やすだ 😺びょうたろうのブログ(仮)

安田鋲太郎(ツイッターアカウント@visco110)のブログです。ブログ名考案中。

裸はなぜ恥ずかしいのか?/植物🌼動物🐵ヒト👩の羞恥心


 どうもこんにちは、安田鋲太郎です(・ω・)ノ ウェーイ

 

 さて僕はたいへん研究熱心な性格なので、仕事や家事や読書の合間を縫って、いや元来ならそれらに充てるべき時間の一部まで割いて、精力的にAVをフィールドワークしています。
 それでつねづね思うんですが、AV女優って人前で脱ぐことを恥ずかしがってないように見えるんですね。
 それは一体何故なのか。慣れなのか。本当は恥ずかしいけどそうではないように演技しているのか。あるいはもともと羞恥心の希薄な人がAV女優になるのか――というようなことをつらつら考えていたら、昔、パイセンに澁澤龍彦の『エロティシズム』を貸した時のことを思い出しました。
 今ならなんということもない話だけどそこは昭和生まれの学生。『エロティシズム』に出てくる次の言葉にパイセンは強い衝撃を受けたのでした。

 

 ところで注意すべきは、花とは植物の性器である、という事実だ。
 (澁澤龍彦『エロティシズム』、以下太字は安田による)

 

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 「花って性器なんですよ。これ意外と知られてないんですけど」


 「澁澤って人すげえこと言うな」とパイセンは僕に言いました。はい純粋ですね。
 さて澁澤龍彦は次のように続けます。

 

 誕生日の贈り物に、馬や猫の性器をプレゼントしようなどと考える人間は、どこにもいないにちがいない。もしそんなことを考えるひとがいれば、気違い扱いされるにきまっているだろう。女の子は気味わるがって、逃げてしまうだろう。
 植物の性器が、色彩においても匂いにおいても、あのように美しく、しかも公然と人々の鑑賞の眼ざしにさらされているのに、一方、動物の性器が、一般に醜く滑稽なものと思われ、誰もこれについて語る者さえいないのは、よくよく考えてみると、まことに不思議なことではないだろうか。
 (同書)

 

 最近『どうぶつのおちんちん学』という本が刊行され、これなどを見たら澁澤龍彦も「ようやく動物の性器について語る者が出てきたか」と溜飲を下げるかも知れないけれど、僕の知るかぎりでは『動物のおまんまん学』はまだ出ていないので、まだ澁澤を完全に満足させるには至らないかも知れない。
 閑話休題、澁澤龍彦は植物、動物ときてさらに人間に話を進めます。

 

 これが人間の場合になると、性器の露出は法律上の軽犯罪になるのだから、植物の場合とくらべて、ずいぶん違ったものである。人間の文明は、どうやら性器の隠蔽とともに始まったらしい。アダムとイヴが前を隠したイチヂクの葉っぱは、もっとも簡単かつ原始的な人間の服装であり、おそらく文明の第一歩を象徴する小道具だった。
 (同書)

 

 われわれAVヘビーユーザーも、果たしてヒトが裸――とくに性器を隠さないまま平気でいるようだったら、わざわざお金や時間を割いてまでAVを観たりヌード写真を買ったり、不届き者であれば覗き・盗撮をしたりといったことを行おうとするかはあやしい。
 ただ、デューク大学医療センターのサル園では、アカゲザルたちにフルーツジュース(人間にとっての通貨に相当する)と引き換えにメスザルの会陰部の写真を眺めることが出来るようにしたところ、オスたちは喜んで「エロ画像」を見続けた、とのこと。

 

 ウルフガングはお尻の画像を見るのが大好きだ。お気に入りは、モデルがかかがんだポーズ、大きく脚を開いたポーズ、床に手をついたポーズの画像だ。彼はそうした画像が大好きなので、見るためなら、支払いをすることもいとわない。1日に7回支払うこともある。それでは多すぎる感じはするが、びっくり仰天するほどの話ではないだろう。しかし、驚くなかれ、ウルフガングはサルなのだ。
 (オギ・オーガス&サイ・ガダム『性欲の科学』)

 

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Monkeys like porn too › News in Science (ABC Science)

 

 ということは、「メスの裸を観たい」という心は、少なくともサルの時点ですでに始まっていることになる。
 なおオーガス&ガダムにかぎらず、男性の性欲が視覚先行であるのに対し女性はそうではない(強いて言えば関係先行である)ことはつとに指摘されているので、ここでは「男の裸を見たい女だっている」とか「別に好きでもない女の裸を見たいと思わない」(本当か?)というような指摘は、頭の片隅に入れておくに留めて本文では扱わないので了解されたい。

 

 さてそろそろ本題に入ろう。どうして我々人間は、裸とくに性器を見られるのを恥ずかしがるのか?(逆に言えばなぜそれを――とくにオスは――見たがるのか?)それについて若干の考察を加えてみよう、というのが今回のブログの趣旨である。

 

 *

 

 とっかかりとなるのは、先日ふと古書店の店先で『シェーラー著作集』の端本を眺めていた時のことだった。フッサールの弟子でありハイデガーの兄弟子にあたるマックス・シェーラーは、現象学をベースとした探究からやがて哲学的人間学を提唱するに至ったことで知られているが、彼の遺稿集にあたる最終巻(第15巻)に「羞恥と羞恥心」という論文が含まれていた。

 

 僕は「なぜ人は裸を恥ずかしがるのか」というテーマにかねてから関心があったので、さっそく買い求めて読んだところ、あの澁澤龍彦の「植物の性器がうんぬん」という記述のいわば「元ネタ」とも思えるような箇所があったのだった。
 それはシェーラー自身ではなく、ショーペンハウアーの言葉としてシェーラーが引用しているくだりだ。

 

 植物は一般にみずからの生殖器をあからさまに無邪気に、しかもみずからの存在の極地であるかのように人目にさらす。あたかもそれによって植物は、その存在の意味が徹頭徹尾生殖にのみ制限されていることを言い表そうとしているかのようである。これに対して動物は(中略)全体的にみて生殖器を「隠し」、それを作用系とこれの属する神経的中枢器官とのもとにきびしく従属させるという形で生殖器を身に具えている、というのである。
 (『シェーラー著作集 第15巻』所収、「羞恥と羞恥心」)

 

 べつに澁澤龍彦がパクったとかそういうことが言いたいわけではない、というか澁澤龍彦にちょいちょい剽窃があることは羞恥、もとい周知のことで、それを今さら追及するつもりはない。しかし花は性器でうんぬん、という澁澤の記述がシェーラーまたはショーパンハウアーの影響を受けていた可能性は高いのではないか。

 

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 澁澤龍彦が例として挙げているのはダリアだ。

 

 ショーペンハウアーはそれ以上のことも言っている。あたかも植物は生殖のためだけに存在するかのようだ。だが動物はそれに対し、生殖器を「隠し」、神経的中枢器官のもとにきびしく従属させらるという形で「具え」ているという。これは何を意味するのか。
 前後のシェーラーの議論を見てみると彼は次のように主張している。植物の生殖過程がきびしく環境と季節によって拘束されているのに対して、動物の交尾期は感情や衝動にもとづいて行なわれるのだと。
 そして、このように周期的規則性から距離を置くことによって、動物には、人間であったら「羞恥」と呼ばれるような随伴的感情活動の可能性が必然的に生じるのである。

 

 人間の性的羞恥心というのは、性欲動および生殖欲動の活動の目ざめと終止という、人間の場合弱い痕跡でしか存しない客観的リズム性に代わるところの、より不安定な感情的代償でもあることを示している。そのさいこの感情的代償の不安定性と可動性とともに、もちろんまたただちに、欲動活動に対して抑制したり譲歩したりするための、事例の個体化をいっそう強力にめざすより重要な意義が結びついているのである。
 しかしまさしく人間のもとにおいて、これらの現われの内にすでに存する羞恥の感情が、その客観的=物的な装いを漸次失っていき、そして一つの感情となるのである。
 (同書)

 

 これは思い切って単純に述べるとこういうことになるだろう。
 つまり「植物がいつ生殖するかは自然の拘束で決まり、植物自身が決めているわけではない。動物は発情期なんかもあるけれど、植物に比べるとかなり自分自身でいつ誰と生殖するかを決めている。人間は動物よりもさらに自然の拘束から自由で、ほとんどすべて自分自身でセックスをコントロールしている。だがこれは逆に言えば、自然の拘束に任せることが出来ないということでもあり、代わりに羞恥心を自己コントロールに使っているのだ」云々。

 

 ここで押さえておきたいポイントは、シェーラーにとって「羞恥心」その他もろもろの心は人間においていきなり発生したわけではない、ということだ。むしろ動物や植物を含む広範な「有機的なものと心的なものとがたがいに結びついている生命領域に認められる」(E・ロータッカー)のであり、したがって「羞恥心」は、自然に律される存在としての植物に、そのはるかな原型を辿ることが出来るようなものとして想定されているのであり、人間とそれ以下の動物・植物を分かつものは、ひとえに《精神》、すなわち「有機的なものの束縛からのそれの実存的な離脱」(同)ということになる。

 

 こうした論旨は、れいの「生きた自然からのズレ」という哲学的人間学の根本的な人間観から演繹されているものだろう。哲学的人間学におけるこうした人間観について、浅田彰は次のような文言にまとめている。当ブログでも何度か言及している(下記参照)ので恐縮だが、やはりこれが僕の知るかぎり最も明解かつ簡潔だと思うので、いまいちど引用しておく。

 

 生きた自然からのズレ、ピュシスからの追放、これこそ人間と社会の学の出発点である。人間はエコシステムの中に所を得て安らうことのできない欠陥生物であり、確定した生のサンスを持ち合わせない、言いかえれば、過剰なサンスを孕んでしまった、反自然的存在なのである。
 (中略)

 シェーラーは、有機体が環境世界被拘束性(Umweltgebundenheit)を特徴とするのに対し、固有の環境世界をもたない人間は世界開放性(Weltoffenheit)を特徴とするという定式化を行ない、プレスナーは、環境世界の原点に安住している有機体を中心的(konzentrisch)、中心からずれてしまい自己との間にすら距離をもたずにはいられない人間を離心的(exzentrisch)と呼んで、そこから各々の人間学を展開したのである。特に、シェーラーが人間を「おのれの衝動不満足が衝動満足を超過してたえず過剰であるような(精神的)存在者」と呼んでいるのは興味深い。
 (浅田彰『構造と力』)

 

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 なお浅田によると、こうした哲学的人間学における人間観が、バーガー=ルックマンの社会学(つまり構築主義)の重要な基礎になっているとのことである。自然の拘束から離脱している、あるいは「本能が壊れている」からこそ、さまざまな社会的構築が文明と秩序の維持のために必要である、ということであろう。

 

 *

 

 さて本題に戻らなければならない。
 シェーラーの論旨に従うならば、我々が衣服をつけるのは恥ずかしいからであって、衣服をつけるようになったから恥ずかしくなったのではない。なぜならすでに見てきたとおり、我々は羞恥心(だけとは言わないが)によって生殖行為――人間においては性愛――を制御しているからであり、早い話が「するつもりもない時に裸が見えてしまっては不都合」なのである。

 

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https://ifunny.co/picture/my-lucky-lewd-syndrome-never-mQBYL3nB7

 

 こういう話をすると、おそらく「哲学的人類学者」ハンス・ペーター・デュルのノルベルト・エリアス批判を思い起こす方が多いのではないかと思う。
 デュルは云う。エリアスはルネサンス以前の市民や《未開》社会の成員は自らの〈動物性〉をあまり管理していないというが本当にそうか? 彼らは裸体、性、排泄、身体から発する音、体臭等々についてひじょうに大っぴらで羞恥心がずっと少なかったというが本当にそうか?
 デュルに言わせれば、裸が恥ずかしいのは人間の本性なのであって、人間がおおむね文明によって羞恥心を身に着けたとするエリアスは間違っている。

 

 デュルの「文明化の過程の神話」(これ自体がエリアスの「文明化の過程」への批判的意図が込められているのは言うまでもない)において彼が用いた傍証は、フレイザーやフックス、あるいはジャン・ドリュモーを想起させるようなすさまじい博覧強記の賜物である。
 それらの逐一を紹介するのはきりがないので出来ないが、例えばギリシア・ローマの古典劇や中世受難劇のト書にある「裸」は、デュルの検証によれば全裸を意味するのではなく、「薄物をまとった」の意であるという。

 

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 あるいはこの中世細密画にしても、エリアスはこれをもって「中世では人は浴場に大勢裸で入浴し、それに対して羞恥心はなかった」と論じているが、デュルによればこれは一般の公衆浴場ではなく売春宿なのであり、したがって、これを以て中世人一般の日常生活における羞恥心を語ることは出来ないのである。
 あるいはニューギニアのクウォマ族では女性の陰部周辺を、自然な一瞥を一秒でも越えて眺めているところを取り押さえられたり、あるいは言いつけられた男は、激しい叱責を受けたり殴られたりする。
 こういう傍証が十や二十ではなく何百と述べたてられているのがデュルの凄まじいところで、さしずめ、ひろゆきが「なんかそういうデータあるんですか?」と問うたならばデュルは、「データはありませんがこういう例があります。またこういう例もあります。またこういう例もあります。またこういう例もあります。またこういう例もあります。またこういう例もあります。また……」と際限なく傍証を挙げ続けるだろう。
 そもそもエリアスと彼のあいだの論点である「〈文明化〉以前から人は裸その他諸々を恥ずかしがっていたか?」というようなデータに頼れない問いについては、デュルのアプローチ(そしてそれを可能にする甚大な労力)に勝る方法があるだろうか。

 

 それではデュルの羞恥心についての説明はどのようなものか。
 彼は女性の陰部にたいする羞恥心について次のように述べている。まずチンパンジーの雌と人間の女性における、物理的な信号の有無について考察が加えられる。

 

 哺乳動物の雌は排卵期に明確な発情の信号を送るのに、女性の発情は隠されている。たとえば野生のチンパンジーの雌は三五日ごとに訪れる月経の半ばで、陰門を《中くらいのプディング皿の大きさ》になるまで薄バラ色に膨らませるが、女性は――嗅覚信号もわりと慎ましいものだが――それと比較できるような膨張を示すことはない。
 (ハンス・ペーター・デュル『秘めごとの文化史』)

 

 アカゲザルのウルフガングが見たがっていたのもこれだ。ウルフガングが飽きずに眺めていたメスザルの「会陰部」というのは、オーガス&ガダムの説明によれば「医学用語で、この場合はサルの内股の明るいピンクの部分を指す」とのことである。
 デュルは続けて述べる。

 

 そこで女性の陰部に対する羞恥が意味するものは、女性はこうした招待を無駄にする、つまり手当たり次第あらゆる潜在的なセックスの相手に性的魅力を贈るのではなく、特定のパートナーに制限すること、にほかならない。
 それゆえ恥じらいとは、得に〈魅力的な〉身体部分を公衆の視線にさらさず、英語で陰部を《Private Parts》と表現するように、私物化するものなのである。換言すれば、女性は自分の陰部を私的領域として扱うことにより、性交準備OKの信号を送るのをある程度まで管理するのである。
 (同書)

 

 デュルはシェーラーとほとんど同じことを主張しているように思える。
 まずチンパンジーのような哺乳動物の雌の生殖行動が、まさにシェーラーの言うような「客観的=物的な装い」を持っているのに比べ、人間女性はそれを持たず、代わりに羞恥心という「一つの感情」がその役割を担っているというのだから。
 だがこの箇所の註を見てみると、じつは両者の考え方には相違があることがわかる。

 

 この箇所の註において、まずデュルは「陰部を恥じる」ことと「陰部を見られるのを恥じる」ことを峻別している。したがってL・ヴルムザーのような、「人間がおのれの陰部を不完全なものと感じ、見せて物笑いの種になったり、拒まれたりするのを恐れるのが、陰部に対する羞恥の原因」だという主張を退ける。陰部それ自体が恥ずかしいのではなく、あくまで時ならず露出してしまうことが恥ずかしいというわけだ。

 

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『ゆらぎ荘の幽奈さん』第48話


 またたとえば「垂れ乳」のような、彼女の属する社会の美的規範とのズレに由来する羞恥も羞恥の根本原因ではないという。デュルによれば、そうした羞恥は「二次的な文化に固有の羞恥」であるにすぎない。そして、 

 

 それはまたわれわれがおのれの本性の《動物的なもの》と折り合えなかったゆえに、恥じたのとも違う(たとえばM・シェーラー、一九五七年、六八頁以下)。というのも、われわれは公の場で呼吸しても、この活動が同様に動物と共通であるとしても、恥ずかしくならないからである。私はまたしても〈垂れ乳の羞恥〉の存在を問題にしないように、この特有な羞恥が存在することにも異論を唱えようとは思わない。
  (同書)

 

 というのである。
 一九五七年というのは他でもない、シェーラーの「羞恥と羞恥心」が収録されていたSchriften aus dem Nachlaβ,Band I:Zur Ethik und Erkenntnislehre.つまり僕が古書店で買った本の原著を指している。

 

 途中までほとんど軌を一にしていたのだが、ここにきてデュルは、名ざしでシェーラーに異を唱えるのである。
 この論点はなかなか微妙である。デュルの立場に立つならば、「本性の《動物的なもの》と折り合えなかった」というような話はいかにも物語的で、確かに文句の一つもつけたくなる。そこで反証として、「《動物的なもの》のなかでも恥ずかしくないものだってあるじゃないか」ということで呼吸の例を持ち出したのだろう。
 だが〈垂れ乳の羞恥〉のように、シェーラー的な「《動物的なもの》と折り合えなかった羞恥」は存在しない、とまではデュルは主張していない。ただそうしたものは羞恥にとって本質的ではない、と述べるに留まっている。

 

 しかしシェーラーからすれば、「呼吸と一緒にされてもねえ」┐(´д`)┌とでも言いたくなるだろう。確かに呼吸じたいは恥ずかしくないにしても、例えばしゃっくりとか、くしゃみとか、息が荒いだとか、鼻が乾燥して笛のように音を立ててしまうといったような「気管支系の存在の主張」は、裸やまして陰部の時ならぬ露出ほどではないにしても、やはりそれなりに恥ずかしいではないか。

 

 つまりどちらの言い分も完全に決着するには至らないように思える。
 そこでいったん話を両者が共通しているところまで戻そう。少なくともシェーラーとデュルは「人間は羞恥心を性愛行動の制御に用いており、それは動物よりも自然の制御から切り離されていることからそうなった」というところまでは一致している。これをもって、当記事の暫定的な結論としたい。

 

 *

 

 もう一つ疑問が残っているのだった。「なぜ裸を見られるのが恥ずかしいのか」を問うと同時に「なぜ(主に男は異性の)裸を見たがるのか」も問うたのだった。
 これについては、ここまで述べてきたことを反転させれば自ずと解が得られるだろう。つまりデュルの言うように女性が羞恥心によって性交OKの信号を管理しているのだとすれば、逆に「恥ずかしい姿を見る」ことは性交OKのシグナルだと脳が受け取るのであろう。
 むろんそれは勘違いではある。過去記事で何度か触れたことがあるが(下記参照)、脳はわりとなにが現実でなにが虚構かわかっていないので、ポルノを見ても報酬物質が分泌されてしまうというのが当ブログの仮説だ。

 

 タブをいくつも開き、何時間もクリックを続けると、狩猟採集民だったご先祖が生涯かかっても体験できなかったほどの新しいセックスパートナーを、十分ごとに「体験」できる。
 (ゲーリー・ウィルソン『インターネットポルノ中毒』)

 

 これは進化論的時間単位の話なので、脳は現実のセックスとポルノのそれを完全には区別できない。
 (中略)
 おそらく前頭前野がそれを区別する役割を果たしているのだが、感覚器官やその伝導路自体は本物かどうかを判断してはいない。そして前頭前野も常にベストのパフォーマンスを発揮しているわけでもない。それゆえにポルノを観たところで生殖機会はこれっぽっちも増大していないにもかかわらず、いわば脳が騙されて一定の快楽物質が放出される。
 (当ブログ「インターネットポルノ中毒と新世紀のヒューマニズム」)

 

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 そうであるならば、たとえば覗きや「ラッキースケベ」のようなかたちで裸を見てしまっても、(少なくとも現代社会においては)生殖機会が増大するということはないわけだが、ポルノの場合と同様、脳は「実際に生殖機会が増大しているかどうか」を判断できないので、報酬物質を分泌させる=したがって見たがる、のだろう。

 

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 バルテュス《夢見るテレーズ》(1938)

 

 *

 

 さてひととおりの答えが出たので、そろそろ締めくくりたいと思う。
 そういえば、冒頭の「AV女優が人前で脱ぐことを恥ずかしがっていないように見える」ことについては、おそらくAV撮影というある意味において「性交OK」な場なのでしかるべく羞恥心が制御されている(もちろんデビュー作から、というわけにはいかないだろうけど)と理解するのが、今回の記事の論旨に添っているだろう。つまりそんなAV女優も、日常の場で不意に裸を観られてしまえばやっぱり人並みに恥ずかしいのでしょう。では一句

 

 AV女優 撮影日以外は ただの人(字余り)

 

 こうしたことはすべて暫定的、かつ私的な結論にすぎないことは申し添えておきます。
 デュルの膨大な傍証は揺るぎないとは思うし、哲学的人間学にも相応の蓄積があることはわかっているけれど、まあ結局のところ、僕の見解もやがては変わるかも知れない。けれど今のところはこれが一番妥当なんじゃないかな、という話です。
 全然おあとがよろしくねえんだが、ともあれ今回はこのへんで(・ω・)ノシ

 

 

 
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