やすだ 😺びょうたろうのブログ(仮)

安田鋲太郎(ツイッターアカウント@visco110)のブログです。ブログ名考案中。

素人童貞という不気味な男

昼休み、またピンクサロンに走り出していた

昼休み、またピンクサロンに走り出していた

 

 素童『昼休み、またピンクサロンに走り出していた』。

 一読して思い浮かんだ「料理法」は二つあった。一つは社会学者ジョージ・リッツァの「マクドナルド化」のパラダイムを用いて語る方法。リッツァは現代社会の合理化過程は外食産業に留まらず、学校や病院、娯楽など社会のありとあらゆる領域に及んでいると主張しているので、本当にそうならばそれは性風俗についても言えるのではないかと思ったわけだ。とりわけリッツァがその特徴の一つとして挙げる「予測可能性」。言うまでもなく、性風俗の予測可能性はかつてなく高まっている。料金、内装、サービス内容、そこでやりとりされる会話まですべてが画一化しており、よく言えば安全安心、悪く言えば非人間的で味気ない。かつて寺山修司トルコ嬢との出会いこそが現代の「他者との遭遇」である、という意味のことを書いていたが、そんなことを望めるような時代ではない。

 だが果たして本当にそうなのだろうか? それは我々の探求心の欠如にすぎないのではないか? と素童こと素人童貞は問う。したがって彼の実践とは、性風俗というフィールドを通じた、現代社会の予測可能性にたいする反逆である、というような。

 

 もう一つはあまり面白くないアプローチで、ようは「性の商品化」の観点から語るというものだ。経済的領域に取り込むべきではないものとして「土地」などとともに「性」を挙げているカール・ポランニーの議論を援用することによって多少は面白くなるかな、と考えたのだが結局のところそのどちらもやめた。

 

 そういう、「横文字の学者の理論を一つか二つまぶしてシャレたエッセイいっちょあがり」みたいなのはこの本に対して白々しいと思ったからだ。そんな文章は書こうと思えばいくらでも書けるが、この書評でそれはやめよう。もしかしたらこの書評をきっかけに僕自身がだんだんそういうスタイルをやめてゆく可能性もあるが、そこはわからない。*1 とにかく、素人童貞といえば直接会ったことはないが、彼がツイッターを始めた頃から頻繁にやりとりをしている(そうでもないか?)多少は知った仲であるし、この本を読んで本当に思ったことは何だ? と自分に問うてゆくうちに、上記のようなアプローチとはまったく違った、決してシャレオツではない、泥臭い関心が見えてきたからだ。

 

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 で、この本を1.5回ほど読んで、何が最も気になったかというと素人童貞の真剣さはどこにあるのか?」ということだ。

 素童『昼休み、またピンクサロンに走り出していた』は、文体に独特のジョークを含んだ性風俗エッセイとして軽く読み飛ばしてしまうことも出来る。世の中にディープな性風俗ユーザーはごまんといるし、文章が器用な奴もたくさんいる。だが、それならばこういう本が今までにあったかというと、ちょっと思い当たらない。

 それは「ディープな性風俗ユーザー」と「文章が器用」という二つの個性が偶然に一人の人間に宿ったということではあるが、その偶然を超えた何かでもある。少なくともそういう「何か」が、この本にはある。

 

 どこか変なのである。普通に云って、これだけ性風俗に通いつめること、しかもM性感からVR風俗、男の娘ヘルス、外国人ヘルスまで喰いちらかす横の拡がりと、「お店からの紹介文を計量分析」するような深度、そしてそれらの体験をブログに綴り、一冊の書籍化ではとうてい収まりきらないような文量を発表し続ける情熱は尋常ではない。にもかかわらずその文体やTwitterで知る彼の面影には、そのような情熱の根幹となる真剣さ、切実さ、実存的な苦悩といったようなものが見えてこないのである。

 サイコパスちゃうんか、と思ったりもする。一応は本書でも愛や孤独について語っている箇所はある。しかしそこに真剣味はない。「顔面舐めの唾液は、慈しみの涙」やM性感嬢の箇所で、ちょっとこれは真剣かな? 実存かな? と思ったけれどやはり違う。あるいは本人は真剣に書いているつもりでもおどけた感じに読まれてしまう業を背負っているのかも知れないが……やっぱりそうではないのだろう。

 この「過剰な情熱」と「実存の欠如」(に見えるもの)のちぐはぐさが不気味であり、それがまたTwitterアイコンの福沢諭吉の不敵な笑みによくマッチして、なんともキモチワルイのである。

  

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素人童貞ツイッターアイコン。キモい。

 

 ちなみに僕はツイキャスで彼とほんの僅かだけ喋ったことがあるが、そのさいにも彼の不気味なイメージは緩和されるどころかさらに不気味になっただけであった。タモリ倶楽部に出演した映像を観ても、やはり依然として得体が知れない存在であり続けた。ロフトプラスワンで実物を見た人はまたちょっと印象が違うのかも知れないが、とにかく、僕にとって素人童貞はずっと理解不能なままの「笑う福沢諭吉」という仮面を被ったマスクマンなのであって、なかなか本性を出そうとしない。出すのは精液だけである。

 

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 結局彼がどういう人であるかはわからない。じつは鬱々とした哲学者気質であって、そのことは巧妙に隠しているという可能性もあるし、本当に何も考えてない奴なのかも知れない。いずれにせよ憶測にしかならないし、べつに暴き立ててどうこうというつもりはない。

 只、そういうことが一つの謎めいたイメージとして他人を魅きつける、興味を喚起するということは、彼がそのように振る舞うかぎりは今後も続くのであり、もしかするとそれが彼の最も「セクシー」な部分なのかも知れない。猫も杓子もインテリになれる時代にあって、謎めいた沈黙を貫くことのほうがむしろ困難なのだ。

 

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 最後に書評らしいことを書いておくと、この本を標準的に読んだ場合に得られる最良の教訓は「好きなことを突き詰めれば道は拓ける」というものである。

 英国の批評家ヒレア・ベロックは「ひとつの主題に集中することの大事さ」を説く。もし半生をミミズの研究に費やすのなら、あなたは晩年、ミミズの権威になれるでしょう。問題はあなたにとってのミミズを探すことだ、と。*2 素人童貞は自分のミミズを見つけたのである。只しそれはミミズ千匹だったようだが。 

 

昼休み、またピンクサロンに走り出していた

昼休み、またピンクサロンに走り出していた

*1:この書評を書いている頃、ネットではさまざまな書籍の無断転載が問題になっていた。なかには絶版回収となったケースもあり、また無断使用された側との和解がなかなかつかずに揉め続けていたケースもあった。それらのトラブルを見ていて、なんだかゲンナリしてしまい、具体的にこれまで僕が書いてきたブログに問題があるとは思わないが、それにしても引用に頼らない文章、自分の問題意識に執拗にこだわってグジグジグジグジ書き続ける文章に路線変更したい気分だったのだ。

*2:ロジャー・ローゼンブラッド『だれもあなたのことなんか考えていない』に依る。