いま人!ブログ

いまどき真面目に人生とか人文学を考えるブログ

2017年に『電波男』はどう読みうるか

 本田透の問題系、すなわち恋愛資本主義へのアンチテーゼとしての二次元萌え」はもう成立しないというはてな匿名ブログを読んで思うところがあった。確かにTwitterで二十代のフォロワーさんと話していると、読書もするしオタクカルチャーにもそこそこ足を突っ込んでいるような人たちが、誰一人として「本田透を読んだことがない」というのだ。ついでに云うと、彼らはエロゲーもほとんどプレイしないという。あくまで僕が話した周囲なので本当のところはわからないが、近年エロゲーが売れているという話も聞かないし、本田透の本も出ていない。まあ「そういうこと」なんだろう。

 

 恋愛資本主義というのは本田透の造語であり、その議論は『電波男』(2005)に詳しい。彼の云うところの恋愛資本主義の核心をまとめると、企業やメディア・広告代理店といった資本が一体となって恋愛(ロマンチック・ラブ・イデオロギー)を賞揚し、それと消費を結びつけることによって人々からカネを巻き上げるという話だ。本田によれば、そこには本当の愛などなく、地位や収入やルックスといった恋愛資本主義体制下におけるヒエラルキーの低い者は、ひたすら搾取され抑圧され続ける(そこで本田が挙げた例は、非モテがキャバ嬢に貢いでもセックスさせてもらえず、一方でホストはキャバ嬢からカネを受け取ってセックス三昧、というものだった)。だが幸いなことに我々には「萌え」文化がある。さあ恋愛資本主義に背を向け、二次元に生きそして幸福になろうではないか! と彼は呼びかける。

 一種の資本主義分析という点において、また商品経済による疎外を扱っている意味においても、彼の議論にはマルクスの影響が感じられる。彼もそのことは意識していたようで、『電波男』には、手短にではあるがマルクスに触れている箇所がある。それによると「マルクスの思想はハズレである。何故なら、どんなに社会を良くしても非モテは救われないからだ」(大意)とのことである。しかしそんなことは(´・ω・` )知らんがな、とマルクスに代わって云う他にない。

 

 さて、そのような思想がなぜ近年、アクチュアリティを失ったのだろうか。というより本当にアクチュアリティを失ったのだろうか。

 僕に統計的な話を期待している人はいないと思うのでこのまま思弁的な推論を続けるが、もし二次元派がアクチュアリティを失った(ように見える)とするならば、それは最大の敵である恋愛資本主義自体が衰退したためではないだろうか。多くの記事で見かけるところの、若者の車離れだとかドラマ離れ、デート離れ、結婚式離れ、そして最も直裁的な「恋愛離れ」といったことで、ようするに恋愛資本主義の側が抑圧を弱めたので二次元派も必死になる必要がなくなったというのが事実と思われる。これだと冒頭の匿名ブログの主張とも矛盾しない。よかったよかった。

  ちなみに、Twitterでこの種のテーマに精力的に発言されている皆藤禎夫さん(現在は名前を変えて鍵垢)に意見を伺ったところ、本田透はオタク=絶対にモテないという図式を土台にしている時点で論理に脆弱性があったという。おそらくそのような論理であっても、ゼロ年代にはある程度現状と当て嵌まっていたのだろう。しかし十年代以降になってその図式が崩れたのは、上述のような恋愛資本主義が衰退し、そちら側にもあるいはオタク文化の側にも、気軽に片足を突っ込めるようになったからだろう。

 

 ではなぜ恋愛資本主義が衰退したのか。私見によれば二つ理由がある。一つは言わずもがな、経済が縮小局面に入り、資本力自体が弱まっているということ。そしてもう一つはロマンチック・ラブ・イデオロギー自体の衰退である。しかしこちらは、元来であれば膨大な傍証が必要な話であり、あまり安易なことが云えない。敢えて素描的に云うなら、ロマンチック・ラブ・イデオロギーとは「恋愛相手の崇高化」、そしてそれによる「恋愛の崇高化」であり、感受性としては十二世紀のトルバドゥールに発見され、先日も触れた中世の宮廷恋愛に具体的な様式として結実する、という議論が一般的だ(ドニ・ド・ルージュモン『愛について』)。ロマン主義文学はそれを継承し、スタンダール『恋愛論』では、そうした心的作用が自覚的に語られる。

 ひとえに恋愛相手の崇高化は、生身の相手をよく知らないから可能なのであり、トルバドゥールの詩にしても、美辞麗句で貴婦人を讃え上げるが、その描写は類型的で当の貴婦人の個性については一向に見えてこないことが指摘されている(ホイジンガ『中世の秋』)。この類型化というのはきわめてギャルゲー的ではないか。

 ロマンチック・ラブ・イデオロギーを駆動させる「恋愛相手の崇高化」が近年衰退したとすれば、月並みではあるがやはり、ネットの普及によって他者の生々しい本音を聞く機会が多くなり、他者に対する幻想を抱きにくくなったためであろう。また同時に、恋愛物語が商業的に生産されるさまも、多くの人々の知るところになったためであろう。

 

 こうして本田透の話から恋愛資本主義という短期的な話を取り去ると、あとは「ヤリチン派か妄想派か」というひじょうに普遍的な、おそらくは有史以来すべての時代を貫いてきたテーマが残る。もし本田透が今なお我々に示唆を与えてくれるとすれば、それは恋愛資本主義をめぐる議論ではなく、このような二元論に対する、彼の異様な執着でありその成果であろう。

 これでようやく、現実逃避の可能性について中世貴族とオタク的想像力の類似性という角度から語った先日の話との接続が可能になる。先日も記したが、僕は目下のところ、この二項対立においては現実逃避側・妄想側に可能性を見出している。逆に言えば現実側・ヤリチン側には、そりゃまあ実生活上逆らえない部分もあるけれど、気分としてはかなり冷淡であることを宣言というか告白というか、とにかく言っておこう。

 

 このような読みなおしによってはじめて、本田透の著書は、この先も豊かな示唆を与え続けてくれるだろう。

電波男

電波男

トルバドゥール恋愛詩選

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愛について―エロスとアガペ〈上〉 (平凡社ライブラリー)

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中世の秋 (上巻) (中公文庫)

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恋愛論(上) (岩波文庫)

恋愛論(上) (岩波文庫)

Twitterを始めてから読書がはかどらないことについて

 タイトルにピンときた人だけお読みください。大したオチはありません。「ここまで考えた」というメモみたいなものです。

 

 Twitterを始めてから読書がはかどらない。

 Twitter、面白くてうっかりするとずっとTLを眺めたり、親しいフォロワーさんとリプを飛ばしたりして過ごしてしまう。それではいかんと学生以来の趣味である人文書を読もうとするのだが、それにしてももう社会人だ。そして職業知識人でもないのにどうしてそんなに楽しいTwitterを我慢して人文書を読む必要があるのか、ふと立ち止まって考えてしまう。
 どちらも義務ではない。「だったら面白いほう、おのずと夢中になるほうにかまけていればいいのではないか」という意見には強い説得力がある。正直、これを書いている間じゅう、ずっと頭の片側を占領していた。だが疑問がないわけではない。

 

 ①目先の意識を惹きつけることと面白いことは同じなのか。

 

 ②面白いだけではなくて充実感だとか自律感、または手応えといったものを人は求めているのではないか。

 

 ①について。たとえばダンプカーが突っ込んできたことに気付いても哲学書を読み続けるバカ(たとえそれがヴィトゲンシュタインの原書であっても)はいないと思うが、それは必ずしもダンプカーの運転手の居眠り運転が哲学書より面白いことを意味するわけではない。
 ②についても基本は同じで、「面白い」といった短期的な満足と、充実感や自己コントロール感・手応えといった中長期的な満足は別に考えるべきではないか。してみれば、気付いたらTwitterをやっているからといって、本よりTwitterのほうが総合的に有意義であるとは一概に云えない(テスト勉強とマンガだって、後者のほうがはかどるからと云って必ずしも後者のほうが有意義とは限らない)。
 してみると、一時的にであれTLを離れて本なり勉強に向かうというのは、短期的には我慢を強いられる事ではあるが、よりじわじわくる、持続性のある満足が得られる可能性があり、そちらのほうが人間的な意味での「充実」に近いのではないかという意見もまた、先程の「面白ければずっとそれをやってればいいじゃん」と同じくらいに説得力を持つように思う。

 第一、インプットメディアとしての部分を比較すれば、やはりテーマの広さや掘り下げ、そして信頼性においてはまだまだ書物のほうが上でしょう(言い替えるならばTwitterの良さはそこじゃないともいえる)。そんなわけで、Twitterに貼り付くのを控えて孤独に本を読むことは、フロイトのいう現実原則(後ほどより大きな報酬を見込めることを期待し、目先の報酬を我慢すること。「朝三暮四」の反対)的であるとは云える。


 だが、逆方向にも疑問がなくはない。というのも、テスト勉強や何らかの資格試験ならまだしも、ことは読書である。妹に「休日は何やってるの?」と聞かれて「読書してる」と答えたら、首をかしげて「そんな暇があるなら何か資格取れば?」と云われたことがある。ムカつくが、わからないでもない。であれば、

 

 ③人文書を読んで得られる充実感とか有意義というのは幻想ではないのか?

 

 というのは問われてしかるべきだろう。そしてそれは確かに幻想なのだと云ってしまおう。もちろん幻想だからといって無価値だと云いたいわけではない。なんだか岸田秀的なアレになってしまうが、文明の多くの部分は幻想を支柱に成り立っているからだ。

 ゆえに、ことは「目先の面白さ」対「幻想の充実感」であると云える。そのゼロサムゲームというかバーター取引というか、まあそんな感じ。

 かくして、どちらが良いといった簡単な結論は出せない。僕はまだ迷い続けている。だが無理矢理にでも暫定的な結論を云うならば、まあバランスでしょうかね、というこれ以上ないくらい月並みな話になってしまうのだった。

中世貴族とオタク

 さて先日、スカルラッティのピアノソナタについて書いたのだけれど、彼は時代的にはバロックの人であり、僕が最も頻繁に聴いているのは、もっと昔の中世・ルネサンス音楽だ。
 中世というと、やっぱり子供の頃から剣と魔法のファンタジーに憧れてきた世代である。はっきり云ってあの憧れは白人コンプレックスの一種だったんじゃないかと思う。それと出身中学が荒れていたので、切実に現実逃避を必要としていた。現実逃避をするならば、なるべく現代じゃないほうが良いし、日本じゃないほうが好都合だった。遠ければ遠いほどふと現実を思い出さなくて済むからである。それもあって、僕は昔から日本史にはあまり興味が持てないし、時代劇や大河ドラマ的なものにもほとんど関心がない。日本史に向かう人は、世界史に向かう人よりも相対的にリア充なんじゃないかと思う。

 

 中世・ルネサンス音楽。いい時代になったものである。CDでホイホイ買えるし、なんならネットで無料で色んなものが聴ける。もともと古楽は録音向きで、コンサートはロマン派向けという話はある。まあその通りなんだろう。古楽はニッチで、一定以上の集客を要求されるコンサートは成り立ちにくい。また古楽器の音はとても小さく、大きなホールでの演奏には向かない。第一、中世・ルネサンス音楽なんてオタクっぽいものは、やはりパラノイア的にディスクを蒐集し、たまに盤面を磨いたりしながら部屋で孤独に聴くのに向いているではないか。コンサートという祝祭的空間とは相反するものではないか。

 

 ルネサンスはまだしも、海外旅行的な要素が絡んでくるので若干リア充味があるが、音楽にかぎらず中世は本当にオタク的だ。そのことは、ファンタジーRPGはオタク的ということとも繋がってくる。とりわけ中世宮廷の現実逃避傾向については、ホイジンガによって生き生きと(?)描かれている。


 中世後期において、貴族階級は没落の一途を辿った。経済的には新興ブルジョワに圧され、軍事力として絶対的であった騎兵は、金拍車(エプロン・ドール)の戦い(1302)やアザンクールの戦い(1415)に代表されるような、石弓・長弓・投石器・長矛といった新戦法によって存在意義を失っていった。

 

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 金拍車(エプロン・ドール)の戦い(1302)

 

 新しい兵器=テクノロジーによって従来の戦法が無効化され、ロマンチックなものと見なされるというパターンは歴史上数多く見られる。そして、その陰には大抵、暴落する階級がいる。 

 そんななかで、なんとか権勢を回復しようとする貴族たちも当然いた。だがブルゴーニュやその文化的影響下にある宮廷(例えばサヴォワなど)は、今日から見るとひたすら幻想的な懐古趣味に走ったと云わざるを得ない。たとえ彼らの主観では決してそうでなかったとしても。

 その精神は、1454年の「雉の祝宴」のような絢爛を尽くした祝宴(この祝宴のたけなわに、フィリップ善良公はトルコ王との一騎打ちを宣言した。さすがに実現はしなかったが)、騎馬槍試合、宮廷恋愛といったアナクロニズムとして文明の徒花を咲かせることになる。

 

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  ブルゴーニュ宮廷のお歴々。これはこれで楽しそう。

 

 つまり、自身をとりまく政治的・経済的現実から目を背け、騎士道だとか崇高な愛だとか、そういう方向に現実逃避をするというのをオタク的ふるまいの本質だとすると、現代のオタクと中世の貴族は、根本においてその心性を同じくするのではないかと思うのである(こうしたオタク観は十年古い、という指摘もありうるがこれは別の機会に触れることにする)。

 僕はそうした立場を基本的に肯定したい。何より僕自身の気質がそうであるためだが自分のことはさておき、言論空間を見渡してみても、無力感からくる現状追認が支配的で、ちょっとでもユートピア的なことを語ると一笑に付される傾向があるように思う。敢えて云えばそのような「俗流現実主義」は乗り越えられるべきであり、その端緒としては、ここで述べたようなオタク的想像力が最も可能性に富んでいると思うからだ。

 

 少し話が堅くなってしまった。音楽に話を戻す。ブルゴーニュの宮廷といえば、音楽的にはフランドル派と直結している。ギョーム・デュファイやジル・バンショワ、ハインリヒ・イザーク、ヨハンネス・オケゲムジョスカン・デ・プレ、オーランド・ラッスス、他にも才能豊かな作曲家がごろごろ輩出された黄金期であり、上で述べた「雉の祝宴」でも、彼らの作品が多数演奏された。フランドル派といえば、作曲技法としてもノールダム楽派(13C)やアルス・ノヴァ(14C)といった正当的音楽を引き継いで発展させた、中世・ルネサンス音楽の頂点といっていいだろう。

 

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 ギョーム・デュファイ(1400?-1474)とジル・バンショワ(1400?-1460)


 そして一方に世俗音楽がある。こちらはあまり、作曲技法的に次世代に継承されたりはしないし、正直聴いていてちょっと野趣が強すぎると思う時もあるのだが、やはり宮廷音楽や教会音楽だけでは片手落ちであり、中世音楽を時代の全体性において享受するには、世俗音楽は欠かせない。

 

 先日はスカルラッティをダシに語ったが、結局は同じ話だった。剣と魔法の世界、西欧への憧れといったものが僕の音楽的嗜好、読書であれ酒であれ、趣味全般に通底している。しかし僕だけの話ではないだろう。日本にはファンタジー好き、そして西欧に憧れを抱く人はかなり多いだろうから、そういう人たちにはぜひ中世音楽をお勧めしたい。さっきの言論空間がうんぬんといったことは、ついでに出てきただけなので忘れてもらってかまわない(ぉぃ)。

 そう、とっても楽しいのですよ。

 

雉の祝宴 ~1454年 ブルゴーニュ公の宮廷における祝宴の音楽

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おお,フランドルは自由なり:フランドルのルネッサンス音楽

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中世の秋 (上巻) (中公文庫)

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中世・ルネサンスの音楽 (講談社学術文庫)

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トキメクとトキメカン

 妻が読んでいた本をなにげにぱらぱら眺めていたら、驚くべきことが書いてあった。
 なんでも、世の中のものはすべて「ときめくもの」と「ときめかないもの」に二分されるというのだ。そして人は「ときめくもの」を選び「ときめかないもの」を遠ざけることによって、幸せになることが出来るというのである。
 たちまち僕の脳裏には、古代アステカ的などこかで光の神トキメクと暗黒神トキメカンが世界を二分する抗争を繰り広げている光景が浮かんだ。

 

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 トキメクとトキメカンの戦い(イメージです)


 たとえば、外にいてお昼になにを食べるか。「な○卯」にするか、それともちょっと遠くてちょっと高く、しばしば行列しているがとても美味しいパスタの店にするか。トキメク神とトキメカン神が頭の中で争っている。今こそトキメク神に加勢せよ! さすれば世界は栄えるであろう……。
 あるいは週末に読む本を買うときに、とても魅力的だが八千円するハードカバーと、八百円の新書とのあいだで迷う。トキメカンは誘惑する。そんなの読む根気ないっしょ。こっちの新書にしときなさいよ、佐○優ならそこそこ愉しめるはずだから。

 

 なんだ高いほうを買えって話じゃないか、金を使ってアドレナリンを分泌させてるだけじゃないか、という意見が出てきそうだがそれは半分正しい。
 では何が半分間違っているかというと、ただガバガバに金を使っても、人は刺激に慣れてエスカレートしてゆき、最後には破産するか無感動状態に陥ってしまう。そこには抑制が必要だということだ。これは道徳ではなくあくまで実践的な話である。下ネタではないが、何事も溜めておいて出したほうが良いのである。

 ここでも示唆を与えてくれるのは妻の(さっきとは別の)本だ。読んだのは昔だが、たしか「ピカピカキッチン大好き」とかそんな題名の本だった。日本人女性が海外に滞在したり白人の夫に嫁いだりして、フランス人はこうですよとかイギリス人はこうですよ、と上から目線で講釈を垂れるという大変有り難いタイプの御本で、畏まって押し頂いて読んだわけだが、とにかくそこには、あるドイツ人主婦が云ったというこんな言葉が出てくる。


 「わたしは貧乏だから、高いものしか買えないの」

 

 そう、ただ欲しいものを買いまくるのはトキメキ原理主義者であり、トキメキ☆テロリストだ。「あなたのハートを爆破予告ヽ(*’∀’*)/☆゜:。*。」ってうるさいわ。

 かといって、妥協してトキメカンの眷族たる安物を身辺に侍らせてもいけない。「安物は買わずにある物でなんとかして、どうしても必要なものは高くても良い物を買う」、日本の諺でいうと「絹着てボロ着て木綿着ず」。最近思うんだけど、たいていの外来思想とか目新しい言説というのは、諺とか故事に同じものがあるんだよね。

  人生で大切なことはすべて妻の本から学んだ。

なぜ欲望を諦めてはならないのか

 ラカン精神分析の倫理』のなかに、「汝の欲望を諦めてはならない」という有名な一節がある。

 ジジェクの解釈に依拠すれば、これは「欲望のない人間にとって世界に意味はなく、欲望を持つことによって世界は意味を持つ」ということになる。例えば性欲のない男にとって、コンパでいわゆる「お持ち帰り」出来そうな女の子が隣りに座っても面倒なだけだろう。満腹の人がたまたま素敵なビュッフェにいても、退屈そうに周囲を眺めるだけだ。あるいは出世志向の人間と、とにかく楽に生きたいと思っている人間では、左遷された時のショックの度合いには距たりがある。

 欲望を持たない人間にとって世界はすべてフラットであり、欲望を持つことによって始めて、その欲望を頂点とした「意味の山」が形成される。山頂へ行くためにこのルートを通ろう、ここは崖だから気を付けよう、あの人にガイドになってもらおう、何と何をリュックに入れて行こう、云々。

 

 先日、時間的多層性について書いたけれど、照準の当て方という意味では似たところがある。欲望がない=何にも照準が当たっていない状態では、世界はただ薄ぼんやりしている。何かに照準を当てることによって、事物は形づくられる。

 ブローデルの「三つの時間」を太平洋戦争に当て嵌めるならば、ハルノート真珠湾奇襲といった事柄に照準を当てるか(短い時間)、帝国主義国家間の権益争いとして見るか(社会時間)、あるいはもっと長く、人口圧による人類の地球全土への拡張といったスパンで見るか(地理時間)、べつに三段階にこだわらなくてもいいのだが、とにかく照準によって見える「意味」が違ってくる。何にも照準を当てないと「宇宙には窮極的な意味はない」という、間違いではないのだがそこらの居酒屋のおっさんでも云えるガバガバの話になる。

 まあこれはどちらかというと前回のテーマなのだが、欲望も似たようなものだろう。我々は「宇宙の無意味化」(あるいはブラジル・ラカン派であるC・カリガリスの言うところの「世界没落体験」)に抗するためにも、欲望を持つ必要があるのだ。

 

 こういう「リア充になろうぜ」あるいは「ソロ充でもヲタ充でもいいからとにかくいっちょやろうぜ」みたいなきわめて俗な解釈でいいのか、「汝の欲望を諦めてはならない」とはアンティゴネー論の帰結ではないのか、アンティゴネー的欲望とはそういうものなのか、ラカンは欲望(desire)と欲求(need)と要求(demand)を分けているがそのへんはどうなんだ、などと問われると不安になってきて色々調べたりするのだが、結論としてはそんなことはどうでもいい。ラカン解釈として正当であるかどうかに大した意味はない。それを云ったら日本の仏教なんかすべて、仏陀の教えとかけ離れているではないか。そんなことより、ラカンをネタにどう生きるかを考えたいのだ。

 

 「アリストテレスプラトンを誤解し、トマス・アクィナスアリストテレスを誤解し、ヘーゲルはカントとシェリングを誤解し、マルクスヘーゲルを誤解し、ニーチェはキリストを誤解し、ハイデガーヘーゲルを誤解したといったように」ジジェク『身体なき器官』)

 

 哲学の歴史は誤解の歴史である。

 なお、ここでいう欲望には革命やボランティアや利他的行為も含まれる。そのさい欲望という字面にあまり囚われてはいけない。どうせ訳語だ。どうしても引っかかる人は「心の内にあって意味の源泉となるもの」くらいに思っておけばよい。

  だがこういうことは、ラカンに云われるまでもなく、元々日本人は知っていたのである。中島敦の短篇小説『悟浄出世』に、観世音菩薩が夢のなかで悟浄を諭すシーンがある。

 

   「惟(おも)うに、爾(なんじ)は観想によって救わるべくもないがゆえに、これよりのちは、一切の思念を棄て、ただただ身を働かすことによってみずからを救おうと心がけるがよい。時とは人の作用(はたらき)の謂じゃ。世界は、概観によるときは無意味のごとくなれども、その細部に直接働きかけるときはじめて無限の意味を有(も)つのじゃ」(中島敦悟浄出世』)

 

 観音は、ノイローゼ気味の悟浄に行動療法を勧めたとも云える。悟浄の苦しみは欲望の向けどころが見つからないことだった。それに対し「天竺へ行け」と命じることによって、彼の病状を緩解に導いたのである。

 

 最後に、僕は欲望を生み出すものは健康だと思っている。性欲や食欲、好奇心、そしてあらかたの社会的意欲は、基本的には健康によってもたらされる。ヒトは何万年ものあいだ、コンディションが良い時に新しいエサ場を捜しにゆき、怪我や病気の時にはねぐらに籠もって回復を待つことによって生き延びてきたからだ(このへんのことは別の機会に書こうと思う)。

 ある物を手に入れるために、最初にどうするべきか。答えは「まずはその物を欲しなければならない」。冗談のようでこれが真実である。

 あまりに単純な結論で気が引けるのだが、敢えてベタに言い切ってしまおう。健康を気遣い、欲望を喚起させ、そして幸せになろうではないか。

 

精神分析の倫理 上

精神分析の倫理 上

精神分析の倫理 下

精神分析の倫理 下

山月記・李陵 他九篇 (岩波文庫)

山月記・李陵 他九篇 (岩波文庫)

人がたどり着く音楽って?

 ある知り合いが、「人が最終的にたどり着く音楽はハイドンだ」と云っていた。こういう断言はTwitterだといかにも「自分の趣味嗜好を他人に押しつけるな」的なクソリプが来そうだが、幸いにしてここはブログだ。したがって忌憚なく云わせてもらえば、「確かにハイドンかも知れないが、どちらかといえばスカルラッティではないかと思う」というのが僕の意見である。ただし鍵盤楽器ソナタ、それもチェンバロではなくてピアノで弾いたものに限る。


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 ドメニコ・スカルラッティ。名前はヘビメタっぽいが外見は普通である。

 

 D・スカルラッティ(1685-1757)の六百曲ほどある(!)鍵盤楽器ソナタは、ピアノのない時代に作曲されたものなので、チェンバロで弾くのが正当という意見はある。しかしチェンバロは強弱に乏しく、音もキンキンしていて耳が疲れる。チェンバロは、バロック室内楽のなかで目立たずに鳴っているぶんにはいいが、ソロで聴いてあまり心地いい楽器ではない……というのは僕の生理的好みなので反論は受け付けない。「チェンバロは生理的にムリ」ということである(同じ理由でオルガンも苦手)。
 自らもスカルラッティをレパートリーに採り入れているグレン・グールドは、彼のソナタについて次のように記している。

 

 「かれの音楽は同種のだれの音楽とくらべても、そのどれより新奇なものが占める率が高くなっています。予測されることですが、スカルラッティには一貫性に欠けるところがあります。その作品は通常の意味では記憶に残らないかもしれません。その膨大な量の旋律は聴き手の記憶にすんなりと印象を残すことはないかもしれません。しかしたとえそうでも、この作品の抑え難い躍動感と善意によって、六百ほどあるソナタのだいたいどれをとっても、たしかな音楽の喜びを与える作品であることはまちがいありません」(CBC放送番組用ノート/1968)

 

 まとめると「新奇性が高い」ゆえに「一貫性に欠け」「記憶に残りにくい」。しかし「たしかな音楽の喜びがある」。それがスカルラッティ鍵盤楽器ソナタであるとグールドは云う。実際、聴くとまさにそんな感じです。

 まず六百曲(wikipediaだと559曲らしいが)の、何番がどの曲というのが憶えられない。CDにしてもネットにしても、ちょっと気を逸らすとすぐに現在地を見失います。まるで広すぎてわけがわからない庭園にいるような感じになる。
 迷宮的とかバロック的、というとピラネージやルネ・ホッケの『迷宮としての人間』などが思い浮かぶけれど、そんな重厚なものでもない。グールドは「跳躍感と善意」と云ったが、この感じを絵画に例えるならば、フラゴナールとかリチャード・ダッドあたりではなかろうか。時代と国が合ってないけれど。

 さてそんな楽しいけれど憶えにくいスカルラッティソナタのなかに、一つだけはっきり憶えているものがある。「Sonata E major K.380 L.23」だ。それはなぜか。この曲が始まって40秒前後から、ファンファーレのような旋律が数度出てくる。ファンファーレといえば、城門で衛兵がトランペットを吹くイメージだ。しかしこの曲のファンファーレはそれほど音が大きくない。楽譜でどう指定されているのかは未確認だが、たいていの奏者が小さく弾く。すると情景としては「遠くのお城からかすかにファンファーレが聞こえる」という感じになる。

 ためしに、この動画で確認してみてください。

 

 
 Horowitz - Scarlatti Sonata L23

 

  さて、そこでこの画像である。

 

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 これは、ドラゴンスレイヤーⅣ ドラスレファミリーという、87年にファミコンやMSXで発売されたアクションRPGだ。見ての通り、背景に城がある。

 このゲームの主人公の家族は、伝説の英雄の子孫で、悪のドラゴンが復活したさいにはそれを倒す使命を背負っている。ゆえに地下迷宮にほど近い森に(父親が木こりということもあって)暮らしている。
 したがって、一家の子供たちにとってお城は近くて遠い場所だ。行きたくても森生まれ森育ちだから、そして子供ながらに戦う使命があるのだから(お母さんあたりは、ちょいちょい城下町に行ってそうだが)。

 ちなみに、実際に『ドラゴンスレイヤーⅣ』のなかではお城に行くことは出来ない。では何のためにあるかというと、シリーズ他作品と世界観が繋がっていることを示しているらしい。
 そんな遠くのお城から、ファンファーレがときおり風に載って聞こえてくる。それが兄妹の憧憬をかき立てる。そんな光景と「Sonata E major K.380 L.23」の「遠くから聞こえるファンファーレ」はシンクロ率400%を越えているではないですか! ……いや400%は言い過ぎなんだろうか。エヴァ観てないからよくわからないけど。

 ともあれ「人が最終的にたどり着く音楽はスカルラッティ」なのかどうかはわからないが、四十年生きてきて、今のところたどり着いたのはスカルラッティであり、それは僕が小学生の頃に『ドラゴンスレイヤーⅣ』をプレイし、城をじっと眺めて感じた、あのさみしさと繋がっている。

 この音楽を聴くたびに僕はあの時の気持ちに還る。いい音楽は、軽々と時間を越えるのだ。

 

バッハからブーレーズへ グレン・グールド著作集

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パフォーマンスとメディア グレン・グールド著作集 2

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Favourite Piano Sonatas

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ご挨拶、ブローデル時間、多層性など

 はじめまして、安田鋲太郎と申します。このたびブログを開設しました。

 というか、かなり前から場所だけ確保したり、ブログタイトルを考えたり、『ユリイカ』の「特集ブログ作法」(2005)だとか「特集ソーシャルネットワークの現在」(2011)などといった資料を取り寄せて「まずはゼロ年代から近年に至るまでのブログ界の動向をひととおり把握してだな」とか(結局まだ読んでない)、あとTwitterのフォロワーさんのブログにも目を通したりしてたんですが、これではイカンと。準備すればするほど、自分のなかでブログを書く敷居がどんどん上がってゆき、余計に書けなくなってくるんですよ。

 むしろ逆だ、アレクセイ・イグナショフがリングに上がるさまをジェロム・レ・バンナが「まるで風呂にでも入るような顔をしていやがる」と評した、あの感じで行かねばならん、ようするに、さっさと始めたほうがいいと思ったわけです。イグナショフはすぐに塩選手になったというツッコミはナシで。

 

 さて「いま人!ブログ」というのは、サブタイトルにあるように「いまどき真面目に人生とか人文学を考えるブログ」の略です。なんとなく勢いが出るかなと思って「!」をつけてみました。

 そう、いまどきではないですか、人生とか、人文学とか。この高度情報社会(云ってて恥ずかしい)において、そんな立ち止まって考えるみたいなことを。時代に置いて行かれますよアナタ、みたいな感じだが、はっきり言ってすべての人は宿命的に時代に置き去りにされているのである。人は専門分野の、それもきわめて限定された領域においてだけ最先端っぽいものに一瞬触れられるとか、いま触れたような気がしたけれど本当に触ったのかなとか、触ってませんよ片手は吊り革で片手はカバン持ってましたから! とかそんなもんではないですか。

  だったら、普遍的なことについて考えたほうがよくはないですか。というか、少なくとも物事を考察するにあたり時間に多層性を持たせたほうが良いではないですか。例えば、F・ブローデルは時間を三つに分類しています。

 

 短い時間:人生の内の出来事。一刻一秒や政治的な事柄

 社会時間:人生ではあまり変化を感じない時間(百~数百年)

 地理時間:気候や自然地理・生態学的条件

 

 SNSなんかは間違いなく「短い時間」向けですね。

 ブローデルは自らの仕事においては「地理時間」をひじょうに重視し、それと他の時間的スパンとの記述を重ね、多層的に描くことによって『地中海』などの異様に濃厚な歴史書を生み出したわけですが、ようするに、一つの物事を複数の時間的スパンで捉えるということが、非常に強力だったわけですね。

  多層性ということで似たような例を挙げると、宮台真司は近年の著書で、日本の政治状況を考えるにあたっては次の四つの遠近感を持つことが必要だと云っています。

 

 ①安倍政権の問題

 ②自民党政治の問題

 ③日本の政治的風土の問題

 ④グローバリゼーションによる政治的環境の問題

 

 一字一句正確な引用でないんで申し訳ないですが、大意はそういうことで、ようはこれも多層性。ブローデルのは時間的多層性、こちらは社会的多層性といったところですね。他にもいろいろありそうですが、とにかくそうした多層性を担保すればするほど人は豊かな世界観を持つことが出来ると云いたいわけです(決断はしにくくなるがその話はまたいずれ)。

  そうしたことをじっくり書けるのもブログならではかなと。Twitterではこういうのは、厳しいですね。

  もちろん新しい情報というのは人を愉しませるもので、楽しいぶんには心ゆくまで満喫したらいいんですが、世界把握としてはそれだけでは不十分だし、だいいちパラノイア的に情報に貼り付いていても、掴んだと思った端から逃げ去るのが「最先端」というシロモノ、にもかかわらずこれだけ多くの人が血眼になっているのを見るとD・シェンクの『ハイテク過食症』(1998)からさらに状況は悪化している。情報というのはもはやバケモノです。化かされている人がいたら早く目を醒ましましょう。ごめん今ちょっと偉そうなこと云った。

 

 えーなんとなくコンセプトみたいな話が出来ましたね。でも責任は取らないので、次回から「古書業界の最先端をアナタだけに特別にレクチャー!」とか「古書即売会で掘り出し物を見つける8つの方法」その1、古書会館のサイトで開催情報を把握しろ! みたいになってるかも知れませんが。

 

 ともあれ、ここまでお読み下さった方、大変ありがとうございます。

 今後とも当ブログをよろしくお願いします。

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