やすだ 😺びょうたろうのブログ(仮)

安田鋲太郎(ツイッターアカウント@visco110)のブログです。ブログ名考案中。

夢のような感覚で過ごす方法

 夢を観ている時の、あの現実感の希薄さ。一見昼間と変わらずに生活しているように見えて、どこかその着実さ、束縛でもある確かさから浮遊しているあの感じ。その中で私たちは、しばしば無鉄砲になり、モラルを見失い、そしてひどい悪夢に転落する。*1

 もし現実があのようなものだとすれば、我々はとても暮らしてゆけないだろう。毎日のように靴を盗まれたり、重要な発表前に何も準備できていなかったり、兄弟と罵り合ったり……そればかりか、車ごと池に転落したり、家が倒壊したり、隕石が降ってきたり。決して長くは生き延びられまい。

 

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 フェリーニ『81/2』。

 

 だが夢の現実感の希薄さにはどこか自由があるのも確かだ。

 朝になって目が醒め、安堵の溜め息をつく夢もあれば、逆にそれが現実ではなかったことを惜しまずにはいられない夢もある。鈍重な、忙しいくせに変化のない日常が、未だ開けきらぬ瞼に鬱々とのしかかってくることもある。

 昼間の生活を、夢のような浮揚感とともに過ごすことは出来ないだろうか? もちろん危険なしにいいとこ取りで。

  僕はしばしばそのようなことを考え、脳波の状態に一つのカギがあるのではないかという仮説に至って以前少しブログに書いたこともある。*2 脳波については今後も試行錯誤して行きたいのだが、先日それとはまた違ったアプローチを思いついたのでそのことを記す。

 それは、現実感を支えるものとしての生活のルーチン、「毎週同じ時間に同じ場所にいて、同じ行為をする」ことが崩されると、人は意外とあっけなく夢のような意識状態になるのではないかということである。なぜそう思ったのか。

 

 * 

 

 ツイッターを始めてからイベントに参加したりオフ会をする機会が増えた。なかには遠方から訪れ、僕の家に泊まってゆく人もいる。あるいは日帰りでやって来るが、朝から晩までじっくり相手するために僕のほうが休暇を取る場合もある。

 そういうオフ会の後は、たいてい曜日感覚が微妙に狂う。たとえば翌日に働いていて、今日が何曜日なのか、あと何日働けば休みなのかがふとわからなくなる。確認しても実感が持てなくて、あれ、おかしいなあ、変な感じだなあと何度もカレンダーを見たりする。一週間のなかの時間的座標を見失っているわけである。

 

 空間的座標にしてもそうだ。先日やってきたフォロワーの佐々木君とは、仕事の後に待ち合わせて東北料理の店やらバーを数軒ハシゴした。いずれも初めて行く店ではないが、僕はそう普段から飲み歩くタイプでもないので、やはり日常とは違った場所にやって来た感じで、少し感覚がおかしくなるのである。

 

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 佐々木君撮影。 オフ会で行ったバーのうちの一軒。

 

 また夜は夜で修学旅行気分のツイキャスをやり、翌朝は金山という普段の生活ではまったく利用しない駅のホームで彼を見送った。彼を載せた電車が発車し、やり遂げたな、と踵を返したその時である。僕は当然こう感じた。

 

 「あれ? いま夢みたいな感覚じゃないか?」

 

 その時僕は、時間的座標・空間的座標の両方を一時的に喪失していたのである。

 普段ならばおそらく新聞を読んで妻と会話している頃合いだが、気付けば見知らぬ場所で、掴みどころのない中途半端な時間(たしか午前11時頃だった)に佇んでおり、「いったいここで自分は何をやっているんだろう?」と首を傾げたくなった。

 時間にしても場所にしても頭ではわかるのだが、現実味に乏しく、目に映る何もかもが曖昧で意味のゲシュタルト崩壊を起こしていた。これこそまさに「夢の感覚」だなあと思い、かくしてルーチン的な時間・場所・行為を乱されることによってそれは生じるという推論を得たのだった。

 

 *

 

 こうしたことについては、社会史的に一つ思い当たることがある。それは百貨店の構造と婦人の万引きについてである。

 マイケル・ミラーは百貨店の「客の目をくらませ混乱させるために理性を麻痺させる環境」は意図的に作り出されたものであると分析している。*3 そのことを受け、ジョアン・フィンケルシュタインは次のように述べている。

 

 一九世紀後半、百貨店に発生するある精神病にかんする医学初見がいくつも公表された。それは百貨店で女性たちがなんの必要性も理由もないのに、見さかいなしに万引きするというものである。

 (中略)

 ある万引きが心因性のものかただの犯罪かを区別するにあたっては、百貨店が重要な役割を演じていた。なぜならこの窃盗症という病気は百貨店が引き金になると考えられていたからである。百貨店は外国からの魅力的な商品をふんだんに陳列し、方向感覚をうしなわせるようにフロアを設計し、ぜいたくな品をだれの手にも届くようにすることで、女性を道徳的に堕落するようにそそのかし、その結果彼女は思わず商品を持っていってしまうというわけだ。*4

 

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 ボン・マルシェ。まるで地上にあらわれたピラネージの牢獄である。

 

 フィンケルシュタインは「道徳的堕落」あるいは「道徳的混乱」「理性の麻痺」といった言葉を用いるが、ようするに設計者の巧妙な意図によって現実感覚を喪失させられ、夢のような気分で散財してしまう(そしてその副作用として万引きしてしまう)ということである。つまり、僕が金山駅のホームで味わったあの夢のような気分は作為的に引き起こせるということであり、またそういう時には大抵、金銭感覚やモラル感覚の一時的喪失といったリスクが伴うということでもある。

 実際のところ、佐々木君を送り出した後、僕はちょっとした場所でちょっとした散財をしてしまったのである(万引きじゃなくて良かった……)。

 

 * 

 

 かくして、昼間に夢のような感覚で過ごす方法とは「日常のルーチンを狂わせること、普段行かない場所へ行ったりいつもと違うことをすること」ということになる。またそうした状態にはリスクが伴うことも見た。顧みるに、以前のブログで書いた脳波の話にしても(註2を参照)、自分の置かれた状況を冷静に分析して次の適切な行動を導き出すβ波のモードにたいし、状況をあまり精密にスキャニングする必要のない、緊張やましてや危機の遠いα波やΘ波の状態、という対置で考えられるかも知れない。

 

 このあたりは「旅の恥はかき捨て」とか「ひと夏の恋」とか「散財祭り」とか、よく知った語彙にもその性質に迫るものがある。ただ、ここまで書いてきて単に気分転換しろという話とも微妙に違うことが伝われば幸いである。

 人はたまにはボートに乗って、オレンジ色の木やマーマレード色の空を見上げたり、誰かの呼び声に耳を傾けたり、万華鏡の瞳をした少女に会いにゆく必要があるのだろう。息抜きだけではない、謎めいたものが生活には必要だ。

 

夢の心理学―生活に夢を役だてる

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8 1/2 普及版 [DVD]

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ファッションの文化社会学

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*1:カートライト/ラムバーグ『夢の心理学』によると、通常、夢の3分の1は悪夢だという。悪夢は我々が思っているよりはるかに日常的なものである。

*2:

visco110.hatenablog.com

*3:Miller,Michael(1981)The Bon Marche:Bourgeois Culture and the Department Store, 1869-1920/当ブログの記述はジョアン・フィンケルシュタイン『ファッションの文化社会学』に依る。

*4:前掲書

素人童貞という不気味な男

 

 素童『昼休み、またピンクサロンに走り出していた』。

 一読して思い浮かんだ「料理法」は二つあった。一つは社会学者ジョージ・リッツァの「マクドナルド化」のパラダイムを用いて語る方法。リッツァは現代社会の合理化過程は外食産業に留まらず、学校や病院、娯楽など社会のありとあらゆる領域に及んでいると主張しているので、本当にそうならばそれは性風俗についても言えるのではないかと思ったわけだ。とりわけリッツァがその特徴の一つとして挙げる「予測可能性」。言うまでもなく、性風俗の予測可能性はかつてなく高まっている。料金、内装、サービス内容、そこでやりとりされる会話まですべてが画一化しており、よく言えば安全安心、悪く言えば非人間的で味気ない。かつて寺山修司はトルコ嬢との出会いこそが現代の「他者との遭遇」である、という意味のことを書いていたが、そんなことを望めるような時代ではない。

 だが果たして本当にそうなのだろうか? それは我々の探求心の欠如にすぎないのではないか? と素童こと素人童貞は問う。したがって彼の実践とは、性風俗というフィールドを通じた、現代社会の予測可能性にたいする反逆である、というような。

 

 もう一つはあまり面白くないアプローチで、ようは「性の商品化」の観点から語るというものだ。経済的領域に取り込むべきではないものとして「土地」などとともに「性」を挙げているカール・ポランニーの議論を援用することによって多少は面白くなるかな、と考えたのだが結局のところそのどちらもやめた。

 

 そういう、「横文字の学者の理論を一つか二つまぶしてシャレたエッセイいっちょあがり」みたいなのはこの本に対して白々しいと思ったからだ。そんな文章は書こうと思えばいくらでも書けるが、この書評でそれはやめよう。もしかしたらこの書評をきっかけに僕自身がだんだんそういうスタイルをやめてゆく可能性もあるが、そこはわからない。*1 とにかく、素人童貞といえば直接会ったことはないが、彼がツイッターを始めた頃から頻繁にやりとりをしている(そうでもないか?)多少は知った仲であるし、この本を読んで本当に思ったことは何だ? と自分に問うてゆくうちに、上記のようなアプローチとはまったく違った、決してシャレオツではない、泥臭い関心が見えてきたからだ。

 

 *

 

 で、この本を1.5回ほど読んで、何が最も気になったかというと「素人童貞の真剣さはどこにあるのか?」ということだ。

 素童『昼休み、またピンクサロンに走り出していた』は、文体に独特のジョークを含んだ性風俗エッセイとして軽く読み飛ばしてしまうことも出来る。世の中にディープな性風俗ユーザーはごまんといるし、文章が器用な奴もたくさんいる。だが、それならばこういう本が今までにあったかというと、ちょっと思い当たらない。

 それは「ディープな性風俗ユーザー」と「文章が器用」という二つの個性が偶然に一人の人間に宿ったということではあるが、その偶然を超えた何かでもある。少なくともそういう「何か」が、この本にはある。

 

 どこか変なのである。普通に云って、これだけ性風俗に通いつめること、しかもM性感からVR風俗、男の娘ヘルス、外国人ヘルスまで喰いちらかす横の拡がりと、「お店からの紹介文を計量分析」するような深度、そしてそれらの体験をブログに綴り、一冊の書籍化ではとうてい収まりきらないような文量を発表し続ける情熱は尋常ではない。にもかかわらずその文体やTwitterで知る彼の面影には、そのような情熱の根幹となる真剣さ、切実さ、実存的な苦悩といったようなものが見えてこないのである。

 サイコパスちゃうんか、と思ったりもする。一応は本書でも愛や孤独について語っている箇所はある。しかしそこに真剣味はない。「顔面舐めの唾液は、慈しみの涙」やM性感嬢の箇所で、ちょっとこれは真剣かな? 実存かな? と思ったけれどやはり違う。あるいは本人は真剣に書いているつもりでもおどけた感じに読まれてしまう業を背負っているのかも知れないが……やっぱりそうではないのだろう。

 この「過剰な情熱」と「実存の欠如」(に見えるもの)のちぐはぐさが不気味であり、それがまたTwitterアイコンの福沢諭吉の不敵な笑みによくマッチして、なんともキモチワルイのである。

  

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素人童貞のツイッターアイコン。キモい。

 

 ちなみに僕はツイキャスで彼とほんの僅かだけ喋ったことがあるが、そのさいにも彼の不気味なイメージは緩和されるどころかさらに不気味になっただけであった。タモリ倶楽部に出演した映像を観ても、やはり依然として得体が知れない存在であり続けた。ロフトプラスワンで実物を見た人はまたちょっと印象が違うのかも知れないが、とにかく、僕にとって素人童貞はずっと理解不能なままの「笑う福沢諭吉」という仮面を被ったマスクマンなのであって、なかなか本性を出そうとしない。出すのは精液だけである。

 

 * 

 

 結局彼がどういう人であるかはわからない。じつは鬱々とした哲学者気質であって、そのことは巧妙に隠しているという可能性もあるし、本当に何も考えてない奴なのかも知れない。いずれにせよ憶測にしかならないし、べつに暴き立ててどうこうというつもりはない。

 只、そういうことが一つの謎めいたイメージとして他人を魅きつける、興味を喚起するということは、彼がそのように振る舞うかぎりは今後も続くのであり、もしかするとそれが彼の最も「セクシー」な部分なのかも知れない。猫も杓子もインテリになれる時代にあって、謎めいた沈黙を貫くことのほうがむしろ困難なのだ。

 

 *

 

 最後に書評らしいことを書いておくと、この本を標準的に読んだ場合に得られる最良の教訓は「好きなことを突き詰めれば道は拓ける」というものである。

 英国の批評家ヒレア・ベロックは「ひとつの主題に集中することの大事さ」を説く。もし半生をミミズの研究に費やすのなら、あなたは晩年、ミミズの権威になれるでしょう。問題はあなたにとってのミミズを探すことだ、と。*2 素人童貞は自分のミミズを見つけたのである。只しそれはミミズ千匹だったようだが。 

 

*1:この書評を書いている頃、ネットではさまざまな書籍の無断転載が問題になっていた。なかには絶版回収となったケースもあり、また無断使用された側との和解がなかなかつかずに揉め続けていたケースもあった。それらのトラブルを見ていて、なんだかゲンナリしてしまい、具体的にこれまで僕が書いてきたブログに問題があるとは思わないが、それにしても引用に頼らない文章、自分の問題意識に執拗にこだわってグジグジグジグジ書き続ける文章に路線変更したい気分だったのだ。

*2:ロジャー・ローゼンブラッド『だれもあなたのことなんか考えていない』に依る。

マスコミの空白、ネットの退廃

 

 1998年、アメリカ・カリフォルニア州の小都市ベルにある地方紙が休刊し、市役所を担当する記者がいなくなりました。記事(安田:2011年朝日新聞デジタル)によると、そのことをきっかけに、市役所所員トップが自分の年収を500万円から12倍の6400万円まで段階的に引き上げたそうです。決して違法な手段ではなく、市議会の承認まで得ていたといいます。*1

 

 これを書いているいま、世間は日産自動車会長カルロス・ゴーン氏の金融商品取引法違反容疑による逮捕の話題でもちきりである。ゴーン氏は2011年からの5年間で100億近く受け取っていた報酬の、およそ半分しか有価証券報告書に記載していなかったという。このことをスクープしたのは朝日新聞だが*2、それにしても5年間ものあいだ、なぜ事が露見しなかったのだろう。マスメディアの監視力・取材力の衰退を感じる。

 

 そこで思い出したのが、冒頭に掲げた、カリフォルニア州ベル市の市役所の役員トップが住民の知らぬ間に自身の年収を12倍にも膨張させていたという事案("事件"とも”汚職”とも言えない。なにしろすべては合法的に行われたのだから)だ。この事案はメディアの空白という事態が生じたさいに何が起こり得るかについて、雄弁に訴えかけている。*3

 これについて、米国のジャーナリスト、スティーヴン・ワルドマンは次のように述べている。

 

 「新聞記者でなくてもいい。ネットでも雑誌でも誰か記者がときどき、ベル市役所へ立ち寄るだけで防ぐことが出来た」*4

 

 だが、「新聞記者でなくてもいい」「ネットでも雑誌でも」といいつつ、ワルドマンは次のようにも云っている。

 

 「ニュースの鉱石を地中から掘り出す作業をしているのはもっぱら新聞だという現実です。テレビは、新聞の堀った原石を目立つように加工して周知させるのは巧みだが、自前ではあまり掘らない。ネットは、新聞やテレビが報じたニュースを高速ですくって世界へ広める力は抜群だが、坑内にもぐることはしない」

 

 この指摘は正しいだろう。実際、われわれは気軽にマスメディアの弊害を論じ、なかには不要論を唱える者さえいるしまつだが、ネットメディアにベル市のような事例を、マスメディア以上に迅速かつ高確率に検知することが(つまり一つ二つのスクープを云っているのではない。監視網はスクープ力よりも、むしろ「穴」がないことのほうが重要だ)出来るだろうか。ましてや、それを信頼に足る記事としてまとめ上げることが。

 

 *

 

 マスメディアとネットメディアがそれぞれの持ち味を活かし、相補の関係を構築することが理想であることは言うまでもないが、実際には奥村倫弘氏も指摘するように、無料ニュースの氾濫はその収益構造からしてPV至上主義に陥りがちで、内容は二の次とばかりに記事の質の劣化を招くいっぽう、伝統メディアは人員削減や取材費が切り詰められることによって、取材力が低下し、従来の監視的役割を果たすことが困難になりつつある。

  こうした事態はかなり早くから予見されていた。いまや伝説となったブログ記事がある。それが2005年10月、ニコラス・G・カーのブログ「ラフタイプ」に掲載された「倫理のないウェブ2.0」だ。*5 そこで彼は次にように指摘している。

 

 ウィキペディアは、多くの点でブリタニカ百科事典に似ているだろうが、専門家ではなくアマチュアが作っているので無料である。そして無料であることは常に「よい」とされる。となれば、百科事典の執筆や編集で生計を立てるような清貧の者たちはどうなるだろうか? 撤退するしかない。同じことが、ブログやその他無料のオンライン記事や映像が、旧来の新聞や雑誌と競い合ったときにも起きる。

 (中略)

 近ごろ主流新聞社での解雇が目につくが、それはほんのはじまりにすぎないのかもしれず、そうした解雇は嘆くべきことではあっても、それで事足れりとすべきではない。ウェブ2.0に対する陶酔の視線の奥に潜むものは、アマチュアが覇権を握ることである。これ以上の恐怖を、わたしは想像できない。*6

 

 無料文化、アマチュア文化、PV至上主義――これらが三位一体となり、従来の、お金を受け取って、プロが責任を持って記事を書くという形態を破壊するというわけだ。彼の予見は2018年の今日から見るとき、残念ながらその最悪のシナリオ通りになったと云っても過言ではないだろう。

 

 *

 

 かかる状況下において何らかの希望が見出せるとするなら、伝統メディアはこのまま滅ぶわけではなくやがて均衡点に辿り着くという、決してありえなくはない見通しだろう。そのさいに、マスメディアが自らの役割を取材力を基にした確たる事実と、良識を疎かにしない報道姿勢*7 であると自認するならば、それは今なおネットよりも優れている部分であることは間違いないし、それを望む読者たちとともにある程度の規模で生き残って行くだろう。*8

  新しく、より「速い」メディアが登場すると、それまで速報を担っていたメディアはその役割を奪われ、否応なく変化させられる。典型的には1920年代、ラジオの普及によって新聞が蒙った変化がそのようなものであった。ビル・コヴァッチおよびトム・ローゼンスティールは次のように指摘する。

 

 新聞はニュースをただ伝えるだけではなく、今や、もっと分析をしなければならなくなった。

 (中略)

 いくつかの新聞はこの事態に、いっそうセンセーショナルになることで対応しようとし、「タブロイド紙」の時代が到来した。別のテクノロジーである写真を紙面に印刷する技術を活用し、劇的な効果をもたらすよう変わっていったのである。*9

 

  まさに今日、ネットメディアによってマスメディアが付きつけられている選択と酷似している。細かく言えばスマホのニュースアプリが、PCのブラウザ向けのニュースに対してそのような変化を促しつつある。

  幸いにして人はセンセーショナリズムを求めつつも、それだけではすぐに飽きてしまう生き物でもある。我々には「速報するメディア」「驚かせるメディア」だけではなく「解説・分析するメディア」そして「チェックするメディア」が必要だ。そもそもマスメディアが「第四の権力」と呼ばれるのは、立法・行政・司法を適宜監視するためであるし、大企業やメディア同士の相互チェックも重要である。

 

 役割がスライドしてゆくという観点からいえば、新聞であるとかテレビである、ネットであるというメディアの形態自体にさしたる意味はない。未来においては我々の想像もつかぬ速度と形態を持ったメディアが現れるであろう。だがそのさいにも、基本的で重要なことは変わらない。ようは情報のなかで迷子になってしまわないように、かえって事実を見失ってしまわないように、必要な事物を必要なだけ取材し、適切に伝えるというシンプルなプロセスをいかに担保するかということだ。

 

ウェブに夢見るバカ ―ネットで頭がいっぱいの人のための96章―

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インテリジェンス・ジャーナリズム: 確かなニュースを見極めるための考え方と実践

インテリジェンス・ジャーナリズム: 確かなニュースを見極めるための考え方と実践

*1:奥村倫弘『ネコがメディアを支配する』)

*2:

www.msn.com

*3:「行政官は大統領の2倍近い約78万8000ドル(2010年の事件発覚時のレートで約6700万円)の報酬を受けていた。市警本部長ら行政トップ3人の年収が市の一般会計予算の1割を占める異常事態となり、行政をチェックするはずの市議らも通常の20倍の報酬を受けていた」

https://www.yomiuri.co.jp/yolon/ichiran/20161110-OYT8T50062.html?page_no=1

*4:前掲書。この件およびワルドマン氏のコメントは、2011年10月29日朝日新聞デジタルに掲載された記事による。

*5:

http://www.roughtype.com/?p=110

この記事でのウィキペディア批判に対し、ウィキペディアの共同設立者の一人であり現在の代表者ジミー・ウェールズはカーの主張を認め、「どうすればいいのだろうか」とウィキペディアの質を改善するためのアドバイスを求めた(以下参照)。

https://lists.wikimedia.org/pipermail/wikien-l/2005-October/030075.html

*6:ニコラス・G・カー『ウェブに夢みるバカ』。同書は、上述のブログからカー氏自身が自選した記事79本その他のエッセイ等を収録している。

*7:ここでいう良識とは「優等生的な」「モラルがある」といった意味よりもむしろ「見識が深い」「鋭い指摘」というニュアンスに近い。

*8: かくいう僕も新聞を1紙、雑誌1誌を定期購読している。またそれ以外の雑誌やテレビも、なかなか時間が取れないけれど出来る範囲で付き合ってゆきたい。こうしたことが別段「消費者の選択」として状況に影響を与えるとは思っていない。そうではなく、個人的にネットにはない信頼感、良識をそこに見出すからだ。

*9:ビル・コヴァッチ&トム・ローゼンスティール『インテリジェンス・ジャーナリズム』