やすだ 😺びょうたろうのブログ(仮)

安田鋲太郎(ツイッターアカウント@visco110)のブログです。ブログ名考案中。

本質的な生活って?

 

 本質的で、充実した生活を送りたいというのは万人の願うところであろう。だが、実際にそれが出来ている人は決して多くはない。「神から見れば誰もが病窓の少女」というように、人は環境、経済、健康その他さまざまな制約でがんじがらめにされた存在である。やりたいことをやるだけのリソースは常にあらかじめ奪われている。何によって? 社会生活上の必要によって。

 

 しかし、問題なのはむしろその先である。
 生きるための様々なコストを払ったあとに、たとえ一日のなかの僅かな時間であっても本質的な時間を過ごせるというのなら納得がゆくのだが、実際には、そうして苦労して絞り出したはずの僅かな時間をどういうわけか無為にだらだら過ごしてしまうところに、ヒトの哀しみがある。

 

 けれどちょっと考えてみると、何が本質であり何が非本質であるかという絶対の基準はない。

 社会通念は、テレビよりも読書のほうが有意義であるとか、ジャンクフードよりもきちんとした料理のほうが良いとか、ポルノはセックスの代替物にすぎないとかああだこうだ言ってくるが、「あれはしょせん代替物だ」などと云ったところで何になるだろう。確かに出発点はそうだったかも知れないが、すでに代替物のほうがオリジナルを越えて面白く、豊かになっている場合は?(ゲームやドラマの驚くべき進化、それがメインカルチャーとは別種の豊饒さを獲得していることについては、スティーヴン・ジョンソン『ダメなものは、タメになる』の分析が興味深い。あるいはネッ友はリア友の代替物にすぎないなどと、10年前ならばともかく、今は到底言えたものではない、等) あるいはわかっていてもオリジナルには手が届かない場合は?


 ……等々考えてゆくと、なにをもって本質的とするかは一概に言えないのである。そして代わりに見えてくるのは、それらの「本質」とか「有意義」概念はしょせん一部の文化的階級による自らの価値の賞揚/他への貶めであるに過ぎないということだ。

 1970年にニクソン政権がポルノグラフィの有害性を否定する調査報告を却下したさいに述べたことは、「もしポルノグラフィが有害でないとするならば、偉大な書物や絵画や演劇が我々の品行を高めることもない。だがそれは受け入れられない」(大意)ということだった。つまりニクソン政権は文化において物-行為自体に価値が内在しているわけではない、それは恣意的なものに過ぎないということを暗に認めていたのである。

 

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 したがって「あー、今日はだらだら過ごしてしまったな」というとき、そこには多かれ少なかれ社会通念の刷り込みがある。それも時代や場所によってころころ変わるようなまことに怪しい通念である。ダニエル・ペナックは「わたしたちの育った時代は、どちらかというと親は子供に本を読ませないようにする傾向にあった」と述べている(『奔放な読書』)。「ぐずぐず読書なんかしてないで外で遊んできなさい!」というわけである。

 

 そしてそこに葛藤が生じる。つまり「社会によって有意義とされていること」と「自分にとって心地よいこと」の間でジレンマが生じるのだ。

 僕の場合でいうと、前者は早寝早起き、堅い本でも読んで思索し、バランスの良い食生活と適度な運動……みたいなことになり、後者は酒を飲んでネットでポルノを漁って昼寝する、みたいな感じになる。
 そして両者は早晩混交してわけがわからなくなる。たとえば「有意義なこと」をすると「有意義なことをした」という満足感が生じ、それは少なからず「心地よいこと」に繋がる。一方だらだらしていただけでも「今日はのんびり出来た」という逆説的な充実感が湧き起こったりする。あるいは素人童貞(@sirotodotei)のように、一般的には価値があるとは見做されないことでも突き詰めると識者として一目置かれるという現象が起きたりもする。

 

 なのに神経症者(ここでは医学的に厳密な意味ではなく、比喩として)ときたら、社会にとって充実していると見做されていることをやっても「これは俺が本当にやりたいことじゃない」と疎外感を感じ、のんびりしたらしたで「こんな無為なことではいけない」と焦ってしまいくつろげない、という実にまぬけな戦いをやっているのである。他でもない僕にそのような傾向があるのだが……いやほんと情けない。

 

 応急処置的な処方箋はある。その時その時で「有意義」か「心地よさ」のどちらかを積極的に諦めて未練を断ち、片方に専念しようということだったり(「選ぶほうを選ぶのではなく捨てるほうを選べ」理論)、社会によってインストールされた有意義観念を内省し相対化することだったりするのだが、まあそれで根本的に解決するのかな、というのは今のところよくわからない。

 

 さて、とっくに1000字を越えてしまったのでひとまず掲載することにする。次回はこの話の続きを書くかも知れないし、違うことを書くかも知れない。
 最後に、ぱらぱら本を開いていたら強烈な逆説のようなものを見つけたので書き留めておく。

 

 「あなたはほんとうの世界から離れようとしている」
 「ほんとうの世界? そんなものあるのかい」
 彼女は辛抱強く言った。
 「あるわよ。普通の人たちが暮らす世界、普通の人たちが向かっているあれこれ――失業とか、劣悪な住環境だとか、退屈とか。じきにあなたは大事なことを何も理解できなくなりそうね」
 (ハニフ・クレイシ『郊外のブッダ』)