離婚、脳死、遡及的決定
いっとき「告ハラ」(告白ハラスメント)という言葉が流行った。いやそれほど流行ってもいないのだが、ようは告白というのは相互の好意の最終確認であって、あくまで儀礼的なものであり、ダメもと、あるいは自己満足で想いのたけをぶちまけるのはハラスメントである、というような話だ。
その是非については「まあ場合によりますね」としか言いようがないのだが、それにしても最終確認のつもりがとんだ一人よがりだった場合は「告ハラ」になるのか、あるいはやぶれかぶれの告白が存外にも受け入れられた場合はそのかぎりではないのか、といった疑問が生ずる。
つまり「告ハラ」かどうかは告白する者の内心に関わりなく、他者によって策定されるものなのだ。この論理を認めるならば、我々は告白をするかぎり、どのような内心であろうと、またどれだけ相思相愛の状況証拠が揃っていようと(実際、恋愛における"脈あり"判断ほど勘違いの多いものはない)ハラスメントを犯してしまうリスクを背負うことになる。
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ジジェクもこうした議論をずっと以前に書いていた。彼によれば、ある"口説き"がロマンチックな求愛なのか、不快な嫌がらせなのかは、口説いた時点ではどちらとも言えず相手がどう受け取るかによって遡及的に決定されるのだ、という。いわば口説く者は、自分がしたことの意味を相手に委ねるしかなく、しかも反応が帰ってくるまで、その宙吊り状態に耐えなければならないのである。
この「遡及的決定」というのは、他のさまざまな場面――たとえば離婚についても当てはまる。ここではゆうて瞬間で終わる告白ではなく、結婚生活まるごとが「遡及的決定」の人質となっている。
離婚には、つねに遡及的な視点がある。それは、結婚が、現時点で破棄されるということだけを意味するのではない。それが意味しているのは、はるかに根源的なことである――結婚は、それが真実の結婚ではなかったのだから、破棄されるべきなのである。
(ジジェク『終焉の時代に生きる』、太字は安田による)
離婚というある時点の決断によって、それが真実であったとか、いやそうではなかった、と意味を変えてしまう結婚とは一体何なのか。
ようするに初めから誰が真実の相手かなどという正解などなく、我々はただ生まれ年だの、地域だの、出身階級だの、お気に入りのマッチングアプリだのといった蓋然性の影響を受けつつガチャを回しているだけである、というのが実際のところなのだろう。
ただ、そうは言っても人は人生の物語を紡ぐ生き物であり、都度に過去の再解釈を行なうことによって、明日からまた前へ進む――あるいは少なくとも正気を保っている。そのためには、破局した結婚生活は偽りの結婚生活でなければならないし、嫌いな人物はマキャベリストかつサイコパスな自己愛性人格障害者でなければならない。そして「結局のところわが家が一番」でなければならないのである。
ちなみにジジェクは、遡及的決定を政治にまで拡げている。
そして、おなじことが、ソヴィエト共産主義にもあてはまる。ブレジネフの「停滞」の期間に、ソヴィエト共産主義は、「その潜在力を消尽し」、「もはや、あたらしい時代にそぐわなくなった」と言うだけでは、あきらかに不十分である。その悲惨な終焉が証明しているのは、ソヴィエト共産主義が、そもそもの初めから、歴史的な行きづまりにとらわれていたことである。
(同書)
いやはや、離婚とソヴィエトに共通するのは「終わり悪ければすべて悪し」といったところか。
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こうした「遡及的決定」の例を最近、意外なところで見つけた。
それは脳死判定において人はどの時点で死んだと言えるかという議論の中にあった。もっとも、僕が読んだのは1988年の『現代思想』誌上とたいへん古い議論なので、脳死判定のプロセス自体は今日ではより精密化されているだろうが、ともあれ基本的な論点は大変興味深く思えた。
そこでは、つい先日亡くなった立花隆がピンピンしていて、日本医師会の生命倫理懇談会の報告書に対して痛烈な批判を行なっていた。なんでも報告書によれば、脳死による死亡時刻は「認定時」とそこから六時間置いた「確認時」の二つが併記されているが、立花隆によれば「そんなことでは全然脳死の本質が分からない」ということらしい。
立花隆と懇談会のメンバーであった中村雄二郎の激しい応酬は、基本的に和気あいあいとしている『現代思想』の対談のなかでは異色のものだが、ともあれ当時の脳死判定というのは、まず五項目の機能チェックをして脳機能が停止していることを「認定」する。そして六時間経っても機能が回復しない場合に、その停止は不可逆のものであるとして脳死を「確認」するというものであった。
立花の批判は、「認定時」を死亡とするのはあきらかにおかしい、実際に認定時から確認時の間に蘇生するケースもあって、そのために六時間あいだを置いているのではないか。だとしたら実際に死んだのはその六時間のあいだのどこかかも知れないし、あるいは認定時より以前という可能性もある。つまり「認定時」と死亡時間の関係はどこまでも恣意的である。そもそも六時間というのも便宜的なものに過ぎない。そういう雑なことでいいのか、というようなものであった。
それに対し、中村は次のように反論している。
不可逆性というのは妙な言葉でしてね。人間は必ず死ぬということでは不可逆なんだけれど、それを脳死みたいな場面に適用すると、とにかく六時間たった時点で不可逆であったと言えるだけで、それは十二時間にしたところで同じことなわけです。ですからこれはプラクティカルな意味しかない。今までの経験上、大体六時間たったら大部分がそのまま不可逆になる、ただそれだけのことです。
(『現代思想 特集:脳死 テクノロジーの臨界』所収「死の輪郭線」)
両者の立場の違いはあきらかである。あくまで死の瞬間の厳密な策定を求める立花と、現場のガイドラインとして作ってるんですから無茶振りやめてください、という中村、といったところか。
ともあれ、当時の脳死判定がこのようにして、いったん機能停止を認定してから一定期間放置し、そのうえで遡及的に死を確認する――というものであるのは意外だった。
そういえば、病院で母方の祖父の死に際を看取ったさいにもこうしたタイムラグがあった。
二十年ほど前、いよいよ今夜がヤマということで家族全員で病室に集まったのだが、深夜になってもなかなか亡くならないので、僕一人が夜通し見守ることになった。
医者は30分に一度くらいやって来てはチラっと見て、「まだ死んでないな」という感じで去って行くのだが、夜も明ける頃にとうとう、祖父が目の前で死んだ、というか死んだっぽかった。
その時、祖父はにわかに呼吸が乱れたかと思うと、最後に一声「ウッ」と小さく呻いて、やや眼を見開いて息を吸い込んだところで呼吸が止まり、なんだか微妙に全身が硬直したように見えた。
「これ、いま死んだんじゃないの?」と僕は思った。
唖然としていたら、それから10分ほどして医者がやって来て、あれこれ確認し「〇月〇日〇時〇分、ご臨終です」みたいなことを言ったと記憶している。
つまりそこには10分ほどのズレがあって、その10分間、祖父は肉体的な死と医学的な死の間をさまよっていたわけである。命の終わりもまた、遡及的に決定されるのだ。
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さてこういう話を一般的な教訓、なんか役に立つコトバに落とし込むというのは、ちょっと難しいのだがなくもない。
僕は漠然とこう考えている。つまり恋愛だとか、あるいはその他の人生の決断に関することなら何でもいいんだけど、物事には「潜在的な流れ」というのがあって、それは付き合うだとか別れる、何かを始める、やめる、転職する、しないといったある時点での決断が掬い上げることによってはじめて顕在化し、まるで元からそうなる宿命だったかのように強く現実に影響を与える反面、もし掬い上げなければ、掬い上げないなりの成り行きが宿命であるかのごとく振る舞うものなのだ。
その決断において自由意思がどの程度働くのかはわからない――たとえば破局しかかっているカップルが意思と努力でなんとかなるというのは基本難しいことのように思える――が、いま潜在的に何が進行しているか、自分と周囲の環境がどうなりつつあるか、どうなってゆく誘因に晒されているのか――について意識することは、あるいは何か賢明な判断、早い処方に繋がるかも知れない。
もっとざっくり言うと、人生で一度くらいは、遡及的決定について頭の片隅に入れておいて良かったと思える場面があるかも知れない。とまあそんな感じなのでありました。あしからず。