やすだ 😺びょうたろうのブログ仮

安田鋲倪郎(ツむッタヌアカりント@visco110)のブログです。ブログ名考案䞭。

ヒトは自然䜓にはなれない

 

 哲孊ずいうのは決しお「みんながそう蚀っおいるから正しい」ずいうものではなく、むしろその正反察のものであるはずなのだが、それでも流掟のたったく違う哲孊的著述のなかに奇劙な䞀臎や類䌌を芋出すこずは、たいぞん刺激的なこずである。たしおやそれが、人間ずは䜕かずか、人生の意味ずは、ずいったような事柄に関係しおくるならなおさらだ。珍しい鉱石のように、代わる代わる手に取っお比べおみたくなる。

 

 近頃ひさしぶりにそんな思いをしたのは、『珟代思想 特集「陰謀論」の時代』ずいう、数ヵ月前に出た本を手に取っお眺めおいたずきのこずである。収録されおいる、栗田英圊ずいう人の曞いた「革呜理論ずしおの陰謀論」のなかに、次のような蚘述があった。

 

 田䞭は初期マルクスの『経枈孊・哲孊草皿』に培底しお䟝拠し、劎働抂念の唯物論的芏定を行った点に特城がある。田䞭によれば、人間ずは、その身䜓――「人間的自然」――の欲求が「環境的自然」によっお満たされないずいう苊悩を抱えた「受苊的存圚」であり、それゆえその欠乏状態を解消しようず意欲しお劎働実践を行う「情熱的存圚」である。人間は具䜓的実践においお垞に自然から吊定を突き付けられ、ゆえに「唯物匁蚌法においおは、「統䞀」は䞀時的、暫定的、盞察的であり、矛盟こそが絶察的であり、その発珟ずしおの運動や発展が絶察的である」ず述べられる。
 『珟代思想 特集「陰謀論」の時代』所収、栗田英圊「革呜理論ずしおの陰謀論」、以䞋倪字は安田による

 

 田䞭ずいうのは、戊埌のマルクス研究者のなかでもその独孊による高い達成ず、劎働による生涯を通じた実践によっお特異な存圚感を攟぀、田䞭吉六1907-1985のこずである。
 その田䞭が䟝拠したずいう『経枈孊・哲孊草皿』ずいえば、そこに収録されおいる疎倖論が巻き起こした䞖界的論争によっお぀ずに知られおいる。おそらくここでの田䞭の議論のもずずなっおいるのは、疎倖論のなかに出おくる「類的疎倖」の抂念であろう。
 そこでは、動物ず人間を切り分ける特城ずしお、自然を察象化し加工する存圚ずしおの「人間」が描かれおいる。只し、動物のように自然にすっぜりず包摂されるのではなく、自然に察峙し、自然を克服する䞻䜓性を持぀存圚ずしお「人間」が圚るずいうこずは、同時に自然からの疎倖をも可胜ずする諞刃の剣である。

 

 たしかに動物も生産をする。それは蜜蜂やビヌバヌや蟻等々のように自分の巣や䜏いをこしらえる。しかしそれは盎接に自分もしくは自分の仔にずっお必芁なものを生産するだけである。それは䞀面的に生産をするのにたいしお、人間は普遍的に生産をする。動物はただ盎接的な肉䜓的必芁に抌されお生産をするのにたいしお、人間自身は肉䜓的必芁から自由な状態で生産をするし、そしおその必芁から自由な状態においおこそほんずうの意味で生産をする。動物はただそれ自身のみを生産するのにたいしお、人間は党自然を再生産する。動物の産物は盎接にそれの身䜓に所属するのにたいしお、人間は自由に圌の産物に立ち向かう。
 䞭略
 それゆえに、たさに察象的䞖界の加工においおこそ人間ははじめお珟実的に、䞀぀の類存圚であるこずの実を瀺す。
 『マルクス・゚ンゲルス8巻遞集』所収、「経枈孊・哲孊手皿」

 

 かくしお類的疎倖ずいう悪倢は、リミットを自ら解陀した生き物、぀たり人間そのものの特性ずしおたず可胜性が担保され、次に資本䞻矩的生産関係ずいうかたちで実際に起こる。マルクスいわく、疎倖された劎働においお人間の類的本質は単なる生存のための手段に貶められ、自らの肉䜓も、自然も、霊性も、実存も疎倖され、よそよそしいものずなっおしたう。

 だが、人間は類的存圚であるこずをやめられないにしおも、少なくずも類的疎倖は他の疎倖圢態ず同様に、未来に向けお぀たり革呜が生産関係を倉化させるこずによっお解消されうる、ず『経枈孊・哲孊草皿』では瀺唆されおいた。いっぜう田䞭においおは、人間は避けがたく「受苊的存圚」なのであり、環境的自然が人間に最終的な満足を䞎えるこずは決しおなく、したがっお受苊-倉革のサむクルは氞劫的な宿呜にたで高められおいるのである。あるいはそれが疎倖論の正しい読み方なのだろうか


 いずれにせよ、「受苊的存圚」であるずころの人間は぀ねに「環境的自然」によっおは満たされないずいう苊悩を抱えおいる、ずいうのはわれわれの生掻実感からしお玍埗のゆく話だ。䞀䜓われわれ人間は、冷蔵庫や゚アコンが発明される前、衣服が発明される前、䜏居が発明される前に苊したなかっただろうか きっず苊しかったに違いない。環境的自然はそれ自䜓では人間的自然の欲求を満たしおくれない。だからこそわれわれは文明を぀くりあげた。
 栗田はこうした田䞭の「受苊的存圚」論を「矛盟察立を絶察ずする動的な二元論」ず呌ぶ。矛盟察立こそが垞態であっお、それがしかるべき䜍眮に玍たるずいうこずはあり埗ないのだ。そしお劎働者階玚による革呜も、この動的二元論の窮極の垰結ずしお䜍眮づけられる、ずいうだがさしあたっお、革呜の是非に぀いおはこのブログでは扱わない。

  むしろ本皿で述べたいのは、こうした人間芳が、シェヌラヌやゲヌレンに到る人間孊の系譜や構造䞻矩の人間芳ずかなりの䞀臎を芋せおいるこずである。次にそれに぀いお芋おゆこう。

 

 

 

 人間孊および構造䞻矩の人間芳を手際よくたずめたテクストずしおは浅田地『構造ず力』がある。浅田は次のように曞いおいる。

 

 生きた自然からのズレ、ピュシスからの远攟。これこそ人間ず瀟䌚の孊の出発点である。人間ぱコシステムの䞭に所を埗お安らうこずのできない欠陥生物であり、確定した生のサンスを持ち合わせない、蚀いかえれば、過剰なサンスを孕んでしたった、反自然的存圚なのである。
 浅田地『構造ず力』

 

 田䞭吉六のいう「環境的自然」に察応するものが、フォン・ナクスキュルのいう「環境䞖界」(Umwelt)である。そしお、浅田のいう「ピュシス」ずは、有機䜓ずこの環境䞖界ずが織り成す自然の秩序のこずを差す。

 

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「オラッ 楜園远攟だテメヌらはよ この地球っ぀ヌずころで䜏め」

 

 動物はピュシスにすっかり包摂されおいる。だが人間はそうではないずいうのは田䞭の「受苊的存圚」の議論で芋たずおりだが、『構造ず力』的にいえば、それは「はじめにEXCÉS」があったためである。EXCÉSずは「デリダのいう差延化différanceの劂きもの」なのだそうだうヌん。
 しかしデリダ云々よりも、本皿では以䞋の人間孊に぀いおのたずめを芋おゆきたい。

 

 フォンナクスキュルの瀺した、有機䜓ず環境䞖界の盞互的・円環的統䞀ずいうノィゞョン。これを人間の䞖界にもあおはめるこずの拒吊から、人間孊が始たったず蚀っおもいいだろう。シェヌラヌは、有機䜓が環境䞖界被拘束性Umweltgebundenheitを特城ずするのに察し、固有の環境䞖界をもたない人間は䞖界開攟性Weltoffenheitを特城ずするずいう定匏化を行ない、プレスナヌは、環境䞖界の原点に安䜏しおいる有機䜓を䞭心的konzentrisch、䞭心からずれおしたい自己ずの間にすら距離をもたずにはいられない人間を離心的exzentrischず呌んで、そこから各々の人間孊を展開したのである。特に、シェヌラヌが人間を「おのれの衝動䞍満足が衝動満足を超過しおたえず過剰であるような粟神的存圚者」ず呌んでいるのは興味深い。この延長線䞊に、衝動過剰Triebuberschussず、瀟䌚制床を通じたその回路付けによる負担免陀Entlastungを䞭栞ずするゲヌレンの人間孊があるこずは、よく知られた通りである。
 同曞

 

 人間孊に぀いおはちたちたず文献を揃えおいる段階なので、その成果はいずれたた別の蚘事で取り䞊げたい。ここでは、ずりわけシェヌラヌのいう「おのれの衝動䞍満足が衝動満足を超越しおたえず過剰であるような粟神的存圚者」ずいう蚀葉に泚目したい。これは、田䞭のいう「その身䜓の欲求が環境的自然によっお満たされないずいう苊悩を抱えた受苊的存圚」ずいうのず、ほずんど同じではないか
 では「情熱的存圚」――人はそうした欠乏状態を解消しようず意欲しお劎働実践を行う――に察応する箇所は 次を参照されたい。

 

 自然の秩序たるピュシスからはみ出し、カオスの䞭に投げ蟌たれた人間は、そこに文化の秩序を打ち立おねばならない。「自然の秩序は、はるかに匷力に、ホメオスタシス、調敎䜜甚、プログラム化によっお支配されおいる。人間の秩序こそが、無秩序の星desastre?の䞋に展開されるのである。」モラン『倱われた範列』この文化の秩序が必然的に、恣意的・差異的・共時的な構造、即ち象城秩序ずいう圢をずるこずを明らかにしたのは、構造䞻矩の最倧の功瞟である。
 同曞

 

 象城秩序に぀いおは、『構造ず力』では゜シュヌルが蚀語においお芋出した恣意的・差異的・共時的な構造が、レノィストロヌスによっお文化の秩序䞀般に拡匵されたものであり、このように文化の秩序を芋るずきそれを象城秩序ordre symboliqueず呌ぶ、ずしおいる。
 レノィストロヌスが「文化の秩序䞀般」ずいうずきにどのようなものを想定し、それを象城秩序ず芋做しおいたのかに぀いおは、『粟神分析甚語蟞兞』の次の蚘述がさしあたっお我々にずっおむメヌゞしやすいず思われるので、匕甚しおおく。

 

 レノィストロヌスは構造䞻矩的発想を文化事象の研究ぞ拡倧し応甚する。文化事象においお䜜甚しおいるのは蚘号の䌝達のみではない。その構造の特性をレノィストロヌスは象城䜓系ずいう蚀葉で瀺しおいる。「文化ずいうものはすべお象城䜓系の総䜓ずみなしうる。その最前列に蚀語掻動、婚姻の芏則、経枈関係、芞術、科孊、宗教が䜍眮するのである」。
 ラプランシュポンタリス『粟神分析甚語蟞兞』

 

 そしおラプランシュポンタリスは、ラカンが粟神分析においお象城的なものずいう抂念を䜿うさいには、このレノィストロヌス的意味での象城的性質をも぀秩序に、人間䞻䜓がどのように組み蟌たれおいるのかを瀺す意図がある、ず述べおいる。

 

   さきほどからやれ冷蔵庫だのクヌラヌだのず蚀っおいるのは、ここでいう「科孊」の、さらに䞀郚分ずいうこずになるだろう。
 ずもあれ、動物ずは違っお自然にすっぜりず包摂されない、自ずから自然の秩序をはみ出しおしたう人間は、そのたたでは居られず、「劎働実践」を通しお、それらの「文化の秩序」「象城秩序」を぀くり出すこずになるであろう。あるいは「劎働実践」ず「文化の秩序」「象城秩序」は些かニュアンスが違うものである、ず違和を唱えるこずも可胜だが、僕には少なくずも、その垰結するずころはほずんど同じに思える。
 すなわち、そうした営為がなければ  ぀たりもし人間が「環境的自然」に満たされ、ピュシスにすっかり包摂された存圚であったならば、我々はただほら穎に䜏んで石の槍で獣を捕らえおいるか、案倖、いただに朚の䞊にいおヘビに怯えながら朚の実を食べおいたかも知れない、ずいうこずである。

 

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 

 

 さお、ずころでこうした話を日垞的に拡げるず、「自然䜓になろう」ずか「自然に振る舞えばよい」ずいうずきの「自然」ずいうのは䜕であるのか、疑わしくなっおくる。
 ここたで芋おきたように、もずもず䞍自然で䜜為的にならざるを埗ず、「自己ずの間にすら距離を持たずにはいられない」プレスナヌ生き物が人間なのであっおみれば、そこに回垰すべき、回垰しうる「自然」など存圚しないのではないだろうか。我々は自分のぎこちなさ、䞍自然さを抱えお生きるしかないのではないか

 

 「自然に還れ」ずいうのは、ル゜ヌにずっおは、文化は人間を䞍具にするが、自然状態は、党く玠朎で正盎で生気にみちた人間をさし瀺すずいうこずを意味しおいた。しかるに、今日のわれわれにずっおは、逆に、人間のなかの自然状態は、カオスであり、芋぀められたものを凍えさせおしたうメドゥサの銖であるように思われる。
 ゲヌレン『人間孊の探求』

 

 そうであるにもかかわらず、「自然䜓」になれるず称するずはどういうこずなのか。
 ゞゞェクは『信じるずいうこず』のなかで、こうした問題を取り扱っおいる。この䞀節は以前のブログ䞋蚘でも匕甚したこずがあるが、個人的なこずを蚀えば、二十代の僕がグノヌシス䞻矩に魅了されおいる状態から脱华する決定的なきっかけずなった䞀節である。たた個人的぀いでに蚀えば、これが僕にずっお最初に読んだゞゞェクの本の、最初の章に曞かれおいたこずであり、運呜的なものを感じざるを埗ない。

 

 人間䞻矩的な芋方では、人間はこの地球に属しおいる。人間はその衚面でく぀ろぐはずで、それずの胜動的で生産的な亀換を通しお、その朜圚胜力を実珟するこずができるはずだ。若きマルクスが蚀ったずころでは、地球は人間の「無機的な身䜓」だ。われわれはこの地球に属しおいないずか、地球は堕萜した䞖界で、物質的惰性から抜け出ようずするわれわれの魂のための牢獄だずいう類の考え方は、生呜吊定の疎倖ずしお棄华される。
 ゞゞェク『信じるずいうこず』

 

 ここでいう「無機的な身䜓」ずいうのは、たさに田䞭吉六がその「受苊的存圚」論を提瀺するにあたっお䟝拠した、『経枈孊・哲孊草皿』における「人間類的存圚」――したがっおさきほども参照した――のくだりで出おくる蚘述である。
 「無機的な身䜓」は、有機的身䜓である「じぶんじしんの身䜓」を拡匵し、地球もたた「じぶんじしんの身䜓」、ただし無機的なそれであるず捉えようずする抂念であり、実際、われわれは食事ず排泄によっお地球ず垞時接続しおいるのだし、たたわれわれが生きるためには䜏居にしろ、服にしろ、自然から材料を埗、道具を䜜り出さなければならないずいう意味においお、人間は自然なしでは生きられない存圚であるず同時に、自然ずの身䜓的な境界線が曖昧な生き物である。
 ゞゞェクのいう「人間䞻矩的な立堎」は、ここではカ゜リックを倚分に意識しおいるのだが、さきほどの問いに戻るならば、人にずっおの「自然䜓」、自然なふるたいは存圚する、ずいうこずになる。それに察し、

 

 グノシスの䌝統にずっおは、人間の〈自我〉は創造されず、〈自我〉はすでにある〈魂〉が、芋知らぬ萜ち着かない環境に投げ蟌たれたものだずいうこずになる。われわれの日々の暮らしの蟛さは、自分の眪のアダムの堕萜の結果ではなく、欠陥のある魔物によっお創られた、物質宇宙そのものの構造におけるきしみの所為であり、救枈の道は自分の眪を乗り越えるずころにあるのではなく、自分の無知を乗り越えるこず、真の〈知識〉を達成しお物質的仮象の䞖界を超越するこずにある。
 同曞

 

 疎倖論は、その珟状吊定的なトヌンから「人間䞻矩-カ゜リック」よりはこの「グノシス䞻矩」に属する。実際、しばしば「共産䞻矩もたたグノヌシス䞻矩の亜皮なのではないか」ず議論されるこずがあるのは、どちらも珟状を歪んだ状態ず芋お正垞な状態ぞの回垰を䜿呜ずしおおり、たたそれが可胜であるず芋做しおいるからだ。さらに蚀えばオりム真理教はグノヌシスであるずか、Qアノンはグノヌシスであるずいったようなこずもこれはただ誰も蚀っおないかも知れないが蚀える。少なくずも䞖界芳の類䌌性は吊めない。
 ここでは疎倖が解消された瀟䌚――やがおマルクスが共産䞻矩ず呌ぶもの――ずグノヌシス䞻矩者にずっおの魂の故郷であるプレロヌマ界ずが同じ象城的座を占めおいる日本シャンバラ化蚈画 知らない子ですね  。

 

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カントリヌロヌドこの空ずっずゆけばあの星に続いおる気がするカントリヌロヌド

 

 だがゞゞェクによれば、この第䞀のカ゜リック-人間䞻矩的䞖界芳ず第二のグノシス的䞖界芳の違いはそこたで本質的ではない。なぜならどちらも「故郷、぀たり人間にずっお自然な堎所があるずいう考え方」を採るからであり、それが地球そのものであるか、別の堎所であるかの違いでしかないからである。

 

visco110.hatenablog.com

 

 さお、ここでゞゞェクは第䞉の䞖界芳を持ち出す。ハむデガヌの被投性ゲノォルフェンハむト抂念を甚いお圌は次のように語る。

 

 われわれが実はこの䞖に「投げ蟌たれおいる」ずしたら、そこでは決しおしっかりく぀ろげるこずはないのだずしたら、い぀も本来の䜍眮からずれおいお、「関節が぀ながっおいない」ずしたらどうだろう。このずれがわれわれを構成する原初的な条件、われわれの存圚の地平そのものだずしたらどうだろう。前にいた「故郷」などなく、そこからこの䞖に投げ蟌たれたわけではないずしたら、そしおたさにこのずれこそが、脱-自的に䞖界ぞ開けおいく人間の根拠だずしたらどうだろう。
 同曞

 

 これこそが、田䞭の「受苊的存圚」であり「情熱的存圚」であるずころの人間、たたシェヌラヌのいう「䞖界開攟性」Weltoffenheitを持぀生き物ずしおの人間ず同䞀氎準であり均質なものであろう。この芋方でゆけば、われわれにずっお「自然なふるたい」など存圚しない、ずいうこずになる。それはそうであろう。
 たた少し䜙談になるが、恋愛においおも人間は、動物のような自然な「愛の䜜法」を身に぀けおはおらず、その぀ど愛の䜜法を創出しなければならない、そしお女たらしモテる奎は、この「その぀ど創出する」こずがよくわかっおいる連䞭である、ずいうような立堎をラカン掟であるゞゞェクが採るのも、きょうの話の延長線䞊にある。

 

visco110.hatenablog.com

 

 *

 

 わたしは時折、自分がたたらなく恥ずかしくなる事がある。やるこずなすこずすべおが䞍自然で、ヒトずしおの軌条にほずんど就いおいない。そのくせ「道なき道をゆく」ずいうような芚悟ず䞀貫性があるわけでもない。
 僅かばかりの知識を溜め蟌んで、埗意気になっお「発蚀」し、若者にちやほやされたりされなかったり、それで結局䜕もできない無胜であるし、思玢にしおも肝心なこずは䜕䞀぀わかっちゃいない。働きも半人前だし芪孝行もさほどしおいない。うんこは臭い――ずいうような、消え入りたいような気分に襲われるずきがある。


 しかしヒトずしおの軌条など存圚しない、「自然䜓」などない、぀たりその恥ずかしさや居心地の悪さ、自分自身にたいするしらじらしさ、それこそが「われわれの存圚の地平」であり、倚かれ少なかれみんなそうだずしたらどうか。

 そのこずを受け入れるこずが、明日からたた生きおゆく、そのおが぀かない足どりの最初の䞀歩になるのではないだろうか   ずいうこずが、少なくずも今回みおきた埡歎々の思想からは蚀えそうである。

 よかった。生きおおもいいですか。

 

 

 

 本皿では別の版を甚いおいるが、暙準的な日本語蚳ずしおいちおう、田䞭吉六によるこの岩波文庫版をお薊めしおおく。