最後の取引き(バーゲニング)について
キューブラーロスの『死ぬ瞬間』(もっとも、On Death and Dyingという原題は死ぬ「瞬間」というより「死とその過程」というほうが正しく、改訳版の訳者も指摘するように、ロスの基本的主張は「死とは長い過程であって特定の瞬間ではない」というものである。が、最初の邦訳が「瞬間」と訳しそのまま定着してしまったらしい)における「死の受容への五段階」はよく知られている。それによると、人は不治の病などで死が近いことを知ったとき、次のような反応を段階的に示すという。
第一段階:否認(そんなことが自分に起こるはずがない、何かの間違いだ)
第二段階:怒り(なぜ自分がそんな目に遭わなければならないんだ!)
第三段階:取り引き(せめて○○をするまでは生きさせてほしい)
第四段階:抑鬱(すべては手遅れだし、自分は無力だ)
第五段階:受容(仕方がない、諦めて受け入れよう)
といっても、あらゆる患者がこれらの段階すべてを経験するわけではないし、二つの段階が同時進行したり、順番が入れ替わることもある、という。
ロスは死を目前にした患者たちへのインタビュー(これにはかなりの反発もあったしい)を繰り返すなかでこのような見解を練り上げ、結果1969年に刊行された『死ぬ瞬間』は世界的ロングセラーになり、現在でも「ターミナルケア(終末期医療)の『聖書』」と呼ばれている。
さて、この「死の受容への五段階」をロスは均等に力を入れて述べているわけではない。というのも、「取引き」(bargaining)と呼ばれる段階は、他と比べてきわめて簡略に扱われているのである。他の四つの段階についてはそれぞれ数十ページが割かれているのに対し、「取引き」に関してはたった三ページ半しか割かれていない。
この素っ気なさに逆説的に謎がある、とまで言うつもりはないが、「取引き」と呼ばれる段階にたいする関心がどこかすっぽかされたような気がして、それならば自分なりにちょっと考えてみよう、というのが今回のブログの趣旨である。
*
では「取引き」を扱った、一章というにはあまりにも短いその章には何が書かれているのか。
「取引き」とは、否認や怒りの段階のあとに「避けられない結果を先に延ばすべくなんとか交渉しようとする段階」だという。ロスによれば
たいていの場合、願うのは延命であり、その次に、二、三日でも痛みや身体的な苦痛なしに過ごさせてほしいということである(中略)だから、「もしそのための延命がかなったならばそれ以上は望まない」という暗黙の約束をすることになる。
(E・キュブーラー・ロス『死ぬ瞬間』、太字は安田による)
また、
ほとんどの取り引きの相手は神であり、たいていは秘密にするが、言外にほのめかしたり、牧師にだけは話したりすることもある。
(同書)
という。
たとえばあるオペラ歌手の患者は、死ぬ前にもう一度だけ舞台で歌いたいと願った。また結婚を控えた息子がいる女性は、「せめて結婚式に参列するまで生き延びることができたら何でもします」と哀訴した。あるいは僕の知人は「年老いた認知症の母にだけは自らの死を隠し通したい」、つまり僅かでいいから母より長生きするか、少なくとも母が何もわからなくなるまでは粘りたい、と言っていたがこれも「取引き」の一種だろう。
こうした限界的な状況での「望み」は、日の出のような若者が抱く「望み」とはまったく質が異なる。健康な若者の望みは平均してもっと大きく、多岐に渡るであろう。それに比べ、もう一度だけ歌いたいとか息子の結婚式に参列したいといった望みは、きわめて慎ましく妥協に満ちたものである。
彼(彼女)らはもはや多くを望めない。その命を抵当にした最後の望みは、健常者であれば例えば有給休暇を取得し友達と鱒釣りに出かけたあとに一杯飲みたいなという程度の、さほど実現の難しいものではない。ここで皮肉にも、「取引」(bargaining)に含まれる「見切り品」(bargain)という別の用法が頭に浮かぶ。実際、バーゲニング期における抵当としての命は、健常者から見ればあまりにも安い値がつけられてはいないか。
だが、だからこそ彼(彼女)らの望みは具体的で、曖昧さの入り込む余地がないとは言える。翻して云えば、すぐ死ぬ予定のない者の抱く望みは、ただ漠然と思っているだけという場合が多いのではないか。
念のために云うと、漠然と思っているのが駄目だと言いたいわけではない。ただ限界的な状況のなかで出てきた、具体的かつ切り詰められた「望み」のほうにこそ、ひとりひとりの人間が自らの生の意味を策定してゆく、そのリアルな過程が可視化されるのではないか。僕が「取引き」に関心を抱くのはそのためである。
手垢のついた言い方をすれば「今日という一日は昨日死んだ人が生きたかった一日である」というようなことかも知れない。死の迫った人の話を聞いて自分も一日一日を大切に生きよう、みたいな。なんだかそうやって書くと当たり前の話をしているだけのような気もしてきたが。
「取引き」は「否認」や「怒り」と比べるとそれほど顕著ではない、とロスは言う。この章が短い実際の理由は、誰もがそのような「望み」を抱くわけではないし、またはっきりと抱くわけでもない、ということなのだろう。
僕の乏しい見聞からしても、死期の迫った病人が必ずしもなにかしらの「取引き」を試みるわけではなく、ただ粛々と、あるいはぼんやりとその時を待つ人も多いように見受けられる。「取引き」を試みるのは、それなりに意思明瞭なというか、死を目前にしても現実との精神的関わりを持ち続けるタイプの人間なのだろう。僕自身も案外どうでもよくなるタイプという可能性は大いにある。
*
さてオチというのではないが、患者の「望み」が適ったその後について触れておくと、ロスいわく取引きの「約束を守った」患者は一人もいないそうである。
最後に一度だけ歌いたかったオペラ歌手は、その願いが適うとさらにもう一度歌いたいと言い出したそうである。実に人間くさい。
「せめて息子の結婚式に参列したい」と願った母親はどうなったのか。彼女は自己催眠の方法を教わり、数時間だけ痛みを抑えるすべを身につけて結婚式に参列したという。
結婚式の前日、病院を後しにしたときの彼女はとても魅力的な婦人というふうで、この婦人が本当は重病人だなどとはだれも信じられなかっただろう。彼女は「世界中でいちばんの幸福者」であり、輝いて見えた。「取り引き」によって得た時間が終わってしまったら彼女はどういう態度をとるのだろうかと、私は思った。
彼女が病院に戻ってきたときのことを私はけっして忘れないだろう。彼女は疲れた様子、いや疲れ果てたという様子だった。そして私が「お帰りなさい」と声をかける前にこう言った。「私にはもう一人息子がいるのを忘れないでね!」
(同書)
……図々しい。人間はなんと図々しい生き物なのだろう!
彼女が次男の結婚式まで生き長らえられたかどうかは書かれていない。しかし、もし生き長らえたとしたら、きっと彼女は「孫の顔を見るまでは生きていたい」と言い出しただろう。
だが、この種の図々しさ以上に微笑ましいものが他にあるだろうか?