やすだ 😺びょうたろうのブログ(仮)

安田鋲太郎(ツイッターアカウント@visco110)のブログです。ブログ名考案中。

「病は気から」って本当ですか?


 【免責事項】本稿は個人的見解を述べたものであり、医学的な記述について責任を負うものではありません。本人様、ご家族・知人様の疾病につきましては、専門的な医療機関や信頼できる情報ソースに基づいてご判断ください。

 

 1957年、心理学者ブルーノ・クロファーの患者であったライト氏は、全身に悪性リンパ腫が転移し、ベッドにのたうちまわり、死を待つばかりの状態であった。しかしライト氏は希望を捨てなかった。クレビオツェンという新薬の噂を耳にしていたからだ。
 だがクレビオツェンを投与される患者は最低でも三ヶ月の生存の見込みが必要であり、ライト氏は到底そこまでは生きられないと見做されていた。それでも彼が熱心に頼み込むので、とうとう医者はある週の金曜日に薬を投与すると約束した。実際には彼はその日までには死ぬだろうから、結局のところ新薬は(効果を試すことが出来る)別の患者に回せる、と医者は考えたのだった。
 ところがライト氏は医者の予想を裏切って約束の金曜日まで生きた。それだけでなく、その日までの数日間で腫瘍は半分の大きさにまで縮んでいた。医師が見に行った時、彼はナースと楽し気に会話までしていた。
 そうして新薬を週三回投与されることになったライト氏は、やがて病床から起き上がり、酸素マスクを外し、自家用機で空を飛べるほどまで回復した。

 

 ……この話の結末は、しかし明るいものではない。
 結局のところライト氏は数か月後に死んだのである。クレビオツェンはがん治療に効果はない、と全米医師会が新聞に最終報告を掲載した、その数日後に彼はひどい状態で再入院し、そのまま息を引き取ったのだった。

 

 *

 

 バーニー・シーゲル『奇跡的治癒とはなにか』(日本教文社)にはこうしたエピソードがこれでもかという位にたくさん書かれている。いずれも、末期患者が気の持ちようで統計的な余命よりずっと長く生きたり、絶望した者はすぐに死んでしまうというエピソードである。著者は、突き詰めれば「人は生きようと思っただけ生きる」と考えているらしい。

 

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 以下の引用はいずれも、意識のない患者にシーゲルが語りかけたものである。

 

 ひどく肥った若い男性がいた。手術室から回復室に運ぶ時、彼の心臓が停止した。蘇生術を試みたが駄目、麻酔医があきらめて部屋から出ようとした時、私が部屋じゅうにひびきわたるような大声で「ハリー、まだだよ。帰っておいで!」と言った。すると急に心電図が動き出し、のちにその男性はすっかり回復した。
 (バーニー・シーゲル『奇跡的治癒とはなにか』)

 

 回復の兆しもなく三年間昏睡状態を続ける女性に、家族がもうらくになったらと言っていること、死んでも母親失格にはならないこと、を伝えた。私は「あなたが亡くなれば、家族はきっと悲しむけれど、そのほうがらくなら好きなようになさい」と言った。すると十五分ほどで亡くなった。
 (同書)

 

 この二つ目の引用について註釈を加えておくと、シーゲルは自分の臨床経験を必ずしも「生=成功」、「死=失敗」という図式で捉えてはいない。患者が死の覚悟を決めているときはその気持ちに寄り添い、心の葛藤を解決する方向に協力する場合もある。「死を受け容れることは希望を捨てることではない。逆説的になるが、死に備えるのは生をより意義あらしめることだ」とシーゲルは言う。

 

 うちつけに飯を断つとにはあらねどもかつやすらひて時をし待たむ
 ――良寛

 

 *

 

 シーゲルは、奇跡的に生き長らえる患者のことを「例外的患者」(exceptional patients)と呼んでいる。そして例外的患者を扱ったこの本は、「病気でなくとも人生に真の喜びを見出せないでいる人にも、私が例外的患者から学んだ原理は喜びをもたらし、将来とも病気とは縁がなく暮らせるだろう」と述べている。
 つまりポジティヴ・シンキングである。「病は気から」という考え方はポジティヴ・シンキングの下位カテゴリーなのだ。

 

 ポジティヴ・シンキングという考え方は、19世紀アメリカのニューソート(New Thought)という潮流に端を発する。これはキリスト教の異端的一派であり、カルヴァン派の極端に厳格な禁欲主義に対する反発が当初のエモーションであると言われる。ナポレオン・ヒル『思考は現実化する』だとかデール・カーネギー『人を動かす』といった自己啓発本も、ルーツはニューソートである。これらは成功哲学ポジティヴ心理学等の名で呼ばれ、宇宙的世界観を背景にしつつも、極端に現世利益的であるのが特徴だ。
 別の機会に述べることになるであろうが、行き過ぎたポジティヴ・シンキングへの同調圧力は「ある意味においてカルヴァン派以上にカルヴァン派的」とも言われている(このあたりの状況についてはバーバラ・エーレンライク『ポジティヴ病の国、アメリカ』を参照)。

 

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 ポジティヴになろうとするポジティヴさをください! 

 

 ニューソートの根幹となる思想に「人間の心は宇宙と直結している」「人間には内なる神が宿っている」といったものと並び、「病の本質は自己意識に対する無知である」というものがある。つまり「病は気から」だ。

 

 恥知らずにもウィキペディアから引用するならば、ニューソートの思想家で大きな影響力を持った人物のひとりにジョセフ・マーフィ牧師がいる。彼はいわゆる「引き寄せの法則」や「積極思考」を提唱し、精神が物質に影響を与えると説いた。そして彼は次の四項目の実践を推奨した。
 1.建設的に考えること
 2.楽しい想像をする習慣
 3.自信をもって祈ること
 4.行動すること
 日本の往年のベストセラー『マーフィの法則』は、小池靖によればジョゼフ・マーフィ思想のパロディであるという(『セラピー文化の社会学』)。なるほど『マーフィの法則』は「思考は現実化する」のアイロニーに満ちたネガといえる(「トーストを落とす時、バターを塗っている方が下になる可能性は絨毯の値段に比例する」云々)。だが訳者解説によれば、マーフィの法則はジョゼフ・マーフィにはまったく関係のない、アメリカ空軍技師エドワード・アロイシャス・マーフィ・Jr.の次の台詞

 「いくつかの方法があって、1つが悲惨な結果に終わる方法であるとき、人はそれを選ぶ」

 が一種のミームとなって、次々と似たような法則が発案され集積されたものだという。
 ん? どっちなんだ? と思うけれど、「マーフィの法則」はエドワードなんちゃらマーフィに端を発すると同時にジョゼフ・マーフィのパロディである、ということは両立しないこともないので、どっちも本当なんだろう、ということにしておく。

 

 *

 

 日本におけるニューソート団体であり、かつ世界最大のニューソート団体とも呼ばれるのが生長の家である(ニューソートはローマカトリックのようなピラミッド構造を持たず、並列かつ緩く繋がっている)。
 生長の家といえばたしかに「病は気から」という教義を一貫して持ち続けてきた。創立者である谷口雅春には『あなたは自分で治せる』といった著書があるし、二代目谷口清超にも『病いが消える』という著書がある。谷口雅春の思想は

 

 心に癌を描くと本当に肉体が癌になる、だから"思わないように"すれば治るという考え方である。癌などというものは本当は"無い"と知れば、その「無い」が顕れるというのである。
 (『それでも心を癒したい人のための精神世界ブックガイド』所収、谷口雅春生長の家とは如何なるものか』の清水良典による書評)

 

 また、

 

 印刷物にも「仏」のヒビキが宿っているから、機関誌を大量に印刷出版することは仏の大量生産の成就である
 (中略)
 機関誌が病床に届いただけで病気も治る、といった確信がそこから出てくる。
 (同書)

 

 といったものであった(過去形にしていいかどうかわからないが)。
 後述するが、ポジシンにも色んなレベルがあり、「人間関係や仕事が円滑に行く」という唯物論者であっても比較的認めやすい、合理的説明が可能なレベルもあれば、「機関誌が届いただけで病気が治る」といった、門外漢には到底信じられないようなレベルまで様々である。まあ伝統仏教もお札やお守りを売ってるので、大差はないかも知れないが。

 

 そして生長の家関連の本を刊行しているのが生長の家出版部であり、戦後は日本教文社と名を改めた。冒頭で触れたバーニー・シーゲル『奇跡的治癒とはなにか』を出したのも日本教文社である(繋がった!)。
 他にもA・J・サティラロ『がん――ある「完全治療」の記録』だとか、アンドルー・ワイル『人はなぜ治るのか』といった同傾向の本が刊行されている。

 

 もちろん生長の家以外にも「病は気から」系の信仰はあり、それは伝統仏教にもみられる。たとえば手元の本でいえば、真言宗東寺境内にかつてあった済世病院の院長、小林参三郎は次のように書いている。

 

 人間は一つの實體でその現れが心と肉です。その心身は即ち二而不二、分つて分ち様のないものです。
 (中略)
 それですから肉に變化があれば心が悩み、心に痛みがあれば必ず身に障りを起します。これは何人も承知の事であります。然るに現代は餘りに物質的文明の進歩に眩惑させられ、不知不識、精神の方面を見落とす様な事になつたのです。
 (小林参三郎『生命の神秘 生きる力と医術の合致』)

 

 小林氏は聴診器すら使わず、患者の顔を見ただけで病気を見抜いたという。だが「物質に盲ひ、科学に眼の眩んだ下根の患者はそれを便りなく思って氏の許を去」っていったのであった(同書)。
 他の医者からことごとく「助かる見込みはない」と宣告されていた者が、小林氏の施療により完治したという例が無数にあるのだという。えーと、まあ、どうなんでしょうね。

 

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 よしお前が悪い箇所がわかったぞ!

 

 *

 

 さてポジティヴ・シンキングといってもさまざまなレベルがある、とさきほど述べた。それはつまり

 

 レベル1:前向きな人のほうが人間関係や仕事が円滑にゆき、生活も向上する

 

 レベル2:本人の心次第で出世したり運命の恋人が現れたり健康長寿を得られる

 

 レベル3:心と宇宙には影響関係があり、運命や偶然は心に左右される

 

 といったもので、三つではなく二つに分けたほうが良かったのか迷うところだが、筆者としてはレベル1は大いにあり得るがレベル3はあり得ないという立場を採る。そしてグレーなものがレベル2である。
 「病は気から」は上の基準でいえばレベル2に属するが、提唱する人、書き方によってレベル1~3までのすべてを内包している。上の例で云うとバーニー・シーゲルよりも谷口雅春や小林参三郎のほうが些か高レベルである(褒めてない)。したがって「病は気から」という発想自体はアリにしても、幾つかの注意点が出てこざるを得ない。それは次のようなものである。

 

 ・霊的治療に傾倒するあまり科学的な治療を拒否してしまう

 

 ・根拠に乏しい民間療法のカモになる

 

 ・「心がけのいい人が治るなら治らなかった人は心がけが悪かったのか」問題

 

 このてん、バーニー・シーゲルはけっして科学的治療を放棄すべきとは言っていない。むしろ医者はなるべく患者に真実を伝え、患者が望むならば病状や治療法について詳しく説明するべきである、と述べている。詐欺的な商法については、ポジティヴ・シンキング云々という以前に文明社会の起こりからおそらく存在していたのだろう。「心がけのいい人が治るなら治らなかった人は心がけが悪かったのか問題」は、もっと根深く、「病は気から」思想にとっては宿痾といえる。

 

 しかし、少なくとも自分自身の肉体についてのみ言えば「精神が物理的な現実に影響を与える」というのにも一理ある。バーニー・シーゲルは精神と肉体を中継するものとして中枢神経系、内分泌系、免疫系を挙げているが、こうしたパートが精神状態の影響を受けるということは充分にあることで、それは何ら超常的な現象ではない。
 だが自分の肉体の外側はまったく別の話である。とてつもない修行をした者が一心不乱に念じたところで、消しゴムひとつも動かすことは出来ない、と筆者は確信するものである。

 

 さて今回は「病は気から」について述べたが、より包括的な概念であるポジティヴ・シンキング自体については、稿を改め、引き続き考察を加えてゆくつもりである。ご期待いただければ幸いである。

 

生命の神秘

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