やすだ 😺びょうたろうのブログ(仮)

安田鋲太郎(ツイッターアカウント@visco110)のブログです。ブログ名考案中。

怪談からローグライクへ 日々を攻略する

 

 駒田信二の訳した『中国怪奇物語』にはどこかしら、「そういえば読書っていえばこういうものだったよね」と思わせるところがある。いろんな意味で平均的なのである。

 第一に、誰もがドイツ観念論やら分析哲学やらポスト構造主義といった小難しい思想書ばかり読むわけではない。昔も今も読書の公約数は娯楽読み物であった。そうした娯楽読み物のなかでも中国における怪異・伝説を扱った「志怪小説」は、日本むかしばなしにも近い読みやすさとエクゾティシズム、恋愛要素やホラー要素やユーモア要素、さらに説話文学やフォークロア研究に隣接する知的要素もあわせ持つ、誰もが楽しめる読書の一大ジャンルであった。

 

 志怪ものといえば鈴木了三でも岡本綺堂でも澤田瑞穂でもあるいは柴田天馬訳『聊斎志異』でもよかろうし、平凡社をはじめ原典も豊富に邦訳されているのでそれらに直接当たっても良いけれど、昭和あたりに普通の人が、夜の無聊を慰めるために近所の本屋で求めるには、あるものは古典的過ぎたりあるものは学術寄りだったり、また高価だったり出版社がマイナーだったりする。

 とはいえあまりにも安っぽい三文ライターの読み捨て本でも困る。そのてん駒田信二はすべてが「ちょうどいい」のである。

 

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 さてそんな駒田信二の訳す志怪小説の特徴は、まず一つ一つの話が短い。いま手元にある『中国怪奇物語 幽霊編』は、文庫本一冊に八十一篇もの物語を訳出している。

 そして、読み進めるとけっこう似通ったパターンの話が続くことに気付く。一話一話は独立しているものの、同じようなモチーフや展開がしばしば繰り返されるのである。とはいえまったく同じというわけではなく、むろん少しずつ違う。さっきは主人公が死んで終わったのに次の話では上手く生き延びたりする。

 そういう反復のなかに少しずつ差異が潜む構造について、以前僕は「ミニマリズム的享楽」という言葉で表現していた。

 

visco110.hatenablog.com

 

 だがここ数年は、それに加えて非常にゲーム的、とりわけローグライクと呼ばれるジャンルのゲームにかなり近しいと言いたくなるのです。

 ローグライクについてはそんなに説明の必要がないと思うが、プレイごとにマップや敵の配置といった要素が変わり、毎回新しい状況に対応することを求められるタイプのゲームで、駒田信二の紹介する怪奇譚の一話一話は、ローグライクにおける一度のプレイに該当する。

 こうした読書感は僕の大好きなファブリオーや『ふらんすデカメロン』などの中世・近世ヨーロッパの艶笑譚とか、『遠野物語』あるいは『千夜一夜物語』などを読んでいる時にも感じる。

 これらの作品群はいずれも、独立した短い物語を次々に読んでゆくうちに中世フランスの街や村だとか、伝説の気配に満ちた山間の集落といった世界観が浮かび上がってくる。次の物語ではどうなるかわからなくとも、その世界で起こりうること、何者が棲まい、どのような掟や法則で成り立っているか(嫁の作業中は姿を覗くなと言われたら絶対に覗かないこと!)が徐々に浮かび上がってくるのである(吉本隆明が『遠野物語』に出離と懲罰という掟を見抜いたように)。楽しんで読むうちに自然とその世界の事象に習熟する、とも言える。

 

 

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 こうした反復と変奏の構造は我々の日常にも広く存在している。たとえば恋愛だとか。
 恋愛ほど毎回異なるようでいて反復だらけの事象もなかなかない。

 大体は、出会って、関係性が深まったり深まらなかったりし、トラブルやすれ違いが生じ、解決のために努力したりしなかったりして、関係が維持されたりより深まったりあるいは終了する。そこだけアルゴリズムに書き出せばおそらくめちゃくちゃ単純なものになるだろう。だがそのアルゴリズムに代入される要素はほとんど無限大である。
 それにしても、目の前の恋人は金輪際一人しかいないのに、上手く恋愛するためには大抵は失敗を繰り返し、場数を踏まなければならないというジレンマ。

 あるモテ本の著者いわく、相談者の恋愛がどう見てもレベチで無理筋に思えた時、次のようにアドバイスしたという。

 

 「今回の目的は、彼女とベッドインすることではない」
 と著者は告げた。
 「失敗しないでどこまでやれるか挑戦し、どんな失敗からもできるだけ多くのことを学び取ることが目的なんだ。そして、その美人から学んだことが多ければ多いほど、次に出会った女性とは、より深いつき合いができるようになる」

 (デイビット・コープランド/ロン・ルイス『モテる技術』p.291)

 
 生身の相手をなんだと思ってるんだ! という苦情はありそうだがその是非はここでは問わない。言いたいことは、この発想は完全にローグライク的であるし、(それが全てではないにしても)恋愛のある面を言い当てているということである。

 日々の生活にしてもそうだ。一週間といえばどうしてもルーティン的になるが、それでも同じ一週間はない(もちろん同じ日もない)。

 まあそうやって考えると一時が万事ローグライクなんですね。野球の試合だってそうだしXのスペースだってそうだ。始める、誰かが来るあるいは来ない、話す、盛り上がったり気まずくなったり揉めたりする、そのつど人間関係が更新される(大抵は僅かなものだが)、続けるかやめるか? ……の繰り返し。

 

 思えばウラジーミル・プロップの説話論は物語をローグライク的なものとして捉える先駆であった。プロップは膨大なロシア民話を分析し、それらを三十一のモチーフの連結としてモデル化した。つまり個々の物語の向こう側に、物語を生成するアルゴリズムを見定めようとしたともいえる。

 そんなわけで、われわれが生きている現実は「めちゃくちゃ複雑なローグライク」に喩えることが出来る。なにやら昨今流行のシミュレーション仮説にも接近してくる話だが、ここまで読んでこられた方ならさほど強引な議論でもないことを了解していただけるだろう。

 

 で、そのように考えると何か良いことがあるのか?
 ある、と言いたいのである。ゲームの目覚ましい学習効果についてはすでにスティーブン・ジョンソンやラフ・コスターやニコラス・G・カーなどが論じ、僕も何度かブログで紹介しているが(例えばこれとかこれとか)、今回感じたのは、昔の人々が夜な夜な炉辺で昔話を聞きたがったのも、娯楽や慰安の意味もあっただろうが、ある面で未来に備えたある種の思考訓練だったのではないだろうか。

 

 コイサン族の長老は教訓をストレートに伝えることもできたかもしれない――狩猟採集民にとってのパワーポイントの箇条書きしたスライドにあたるようなもので。しかし、長老は科学が最近になってようやく確認したことを体で知っている。私たちは物語を通して最も多く、最もよく学ぶ。つきつめれば、これこそが物語の目的だ。つまり、私たちの心をつかみ、教えを授け、世界との付き合い方に影響を与えることだ。
 (ジョナサン・ゴットシャル『ストーリーが正解を滅ぼす』p.44-45)

 

 さまざまな物語に触れることで疑似的に場数を踏むこと。それは年少者が学ぶ大きな手段の一つだったに違いない。それは世の中がめまぐるしく変わり、ネットでなんでも調べられるようになった――したがって古老の知恵に耳を傾けることの表層的価値がすっかり失われてしまった現代においても変わらない。重要なのは鋭敏かつ開かれた眼であり、刻一刻と変化する状況にそのつど対処する柔軟性であって、固定観念で頭を鈍重にすることではない。

 物語というバーチャルな環境のなかで、失敗を繰り返し、どうすればよりよく生きられるかを学ぶ。それはまさにローグライクゲームを通して我々が習得できる認知的能力と同じものだ。

 

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 だいたい言いたいことは言いました。

 補足すると長大かつ作家性の強い文学作品は、あまりこうした話にそぐわないかも知れない。伝説・民話・説話的なもののほうが適合するであろう(僕はよく「小説を読まない」と言っているが、後者は別で、これはけっこう読む)。

 現実と物語とゲームはそれぞれ違うものだが、思考のプロセスのなかでは意外なほど重なり合う部分が多い。それらは区別すべき点は区別しないと大変な失敗のもととなるが、上手く応用すれば多くのことを習得できる。

 といったあたりで今日はこのへんで(・ω・)ノ