中世の居酒屋について

 酒について書かれた本には二種類あるという。

 一つはしらふで読むための本。もう一つは、まさに一杯飲みながら、傍らに置いて気ままに開くための本だ。

 

 このブログ記事は、飲みながら読むために書かれている。これを書いている僕も、今まさにベルギービールで仕事帰りの渇いた喉を潤しながら書いて……いるかどうかは、まあご想像にお任せしよう。

 

 *

 

  オットー・ボルストは『中世ヨーロッパ生活誌』のなかでこう書いている。

 

 人々は騒音も大好きなのであり、民衆はヴァイオリンをひいたり、ひざをたたいたりもした。一びんのワインでも近くにあれば、大にぎわいになる。一五〇九年にマインツで出された『敬虔な生活のための聖なる警告』に書かれた次のようなことも、けっしてオーバーとは言えないであろう。「二、三人集まったら歌を歌うべし。仕事のときは家でも外でも、祈りのときも、喜びのときも、悲しみのときも、葬式のときも、宴会のときも、みな歌を歌うべし」。

 

 なぜそんなに歌い、飲み騒ぐのか。

 それは簡単なことで、中世ヨーロッパの人たちは娯楽がそもそも少なかったからだ。とくに個人的な娯楽のほとんどは、近代になってはじめて民衆の知るところとなるものばかりであった。

 未だ中世にあってみれば、娯楽とはまず祭りであり、次に結婚式、そして居酒屋が定番であった。これらはいずれも集団的な娯楽であり、過酷な労働のさなか、そのような場においてのみ人々は「生の歓喜を表現し、連帯の感情を確かめ合った」(ホイジンガ)のであった。


 ところで、当時の田舎の結婚式では、披露宴を地元の居酒屋で行うのが通常であった。有難いことに、ブリューゲルがその様子を活き活きと、かつ克明に描いており、今日のわれわれに伝えてくれている。まるで人々のざわめきや食器のぶつかる音、空気や匂いまで伝わってくるような作品である。

 

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 ピーテル・ブリューゲル『農民の婚宴』(1568)

 

 このような慣習は、こんにちにおいてもある程度残されているらしい。数年前、フランスの田舎で開かれた親戚の結婚式に参加したとき、かの国の人たちは、信じられないほどワインを飲み(華奢な女性ですら僕の酒量を軽く越えるほどだった)、歌い踊っていた。一見地味そうに見える婦人が、驚くほど見事なダンスを披露してみせたりもした。

 この人たちはなぜこれほどまでに盛り上がるのだろう、と不思議がったものだが、その時居合わせた人に「結婚式で騒ぐのが、わたしたちの数少ない娯楽なのよ」と教えられ、なるほどと思ったものだった。

 

 *

 

 ホイジンガの云う「連帯の感情を確かめ合う」というのは、ようするに田舎にありがちな、他人に付き合わされるということであって、そこにはプラス面とマイナス面があることは現代人もよく知るところであろう。

 新入社員が飲みに誘ってもついて来ない、逆に新入社員にとってみれば、なぜ退勤後も上司に付き合わなければならないのかわからない、みたいな話はここ二十年ほど、毎年春になると聞く話で、おそらく二十年後にも人々は同じようなことを云っているような気がしてならない。

 

 フィリップ・ド・ヴィニュール『小説集』(1515頃)の第52話には、近所付き合いの悪い男が登場する。メッスが舞台となっているこの小話では、引っ越して来た男が「この街でおこなわれているいやな習慣には従わないぞ」と言い放ったことで事件が起こる。
 「この街でおこなわれているいやな習慣」とは、この街では動物を屠殺した場合、かならず近所の人びとに肉を分けあうべしというものであった。イヴォンヌ・ヴェルディエによれば、現代でもフランスにはこの習慣を持っている村があるらしい。

 さてこの習慣を無視した男はどうなったか。ほどなく、その豚が何者かに盗まれてしまったのである。

 盗んだのが何者かはわからない。だがその豚の肉は、なぜか街の居酒屋に供され、近所の人々よってすっかり食べられてしまったという次第。これはなにもメッスに限ったことではなく、ロベール・ミュッシャンブレッドによれば、当時のフランスであればどの地方にもこのような習慣があったという。

 

 かくのごとく、居酒屋と娯楽と共同体、という三つの要素は当時分かちがたく結びつけられていた。このことについて、もう少し詳しく見てゆこう。

 

 *

 

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 ドイツの旅館。チュービンゲンのカレンダー(1518)より。

 

 阿部謹也は『中世を旅する人びと』のなかで、居酒屋の共同体役割について次のように述べている。

 

 それぞれの村の中心にある教会がローマ教会支配の拠点であったとすれば、居酒屋は村民が生活の喜びと苦しみを語り、慰めあう、本来キリスト教布教以前からあった共同生活の中心なのである。しかも居酒屋の多くは旅籠をも兼ねていたから、そこで村人は異国の旅人と言葉を交し、見知らぬ国の生活にふれることができた。いわば自分の村しか知らない農民たちを外の世界とつなぐ心地よい窓、これが居酒屋なのであった。

 

 えらいことになった。さきほど「居酒屋と娯楽と共同体」というトリアーデを呈示したばかりだが、ここに「コミュニケーション、宿泊、情報」というさらに別箇の要素が加わることになるのである。いわば、日々の単調な生活で得られないものはすべてそこにある、非日常すべてを請け負った総合施設、というのが当時の居酒屋であった。


 それだけに権力者は居酒屋を厳重な監視下に置いていた。居酒屋の主人というのは、権力者にとっての、騒乱や犯罪計画、スパイ活動等を未然に防ぐ重要な情報源であった。それゆえ、たいていは居酒屋の主人には各種の特権が与えられ、その代わりに不穏な動きを察した場合にはすかさず報告する、という役割が期待されていたようである。


 ここでもう一度、いちばん上のブリューゲルの絵を観てもらいたい。右端の席に周囲とはあきらかに雰囲気の違う二人がいて、何やらひそひそ話をしているであろう。この二人は権力者と密告者、つまり結婚式の披露宴であるこの場に目を光らせている監視人たちなのである。

 

 じつはこの構図は、もともと中世細密画のなかに見られるものである。例えば中世の風呂を描いたこれらの絵のなかにも、監視者たる二人の人間の姿があるのがおわかりであろう。ブリューゲルは、このような中世絵画の「お約束」をなぞったわけである。

 

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 こんなことでは落ち着いて酒も飲めたもんじゃない! という鬱憤はもっともな話だ。しかし居酒屋の主人にもいろいろなのがいる。権力べったりの者もあれば、なかには反骨心旺盛な居酒屋のあるじもいたであろう。

 このような共同体の内部と外部を繋ぐもの、また混沌と秩序の接点としての居酒屋というのは、ちょっと想像をふくらませば、RPGに出てくるような、村人からの依頼を受け、共同体外部の存在である冒険者たちが危険な仕事を果たす(いわば混沌を別の混沌でもって制す)、そして「関係を持たないための報酬」の受け渡しを担う、あの居酒屋まであと一歩である。各種文献を読んでいるうちに、おぼろげながらその姿が思い浮かんでくる。

 

 *

 

 そういえば、近頃出た本で下田淳『居酒屋の世界史』を手に取ってみたが、これは興味深い記述を多く含む意欲作だった。

 ちょうど上の阿部謹也の記述と照らし合わせて読むと、当時の居酒屋事情が立体的に掴めるところがある。いわく、

 

 もともと中世ヨーロッパでは、教会が祭りや冠婚葬祭後の宴会の場であった。また巡礼者は、教会、修道院あるいは施療院(クセノドキーエン、ホスピス、シュピタール、巡礼宿)で、無償で飲み喰い、寝泊りしていた。このように教会は聖と俗が混淆する場であった。しかし中世末期、とりわけ一六世紀の宗教改革頃からこうした教会のありようは非難の対象となる。教会は徐々に聖なる(礼拝)空間になっていった。もちろん、教会の俗性が完全になくなったわけでなく、近世を通じて残存したが、多くの教会の俗なる機能は居酒屋へ移っていった。一六世紀から居酒屋が激増しはじめた一つの要因であった。だから居酒屋は教会のそばにつくられた。たとえば結婚式の後、すぐに宴会に行けるためであった。巡礼の前後に飲食、あるいは宿泊するためでもあった。

 

 阿部が「支配の拠点」としての教会に注目するのにたいし、下田は猥雑なエネルギー、多様性の場としての教会にスポットを当てている。実際に教会というのは今日のイメージとはかなり違ったものであった。教会前の物乞いや楽士の芸は当時の風物として知られている(これについては、中世の祝日のミサの様子をまるごと再現したルネ・クレマンシック監修の『ノートルダム・ミサ』を聴くべし)。

 また説教師についても、人気の説教師が街にやって来たときの人だかりは相当なものであったという。ある者は泣かせ、ある者は笑わせ、それとなくキリストの教えを浸透させる。ヨハネス・パウリ『冗談とまじめ』のような笑話と訓話の入り混じった書物が生み出されるのは、このような土壌ゆえであった。

 

 しかし両者とも、教会との対置において居酒屋を捉えるころは共通している。まるで太陽と月のようである。共同体はこの二つの場所で、普段の生活の蔭に隠された鮮やかな相貌を、それぞれ異なる光に照らされた異なる相貌を見せるのだろう。

 

 さて、僕もしだいに酔いがまわって来た。気分も良いし、今夜はこのくらいで終わりにしよう。それではみなさん、よい夜を。

  

中世ヨーロッパ生活誌 (1)

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中世ヨーロッパ生活誌 (2)

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近代人の誕生―フランス民衆社会と習俗の文明化

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居酒屋の世界史 (講談社現代新書)

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マショー:ノートル・ダム・ミサ曲

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恋愛と売春はなにが違うのか?

 ささやかな疑問から始めよう。

 ゲーテ『ファウスト』におけるマルガレーテは、通常は敬虔な女性と見做されている。罪を犯しつつも、深い悔悛によって天上界へと救済されるばかりでなく、その聖なる祈りによってファウストの魂をも救う。だが彼女をめぐる罪と赦しの壮大なドラマの脇で、一見どうということもないシーンが、彼女の敬虔さにかすかな疑問の影を落としている。

 それは第一部の中ほど、メフィストフェレスが主人に代ってマルガレーテを誘惑するシーンである。悪魔が彼女の気を惹くために使ったのは宝石箱だった。効果はあり、マルガレーテは、このような素敵な贈り物をしてくれるのはいずれの紳士であろうか、と想いを馳せたのだった。

 

 かわいいマルガレーテは、口のはしをっちょっぴりつりあげて、こんなふうに思った。

 諺にも、貰った馬の歯並みのよしあしはいわぬがよいということがある。

 それに、親切にこんなりっぱな品をわざわざ持ってきてくだすった方が、神にそむくようなひとであるはずがない。

 (手塚富雄訳『ファウスト』昭和五十七年、中央公論社)

 

 かくしてファウストはマルガレーテの誘惑の契機を掴むのである。

 それにしても「こんなりっぱな品をわざわざ持ってきてくだすった方が、神にそむくようなひとであるはずがない」というのは、彼女の欺瞞を示すセリフなのだろうか? 案外、信仰心と富の享受が、彼女のなかでは矛盾なく同居していたのではないかとも思える。

 

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 ドラクロワ「マルガレーテを誘惑しようとするファウスト」(1828)

 

 我々はたいてい、金銭を用いて異性を口説くことは純粋な恋愛ではないと感じる。

 たとえば将来を誓った若く貧しい同郷の男女がいて、女が金持ちの後妻だとか妾になるという近代以降に膨大に書かれた物語では、とくに説明がなければ金持ちと女には情愛はないものとされる。

 だがおかしくはないだろうか。一方は同郷の貧しい青年、一方は金持ちというだけで、なぜ青年のほうを愛しているということにほぼ決まっているのか。

 近代以降、なにか金銭が介入すると本物の愛とは思われない、そういう観念を我々は抱いているのではないだろうか。

 

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 *

 

 十三世紀フランスの笑話(ファブリオー)「お蔵番修道士の話」では、修道士が次のように人妻を口説いている。

 

 「神様のお救いがありますように。あなたの愛をわしに下さらんか。もうずっと何年も前から、わしはあなたのお父上の家におられた頃から、あなたが好きじゃった。だがその頃わしは見習い坊主で、子供だったので、知恵も働かなんだ。だが今では、賢明に話すことの出来る年になっている。わしの望みを叶えてくれるなら、このわしはお宝を自由にできる身じゃから、金銭を進ぜよう。いや宝石でも服でもいかほどなりともかまわぬ」

 

 「奥さん、もしあなたに、愛の心でわしを抱いてやろうという気があり、たった一度の口付けでいいんだが、わしを喜ばせてやろうという気になったら……いまここに持っている百朱(スー)を上げよう。そして明日の昼前に、クリュニーの一番金持ちの男の蔵にあるよりももっとたくさんの金銭を進呈しよう」
 (森本英夫他訳『フランス中世艶笑譚』昭五十九年、社会思想社)

 

 「あなたのお父上の家におられた頃からあなたが好きじゃった」のあたりがなんともイヤラシい。とはいえ、これは悪魔の所業ではなく、たんなる好色な修道士のふるまいである。おそらくクリュニー修道院の権勢や膨大な蓄財を皮肉っているのだろうが、少し割り引いてもかつての求愛が経済的メリットを率直にアピールすることを恥としなかったことが伺える。

 

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 ファブリオーのみならず、西欧中世の民衆小説全般を見渡しても、性欲や物欲と切り離された、純粋な恋愛感情というのはほとんど見出せない。それはトルバドゥールや騎士道小説といった貴族階級のための……つまり幻想や様式美の世界の側にのみ見出されるのである。

 

 そして純愛の雛形である宮廷恋愛がいつ、どのように民衆にまで広まったかというのはドニ・ド・ルージュモンやノルベルト・エリアス、ジャン・ルイ=フランドラン等の追及した重要なテーマであるが、このブログでは大まかに「最初に中世貴族のなかで、やがて近世-近代になって民衆にも」という程度に把握するに留める。

 

 *

 

 少し話を拡げて考えてみる。

 近代においては、パラン=デュシャトレによる、十九世紀パリの売春婦についての仔細をきわめた調査が名高い。

 彼は売春婦一人ひとりへの綿密な観察や聞き取りはもちろん、警察・刑務所病院等の公式記録、専門家や行政官の証言と、可能なかぎりありとあらゆる資料を収集・吟味し、統計的分析を加えた。その水準は、のちの社会科学的調査を先取りしていたとさえ言われる。

  そうしてパラン=デュシャトレは、当時のパリの売春婦は主として勤労者階級女性による「一時的な就業形態」であると結論づけた。

 彼が調査した売春婦のうち約六割は売春従事年数が四年以下であり、逆に九年以上の売春従事年数を持つ者はわずか二%ほどであった。また彼女らの売春婦になる以前の職業は家内労働者か工場労働者である場合が多かった。
 つまり大半の売春婦は、確たる専業娼婦であるというよりも普通の女性が困窮したさいにやむなく一時的に売春を行い、ほどなく一般職や家庭に帰ってゆく、いわば素人売春だったのである。

 

 パラン=デュシャトレは、働き口の少なさと低賃金こそが、売春の最大の要因だと力説する。「とりわけパリで、そして、おそらくすべての大都市でも、職がないことと、低賃金の必然的な帰結としての貧困ほど、売春の原因として大きいものはない」

 (シャノン・ベル『売春という思想』平成十三年、青弓社。「」内はパラン=デュシャトレ『十九世紀パリの売春』より)

 

  パラン=デュシャトレの調査は非常に重要であると受け止められているため、後の学者による言及が多く、単純な解釈は許されないところがある。だが概して、彼の調査は「社会通念上における売春婦と素人女性とのあいだの垣根を取り払うのを促進した」とはいえるだろう。

 

 このことは、売春がけっして特殊な人による特殊な行為ではないという、今日からみれば当たり前の、しかしなんのかんの言って今日でも多くの人が心の中で線を引いている、その線の根拠を問う。

 これは上で述べたような、想いを誓いあった同郷の馴染みを捨てて金持ちの妾になることがなぜ不埒な行いとされるのか、なぜ「そこに愛はない」とされるのか、という疑問と少なからず重なってくるであろう。純愛観念と娼婦蔑視はコインの裏表であるように思える。

 

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 *

 

 バーン&ボニー・ブーローによると霊長類のメス(や若いオス)は、餌をもらったお礼や相手の攻撃をかわすために性的サービスを供給する場合があるという(『売春の社会史』平成三年、河出書房新社)。

 これを学術用語では「プレゼンテイション」というらしい。「売春は人類最古の職業」と俗に云われるが、実は売春の歴史は人類より古い、とも云える。

 

 オスがエサを運んでくれる。お礼に(?)セックスをする。それは愛なのか、売春なのか。霊長類のこのような行いに答えを出せるだろうか。出せるとしても、少なくとも彼ら自身はそれを行っているとは思っていない。「愛」や「売春」といった人間独特の概念の世界に彼らは生きていないのだから。

 

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 少し想像の混ざった話をするのを許していただきたい。
 かつて船乗り matroos といえば現地妻と結びつけて考えられたが、逆に云えば、彼らがただ一人の妻しか持たなかった場合、さまざまな支障が出ることは目に見えている。そしてその船乗りの相手をする港の女たちも、いわゆる娼婦というよりは「彼らの妻」あるいは「彼の妻たち」なのであって、一夫一婦制に馴染んだ我々からは奇異に映るかも知れないが、これは一種の多夫多婦制であり、「彼らの妻たち」というのはとりたてて売春と呼ぶ必要はないように思える。

 

 近年のフェミニズム用語では「性暴力連続体」というのも耳にする。レイプから売春、恋愛、結婚まですべてをひと繋がりの連続体として認識しようという議論だ。これに僕は半ば同意する。

 恋愛や結婚にまで性暴力的なニュアンスを付加することになれば、男が男だというだけで糾弾されるような事態を招きかねないのではないか、という素朴な危惧はあるが、しかし性にまつわるあらゆる行為は連続体であるという認識そのものにはとくに異存はない。

 

 *

 

 他にも傍証として挙げたいものは幾つかあったが(たとえば夜這いや乱交風習、またイラン・エジプトの一時婚について)きりがないので、そろそろ文を締め括ることにする。

 

 恋愛と売春には明確な線引きはない。

 

 素人と娼婦のあいだにも確たる区別はない。

 

 一夫一婦制も絶対ではない。

 

 かくして、現存の恋愛観、売春観、また一夫一婦制的な家庭観を自分なりに相対化してみた。ひとえに、人間本来の性の多様性を認識しようというささやかな試みであったが、充分に説得的たり得たかどうかは読者諸賢の判断に委ねることとする。

 

ファウスト―悲劇 (1971年)

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フランス中世艶笑譚 (1984年) (現代教養文庫〈1104〉)

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十九世紀パリの売春 (りぶらりあ選書)

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売春という思想 (クリティーク叢書)

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売春の社会史―古代オリエントから現代まで

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言葉の暴力について

 侮辱、中傷、罵詈雑言は怖ろしい。それはもちろん、言われた側も恐ろしいのだが、言った側にとっても充分に恐ろしい行為である。相手の報復感情を刺激すること、また第三者の目を引くことによって、攻撃した側が攻撃される側にまわる可能性は常にある。だがそれだけではない。時には殺されることさえありうるからだ。

 人が他者に殺意を抱く理由のうち、最も多いのが侮辱されたことであるという調査がある。

 

 進化心理学者デヴィッド・バスが五千人に聞き取りを行ったところ、調査対象のうち今までに一度でも誰かを殺す想像をしたことがあると答えた人は、男性の91%、女性の84%にのぼったという(『殺してやる 止められない本能』平成十九年、柏書房)。
 バスはこの結果に大いに驚いたそうだが、このこと自体はさほど驚くに値しないように思える。だが問題はその理由だ。他人に殺意を抱いたことのあると答えた大半の人々が、身を守るためといった切実な理由ではなく、侮辱されたので報復したいと思ったと答えたという。

 

 *

 

 なぜ直接的な脅威よりも、侮辱や中傷といった言葉の暴力のほうがより強い報復感情を呼び起こすのだろうか。

 人が他人を攻撃したくなる、つまり怒りの感情というのは、自分のテリトリーが侵されたと感じた時であるとはよく言われる。ここでいうテリトリーとは、身体や家族、財産、土地といったものの他に、精神的な領域をも含む。

 

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 ペーテル・ブリューゲル『旅籠から追い出される酔っ払い』(1620頃)。乱闘の様子の背景には、静謐な教会が対照的に描かれている。

 

 ニコル・ゴンティエによれば、言葉の暴力は社会関係のなかで言葉が占める位置に結びついている。

 言葉の暴力は「取引や、人々の往来や、高い人口密度によって、人間同士の対話の機会がおびただしく増える都市的な環境においては、一段と影響力を持ったのである」(『中世都市と暴力』平成十一年、白水社)。
 彼によると侮辱は、小さな集まりで発せられる場合と、広場で叫ばれたり居酒屋で響いたりあるいは通りの建物に反響する場所とで、意味合いがまったく異なる。なぜなら都市生活においては評判はかけがえのない身分証なのであり、侮辱するということは「彼が共同体のなかで暮らしてゆく権利に異議を唱える」ことであるためだという。

  つまり、お前は盗人だとかろくでなしだとか公然と言われたさいに、すぐさま打ち消さずに拡散してしまうと、彼(彼女)は実際にそのような存在だと共同体から疑いを持たれるようになる。それはやがて現実的な排除に繋がってゆく。かつては共同体からの排除は生命の危機を意味した。侮辱は時として物理的な暴力以上の脅威だったのである。

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 今このような記述を読むと、多くの人がSNSを強く想起せずにはいられないのではないだろうか。SNSこそが現代における「人口密度の高い都市」であり、「広場で叫ばれたり、あるいは通りの建物に反響する場所」であると思えてならない。


 ニコル・ゴンティエやあるいはロベール・ミュシャンブレッド『近代人の誕生』が呈示するような、言葉の暴力が実際の暴力へ必然的に結びついてゆくさまは、各段に非暴力的な現代においては、どのように変化したのだろうか。

 もちろん、今でも実際の暴力へ発展してしまう例はあるだろう。しかしその多くは、実際の暴力という「捌け口」(決して歓迎すべきことではないが)を持たないため、泥沼の言葉の応酬、社会的な名誉の貶め合いに繋がっているのではないか。

 

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 ヤン・サンデルス・ファン・ヘメッセン『女の喧嘩』(1540)

 

 *

 

 実は僕は、罵詈雑言に対して元々は擁護したい気持ちを持っていた。

 それは民話やファブリオー、あるいは『ふらんすデカメロン』のような滑稽艶笑譚、『阿呆物語』『放浪の女ぺてん師クラーシェ』といった諷刺文学に、豊かな罵詈雑言の言語世界を見出すからだ。

 民話や風刺文学の世界において、あばずれ、与太者などといった掛け合いはありふれている。例えばファブリオーでは「神様、この人が長く生きませんように!」と夫の前で祈る妻などは非常にスパイスが効いていると思うし、柴田天馬訳『聊斎志異』だったと記憶しているが「この廃(すた)れ者!」という罵り言葉も好きである。

  こうした罵り合いは、上で述べたような排除、社会的抹殺のための侮辱や中傷とは別のものではないかと思う。

 

 このような例の最たるものは、吉行淳之介と赤線地帯の娼婦たちとの罵り合いであり、その様子については日高普(ひろし)のエッセイ「仰げば尊し吉行の恩」に活き活きと示されている。このエッセイについては谷沢永一『紙つぶて 自作自注最終版』(平成十七年、文藝春秋)において簡潔に紹介されている。

 

 とっかかりの娼家の女たちに吉行がまず声をかけた。それは誌上に収録できぬ類いの、ひやかすような馬鹿にするような調子の言葉だった。

 ただちに女たちは猛然とやり返す。その悪口雑言を浴びながら、吉行は得意そうな、どうです、と言わんばかりの表情で日高をかえりみた。次の娼家の前へさしかかるとまた同じことを始める。あがる気のないことを察知している女たちは、初めから寄ってたかって悪口の集中砲火。こうして一軒一軒やりあっているうち、見知らぬ者同士で悪口のやりとりをしている吉行と娼婦たちの間に、罵詈雑言を互いに投げつけ合うことで、そこになにかしら暖かい心が通じているのを日高ははっきりと悟った。

 

 ここに書かれていることを、ひとまずは虚心に受け止めたい。
 吉行の娼婦蔑視、また本当に吉行と娼婦たちとは心が通じていたのかという疑い、本当に心が通じていたとしても結局のところ客観的には差別なのではないかという問題、さらに過去のテクストを現代の価値観でどこまで批判しうるのかといった懸案。ポリティカル・コレクトネスが浸透する現在の我々にとって、この内容をそのまま受け止めることは、当然ながら難しい。

 

 だが、敢えて言えば娼婦うんぬんが本質なのではない。これは誰と誰のあいだにも当て嵌まる話だ。そもそも完全に対等の人間関係など存在しないのだから……と言ったら云い過ぎだろうか。

 ここで日高が云わんとしていることは、「罵詈雑言は排除とイコールではない」ということだ。罵詈雑言もまた交情であり、コミュニケーションでありうる、そのような可能性について彼は述べているのである。

 

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 *

 

 こうした、互いを殲滅しあうような誹謗中傷と、交情としてかつてあり得たかも知れぬ罵詈雑言とは一体、なにが違うのだろうか。

 もちろん違うのは奥底にある心だ。しかしそれを読み取れというのは不可能なことなのだろう。誰が他人の心を読めるというのか。SNSでは、互いのことをよく知らない者同士が、大抵は文字情報のみでやりとりする。表面上は罵っているがじつは奥底に暖かい心がある、などというやり方は通用しない。


 僕自身、SNSにおいて「おれは口は悪いが懐の深い、情けのある好人物だ」といったような態度は基本的に認めない。SNSにおいてはFtoF以上に表面上の礼儀がきわめて重要である(もちろん薄っぺらな慇懃無礼はすぐ見抜かれるので、表面だけでなくもう少し奥までは礼儀正しくなければならない)。

  正直なところ、いまの僕は罵詈雑言を擁護しようという気を失っている。

 学生時代は筒井康隆の毒舌の大ファンだった。また宮台真司が威勢よく「対米ケツ舐め外交」「ウヨ豚」等々云うのはとても痛快だが(ちなみにこれらは典型的な例にすぎず、宮台は左についても舌鋒を緩めない)、それは特殊な才能であるか、あるいは敢えて他人を傷つけることを辞さないとしているかであり、また本人にも業が返ってくることを覚悟してのことなのだろう。

 

 風通しのよい言葉のかけ合い。それは今日にあってはもはや望むべくもないのだろう。かつてはあり得たかも知れない社会的紐帯のかたちとして、罵詈雑言による交情は、フィクションのなかでのみ生き残るしかないのだろう。

 

「殺してやる」―止められない本能

「殺してやる」―止められない本能

中世都市と暴力

中世都市と暴力

紙つぶて―自作自注最終版

紙つぶて―自作自注最終版

休むことについて

 うたて此世はをぐらきを
 何しにわれはさめつらむ
 いざ今いち度かへらばや
 うつくしかりし夢の夜に
 (松岡國男「夕ぐれに眠のさめし時」)

 

 初夏の頃、妻の田舎の小さな神社でひとり座っていた。

 辺りには人影もなく車の音もなかった。風で林が揺れていて、それをただ眺めているうちに、いつになく心は静まりかえっていた。それは素晴らしい時間だったが、かえって普段の慌ただしさと脳の疲れを痛感して、明日からまた殺風景な街中に戻ると思うと、暗澹たる気持ちにさえなったのだった。

 

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 僕は休むのが苦手だ。おそらく昔、フルタイムで働いていた頃に非常な時間の欠乏を味わったからだろう。あの頃にわずかな時間でも読書したり、ウェブサイトを閲覧したり、あるいは今後の予定をメモ帳に書きつけたりと、とにかく脳を休ませない癖がついてしまった。

 何もしないでおこうとしても気付けば何かをやっている。入浴中も布団の中でも何事か思案している。小池龍之介が「考えない練習」と云ったのはまことに僕のニーズに合致したものだった。ただしどうしても実践できないでいるが。

 今などさほど忙しくなくなったのだから、もう少し悠々と構えてもよさそうなものだが、相変わらず勝手に焦って勝手に疲れている。しかも、それが生産的なことと結びついているかどうかというと、甚だ怪しいのである。

 

 こんなことでは長生きできない気もする。江上波夫はかつて「若いうちは勉強しすぎないほうがいい」(大意)と云った。なぜなら燃え尽きてしまうから。七十とか八十まで学問を続けるなら、若いうちに燃焼しすぎてはいけない。但しこれは、佐原真という、江上に比べれば三十ほど若いがすでにかなりの実績を積み上げている後輩学者に向かって云った話だけれども。

 

 *

 

 ともあれ、初めて訪れたわけでもないのになぜか妻の田舎での休息が忘れがたく、ある日思い立って一週間ほど休むことにした。仕事には行くし最低限の身辺のことはするのだが、それ以外は何の活動もせず、本の一ページも読まないことにした。

 だが今、六日目の夜を迎えて、それにほぼ失敗した自分がいる。やはりどの瞬間にも、かならず何かをやってしまうのだ。

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 *

 

 もしかして肩が凝っているのが原因かもしれない。肩が凝っていると緊張状態の脳波であるβ波が出やすい状態になる。そして何かしようとしてPCやスマホの画面を見てさらに覚醒状態になる。休もうとしてもついつい何かをしてしまう原因は、こういう悪循環にあるのかも知れない。後で肩のストレッチでもググってみることにしよう。

 

 リラックス状態に出るといわれるα波は、マッサージやストレッチの他に、食事や入浴や音楽などによっても出やすくなる。さらに低周波のΘ波は、景色を眺めたり入眠時に出やすくなるという。
 いっときアンビエントやミニマルテクノといった音楽ジャンルに興味を抱いたのは、それらを聴くことによってα波やΘ波が出る状態をつくりだし、くつろいだり癒されると同時に、人為的な幻覚を見てみたい、と思ったからだった。

 

 入眠幻覚というジャンル(?)がある。簡単に云ってしまえば、寝入りばなに見る夢うつつの情景のことだ。
 吉本隆明が『共同幻想論』において、『遠野物語』で語られる山奥の怪異はようするに度の強い入眠幻覚である(大意)と論じたのは、超自然的存在である山人が実在するとは思わないにしても、あまりに身も蓋もないという意味で衝撃だった。

 吉本の関心はその先、入眠幻覚によって呼び起される無意識の性質すなわち共同幻想に向かってゆくのだが、それはさておき、怪異をたんなる入眠幻覚とすることは味気ない話だが、逆に云えば『遠野物語』のような不思議を、ちょっとした仕掛けで誰もが体験することが可能だという話でもあり、それはそれで別種の夢を与えてくれる話でもあった。

 そんなことをやっていて脳が休まるのかどうかは怪しい。方向性の違うものを同時に求めるのはいかがなものか、と思うけれど、人は二兎を追いたくなる生き物で、まあ赦していただくより他にない。

 

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 休養期間は残り一日になってしまった。
 Aphex Twinの『Selected Ambient Works Volume2』を流しながら、意識状態を極限まで下げ(ようするにボケっとするだけ)、うまい具合に脳を休めつつ不思議な幻覚が見られるだろうか。僕も休むときは休めることを証明し、明日の英気を養えるだろうか。

総体としての繁栄を願うこと

 僕はリヒャルト・シュトラウスという音楽家が好きではない。

  それは例えば、1933年にブルーノ・ワルターがベルリン・フィルを率いて開催する予定だった演奏会で、ナチスから脅迫の電話がありワルターが身を引かざるを得なくなるという事件のさいに、あっさりと彼の代役を引き受けたのがR・シュトラウスであり、後に彼は第三帝国音楽院総裁となった……というような政治的態度のこともあるが、そういうことがなかったとしても、そもそもロマン派音楽の暑苦しさや重たさを耳が喜ばないためだ。

  R・シュトラウスは僕にとって、ロマン派の悪いところを煎じ詰めたような存在だ(あくまで僕にとってですが)。

 その荘厳華麗な響きを、ほんの数分聞いただけで僕はくたびれ果ててしまう。それでも二十代の多感な時期に買い求めたディスクが何枚か手許にあり、いま、この文章を書くために聴き返してみるべきかためらっている。

 

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 そういうR・シュトラウスに対する印象が多少なりとも変わったきっかけとなったのが、柴田南雄『現代音楽の歩み』(昭和四十年、角川書店)であった。

 

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 この本は一風変わった現代音楽の入門書で、1900年から1960年までの音楽的収穫を一年ごとに区切って見てゆくという特徴がある。これによって通常の入門書にはない、この年は豊作だとか次の年は不作といった音楽界全体の興隆がかなり明確に伝わってくる。

 例えば1908年の出だしにはこうある。

 

 「この年あたりから第一次大戦前夜の1913年ごろにかけて、ヨーロッパの作曲界はとみに充実してくる。新人旧人とも、後世に残る大作や問題作をぞくぞく生みはじめる。この五年ほどの間は、二〇世紀作曲界の最初の上げ潮である。豊かな実りの時期である」

 

 また1916年ではこう書かれている。

 

 「戦争もたけなわなこの年になると、音楽作品の実りはまことに少ない。その代わり、いかにも戦争中らしい異常な、あるいは悲惨な話題が少なくないのである」

 

 そして1918年。

 

 「終戦への予感と、現実の休戦に伴う解放感は若い世代の創作欲を刺戟し、1918年は大戦中の年々とは比較にならぬ充実した年となった。ここに新しい音楽時代が始まったという感を深くする」

 

 音楽界はこの後も何度も浮沈を繰り返す。たとえば翌1919年は前年のような勢いはなく不作。1926~28年あたりは、音楽のみならず、文化芸術そのものの絶頂期である、だがやがて欧州情勢はきな臭くなり、再び文化芸術の冬の時代が訪れ……云々。

 

 こうして読者は、読み進めてゆくうちに次の年はどうか、また次の年は、と音楽界全体の実り多きことを願わずにはいられなくなるのである。いわば個々の音楽家ではなく音楽界そのものに感情移入するのだ。

 そしてそのような視点からは、日頃の「好きな音楽家」「嫌いな音楽家」というこだわりはかなりどうでもよくなり、どの音楽家も、時代や芸術的潮流との交わりのなかで各々の人生と作品を刻むのであり、そこに意味のない存在などないことに思い至らされるのである。


 そしてR・シュトラウスもまた、豊かな年には彩りを添え、不作の年でも孤軍奮闘するがごとく何がしかの作品を発表したりする姿を見るにつけ、敵意は薄れ、少なくとも音楽史上に欠けてはならぬ存在であったか、と認識出来るようになったのだった。

 

 *

 

 谷沢永一『紙つぶて 自作自註最終版』(平成十七年、文藝春秋社)は、著者が昭和44年から58年まで大阪読売新聞で連載していた455篇の書誌学的コラム(という言い方がふさわしい)のすべてに新稿を加えた大著で、全篇にわたって著者の出版文化に対する深い造詣と熱意の溢れる驚嘆すべき書物だが、この書においても、連載という特徴と谷沢の視野および関心のおかげで、読んでゆくうちに出版界全体への感情移入が生じる。

 

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 書物であるということはもちろん、音楽よりもいっそう中立的であることを難しくする。

 音楽批評にも当然、政治性やさまざまな思惑が介在するが、それはやはり書評(上で述べたように谷沢永一の書くものは「書誌学的コラム」ないし「出版批評」とでも呼ぶべきものだが、ここでは手短に「書評」とする)の比ではない。

 しかも谷沢永一は、言論人としてはゴリゴリの保守であった。いくら本業が書誌学者とはいえ、果たしてどの程度中立的な書評が可能なのであろう。僕にとってのR・シュトラウスがそうであったように、谷沢が政治的に好まぬ出版社、書き手はどのような扱いを受けるのだろう、という懸念は、しかし読み始めるや否やほとんど払拭される。

 

 確かに岩波書店であるとか、左翼的な書き手に対して厳しい発言が多いとも取れるのだが、まずは書誌学者としての誠実さが勝っていると云えるだろう。例えば次のような記述。

 

 「『丸山眞男集』全十七巻は、火事場騒ぎのように慌しく編集したのではなく、十分な余裕を得て入念に仕上げたのであろうと推察する。然るに出来上がったのを見れば、別巻のいちばん大切な索引を、人名索引だけでお茶を濁している。書誌学の誰もが心得ているところ、索引のイノチは事項索引である。人名なんかどうでもよいのだ。現に『丸山眞男講義録』全七巻の最終配本第六巻には、人名索引書名索引とは別に、詳しい事項索引が備わっている。やれば出来ること明白ではないか」

 

 これは明解な書き方だ。岩波の『丸山眞男集』には事項索引がない、そして「索引のイノチは事項索引である」ゆえに批判する。これならば読者は、論点も谷沢の意見もはっきりしているので、いずれに分があると見るか、各自で判断することが出来る。

 そして結局のところ、論点やそれに対する自分の意見を明確に書き、反論可能な状態で呈示したほうが、なまじ晦渋な言葉で論点や立ち位置を不明瞭にする類いの批評よりも、強い説得力を持つということも云えるだろう。

 

 この書における谷沢の議論の多くは、こうした編纂や出版社の姿勢を問うものとなっている。

 全集や辞書への言及が多く、また月報、内容見本、PR誌といった、通常の書評ではほとんど扱われないが出版文化としては無視できないものに対しても関心が行き渡っている。だからこそ上で述べたような、出版界全体への感情移入、「総体としての繁栄を願う」心境に至らせてくれるのである。

 

 *

 

 僕は学生時代、左翼仲間から「退嬰的な文化主義者」とからかわれていた。

 彼らの云わんとするところは、好奇心旺盛だがそのぶん目移りしやすい、一つ処に落ち着いて学ぶところのない青年ということであり、彼らにとっての正統な文献、正しい世界観を逸脱するところ甚だしかったためである。

 僕の趣味や関心に対し「観念論」だとか「ブルジョワ芸術」みたいなことも云われたように思う。戦前に非合法活動家を匿い、あれこれ援助していたにもかかわらず、その思想は容赦なく批判されたという、ある新カント派知識人の話をどこかで読んだことがあるが、そんな悲哀を彷彿とさせると云ったら大げさだろうか。いやまあ大げさなんですけど。

  

 しかし今にして思えば、やはり当時の自分はあれでよかったのだし、それはいまの自分に明確に繋がっている。主義主張や価値観を持つことは重要なことかも知れないが、度が過ぎるとセクト主義になり、世間や文化を見る目も、他者を尊重することにも支障が出てきてしまうのではないか。


 山口昌男は高山宏との対談「よき隣人関係をめぐって」(『ユリイカ 総特集:20世紀を読む』所収)のなかでこう述べている。

 

 要するにスターリニズム、ナチズム、ファシズム、人民戦線によって埋もれてしまった感性というものがあった。戦後の日本はそれに全然気がつかずに、相変わらず社会主義やなんかで、そういうやわらかい層を覆い隠してしまったと思うんです。

 

 政治的立場を取ったら何も残らない類いの言説は貧しく、かなしい。立場が固定しきっていて次に何を言うか大体わかってしまう人の議論もむなしい。

 あらゆる書き手と読者にとって、時には自身の立場を離れ、総体としての繁栄に思いを致す必要があるのではないかと思うゆえんである。

著者の知性と対峙すること

 本を読むということは、知識を得るだけではなく、著者の知性と対峙することである、というのは当たり前のように聞こえるが、では著者の知性と対峙するとは実際にどのような読み方をすればよいのか。その理想的な例は、中野孝次『ブリューゲルへの旅』(昭和五十一年、河出書房新社)と、それにたいする高階秀爾・中村雄二郎・山口昌男らの書評(『共同討議 書物の世界』、昭和五十五年、青土社)に見出せる。

  

 『共同討議 書物の世界』は、それぞれ美術史家、哲学者、文化人類学者である三人が鼎談方式でさまざまな本に論評を加えてゆくものだが、それに留まらず対象となる書物群を生み出した文化状況を問うことや、書き手の姿勢、また書評とはいかにあるべきかといった問いを同時に検討してゆくという意欲作だ。

 

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 いっぽう『ブリューゲルへの旅』は、文学者である中野孝次の思索的エッセイである。戦中派の一文学者である中野が、さまざまな西欧文化(とりわけトーマス・マン)への憧れやコンプレックスを抱いていたものの、ウィーンに留学したさいにそれらのものに幻滅し、そこでブリューゲルの絵に遭遇して、〈ブリューゲルとの対話〉による自己検討を通じて「戦後の日本の知識人の西欧への姿勢を問い直そうとしたもの」(中村)である。

 

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 ここで最も厳しい論評を加えているのは高階秀爾である。西欧美術史の第一人者が文学者のブリューゲル論を相手にすれば当然のことのように思えるが、さすがに高階もそこは最初から相手にしていない。軽く「ブリューゲルについて新しい知見を与えてくれるものではまったくない」と述べたあとは、むしろ中野の知識人としての姿勢について批判的に検討を加えてゆく。

 

 それは、端的に云えば「なぜトーマス・マンがダメで、ブリューゲルなら大丈夫と思えるのか」ということだ。これについて高階は「かつてのトーマス・マンの〈ことば〉には、虚しいという想いを噛みしめたんだけれど、今度は〈絵〉なら大丈夫だろうと言ってるだけで、やっぱり同じことをしてるんじゃないか、という印象が非常に強いんです」と述べている。

 山口昌男は杉浦明平の言葉を引いて云う。「狐に欺されて肥桶に入った男が、もう一つ別の肥桶に入って、今度こそいい湯だなと言っているのに近い」面白いが、これはあまりに辛辣であろう。

 

 さらに批判は、中野孝次のコンプレックスの根底にある田舎者の意識だとか、野間宏『暗い絵』の影響から抜け出せておらずブリューゲル観が古くさいこと、またブリューゲルで語ったようなことをトーマス・マンでどこまで語れたかという可能性について見ていないことなど、中野の知識人としての姿勢の端々に及ぶ。

 補足すると、これらは趣味としてなら何も問題ない話である。田舎者だろうがブリューゲル観が古かろうが個人の勝手だ。だがブリューゲルを論じつつ戦後知識人のあり方を問うてゆく著作のなかで、こうしたことが意識に上らず処理されることがなかったとすれば、そこは批判を免れ得ないだろう。

 

 *

 

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 ピーテル・ブリューゲル『雪中の狩人』(1565)

 

 とはいえ実際に『ブリューゲルへの旅』を読んでみると、また違った感想も湧いてくる。というのも、評者たちにある程度共通するようなポストモダン的批評の立場からすれば、中野孝次の自意識に密着した書き方、印象批評は仮想敵と云ってもいいような批判の対象だっただろうが、今日から読み返すと、評者たちの姿勢にも幾らか過剰さがあったのではないかと伺えるのである。

 『ブリューゲルへの旅』はすっかり成敗されてしまい、もはや読む価値はないのか。そうとも思えない。例えば冒頭の著者の少年時代の述懐は、今日の読者にとっても切実な問題意識を示していると云える。

 

  「あれが始まりの合図だった。そしてわたしはそっちのほうへひたすらに突き進んでいったのだった。聞きかじりの教養主義で武装したやみくもな少年のエゴイズムで、その音のするほうへ、白線帽と近代絵画とトニオ・クレーゲルのほうへ、貧しい平凡な労働者の家庭から、遠くに西洋というものがある世界へ」

 

  しかし中野はそのような自分の半生を振り返り、

 

  「すべてあれは、目の前にそこにあるものを見ないようにするための、総がかりでだれもが巻き込まれていた理性のまどわしだったのではあるまいか」

 

  という疑念に駆られるのである。

  このような自意識の問題を巡っているかぎり、書き手がどのように内的に変化したと述べようが、ポストモダン的な脱アイデンティティの見地からはそれは「もう一つの肥桶」だと無限に云い続けることが出来る。

 そもそも双方は異なる知的潮流に属し、異なる知をアガルマとする。そうであれば、上のような酷評は宿命づけられていたと言えると同時に、やはり真実の片面のみを表すものと見るべきだろう。

 実際、本書のなかには中野の「挑発」とも読める箇所がある。

 

 「肝腎な点、ブリューゲルの絵がなぜわたしに働きかけてくるのかという点については、知識はなんの手助けもしてくれなかった。ある研究者はそれをマニエリスムとして様式的に説明し、ある人は近ごろ流行のイコノロジーから個々の形象の「意味」を解明していた。結局わたしは何度でもまた絵に戻って、ただじっと見ているしかなかったのである」

 

 「近ごろ流行の」という言い回しが悪意であることは云うまでもない。これはイコノロジーに深い関心を抱き、各所で発言していた山口昌男に対してかなり当てつけがましく受け取れるし、高階秀爾にとっても似たようなものであっただろう。

 

 また次のようなことも見えてくる。中野孝次の文学的文体は読者を感情的に動員するところがある。このタイプの文学的文体はしばしば保守的な内容を包み隠し、読者に浸透させる機能を果たす。ゆえにポストモダン的批評は、このような文体の美を度外視し、その保守性を白日の下に晒し相対化することを基本的任務とする、と。

 

 *

 

 さて、こうした検討は、思索的エッセイというジャンルのために促された部分はあるが、入門書や事実のみを追求した研究書でも原則は同じであると考える。すなわち人文書には必ず「著者がその時期にそれを書いた理由」「著者の題材に対する知的姿勢」「その本が生まれるに至った文化状況」が存在する。冒頭にも当たり前のようなことと書いたが、ここまで読めばその意図するところはわかっていただけただろう。


 テーマについての知見に加えて、こうしたことを意識して読むことが読書において重要である……となにやら偉そうな結びになってしまったが、僕自身もこれからの課題として考えているところである。

 

均一本のこと

 やはり一冊の本から話を始めるのがよいだろう。

 それはなんの本でもよいのだが、今、たまたま手許にあるのは亀山巌の『裸体について』(昭和四十三年、作家社)である。限定五百部とうたっているが、市価は昔も今もせいぜい仕事帰りに一杯飲むていどだ。亀山巌は詩人、装幀家、名古屋タイムズの社長としてけっして無名な人物ではないのだがプロの文筆家ではない。元版があり、そのうえで限定版五百部というのはそこそこ多い部数なのだろう。

 

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 この、彼自身が手がけた、いかにも若い読者の猟奇趣味をそそりそうな表紙をめくると、「裸体を中心として」「愛欲を支える店の話」「ポルノグラフィの黄昏」「情欲という結び合わせ」といった期待に応えそうな章題が並んでいる。そこで読み始めると、まず次のような一文がある。

 

 「古書漁りの楽しさは埃のつもった書棚や均一本の山を勝手にかきさばくところにある」

 

 そう、古書漁りの話から始まるのだ。しかも「屑拾い」(後述)たるところの均一本漁りの話からである。つい先刻、銭湯帰りに古本屋に立ち寄ってこの本を求めた読者は、こう思ったにちがいないと想像する。「これではまるで、ついさっきの自分みたいじゃないか……」

 

 亀山巌はその日の古書漁りについてこう書いている。

 

 「ストラッセ『女性裸体美の研究』という例の本をみたのは……洋書の棚の蔭にかくれたときのことであった……値段をきいてみると、財布のなかの金額とはずいぶん隔たりがあったので、かわりに『ハンス・ホルバイン、出版屋のための図様と木版画』という小型本を煙草一個ほどの金で買った。それから駄本の山をひっくり返しているうちに、『新陳代謝の衛生』というタイトルのついたフランスの通俗医学書がでてきたので、何気なくページを繰ってみると股をひろげた女の挿絵が入っていた……誘惑にかられるまま若干金をだし、さらに一冊『造科機論』というおかしな本を、まるで子供が駄菓子屋であれこれと、そのたびに金をだすような恰好で払って買ってしまった」

 

 いやはや、これぞ模範的な「屑拾い」の態度である。欲しくても、また職業上必要なもの(ここでは単に食べるための職業の意)であっても予算を越えたもの、あるいは割高なものは素通りし、それより店先の均一本であれこれと「掘り出し物」を拾うのに夢中になる。


 「裸体を中心として」というエッセイは、こうしてアトランダムに手に入れた四冊の本について紹介しながら、徒然に思い出したことや考えたことを書いてゆくという内容である。

 なるほどこれは良いアイデアだ。古本屋でたまたま目にした本について書く。これなら幾らでも書けそうだし、なんなら一冊全部それで始まるエッセイ集があったら読んでみたいものだ。亀山巌が本当に一度の古書店訪問でこれらの本に出会ったのかどうかは知らないけれど。

 

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 この「屑拾い」という言葉は、ヴァルター・ベンヤミンがエッセイのなかでフックスのことを敬意を込めて「拾い屋さん(ramasseur)タイプ」と呼んだことを、僕が多少拡大解釈して使っている言葉だ(『ヴァルター・ベンヤミン著作集2』「エードゥアルト・フックス 収集家と歴史家」)。

 

 ベンヤミンによると、フックスはエロチック美術や風刺画、風俗画研究におけるパイオニアである(もちろん異論はない)。そんな彼の資料収集は、必然的にすでに「価値がある」と認められている古書や古物ではなく、しばしば他人からはガラクタ、屑に見えるようなものに向かうことになる。

 研究において新たな分野を開拓するということは、その資料収集においては、他人から見たら「屑拾い」にしか見えない場合がある。何故ならそれは現在の価値ではなく、未来の価値を志向しているから、というわけだ。

 このような奮闘は、一例を挙げるとわが国では柳田国男について云えるだろう。まだ民俗学が学問として認められていなかった若い頃の柳田国男は、雑書ばかり読み、民衆の風俗などに関心を持つ変わり者だと周囲から見做されていたという。

 

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 またベンヤミンは、バルザックが『従兄ポンス』のなかで収集家について書いた文章を引用する。

 

 「諸君はよくパリの町でポンスのような男やマギュスのような男が、向こうから歩いてくるのを見掛けたことがあるだろう。彼らの身なりは至って貧乏くさい」

 

 「財布を空にして脳味噌をどこかへ置き忘れてきたような恰好で、言ってみれば、まず行き当りばったりに歩いている」

 

 そして、フックスの人間像はまさにこのような姿に近く、フックスこそ「バルザックの構想を越えてさらに成長したバルザック的人物」であると述べている。ベンヤミンは深くフックスを敬愛しているのだが、さらっと読むとまるで馬鹿にしているようである。

 

 さて、こうした態度は蒐集家として見た場合、アンドルー・ラングのような正統派からは逸脱したものと映るかも知れない。だが古典的名著であるラングの『書斎』には、上述のフックスの態度と驚くほどの共鳴を示している箇所もある。それは次のような箇所だ。

 

 「人間の歴史の過去の一時期、人間精神の古い一様相を研究の対象にしている連中であれば、他の蒐集家たちにとっては紙屑としか映らないような同時代の薄っぺらな本まで血眼になって集めまくるだろう」

 

 「古い誹謗文書、風刺詩なども、歴史上の疑点を解く鍵となったり、過去の風俗習慣を浮かび上がらせたりすることがある」

 

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  *

 

 念のために云っておくと、さすがにフックスが均一本ばかりを漁っていたわけではないし、そこまで貧乏くさい身なりをしていたかどうかも疑問ではある。どうやらフックスに対して屑拾い的なイメージを強化しているのは、ベンヤミンの同エッセイについての山口昌男の言及に原因の一端があるらしい。

 

 山口昌男は『本の神話学』に収められている「もう一つのルネサンス」のなかで、フックスのことを「(わが国では)いかもの喰いの雑食家であるという印象が一般化している」と書いている。

 またベンヤミンがすでに云っていることの引用やあくまで間接的な言及とはいえ「時にはほとんどガラクタとしてしか感じられていない物を採集する」とか「彼はけっして学者タイプにはならなかった」「どうしようもない屑の中に人間の秘密を説く最も大切な鍵が見つかると信じて来た」「蒐集家=拾い屋さんの系譜」等々書き連ねており、これを若い頃に読んだ僕は、すっかりフックス=屑拾いの人という印象を抱いてしまったわけである。そう間違っていない気もするけれど。

 

 そして、その山口昌男にも均一本漁りの趣味があったらしく、同書の文庫版に収められている「補遺 物語作家たち」というエッセイは次のように始まる。

 

 「廉価本の棚を漁っているとF・S・クラウス、安田一郎訳『日本人の性と習俗 民俗学上の考察』(桃源社)という本が比較的廉価に入手することができる。筋のいい読書人・研究者は、こういった性学書的体裁で訳出される本をあっさり価値低きものと断じるきらいがないでもない」

 

 結局、ベンヤミンにしろ山口昌男にしろ、自分が信念を抱いているパイオニア的学者の理想像をフックスに投影したのだろう。

 

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  *

 

 さてここまで書いてきて、均一本漁りは価値創造に繋がるということが伝わっただろうか。均一本というのは、たしかにその時の価値体系からは見捨てられているクズ本、クズ資料の山だが、それは見る人次第、将来どうなるかはわからない。胸ときめかせて「屑拾い」に出かけよう。

 

裸体について―亀山巌エッセイ集

裸体について―亀山巌エッセイ集

 
書斎

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