安定している。

 

 ヴァイツゼッカーによれば、これらの症例から浮かび上がってくるのは愛や結婚の緊張が高まったときに病気(ここでは扁桃炎)がその結果として入り込み、新しい状況を作り出すということである。そういうこともあるのだろうか。

  また、彼は次のようなことも述べている。

 

 扁桃炎の前後にモラルの危機が見られないような症例は、ただのひとつもないことがわかる。どの症例をとってみても疾病利得とでもいうべきものが必ず見出されるという事実も、それと同じことを意味している。なんらかの利益、なんらかのメリット、あるいは少なくとも病気の助けを借りて重すぎる課題から退却するなんらかの戦略を手に入れること――ここにはもちろんつねに道徳的なニュアンスが、あるいはいささか非道徳的なニュアンスも込められている。
 (ヴァイツゼッカー『病因論研究』、以下太字は安田による)

 

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 ムンク『泣く裸婦』(1913-14)

 

 もちろん医学的には、扁桃炎は細菌などの病原体の感染によって引き起こされるわけだが、それでも感染する人間としない人間がおり、また同じ人でも感染する時としない時があるという不確実さは残る。そのことについて、われわれは通常「免疫力が下がっていた」というように理解する。
 ところで免疫力は、体調だけでなくある種の精神状態やストレスが関係しているというのは、現代の医学でも受け容れられている。ヴァイツゼッカーの議論は、好意的に見ればそのへんを深堀りしたものだと言える。
 彼は云う。

 

 夏の夜、灯火に集まる蚊の群れを眺めてみると、その一匹一匹の欲望や飛行経路や運命や破滅はそれぞれ別々だという気持ちになる。だが群れ全体の密度や形態や拡がりを計算すれば、光への感受性、引力や斥力などの法則が見えてくる。
 (同書)

 

 ヴァイツゼッカーはあくまでその一匹一匹のほう、つまりわれわれ一人一人の運命に関心を抱くのである。
 まあそのさい、性器過程の特殊な挫折の仕方(深く侮辱され傷つくこと)が元来の場所での発現を妨げ、それが扁桃腺のほうに移動するといったような、思わず「やめとけそれ」と言いたくなるような、悪い意味でのフロイト的な議論もしているけれど……

 

 * 

 

 ヴァイツゼッカーの病因論は、心療内科のルーツとしての歴史的価値はあるものの、現役の医者が診断や処方の参考にするような話ではない。しかし意外なところで思わぬ示唆を受けるような事があったので、それについて書きたい。
 それは「呪い」について調べていたときのことであった。
 民俗学者の吉田禎吾は、昭和三十九年から四十年にかけて、四国のある山村をフィールドワークしていた。そこで知り合った老人の話によれば、

 

 十五年ほど前に、中耳炎と外耳炎をわずらったが、これは「呪い針」のためであったと言う。男女関係のもつれで、自分を恨んでいた男が、藁人形をつくり、これに四十九本の木綿針を打ちこみ、四つ角にうめて私を呪ったのだと述べた。
 (吉田禎吾『呪術 その現代に生きる機能』)

 

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 「ちょっと待てよ、それってかなりヴァイツゼッカー的だぞ」とすぐさま感じたことは、本稿の読者なら納得していただけるだろう。

 

 中耳炎・外耳炎といえば、扁桃炎と同じように細菌などの感染から起きる炎症で、とくに中耳炎は扁桃炎が耳管を伝わって併発することもしばしばある。素人から見れば、たまたま感染する場所が隣りだったというような、ほとんど似たような病気だ。

 

 しかも老人がそれを患った背景には「男女関係のもつれ」があるという。それがどういうものかは書かれていないが、よくある話で云うなら、やはり捨てた男から恨まれたといったところだろう(当時の「老人」は六十歳とか五十歳なので、その十五年前ともなれば、現代よりは多少老け込んでいたとしても充分に色恋沙汰になるのではないか、とも想像出来る)。
 愛や結婚をめぐる困難が、扁桃腺やそれに類する病気を引き起こしたという両者の類似は明らかだ。違うのは因果関係の解釈に「呪い」という超自然的なファクターを持ち込むか、独自の精神分析的な心身相関論を用いるかというところである。
 なお小松和彦は、「呪い」をめぐるこうした機微について次のように述べている。

 

 人びとは病気にかかったときなどに、その原因は誰か生きている人の怨念によるものではないか、あるいは死んだ人の怨念ではないか、と疑ったということでもある。
 (中略)
 愛する男を別の女に寝取られたら、あなたならどうするだろうか。手に手を取って自分から逃げていった者たちを、殺したいほど憎むことさえあるはずだ。そこに怨念=呪い心が生じるのは当然である。
 (小松和彦『日本の呪い』)

 

 まあ、正直なところもう一つ違いはある。ヴァイツゼッカーの症例は大半が葛藤、モラルの危機、挫折、傷つきが発症と深く関わっているのに対し、いま挙げた「呪い」の例では、葛藤やモラルの危機という点では共通するかも知れないが、ヴァイツゼッカーがほとんど挙げていない、恐怖や罪悪感が発症の契機になっていると思われることだ。
 しかし、こうした違いをそれなりに尊重するとしても、なおヴァイツゼッカーの議論は、「呪い」あるいはその他の不可解な心身相関現象に、オカルト的解釈とはまったく異なるアプローチの仕方、分析手段を我々に与えてはいないだろうか。

 

 *

 

 ……で、他にも例はあるのかというと、あるんですねこれが。
 ヴァイツゼッカーは次のように述べている。

 

 精神身体的な興奮が体軸の口腔極に向かうのは、興奮がそこに性器極との共通点を見出しうるからではなく、なにかがこの興奮を性器極から引き離しているからなのだ。しかしこの興奮がほかのどこでもないこの口腔極を目指すという事実は動かしようもない。しかし発達史的にみれば、これはそれほど不可解なことではないように思われる。顎、歯、副鼻腔などの化膿が同様な事情でしばしば見られることも、われわれの経験では疑う余地がない。また虫垂炎も同じグループに属しているように思われる。
 (同書)

 

 虫垂炎といえばまっ先に思い浮かぶのは盲腸(急性虫垂炎)だが、桝井寿郎『近代怪談集』には、次のような話が収録されている。例によって要約して紹介する。

 

 昭和四十年の正月、大阪阿倍野の小さなアパートで、清の妻、加代が腸壁イレウスで亡くなった。
 死に際になって、愛し合っていた夫婦は「たとえ死んでもあなたの妻でいたい」「わかった、けっして再婚しないよ」と誓い合った。
 しかし、清やはがて寂しさに絶えられなくなり、酒や風俗びたりになった。
 四十九日を過ぎた頃、清に縁談が持ち上がった。相手は金持ちの令嬢で、婿養子になって跡を継いでほしいという。清の人望を見込んだ職場の社長からの紹介であった。
 清は死んだ加代のことが気になったが、「どうせ加代は死んだのだから分かりゃしない」と縁談を承諾した。ところが結婚式の朝に、清の腹が猛烈に痛みだした。
 医者の診察の結果、亡くなった妻と同じ腸壁性イレウスであった。
 不思議なことに、清がこの縁談をとりやめにしたところ、腹のはげしい痛みはすぐに消えてしまったという。

 

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 えー、腸壁性イレウスというのは近年まで腸閉塞とほぼ同義に使われていた病名で、腸閉塞は盲腸(急性虫垂炎)と併発することもある、素人から見ればかなり似たような病気でありまして(略)

 

 どうもヴァイツゼッカーの議論は、人の心の「わけのわからぬ不気味なもの」を読み解くのに独特の嗅覚を発揮するように思える。興味を持たれた方はぜひ『病因論研究』をお読みいただきたい。

 

 最後に、やや大袈裟に書くと、脳科学や神経科学の成果はひじょうに多大なものがあり、それは精神分析と比べると竹ヤリと爆撃機くらいの違いが確かにあるのだが、そのような実証的かつ明晰なアプローチが、そうであるがゆえに「なかったこと」にしてしまいかねない、モヤモヤしたわけのわからぬもの、人生の意味や運命、因果、ひらがなの「こころ」といったものを語ろうと、哲学や精神分析は蛮勇を振るっているのであり、ヴァイツゼッカーの奇妙な魅力や嗅覚の鋭さもまた、その思想形成において抜きがたくそれらの影響を受けているゆえに可能だったのではないか、みたいなことを思う。
 こうした議論を「なんかそういうデータあるんですか?」と否定することは誰にでも出来る。それももっともなことだ。だがその先に、彼らの蛮勇に代わるものを、誰が提示しうるであろうか。

 

 

 

 現在は改題されてこちらになっているようだ。