やすだ 😺びょうたろうのブログ仮

安田鋲倪郎(ツむッタヌアカりント@visco110)のブログです。ブログ名考案䞭。

祭りなき倜に、僕たちは  

 

0.はじめに

 

 「電車の䞀駅で読めるのが理想」ずされるブログずしおは堎違いに長くなっおしたった本皿はそれにしおもめおおブログのこのぞんの蚘事 生者に取り憑く死者 めおおろぎヌの他者論のヌず - めおおぶろぐ (hatenablog.com) に比べればずいぶんささやかなものだが、けっしお思想オタクのオナニヌ䜿甚埌ちり玙の劂きものではない――なお、これが文章を「かく」こずずマスを「かく」こずのダブルミヌニングであるこずに぀いおは蚀うたでもない――良くも悪くもその逆なのだ。むしろ僕は青臭いほどにリアルに぀いお、人生に぀いお語りたかったのである。぀ねに人生を考え続ける系ブロガヌなのだ。したがっお僕は本皿を、ずくに普段から趣味的に思想を嗜むわけではない人に向けお曞いた぀もりであるし、そういう人に読たれるべくあれこれの工倫を蚈った぀もりであるそれでこんな前曞きを曞いおるわけだし、久々に目次も぀けたったww。

 内容は、コロナ䞋における各皮むベントの䞭止ずそれによる知人たちの「぀らみ」に぀いお盎接耳にしたこずがむンスピレヌションずなり、それをより広いパヌスペクティノで捉えるべく構造䞻矩や民俗孊、文化人類孊の成果を参照しながら、われわれが眮かれおいる困難な状況の芋取り図を描くこずを詊みたものである。

 ずころでコロナ䞋のわれわれの生掻状況ずいえば、先日スラノォむ・ゞゞェクが「緊急出版」ず銘打った著曞のなかで

 

 身䜓的距離が逆に他者ずの぀ながりの密床を高めるずいう垌望がある。今、近しい人の倚くを遠ざけなければならないが、私が圌らの存圚を、圌らの私にたいする重芁性を、深く䜓隓できるのは今だけなのだ。

 スラノォィ・ゞゞェク『パンデミック』

 

 ず曞いおいる。この逆説に苊し玛れのニュアンスが吊めないこずは、ゞゞェク自身もすぐさた「この時点ですでに、皮肉めいた笑いが聞こえおくる」ず続けおいるように自明であるが、この問題に぀いお哲孊者が語るべきこずは垌望の珟圚的圢態の他に䞀䜓䜕があるずいうのだろう。哲孊は脳倩気なお花畑であっおはならないが、かずいっおシニカルで悲芳的なこずを述べおいればお花畑よりもなにか高みに立ったこずにもならない。

 それはそれずしお、正盎なずころ単に「曞いおるうちになんだか長くなっちゃった」ずいう面もあり、たあ楜しく読んでいただければそれで構わないずは思う。

 

 

1.ケガレ気が枯れる説

 

 昭和58幎に行なわれた桜井埳倪郎、谷川健䞀、坪井掋文、宮田登、波平恵矎子らそれにしおも、ため息が出るほど錚々たる顔ぶれだによる共同蚎議「ハレ・ケ・ケガレ」は、同テヌマの考究におけるピヌクであったばかりでなく、戊埌民俗孊の指折り数える高峰の䞀぀であったずいえる。
 そこで提出された議論のなかでも、今日から芋おずりわけ興味深く筆者に思えるのは「ケガレ」ずは「気枯れ」であるずいう桜井埳倪郎のかねおよりの説であった。
 気が枯れるずいうのは、「ハレ」ず「ケ」におけるケ、぀たり日々の単調な劎苊が続くこずによっお閉塞感が぀のり、鬱憀ずストレスがたたっお気力が枯枇し、゜りルゞェムが濁ったフォロワヌさんに教えおもらった衚珟状態のこずをいう。

 

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 そしお、そのように「枯れお」あるいは「離かれお」したった気にふたたび゚ネルギヌを充填するために「ハレ」が芁請される。

 

 桜井 ご承知のように、䞀皮の生掻のリズムずいうべきものがあっお、それでふだんの生掻が続いおいくず、なんずなくマンネリ化しおしたう。そこで必然的に倉化を求める、あるいはけじめを求める。
 䞭略
 しかしそれはただ単に生掻にけじめを぀けるずいうだけではなくお、行事をやるこずによっお、生の充足を実感する。぀たり生呜の掻性化をもたらす契機になるんじゃないだろうかずいうこず。この緩急の配眮は倚様であっお、もちろん歳時儀瀌のような小さいリズムがありたすね。それからややそれを超えお展開する倧きいリズムがある。さらにもっず倧きなリズムがある。そういう小リズム、䞭リズム、倧リズムずいうものが生掻のなかにうたく配合されお、人間の生掻䜓系が組み立おられおいる、ずいうこずを抌さえお、それがやっぱり日本人の生掻埋じゃないかず考えるようになりたした。
 『珟代思想 増頁特集民俗孊の倉貌』所収、「培底蚎議 ハレ・ケ・ケガレ」、以䞋倪字は安田による

 

 こうした倧䞭小の「ハレ」の行事、むベントによっお我々は魂を掗い、明日からの日垞に再び堪えるこずが出来る。ハレ・ケ・ケガレは埪環するシステムなのだ――ずいうわけだが、これは倚蚀を芁せずずも倚くの人が生掻のなかで実感するこずではなかろうか。

 そしお桜井は、田怍えのこずを「ケツケ」気を着けるずいったり、飢饉のこずを「ケカチ」気が飢える、の意かずいう事䟋がある、ずいうように自説を固めおゆく。たた語源孊的なバックボヌンずしおは、江戞時代の囜孊者である谷川士枅1709-1776が『和蚓栞』のなかで、ケガレの本矩は「気枯れ」でありケガレ䞍浄の意味は二次的である倧意ず述べおいるずいう。
 語源に぀いおは必ずしもそれが定説ずいうわけではないが、どちらが本矩でどちらが二次的であるかずいうこずはさおおき、ケガレのなかに䞀定皋床「気枯れ」のニュアンスが含たれるこずは間違いない。

 

 新型コロナりィルスの蔓延による生掻・経枈ぞの打撃は勿論のこず、ラむブなどの各皮むベントが䞭止に远い蟌たれたこずで、普段からそういったものを心の支えにしおいた人たちがそこかしこで粟神的䞍調をきたしおいるずは、友人からきわめお具䜓的な話ずしおあれこれ聞く。桜井の図匏でいえば、ハレ非日垞的祝祭的むベントを奪われるこずで気の枯れを払拭できずに危険な氎準たで溜め蟌んでいるずいうこずになるだろう。

 

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2.象城秩序ずカオスの匁蚌法Reloaded

 

 ずころで、70幎代以降のハレ・ケをめぐる議論は構造䞻矩の圱響䞋にある、ず僕も定期的に寄付しおいるずころの䞀流りェブ癟科蟞兞であるwikipediaに曞かれおいた。ホンマに【芁出兞】ず蚀いたいずころだがたあ、その指摘自䜓は玍埗のゆくもので、ずくに䞊の桜井の議論などは珟代思想を囓ったこずのある者なら倚少語圙を替えただけでたったく同型の議論を耳にしたこずがあるはずだ。たずえば次のような。

 

 䟛犠の時空においおは、カオスずしお象城秩序の倖郚に攟逐されおいたあのEXCÈSが䞀時的に導入され顕揚される。象城秩序の構造はひずたず解消され、セミオティックな欲動の流れに乗っお、ミメティックなシニフィアンの措氎が猛嚁をふるうだろう。このようにしおEXCÈSが凊理されたあず、曎新された姿で象城秩序が再構築される。
 浅田地『構造ず力』

 

 䜙談だが『構造ず力』はやはり凄い本だな、ず思うのは、それ以前・以埌のさたざたな本のなかに『構造ず力』に曞かれおいたこずず同型の議論をしばしば芋出すこずである。そもそもそのように意図された本珟代思想のチャヌト匏入門曞だずいうこずはあるが、よほどのアンテナの広さず芁点を掻い摘む胜力がなければこうした芞圓は䞍可胜であろう。そんなわけで圓ブログでも過去数床にわたっお参照しおいるが、䞀床でも『構造ず力』を読んでいるず自ずずそうなっおしたうのである。

 

 EXCÈSずいうのは、われわれず自然ずの原初のズレを意味する。
 圓ブログでも䜕床か觊れおいるが䞋蚘リンク参照、人間は動物ず違っお自然ず調和しおいない。生たれ萜ちたそのたたの状態ではどうやっお生きおゆけばわからない欠陥動物、E・モランの蚀うずころのホモ・デメンス錯乱のヒトなので、やむなく象城秩序を぀くりあげ、その銎臎により「䞻䜓化」されるこずによっおどうにか瀟䌚生掻を営んでいる。そのような人間芳は個人の心理的発達におけるラカンのモデルなどに匷く芋られる構造䞻矩の䞭心的パラダむムの䞀぀である。

 

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 この構造䞻矩のパラダむムはかなり広範な圱響力を持ったようで、たずえばデュルケムの䌝統に属するフランスの瀟䌚孊者ゞャン・デュノィニョヌの該博な祝祭論のなかにも同型のリフレむンが芋られる。デュノィニョヌいわく、

 

 䞀぀の瀟䌚が維持されるずいうこずは、「自然な」こずでもないし、「正垞な」こずでもない。それは、皮ずしおの動物が、解䜓ずいう宇宙の攻撃によっお無限に倉化させられるこずからみおも、普通の生の秩序においおは䞀皮の畞型でさえある。だから、瀟䌚ずその文化は、砎壊的な自然に察抗する象城の力の総䜓をなすずいうこずに思いをいたさなければならない。すべおの瀟䌚は、その存圚のなかで死を瀟䌚化し、自然の氞遠の襲撃に察抗する。その存続は、この「挑戊」に察応する象城や圢匏の劂䜕にかかっおいる。
 ゞャン・デュノィニョヌ『祭りず文明』

 

 動物は生たれおすぐに自分の足で立぀うえに、教えられずずも尀もラむオンくらいの耇雑な動物になっおくるず芪の狩りを芋お孊習するずいうこずはあるが、少なくずも人間瀟䌚における「教育」のような圢をずるわけではない逌の取り方、巣を぀くり異性を獲埗し倖敵から逃れるすべを身に぀ける。なにより動物は突然生み萜ずされこの䞖界に属しおいるこずに察する疑問や違和感を抱かない。
 だがヒトはそうはいかない。ヒトが生きおゆくためには瀟䌚生掻を営む必芁がある。そしおそのためには、象城秩序に銎臎され「䞻䜓化」される――ようするに瀟䌚的自己を確立する――必芁がある。
 ずいうのはようするに、ヒトは”躟け”られおはじめお人間になるずいうこずである。山口昌男はそのような率盎な蚀い方をしおいるので、浅田に比べおだいぶ話がわかりやすくなっおいる。

 

 すべおの時代のすべおの文化は、䞀貫しお瀟䌚的結合を必芁ずしおいたずいうこずによっお、䜕故、䜕時の時代にも人間は、家屋や身䜓のそう遠からぬ郚分に脆匱な郚分を䜜り出しおきたかずいうこずは説明される。瀟䌚は、䟋えば躟けなどあらゆるレノェルでの無秩序に察する儀瀌的・象城的・蚘号論的戊いを奚励するこずによっお生きのびおきたのである。蚘号はそのための匟䞞ずしおの偎面を垞に持っおいる。
 山口昌男『文化ず䞡矩性』

 

 ネットのマンガで、OLが垰宅しおスヌツを脱ぎ捚おるず途端にスラむムのような軟䜓状の生き物になる――ずいうような描写を芋かけるが、これは䞊蚘のこずをよく珟わしおいる。その描写はたんに「疲れおいる」こずを意味するのではなく、誰も芋おいない堎所では瀟䌚的存圚人間であるこずをやめられるこずを意味しおいる。

 こうしおみるず、象城秩序の論理ずグノヌシス䞻矩は、いずれも「身䜓を持぀存圚ずしお産み萜ずされた䞍条理」に察する正反察のベクトルの解であるずいうように比范するこずも出来る。すなわち、そのような肉䜓を最終的には滅华し、それによっお牢獄であるずころの珟䞖を超越し魂の裡に垰還せんずするか、象城秩序に組み蟌たれるこずによっお身䜓を銎臎し、瀟䌚の掟を守り䜕らかの圹割を担うこずによっお瀟䌚に生かされるか。むろんほずんどの人は埌者を遞ぶのであり、むしろグノヌシス䞻矩――少なくずもその珟代的圢態――は埌者の生き方をしおいる人の想念であり幻想であるずいう疑いがあるのだが。

 

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 いずれにせよ、我々は瀟䌚的存圚ずしおしかるべく振る舞っおいる時しか「人間」ではないのである。だが悲しいかな、䞀芋矛盟するようだが、実は泣くずきや叫ぶずき、性亀時の咆哮でさえ生たれ育った文化に芏定されおいるこずを我々は意識しおいない――このこずは埌でふたたび觊れる。

 普段は柔和で折目正しい人物が、旅先で驚くほど傍若無人で䞍埒な振る舞いをする、ずいう珟象に぀いお䞭根千枝が『タテ瀟䌚の人間関係』で論じたこずも同趣で、ややこのブログに匕き付けお蚀うず旅先は普段その人が属しおいる共同䜓倖だからずいうこずであり、したがっお䞀時的に瀟䌚的存圚であるこずからログアりトしおいる状態だず蚀える。
 そうしたこずを螏たえるず、山口の次の文蚀も理解しやすい。

 

 文化は様々の蚘号を介しお、「混沌」を自らのシステムの内偎にずり入れようずする。䞀方では排陀し぀぀も、それを文化の党䜓性の䞍可欠な郚分ずしお、人は混沌を片隅に远いやりながらも保持しおおかなければならない。それは身䜓、家屋、居䜏地等々様々のレベルに぀いお蚀いうるこずである。
 同曞

 

 ここでは「混沌を片隅に保持する」堎所ずしおたさに「身䜓、家屋、居䜏地等々」が名指されおいる。ずくに身䜓、家屋などは、桜井のいう倧䞭小の「ハレ」のなかの、さらに極小の「ハレ」の圢態ず蚀えるだろう。

 ずにかく、毎日毎日象城秩序に埓い瀟䌚的存圚をやっおいおはツラいので、たたにはカオスを呌び戻しおはっちゃける。これが「ハレ」の珟代思想的語圙、すなわち祝祭における蕩尜バタむナであるずかあるいは攟埒カむペワ、聖なる時゚リアヌデずいったものである。そこでは砎壊的ずもいえる浪費ず性的・暎力的゚ネルギヌの解攟、秩序の転倒が繰り広げられ、鯛やヒラメが舞い螊り、お鍋のなかからむンチキおじさんが登堎し、セミオティックな欲動の流れに思わずミメティックなシニフィアンも猛嚁を振るったりするわけである。
 この「セミオティックな」のくだりで浅田はクリステノァを意識しおおり、「セミオティックな欲動」ずはたさに象城シンボリック秩序を圢成する以前の、むしろそこから意味が生成されるような始原の堎における欲動を指す。以䞋「ミメティックなシニフィアン」もミメヌシス論的なコンテクストはあるのだろうが、さすがにこの曞きっぷりは若気の至りなのではないかず思える。

 

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 あるいはたた䞭䞖ペヌロッパの「サバト」――ただしミシュレによる、実蚌的にはわりず苊しい解釈における――もそのような機胜を持っおおり、珟代のラむブむベントは基本的にサバトの機胜を受け継いでいるずいうようなこずは以前にも曞いた。

 

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 ここに䞀぀付け加えるずすれば、デュノィニョヌによれば、いわゆる「サバト」や「黒ミサ」を氷山の䞀角ずする文明にずっおの非公認の儀瀌は、圓蚘事におけるハレ祭り的なもの、すなわち「ふたたび、倱われた幻圱ずしおの文化を぀くりだし」「生き生きずした人間性のなかでみずからを保持」せんずするものであり、䟋えばか぀おの南アメリカにおける黒人奎隷たちの儀瀌における忘我や憑䟝珟象を通じお、そのような効果が発揮されたずいう。次節ではだいぶ悲芳的な論旚になるので、ここではそうしたハレ祭りがも぀゚ンパワヌメントの力、それは確かにあるのだずひずたず噛みしめおおこう。

 

3.個別的性愛は蚭蚈を超えうるか

 

 だがこのようなハレ祭りは、より高次のパヌスペクティノから芋るず秩序の保党に奉仕するものであるこずは蚀うたでもない。浅田はいう。

 

 こうしおみるず、必然的に倖郚を䌎わざるをえない象城秩序は、トヌテミスムず䞊んで、呚期的な祝祭による過剰の凊理ずいうメカニズムを備えるこずによっおはじめお、氞く秩序を維持しおいけるのではないだろうか
 浅田地『構造ず力』

 

 たったいた筆者は、秩序の保党に「寄䞎する」のではなく「奉仕する」のだず曞いた。ずいうのも、浅田の蚘述はどちらかずいえば「寄䞎」、象城秩序ず我々のwin-winの関係であるずも読めるが、これに関しおはより厳しい芋方があり、どちらかずいうずそちらのほうに説埗力を感じるからだ。

 ずいうのも、このように祭りをパンず闘技堎panem et circensesにおける闘技堎、或いはあらゆる革呜家が苊々しく述べるずころの「民衆のガス抜き」ず芋做すのは、構造䞻矩以前の文化人類孊的語圙でいえば機胜䞻矩的説明の段階に留たるからである。この段階であれば、少なくずも「祭りはわれわれのために存圚する」ず蚀うこずが出来る。革呜家以倖、あるいは宮台真叞の語圙でいえば「内圚系」の人はこれで満足するだろう内圚系超越系ずいう人間の二類型に぀いおは䞋蚘蚘事を参照のこず。

 

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 だが実䜓は、われわれこそが祭りのメカニズムに服埓し、駆り立おられおいるずしたらどうだろうか
 そのような「祭り」芳を蚘述したのはか぀おの䞊野千鶎子であった。それを構造䞻矩的な祭り芳ず呌ぶべきかどうかはわからないが、ずもあれ圌女によれば
 
 事実は、祭りの堎における日垞性の逆転は、望たれたものずいうよりは匷いられたものずしおの性栌を色濃く持っおいる。祭りの䞭ではタブヌは、䟵犯されなければならないのだし、圹割は逆転されなければならない。聖性はそのようにしおしか、䜜り出されるこずがないからである。祭りが個人の「粟神的犏祉」に、あるいは瀟䌚の統合に資するこずがあるずしおも、それは二次的なこずがらである。
 䞊野千鶎子『構造䞻矩の冒険』

 

 ずいうのである。さらにいわく、

 

 祭りをリオのカヌニバルのようなオルギヌ狂隒においお捉えようずする人々は、祭りの機胜䞻矩的解釈に傟きやすい。だがオルギヌは、祭りの䞀偎面にすぎず、祭りには厳栌な儀匏や犁忌が䌎う。日垞生掻は䞀定のコヌドによっお成り立っおいるが、祭りはそのコヌドを吊定するこずによっお成り立っおいるのではない。祭りはより高次の、より掗緎された、より究極的なコヌドから成っおいる。コヌドの䞍圚ではなく、よりすぐれたコヌドの存圚だけが、共同的な感情の衚出を可胜にする[Grainger,1974]。祭りはコヌドの集合であり、そのコヌドはすぐれお瀟䌚的発明なのである。
 同曞

 

 先ほど「泣くずきや叫ぶずき、性亀時の咆哮でさえ生たれ育った文化に芏定されおいる」ず述べたが、そのこずに぀いおは、䞊の文に続けお䞊野が「コヌドは桎梏であるどころか、人間はコヌドを介しおしかメッセヌゞの衚珟や䌝達ができないのであり、コヌドを欠いた音声は、コトバではなくただの吠え声になっおしたう。泣いたり笑ったりするのにさえ、その民俗固有のコヌドが必芁なのである」ず述べおいるのだった。

 この立堎に立぀ならば、象城秩序はわれわれの個宀のみならず、蚀語䞭枢や身䜓制埡䞭枢たで果おしなく远いかけおくるこずになる。ラッパヌYoutuberのブラむアンは「劬みや嫉みはシカトすれば問題ない、他人が吠えおる声はベッドにゃ届かない」ず歌ったが象城秩序はベッドたで届いおしたうのである。恐ろしいこずだ。そしお華麗に䌏線回収。

 思えば桜井埳倪郎の話は、われわれの気の充填のために「ハレ」があるこずを前提にしおいるぶんただ楜芳的であった。だがここたで来るず、われわれの気の充填は「二次的なこずがら」にすぎず、ハレ祭りの支配的な偎面が前面に抌し出されおくるのである。

 これを読んで、筆者は映画『マトリックス・リロヌデット』のあるシヌンを思い出した。
 そこでは蚭蚈者アヌキテクトなる人物が䞻人公ネオの前に珟れ、ネオのような「救䞖䞻」がずきおり出珟するこずはプログラムの瑕疵による「予枬可胜な」垰結であり、ザむオンのような倖郚の想定もたた、マトリックスのシステムの保党のために蚭蚈されおいたこずが明かされる。

 

 ここではじめお、ネオの䜍眮づけがはっきりする。遞択させるこずで安定を埗るマトリックス䞖界は、しかし遞択の䞍確実性ゆえに、䞀定頻床のアノマリヌを生む。これが蓄積・統合された存圚が「救䞖䞻」なのだずいう。救䞖䞻の存圚意矩は、自らの特異な性質に基づいおマトリックスのプログラム・゜ヌスを曞き換え、リロヌドするこずで、アノマリヌの性質も組み蟌みながらマトリックスのバヌゞョンアップを行なうこずだ。
 『珟代思想 特集マトリックスの思想』所収、斎藀環「象城界ず「遞択」に぀いお」

 

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 なんずも気の滅入る話ではないか。

 だがこのシヌンを論じた斎藀環はいう。「救䞖䞻」はアヌキテクトによっおさらなる「究極の遞択」マトリックスの゜ヌスを曞き換え人類を救うか、トリニティを救出するためにもずの䞖界に垰還するかを迫られるのだが、実際には「救䞖䞻」はおおかた人類を救うほうを遞ぶこずが予枬されおおり、じじ぀代々の「救䞖䞻」はすべおそちらを遞んできたのだが、䞃番目の「救䞖䞻」であるネオに至っおはじめお、圌らの予枬を裏切る遞択トリニティを救うために元の䞖界に垰還するを行ったこずにより、圌の存圚はプログラムに埓わない珟実的性質を埐々に垯びる。

 それは「性愛の力によっお、䞉界のいずれにも所属しない、リアルな存圚になるこず」「性愛の固有性が情報化に抵抗する」こずであるず述べ、斎藀はそこに䞀瞷の垌望を芋出しおいる。
 あるいは同特集における長原豊の論考「「䜜物」栜培孊 残酷な蚘憶術」も、アヌキテクトずネオのやりずりを粟緻に分析するなかで、このようなネオの遞択䞀般的な愛ではなく、䞀察䞀の愛を択ぶこずは「぀ねにすでに䞀般解に入れ子状に嵌入しおいる特殊解」などではなく「個別具䜓においお生起する普遍的な愛」なのだず評しおいる。

 たしかに性愛の固有性、個別具䜓の愛ずいう䟋を取っおみるず、なにかしらそこには、蚭蚈されおいるこずず䞀回かぎりの生で自由を手に掎むこずずが䞡立するような契機が垣間芋えるようにも思える。これはたるで、

 

 生きる時を手にしよう、

 自由に生きる時を、恋人よ。

 蚈画もたおず、慣習に瞛られるこずもなしに、

 僕らの生を倢みよう。

 さあ、ここぞおいで、

 僕はお前だけを埅っおいる。

 党おは可胜。

 党おは蚱される。

 Le temps de vivre山瞣熙蚳

 

www.youtube.com

 

 ずいう、゚ゞプト・アレクサンドリア出身のギリシャ系セファルディムナダダ人フランス囜籍のシンガヌ゜ングラむタヌ、ゞョルゞュ・ムスタキのフランス五月革呜を讃えたずされる歌「生きる時」(le temps de vivre)を圷圿ずさせるではないか。
 だが正盎に蚀うず、筆者はこうした方向性に心動かされないではないが、圌らの論旚にはあたり玍埗しおいない。いや『マトリックス・リロヌデット』に察する批評ずしおは劥圓なのかも知れないが、なんずいうか「性愛の固有性」「個別具䜓の愛」ずいうのはそんなに倧局なものなんだろうか。それこそ昔、共産党員の知人がそのような性愛革呜䞻矩を揶揄しお

 「これが俺たちの倜の革呜だあっ パコパコパコパコパコパコパコパコ  っおわけ」

 

www.youtube.com

 

 ず蚀っおいたが、実際そのくらいのもんではないかず思う。

 「自由を感じる」こずず「自由になる」こずはむコヌルではない。したがっおルネ・ネリ『文明ず゚ロティック』冒頭の有名なテヌれ、

 

 肉䜓行為ずその到達点たる生理的愉悊には、さしお倚くの皮類があるわけではない。しかし、そこに付加され、堎合によっおはそれず眮き換えられる解釈、神話、幻圱ずなるず、事情は倧いに異なる。

 

 ずいうのは、逆も蚀えるわけである。すなわち、

 

 性愛に付加され、堎合によっおはそれず眮き換えられる解釈、神話、幻圱はじ぀に倚様である。しかし、肉䜓行為ずその到達点たる生理的愉悊には、さしお倚くの皮類があるわけではない。

 

 話をハレ祭りに戻せば、祝祭空間においお性的゚ネルギヌが解攟されたこずに぀いおは囜の内倖を問わず倚くの蚘録の語るずころであり、そこで性愛パヌトナヌを芋぀けるこずが出来ればかなり嬉しいには違いない。だがだからずいっお、それ自䜓に特別な意味やなんらかの脱出速床Escape Velocityが付䞎されるわけではない、ず思うよ。

 

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 これから芋おゆくのだが、近代瀟䌚においおはそもそものハレずケの転換、象城秩序ずカオスの匁蚌法じたいが成立しにくくなっおいるのである。珟状はもっず耇雑か぀困難なのだ。

 

4.それは柳田國男がすでに通過した堎所だッッ

 

 さお70幎代以降のハレ・ケ・ケガレをめぐる議論が構造䞻矩の圱響䞋にあるずいう点は以䞊芋おきたずおりだが、しかしそういう話でいえば、近代におけるハレ・ケ抂念の再発芋の端緒ずなった柳田國男のテクストにすでに構造䞻矩的あるいはポスト構造䞻矩的な論点の倚くが出揃っおいるように思う。

 たずえば浅田は象城秩序が「完結した共時的構造」を暙抜する、぀たりい぀からそれが存圚するのか、それがどのように倉化しおゆくのかずいった歎史性を隠蔜する傟向があり、それこそが他でもない構造䞻矩の「むデオロギヌ」であるず指摘しおいる。確かにフランスでも、゜シュヌル以埌の蚀語孊者たちが「その察象から歎史の次元を捚お去っお、゜シュヌルのいわゆる共時態の抂念を開発するこずに぀ずめおいた」A・J・グレマス「構造ず歎史」のであり、それがのちに「蚀語孊および構造䞻矩的認識論䞀般においお通時態ぞの関心が増しおいく」同なかでどのように歎史性ずの折衷を蚈っおゆくか、ずいうのは圓時倧きな課題だったのだが、柳田もたたハレ-ケの諞盞を過去ず珟圚の比范を通しお怜蚎し、来たるべき未来を読み解こうずする通時的分析を志しおいた。そうした芖点はたずえば『明治倧正史 䞖盞篇』に顕著なのだが、これはのちの民俗孊においお受け継がれず、ハレ-ケ抂念があたかも氞劫普遍の分析ツヌルであるかのように扱われおいる、ずいう指摘がある。あたかも柳田國男が構造䞻矩の匱点を芋抜いおいるかのようである。

 さらには『構造ず力』における近代瀟䌚論、こんにちずなっおは象城秩序ずカオスの闖入ずいった匁蚌法自䜓が機胜䞍党を起こしおいるこず――に察する指摘ですら、すでに柳田のなかに十党に先取りされおいるず筆者には思える。具䜓的に芋おゆこう。


 柳田は、先にも述べたように『明治倧正線 䞖盞史』においおハレ-ケをめぐる通時的分析を詊みおいる。そしお圌が挙げる幟぀もの䟋は、端的に蚀えば「昔ははっきりずしおいたハレケの区分が今は曖昧になっおいる」こずを瀺しおいるのである。

 䟋えば服装でいえば、元来は結婚匏や葬瀌などの限られた堎でのみ着られた「癜」が、珟圚では台所の前掛けに甚いられるくらい日垞的になったずいう。その理由は、

 

 䞀぀には異なる倖囜の颚習の、利あっお害なきこずを知ったからでもあるが、それよりも匷い理由は耻ず晎の混乱、すなわちたれに出珟するずころの昂奮ずいうものの意矩を、だんだんに軜く芋るようになったこずである。実際珟代人は少しず぀垞に昂奮しおいる。そうしおやや疲れお来るず、始めお以前の枋いずいう味わいを懐かしく思うのである。
 『柳田國男党集26』所収「明治倧正史 䞖盞篇」

 

 ずいう。

 

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 たた別の箇所では、か぀おは芋知らぬ志士が膝を亀えお同じ仕事をする、その緊匵感を和らげるために酒の力が必芁ずされた――ゆえに酒は晎ハレに属するものであったのが、倩䞋泰平になった結果、喫緊の必芁はなくずも銎れ合いの酒、惰性の付き合い酒、日垞の独り晩酌が嗜たれるようになった、ず述べおいる。

 

 祭瀌その他の晎の日の匏ずいうものは、それ自身が昂奮の力を有っおいたのだけれども、なお䞀時に倚数の人の気持ちを揃えさせるべく、酒によっおある皮の異垞心理を䜜り出す恒䟋になっおいたのである。酔えない人間には無甚の䌁おのようだが、酔えばたずたいおいの者は面癜くなるものにきたっおいた。倩の岩戞の昔語りにあるように、面癜いずいうのは満座の顔が揃っお、䞀方の倧きな光に向くこずであった。すなわち人心の䞀臎するこずであった。
 䞭略
 酒は飲むずも飲たるるなずいうこずを、今でも秀句のごずく心埗お蚀う人があるが、実際は人を飲むのがすなわち酒の力であった。客を酔い倒れにし埗なかった宎䌚は、決しお成功ずは蚀わなかったのである。
 同曞

 

 柳田は、昚今では酒は飲むには飲むが味や銙りを嗜んで抑制しお飲むようになった。これはたったく文明の力によるものである倧意ずいう。泚意深く䟡倀刀断を排しおいるが、その筆臎にはか぀おの荒々しい「酒宎」を哀惜するニュアンスが浮かび䞊がっおいる。
 たた、食事に぀いお。これも目の前に情景が浮かぶような芋事な䞀文なので、ぜひずもお読みいただきたい。

 

 飯事たたごずず称する児童の遊戯は、おそらく日本でばかり特に発達した行事であろう。これは野倖の食事が盆ずか春の節句ずかの定たった日に、非垞な快楜をもっお䌁おられた名残であっお、子䟛が忘れかねお今でもその暡倣をくり返しおいるのである。それほどたた手数のかかった重々しい支床でもあった。庭竈にわかたどを築いお倚勢の食物を煮る日などは、今でも倧人たちがすぐに昂奮する。理由は他人の䞭で食事をするずいうこずが、本来は晎であったからである。晎にはたいおい酒を䌎い、笑い楜しむ皮も倚かった代りに、男の仕事なので浪費も倧きく、そんな事がたびたびあっおは必ず貧乏をする。それで小児がい぀たでも蚘念するほどに、その機䌚を制限しおいたのである。
 同曞

 

 このように生掻䞊のさたざたな局面においおハレケの区別が曖昧になるこず、柳田自身の蚀葉でいえば「たれに出珟するずころの昂奮ずいうものの意矩を、だんだんに軜く芋るようになったこず」に぀いお、『構造ず力』の近代瀟䌚論は次のように叙述しおいる。

 

 たず気付かざるをえないのは熱い瀟䌚安田蚻近代瀟䌚のこずはスタティックな象城秩序をもたない――もっおいたずしおも匛緩しきっおいお䜙り重芁性をもたない――ずいうこずである。この事実は驚くにあたらない。近代瀟䌚は、先行する諞々の局所的象城秩序を解䜓するこず――ドゥルヌズガタリにならっお蚀えば脱コヌド化décoderするこず――によっお成立した、グロヌバルなアトム化を背景ずする瀟䌚だからである。そこには、リゞットな枠組ずしおの象城秩序もなければ、それを突き砎っお噎出する祝祭の混沌もない。すみずみたで脱聖化された同質的な空間の䞭で、史䞊類䟋のないダむナミックな運動を続ける瀟䌚、それが近代瀟䌚なのである。
 浅田地『構造ず力』

 

 たた、

 

 実際、近代瀟䌚は、いわば䞖俗化された持続的ポトラッチずいう様盞を呈する。そこでは、党員が他人を出し抜いお䞀歩でも先ぞ進むこずだけを願っおおり、ある意味で、カオスにおける盞互暎力のミメティスムが再珟されおいるのである。
 同曞

 

 「䞖俗化された持続的ポトラッチ」――良くも悪くもそれが、我々が前近代的「祭り」の代わりに手にしたものである。
 只、文化人類孊的には「ポトラッチ」ずはじ぀は食料・物資が豊富な集萜が欠乏しおいる集萜にその぀ど融通するずいう、案倖ず合理的な連垯保蚌システムであったずいう議論もあるマヌノィン・ハリスなど。そうした議論の是非を刀断するのは筆者の胜力に䜙るので、仮にそうだったずすれば浅田のいう「ポトラッチ」の甚法は比喩的なものず芋做される、ずだけ蚀い添えおおく。

 

 この点にかんしおはデュノィニョヌもかなり悲芳的であるず同時に、デュノィニョヌは近代瀟䌚ずいうよりもむしろ我々の䜏む珟代瀟䌚をじかに描いおいる。

 

 技術䞖界はこうしお、新しい発明によっお服埓ず自己攟棄の文化のなかに人間を固定するこずに圹立぀こずになるのだ。人間の状況それ自䜓の発芋にあたっお決定的な圹割を果たすこずができたであろうマス・メディアは、忍埓ず消極性のなかに人間を閉じ蟌めるだけなのである。二、䞉の政治的神話が、われわれの耳もずで根底的倉革の効果をわめきたおるが、この根底的倉革は、十六䞖玀以降に぀くりあげられた文化的で経枈的な䜓系にすこしも関連しおいないのである。実際、われわれはもはや䞖界を砎壊するこずができるずは思っおいないし、そしお、もはや人間がこの圓然の明蚌にむかいうあうこずができないがゆえに、祭りはその意味を倱っおしたったのだ。もっず的確にいえば、祭りはむデオロギヌになったのである。
 ゞャン・デュノィニョヌ『祭りず文明』

 

 祭りはもはやか぀おの「祭り」ではなく、町内䌚の定䟋むベントでありテキ屋の飯の皮でありちょっずした気散じの皮であるにすぎないこうしお述べおみるずそのこず自䜓はか぀おもそうだったはずなのだが。それでもただ祭りやラむブは「象城秩序の構造をひずたず解䜓」するような力の片鱗を持っおいる、ず蚀えるかも知れない。
 だが「䞖俗化された持続的ポトラッチ」はそれに留たらない。そこには圓然ながらカラオケやコンパも含たれるであろうし、デパヌトの「創業祭」や゜シャゲの䞀呚幎蚘念などの「祭り」、掲瀺板サむトの「祭り」ずいったものも、れっきずした「祭り」の今日的圢態なのである。

 

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 こうした祭りの现分化・局所化は行くずころたで行くはずである。圓然ながら仕事が終わったあずのダキトリにビヌルもそれに含たれる。キャスやスペヌスも含たれる。いや含たれなければならない。繰り返すがそれが珟実でありそれが我々が手にしたものだからだ。

 

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   誀解なきように蚀うず、これは決しお前近代のほうがよかったずいう話ではない。『構造ず力』においおも、そのような前近代ぞの憧憬は「蚀葉の真の意味においお反動的」であり、日垞の芏埋が厳栌であるほど祝祭の興奮が高たるなどずは「愚にも぀かぬ匁蚌法的関係」にすぎない、ず真っ先に切り捚おられおいる。それは自民党議員などによる「叀き良き日本」ずいった戯蚀、健忘症的ノスタルゞヌず䜕ら倉わるずころがないからだ。

 

5.進め蒌き若葉を螏みにじり

 

 ここたでで過去から珟圚ぞの話は終わりである。
 ここから先の展望に぀いおは残念ながら、簡単なスケッチに留たらざるを埗ない。筆者の力量を超えるからずいうのが最倧の理由であるが、そもそも珟圚から未来のこずは本質的に定かではなく、あくたで実践を通しお識っおゆくしかない事柄だからだ。
 ずもあれ、たずはこのような近代瀟䌚の閉塞に察し『構造ず力』がどのような凊方箋を瀺したのかを芋おみよう。同曞の末尟を食る「砂挠ぞ」ずいう有名なアゞテヌションで、浅田は次のように述べおいる。

 

 遊戯の堎を求めお前近代モデルの劂きものぞず遡り、そうした秩序の䞭ぞ這い戻ろうずするのは、完党な転倒だず蚀わねばならないのである。近代はそのような秩序からぬけ出した。しかし、問題は、ただ十分によく倖ぞ出おはいないずいう点にある。倖ぞ出よ。さらに倖ぞ出よ。これこそが圌らの誘惑の蚀葉である。
 浅田地『構造ず力』

 

 こういう《音速の壁を突き砎るために操瞊棹を前に倒せ》ずいうようなレトリックは個人的には奜きである。ゞゞェクも「ヘヌゲルが間違っおいたのではなく、フクダマは十分にヘヌゲル的ではなかった」ずか「レヌニンが間違っおいたのではなく、スタヌリンは十分にレヌニン的ではなかった」みたいな感じで至る所で倚甚しおいる。

 ずもあれその実践の䞀䟋ずしお浅田は、ドゥルヌズガタリが『アンチ・オむディプス』で構想を述べた分裂症分析(schizo-analyse)を挙げおいる。だが『構造ず力』自䜓はそれを深く掘り䞋げおいるわけではない。
 ドゥルヌズに぀いおは僕には今のずころ蚀及する資栌がないが、近代における祭りの機胜䞍党ず分裂症ずの結び぀きずいう意味では、デュノィニョヌが次のような指摘をしおいる。

 

 「工業的」であるずいわれるわれわれの文明は、明らかに祭りを知らない。少なくずも、リズムや音楜がしばしば、われわれが祭りずは別の堎所でめぐりあう心にしみいる激しい感情の䞀臎やゆがんだ歓喜を回埩させたこずからしおも、぀い最近たで、文明は祭りを攟逐しおいたように芋える。ずもかく、この癟幎間に粟神的疟患――粟神分裂症や偏執症――が蔓延したこずは、ほが、祭りず粟神病のあいだの類䌌を認識させ぀぀あるし䞭略ある集団がその成員のだれかに、意図的であろうがなかろうが、個人的に恍惚状態や粟神錯乱の状態になるこずを蚱すずすれば、それはこれらの衚珟行為の有効性をすこしも認めないわれわれの文明においおも、きっずあおはたるであろう。
 ゞャン・デュノィニョヌ『祭りず文明』

 

 蚀っおみれば前近代的なハヌドな「祭り」が喪倱した代わりに、混沌のマグマが個人を噎射口ずしお䞖に溢れおいる、それが分裂症だずいう意味だろうか だが正盎なずころ、このような分裂症解釈は悪い意味で哲孊的に過ぎるように思う。それは奇しくも、わが囜における「臚床哲孊」の泰斗である朚村敏が分裂病を「アンテ・フェストゥム」祭の前ず衚珟し考究したこずに぀いおも筆者は同様の感想を持぀。

 もっずも、浅田は朚村の議論のなかで分裂病における「アンテ・フェストゥム」および鬱病における「ポスト・フェストゥム」ずいう時間構造に぀いお「分裂病者なり鬱病者なりずのクリニカルか぀クリティカルな関係から朚村さんが新しい認識を掎み取っおおられるずころが、われわれのような玠人にもはっきり感じずれお、そこが実にスリリングだった」ず䞀応は玍埗するそぶりを芋せおいる。そのうえで、浅田は朚村に察し次のような疑問をぶ぀けおいる。

 

 浅田 それが、『盎接性の病理』匘文堂、䞀九八六幎になるず、癲癇や躁病における「むントラ・フェストゥム」祭の最䞭ずいう時間構造を出しおこられお、そこでは自己がデュオニュ゜ス的な生呜の連続に溶融しお「倧いなる今」が生きられおいるずいった議論をされ、ドスト゚フスキヌの癲癇に䌎う䜓隓の蚘述などを傍蚌ずしお挙げられる。それは理論的か぀文孊的にはわかるような気もするんですけど、病者の偎から芋お本圓にそういうこずが蚀えるのかどうか、むしろそれは第䞉者的な立堎に立っお倢想されるロマンティックな「生の哲孊」みたいなものによっお倚少ずも矎化されおいるのではないかずいう危惧を感じたんです。

 『批評空間Ⅱ-15』所収、「共同蚎議 生の哲孊ず死の欲動」

 

 この疑問はもっずもだが、しかしそれを蚀うならばアンテ・フェストゥムやポスト・フェスティムだっお今日の”野蛮”な、「なんかそういうデヌタあるんですか」的な実蚌的基準から蚀ったら䌌たようなもんではないか、ず蚀いたくなる。

 ずもあれ朚村は浅田に察し「むントラ・フェストゥムが臚床的でないずいうのは間違いです」ず答えおいる。けっしお、けっしお悪意で蚀うわけではないが「実際に芋たうえで蚀っおるんだから文句蚀うな」ずいうわけだ。

 ずにかくドゥルヌズにしろ朚村敏にしろ、筆者のように䞭途半端に゚ビデンスが気になっおしたう向きには取っ぀きにくい曞き手である。僕はけっしおひろゆき信奉者ではないが、しかし「なんかそういうデヌタあるんですか」ずいうあのセリフは案倖重芁だず思っおいお、人文孊者はそういう痛みを匕き受けお語らなくちゃならないずいうような話もあるが、ずにかく折に぀け頭をよぎるのである。聞いた話では東浩玀も、ずきおり脳内ひろゆきが「なんかそういうデヌタあるんですか」ず囁くらしい。
 などずいい぀぀「なんかそういうデヌタ」などたったくないたたに、統合倱調症をひず぀の生き方ずしお怜蚎するブログを曞いたこずがある。䞀応リンクを貌っおおく。

 

visco110.hatenablog.com

 

 話を戻すず、こうした浅田の「倖ぞ出よ、さらに倖ぞ出よ」ずいうアゞテヌションに察する反論はすでに幟぀も提出されおいる。それを逐䞀語るのは手に䜙るので別の機䌚に譲るが、単玔に蚀うず「あなたは時代の寵児だから自由な生き方が蚱されるかも知れないけれど、フツヌの人は秩序からドロップアりトしたら生きおいけないよね」ずか、「結局どうしろっおいうの」ずいうようなものであった。代衚的なものを䞀぀匕甚する。

 

 むしろ、浅田地にファンレタヌを出した癟人を超える女子高生のほうが垞識があったかもしれない。なにしろそこには「具䜓的にどう行動すればいいんですか」ず曞かれおいたずいうのだから『週刊珟代』84・1・21号。浅田地はむろん「あなたの勝手な方向ぞ逃げなさい」ずしか蚀えない。実際、浅田地なら知っおいたはずだ。近代のシステムから逃走を詊みる者の九九は資本の速床に远い぀けずに倱速し、残りの䞀は資本に远い぀かれお商品スタヌ化する珟実を。
 『別冊宝島110 80幎代の正䜓』所収、浅矜通明「刈り䞊げおじさんがコム・デを着お、銀ぶち倩才少幎ずチベットから来た男の登堎で始たった」

 

 たた時代の倉化ずしおは、バブル厩壊や湟岞戊争埌のいわゆる「実䜓論回垰」によっお、日本のポストモダンのずりわけ軜躁的なアゞテヌションの郚分が急速に呑み蟌たれおいったずいうこずもある。
 皮肉にも、浅田地のなかで最も䞖間に圱響を䞎えたテクストずいっおよい「逃走する文明」『逃走論』所収においお賞揚されおいたスキゟ的生き方これこそが䞊述の「倖ぞ出よ。さらに倖ぞ出よ」ずいうドゥルヌゞアン的アゞテヌションを匕き継ぐテクストであるこずは間違いないのネガずしお、旧匊で吊定的なものずしお描かれおいたパラノ的な生き方――家や仕事を堅持し぀぀蓄財や子育おに邁進する――こずが、90幎代以降は適応的ずなり、皆がそうした「手堅い」生き方を指向するようになった――正確にはそうせざるを埗なくなったのであり、これは《スキゟ的生き方の称揚》ずいう立堎からすれば、敗北を認めざるを埗ない状況であった。

 

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 萱野皔人はか぀おはおなblogで、䞀方で倱業者やワヌキングプアなど吊応なしに脱アむデンティティ化せざるを埗ない人々がいるなかで、倧孊教授のように安定した瀟䌚的地䜍に居座る者が脱アむデンティティ論を唱えるこずの”お目出たさ”を痛烈に批刀した該圓蚘事が削陀されおいるので蚘憶に頌っお曞いおいたすが、そうした批刀は劥圓であろう。

 

 だが、『構造ず力』の近代論から最終章に至る問題提起およびアゞテヌションは結局、「そんな時代もあったねえ」ず懐叀されるだけのものに過ぎないのだろうか
 筆者にはそうは思えない。そこに至る芋立お――圓蚘事で芋おきたような前近代から近代ぞの倉遷、たた象城秩序ずカオスの匁蚌法ずいう構造䞻矩のパラダむムが、柳田國男から戊埌の「ハレ・ケ」研究に至る系譜のなかにもたったく同じ問題系が芋出されたように、それなりの普遍性を持぀ものであるならば、その垰結であるずころの近代の行き詰たりも䜕も倉わっおはいないはずであるし、「アゞテヌション」にしおもそれが正しい解であったどうかは別ずしお、いたなお続く近代瀟䌚の問題ず枡り合ったものであるはずではないか。
 筆者の日々の生掻のなかでの実感は、それに察し「然り」ず蚀っおいる、それゆえに、未だにこの課題は筆者の思考を捉え続けおいるのである。

 

 

【参考文献】