やすだ 😺びょうたろうのブログ(仮)

安田鋲太郎(ツイッターアカウント@visco110)のブログです。ブログ名考案中。

上野千鶴子さんにジジェクのことを質問してみたこと、あるいは性被害を語るときの問題(読書日録より)

 

 某月某日
 呉智英『知の収穫』に収録されている「読書日録」のなかに、石光真清『城下の人』について述べた次のようなくだりがあった。

 

 「この本には、著者の年齢を始めいくつかの不自然な点が散見する。だが、このことは証言につきものの錯誤や主観性の表れであり、かえって興味深い」

 

 これで思い出したのが、ジジェクがレイプ被害者の証言について『暴力 六つの斜めからの省察』で次のように書いていたことだ。

 

 暴行された女性の報告(あるいは、なんであれトラウマをめぐる語り)を誠実なものにするのは、事実を知るうえでの頼りなさ、報告にみられる混乱、矛盾である。もし犠牲者が自分の痛ましい屈辱的な経験について、証拠を矛盾なくつなぎ合わせ、明晰に報告できたとしたら、われわれはこうした特質自体によって、語られた真実そのものを疑わざるをえなくなるだろう。
 (中略)
 その不完全さは、報告された内容が報告の様態を「汚染した」ことを示しているからだ。

 

 以前、僕はこのことについて上野千鶴子に質問してみたことがある。

 2018年6月、ウインクあいちで行われた上野千鶴子他編『戦争と性暴力の比較史へ向けて』の刊行記念トークイベントの質問時間に僕は手を上げ、次のように尋ねた。

 

 「戦時性被害について、よく元従軍慰安婦の証言には矛盾があるといった批判を見かけるが、逆にジジェクのように矛盾しているからこそ信用できるといったかなり尖った擁護論もある。またJ.スペンス『ある農婦の死』が『聊齋志異』を史料に使ったり、アナール学派もしばしば文学作品を史料に使うのを見ても、どうも西洋人は歴史学にイマジネールなものを持ち込むことに寛容なようですが、これは日本の議論に見られる極端に実証主義的な態度とはずいぶん違うものを感じる。しかし正直、そうした西洋的な寛容さにこれでいいのかな? という不安も感じる。それについてどうお考えですか」

 

 で、上野さんの応答なのだが記憶に頼って書いているので一字一句正確なものでないことはご了解いただきたい。だいたい上野さんは次のように云っていた。

 

 「私はそのジジェクの主張とまったく同じことを『ナショナリズムとジェンダー』のなかで書いてとても叩かれました。性被害体験を語るというのは、そういう矛盾や不整合込みで史料価値を持つものだと思っています。ただしそれは法廷の言葉ではない。法廷での勝ち負けとは別の、オーラルな歴史学という評価軸によって担保される史料価値です」

 

 法廷の(したがって賠償請求や加害者糾弾のための)言葉と、主体の訴えとしての言葉。

 この二つの視線のあいだのズレ、語る者たちと聞く第三者たちの間で生じるズレは、たとえば国内のツイッターの #metoo に対する強烈な反発(海外のことはよく知らない)を考えるさいにも念頭に置くべき話だと思った。

 僕もそのせつでは何度か#metooの人たちに反発したのだが、主体の訴えや実際の加害者にたいする糾弾までは理解できるものの、日本人男性一般への憎悪みたいになってくると、どうしても実証的な評価軸によってその語りを批判したくなってしまう心が生じる。そこには視線のズレが存在しているのだろう。

 

 トークセッション終了後に「『ナショナリズムとジェンダー』を知らず不勉強でした」と云ったら上野さんに「いえジジェクのほうが私より有名ですからね。ジジェクのなんという本ですか?」と尋ねられたがその場では思い出せず、後日調べて上野さんと知己のあるフォロワーさんを介して連絡しておいた。他にも上野さんとは多少の会話があったがそれは別の機会に書く。

 


 某月某日
 そんなわけで『ナショナリズムとジェンダー』の該当箇所を捜してみる。あー確かに。書いてある書いてある。

 

 オーラル・ヒストリーはたしかに、史料価値をめぐるいくつかの問題点がある。第一は忘却や記憶違いである。二つめは非一貫性である。口承にはしばしば前後でつじつまの合わないことが多い。三つめには記憶の選択性である。あることは覚えているがあることは意図的・非意図的に忘れることもある。四つめにはあくまでも回想、すなわち現在における過去の想起だということである。
 (中略)
 だが、フェミニスト史学の担い手たちは、「だからこそ証言にリアリティがあるのだ」という論拠にこれを反転した。女性史が信頼性の低い、イデオロギー的な産物であるという批判を逆手にとって、「書かれた歴史」とはいったい何なのか、と問いかえしたのである。「書かれた歴史」の書き手とは誰か。たとえば「正史」とは誰のためのもので、誰が書き手として権威を与えられるのか。
 (中略)
 『歴史学とジェンダー』の著者、ジョーン・スコットは「ジェンダー史」が「必然的に偏ったものになるだろうことを認識」している。[Scott 1988=1992:29]「ジェンダー史」が「偏ったものである」という認識は、返す刀で、これまでのすべての「正史」を僭称する歴史学に「おまえはただの男性史にすぎない」とその「偏り」を宣告するためであった。

 

 そりゃ炎上するでしょうね、これは(笑)

 この問題については、僕は今すぐ態度を決定することは出来ない。というかどうしても決定しなければならない瞬間までは決定したくない。ツイッターにしても、上野千鶴子支持の方にも批判的な方にも知り合いが増えすぎた。

 のんびり読書日録をつけるつもりだったがいきなりこんな話になってしまった。だがけっこう興味深い話ではないかと思うのでブログとして更新しておく。

 

知の収穫 (双葉文庫―POCHE FUTABA)

知の収穫 (双葉文庫―POCHE FUTABA)

暴力 6つの斜めからの省察

暴力 6つの斜めからの省察

戦争と性暴力の比較史へ向けて

戦争と性暴力の比較史へ向けて

ナショナリズムとジェンダー

ナショナリズムとジェンダー

「詳しさのようなもの」について

 

 なにかニュースを見て「こんな不正は許せない」とか「こんな良い活動をしている人がいるんだ」などと思っても、念のためネットで検索すると――ある種のホットな話題ではとくに顕著だが――さまざまなディティールや背景、「同業者のみが知る事情」、真偽の不確かな中傷、関係者の過去、専門家の意見にブロガーの言及、SNSの議論、そこからリンクを貼られた関連記事やPDF論文、特定の解釈に導くデータ……等々が膨大にヒットして、最初の印象は雲霧消散、「なるほど一概には云えないんだな」という感想を抱かざるを得なくなることが多い。
 情報が豊かになったことは間違いなく、ある程度までは良かったのだが、近頃は「ある程度」なんてものではなく何を調べてもいちいち深い森を彷徨うような感じになり、少し嫌になってきた。

 この詳しさ、いや「詳しさのようなもの」は手放しで良いと言えるのだろうか。

 

 *

 

 事物を解像度を上げながら見てゆくと、やがて真実が明るみになるのではなくむしろある段階からは真実が消失するように思え、ちょっと量子力学っぽいとか『藪の中』っぽい、みたいな比喩が思い浮かぶ。

  詳しいことと「詳しさのようなもの」の違いの一つは、後者が無秩序であること、編集的意思が介在していないことだろう。もちろん個々の記事や書き込みにはそれなりの意思が介在しているのだが、そこには当事者から職業知識人、活動家、社会問題を語る系おじさん、イライラしてる人、なんか世を僻んでる人、ガチ妄想患者までごった煮状態で、ネット全体として見るとすさまじい不協和音を奏でている。
 そのアナーキー状況は「人の数だけ真実が存在する」といったシニカルな世界観との親和性が強い。そしてそれはネットリバタリアン(肩書きや常識とは社会の権威・権力関係の反映にすぎず、また感情とは個人的経験・気質の偏りに他ならない。したがって民主的で開かれた言論空間においては論理やデータのみが尊重されるべき原理である)や保守主義(異議申し立てに従って現状を改革しても現状より良くなる保証はどこにもない。歴史的に見ても急進的な思想や社会設計主義はプラスよりもマイナスのほうが大きかった)、ニヒリスト(この世には無数のドクサしか存在せず、エピステーメーと思えるものも別の人から見ればドクサの一つにすぎない)といった人々には肯定的な状況なのだろうし、確かにネット情報全体を統制するものを呼び込む(専制国家がそうしているような)というのは現状より良くなるはずもない。したがってこうしたアナーキー状況自体を否定するつもりはない。だが、副作用としてそういう「何もかもが一概に云えない」モヤモヤがあることは確かだ。

 

 *

 

 そこでヘーゲルが、「従者の目に英雄なし」という諺を従来の「従者から見れば英雄も凡俗な人間にすぎない」という意味につけ加え、「それは英雄が英雄でないからではなく、従者が従者だからである」と述べた(従者は英雄の凡俗な面に気を取られ、その歴史的役割を見逃してしまう)のと同じ作業が、真実の追求にも必要になってくるのではないか。

 つまり「グーグルの目に真実なし」は、「グーグルから見れば真実はドクサにすぎない」というだけでは充分ではない。それは次のようにつけ加えられる必要がある。「それは真実が真実でないからではなく、グーグルがグーグルだからである」(グーグルは事物の《大局的に妥当な解釈》をしばしば見失わせる)、云々。 

 

 ……中世の戦いはだいたいが夏だった。突っ立っているだけでも、騎士はびっしょり汗をかいたはずだ。ましてや戦いのさなかとなったら、どれだけの汗が噴きだしたことか。それも上半身だけの話で、下半身はもっと悲惨だっただろうし、騎士が弱虫だと、なおさらだった。地獄のありさまになっていたに違いない。

 武具甲冑従者の最悪の部分は、主人が戦いから戻り、この外側と内側の汚れに対処するところから始まる。悪臭を放つよろいを脱がせ、騎士に元気づけのワインを出したら、武具甲冑従者はよろいを清め、翌日に備えなければならない。水は貴重すぎて使えなかったので、代わりに研磨剤で汚れをこすり落とした。

 (トニー・ロビンソン『最悪の仕事の歴史』)

 

f:id:visco110:20180523112428j:plain 

 我々は真実を追究するにあたって、際限のない「詳しさのようなもの」をどこかの時点で切断する必要があるのではないか(なお「真実」とか「真理」という言葉にはフォビアを持つ人が少なくないし、その心情はわからなくもないので、そういう人は「大体あってる認識」といったマイルドな表現にご自由に置き換えてください)。

 

 *

 

 「情報が多すぎてなにが真実かわからない問題」の表裏として、「情報が多すぎてますます自分が正しいと思っちゃう問題」もある。

 トーマス・ギロビッチによれば、人は期待に合った情報は即座に受け容れる一方で、期待に反する情報に対してはより厳しく吟味したり、さらに別の情報を探してみるといった傾向があるという。彼が紹介している実験(For evidence supporting this prediction,see A.F.Glixman 1949)によると、

 

 彼らは、そうした都合の悪い事実を単に無視したわけでもなかった。その代わりに、都合の悪いデータを報告していた研究に対して、注意深くそのあら捜しをして、ほぼ適切な批判を加えたのである。彼らは、自分自身の考えに反するデータを初めから無視してしまうのではなく、認知的に変換を施して、比較的重要でない価値の低いものに変えてしまっていたのである。つまり、被験者たちが持っていた期待は、単に不都合なデータを無視するような単純なプロセスを通して影響力を及ぼすのではなく、相当量の認知的努力を要する複雑なプロセスを通して影響力を及ぼしていることになる。

 (T.ギロビッチ『人間 この信じやすきもの』)

 

 この指摘は、「詳しさのようなもの」がどのように人を妥当な事実認識から遠ざけるかについて示唆を与えてくれる。つまりある種の《欲望》に無自覚に事物を調べていった場合、「詳しさのようなもの」は、信じたいことはなんでも信じさせてくれ、否定したいことはなんでも否定してくれる悪魔の誘惑のようなものになるのである。

 しかし先述のようにネットのアナーキー状況自体は容認せざるを得ないことが大前提なので、ここはやはり個人の情報リテラシー、不愉快な事実に目を向ける意志が重要になってくる。

 

 敢えて大雑把に云えば(なにしろそれが今回のブログの提案でもあるので)、学問とはそうした茫漠たる事実、はっきり云えば「詳しさモドキ」から、自分に都合のいい情報の寄せ集めではなく一定の普遍性・検証可能性を持ったパターンや傾向を抽出する認知的作業であり、またその技術のことであるはずだ。そしてそれは個人の情報との向き合い方にとっても、ひとつの理想を示してくれるものではあるまいか。


 あまりに茫漠たるネット情報に立ちすくまないように、そんな勇気を持ちたい、と思う昨今でした。

 

歴史哲学講義 (上) (岩波文庫)

歴史哲学講義 (上) (岩波文庫)

歴史哲学講義〈下〉 (岩波文庫)

歴史哲学講義〈下〉 (岩波文庫)

図説「最悪」の仕事の歴史

図説「最悪」の仕事の歴史

人間この信じやすきもの―迷信・誤信はどうして生まれるか (認知科学選書)

人間この信じやすきもの―迷信・誤信はどうして生まれるか (認知科学選書)

夢の意味について

 

 夢分析には学生の頃から興味を抱いてきたが、じつに数多くの流派が存在する世界であり、また本質的に非アカデミックなところがあるように思う。手元のいくつかの本から著者の経歴を抜き出しても、学位を持ち、何らかの大学との繋がりを持っているものの、基本的には独自の研究所やクリニックを立ち上げて活動している、といった経歴の者が多い。

 それはある意味当然で、そこら中の名の知れた大学に夢分析の講義があったとすれば我々は学問自体に疑問を抱かざるを得なくなるだろう。だがそれは何故か。

 思うに、夢という脳の生理現象自体にはそこまでの意味はないということと同時に、夢の「意味」を解釈するということについては、それなりに奥深いものではあるがアカデミックな手法では扱いにくい、例えば占いや判じ物に近い領域になってくるからではないか。

 

 *

 

 まず伝統的な夢分析は、夢のモチーフと意味には比較的安定した対応関係が存在するという立場を採る。そしてその対応関係は象徴的思考に基づくとする。たとえば夢にラクダが出てきたら忍耐と努力を表すだとか、ランプが出てきたら真実や好奇心を表す、といったような。

 このような夢分析の姿勢は、モチーフの翻訳を基本的作業とするゆえに辞書形式を取りやすい。最近はどうだか知らないがかつては書店で「夢辞典」をしばしば見かけた。分厚さとロマンをそそる外観のわりには古本では安価だったので、見かけると幾つか買ってみたりもしたがさすがに手元に残っているものは少ない。こうした系統のなかではM・ポングラチュ&I・ザントナーの『夢の王国』が古典的名著と言えるだろうか。

 

 『夢の王国』はさすがにしっかりしていて、歴史上の有名な「夢の書」から適宜抜粋した独自の「夢辞典」を掲載している。有り難いことに、一つのモチーフについて多数の解釈を並列しており、それらすべてにきちんと出典が記されているので、皮肉にもこの方法で夢分析をすることの茫漠さ、「なんとでも言えてしまう」性質をかえって浮かび上がらせている。

 たとえば「竈」の項目にはこうある。アルテミドロスによれば竈は人生であり夢を観た者の妻であるから、竈に火をつける夢を観たら子供が生まれる前兆である。アポマサリスによればそこで火傷をする夢は主君から罰を受ける兆しである。十四世紀の古写本でも天火は主人と結びつけられており、天火が倒れる夢は主人もしくは女主人の死を意味する。

 妻と主人ではえらい違いではないか? まあいいやと思って読み進めると、『ダニエルの夢の書』によれば燃えている天火は転地の前兆、ビルクマイヤー『夜の幻覚と夢の暗闇における光明』でも旅の象徴としている。これに対し近代の夢占いの書は竈と富を結びつけるらしく、竈に火を入れる夢は浪費を表す。ただし燃えている天火は裕福さを表す場合もあるというので、思わず「どっちなんだ」と云いたくなってくる。

 しかしこれは、あくまで『夢の王国』が誠実に、古今東西の文献を参照したから問題点が明確になったのであり、そこらの「夢辞典」では往々にして出典の記載すらなく、一つか二つの解釈が書いてある程度であり、こうした問題に気付くことすら出来ない。

 

f:id:visco110:20190425202734j:plain

 ルイ・ジャンモ「魂の詩-悪夢」(1854) 

 

 またこの方法のもう一つの問題点は、象徴的対応関係は時代や地域、個人的経験によって違ってくることに対応出来ていないことである。

 上に「ラクダ」「ランプ」「竈」を挙げてみたが、これらは現代の日本人にとってなじみ深いものではない。少なくともラクダは旅に欠かせない伴侶ではなく動物園で見かける生き物であって、忍耐や努力よりはむしろ幼少期の思い出やデート、あるいは家族サービスを示すものであろう。ランプにしても、真実や好奇心よりもむしろアンティーク趣味、あるいはアウトドアを示すのではないか。そして竈はどの家にでもあるものではない。

 あるいは夢に「携帯電話」が出てきたとしたらどうか。携帯電話は二十年前は最先端のイケてるアイテムだったが、今では「ガラケー」として若干微妙な扱いを受けているし、一人一人が携帯電話を持った時期、手放した時期やそれに対する思い出もさまざまであろうから、お手上げである。

 したがって、この種の夢分析は「時代が性急に変化せず、また一人一人のライフスタイルや経験(事物と意味の結びつき)がさほど違わなかった昔ならばある程度有効だった方法」と言わざるを得ない。

 これは易やタロットのような文化的要素の強い占いについても、似たような問題点を感じるところだ。「騎馬戦車」のカードはあっても「自動車」のカードはない、といったような意味において。

 また私見では、フロイトやユングの夢分析ですらそうした側面(ざっくり言えば世紀末ウィーンだとか、第一次大戦後の「理性の危機」の時代の生活および精神風土の影響)を幾らかは持っているのである。

 

 *

 

 ということは、夢を観る人の住む時代や地域、個人的経験に合わせてこまめに「辞典」をアップデートすれば、ある程度信頼の置ける夢判断が可能なのではないか?

 ジリアン・ホロウェイ『夢のカルテ』は、そうした可能性を感じさせてくれる本だった。

 この本も基本的には「夢のモチーフと意味には対応関係がある」という「夢辞典」の方針を採っているのだが、2006年に原書が刊行され、そこでは同時代に生きている人の28万件の夢のデータが、観る人の性格を考慮しつつ分析されている。またホロウェイはこう書く。

 

 性別や年代、職業によって、夢のテーマや状況設定にも違いが見られます。たとえば、男性は飛行機の墜落事故やケンカといったものが多いのに対し、女性は、家や所有物の夢をよく見るようです。

 (中略)

 わたしが教えることができるのは、夢解読の正解ではありません。最近同じような夢を見たという人の100人がどんな状況におかれていたか、その人たちの夢解釈がどのように役立ったのかということです。

 

 ちょっと、クラスター分析っぽいのである。これは上で指摘した「夢辞典」の問題点をかなり射程に捉えた研究(?)と言えるだろう。

 それでも僕は2019年の日本に生きているのだから、『夢のカルテ』とは若干の齟齬がある。その齟齬の程度が古代エジプトやメソポタミアあるいは世紀末ウィーンに対してどうかというのは微妙なところだが、少なくともそこにはラクダや豹や機織り器の意味が延々と書かれていたり、「手」の項目に「おのれの手の肉を食べる夢は娘が死ぬ予兆である」と書かれてあったりはしない。

 

 少し具体的に見てみよう。まず『夢のカルテ』においても、動物、植物、身体の部位、場所……といった昔ながらのシンボル辞典の部分が半分あるが、残り半分は「心理的な事象」とも呼ぶべき項目が充てられている。「心理的な事象」とは、例えば

 ・試験の準備ができていない夢

 ・歯が抜ける夢

 ・追いかけられる夢

 ・はだかで人前に出る夢

 ・使っていない部屋を見つける夢

 ・卒業単位が足りない夢

 ・押し込み強盗に襲われる夢

 といったものや、恋愛とセックスにまつわるさまざまなシチュエーションの夢、悪夢、年齢ごとに異なる夢、といったように分類されている。セックスの夢は例えばこんな感じだ。

 ・知人とセックスをする夢

 ・好きでもない人とセックスをする夢

 ・セックスする場所が見つからない夢

 ・セックスの最中に邪魔が入る夢

 ・人前でセックスをする夢

 ……まだあるのだがそれはさておき、たとえば「試験の準備ができていない夢」の項目を観ると「この夢は、25~55歳ぐらいの人がよく見ます」「とくにこうした夢を見やすいのは、努力の末、注目を浴びる地位に就いた人、何をするにもトップクラスにならないと気が済まない人です」といったように、採集したデータに基づきその夢を観た人のプロフィールや性格にどのような傾向があったかが考慮されている。

 そして解釈としては「現実生活において責任感による不安や緊張が極度に達しているのではないか?」(大意)とあるが、これもまた公約数的データを根拠としているのだろう。そして助言としては「力を抜いて、もっと気楽にかまえても誰も気に留めないでしょう」とのこと。

 念のために云うと、これは書籍というかたちでギリギリに説明を切り詰めたものを、さらに僕が端折って述べたものなので(実際にはこの何倍かはある)、かなり単純に聞こえるかも知れない。しかし上で批判したような古典的「夢辞典」にはない、夢を観た人のライフステージや個人的環境・性格が視野に入っていることは了解されるであろう。

 

 紙幅による苦慮は随所に伺われる。たとえば形式上は昔ながらのシンボル辞典である部分も、一つの項目について「プラスの意味」と「マイナスの意味」が並置されているのだが、思い切って二元論的に提示したのちに、読者に、自分の夢に出てきたものがどちらに該当するかを委ねている。

 たとえばラクダ……の項目はないので、ゾウでいうと、プラスの意味は「生まれ落ちたままのあなたです。それがはっきり意識されるようになると、巨大で圧倒的な、ゾウのような力を持つようになります」とあり、マイナスの意味では「本来の自己が、何かほかの思考パターンに強引に取って代わられて消え去るか、ひどく損なわれているという証拠です」とある(実際にはもっと説明は長い)。なるほどね、ゾウはデカくて力ありそうだし、裸だし、まあ大体鎖に繋がれてるもんね、と。

 正直このあたりは『夢のカルテ』も限界を露呈していると言わざるを得ない。しかし二元論的に示すことによって、「判じる」ことによる潜在思考の抽出というプロセスを担保しているとは言えるだろう。これについては後述する。

 

 結局、理想を言えば国ごとに毎年「夢辞典年鑑」を刊行するだとか、あるいはウェブ上で集めた「プロフィールや最近の悩み付きの夢」のデータをAIが分析する、といったことになるのだろう。

 さておき今すぐ言えることとしては、夢の意味について考えるにあたっては観た人の生活環境や性格、性別、年代、これまでの人生を考慮する必要がある、ということである。したがって夢分析に詳しそうな人に「こういう夢を観たんですけどどういう意味があるんですか?」と尋ねることにはあまり意味がない。あなたのことをよく知らないのだから。

 

f:id:visco110:20190425203644j:plain

 モンス・デジデリオ『ベリサリウス』(17世紀前半)

 

 *

 

 「夢を人生に役立てる」というのは、簡単に言えば「夢を解釈することによって気付きを得る」ということである。

 ここに易やタロット、あるいは大ベストセラー『魔法の杖』のようなオラクル・ブックとの最大の共通点がある――したがって僕は『魔法の杖』をその手軽さ、また上で述べたような文化的影響の問題を巧妙に避け得ている点から高く評価するのだが――これらに共通して云えることは何ら超自然的な要素はなく、潜在思考を明るみに出すための単なるツールに過ぎないということである。

 またこうしたことは、カートライト&ラムバーク『夢の心理学』やアーノルド・ミンデル『ドリーム・ボディワーク』にも共通する。これらの本には賛同する部分と批判する部分があり、特にミンデルについては批判点が少なくはないのだが、それは別の機会に述べることにする(簡単に言えば病気が精神の働きかけで治るという発想は、治らないのは心がけが悪いせいだと二重に患者を責めることになりかねない点についてだ。とくに胃癌などについてもこうした話を適用しようとすることには強く疑念を抱く)。

 カートライト&ラムバークは次のように書いている。

 

 フロイトのよく知られているアフォリズムによれば、夢は「こころの無意識の活動を知るための近道」という役割を果たしている。夢を理解することによって、意識は無意識と結びつけられる。夢は、こころがどのように働くかを照らしだす。夢のおかげで、私たちが認識しておらず、直接的に語ることのできない永続的な人生のジレンマの背後にある原因が明らかになることがある。

 

 これはフロイトの切り拓いた領野のなかではある意味無難な部分であり、げんにフロイト派でなくても「夢を人生に役立てる」人たちによって引用されるていどの話といえばそうなのだが、それだけに基礎的な指摘といえる。

 実際、僕は自分の観た夢から多くの示唆を受ける。それは「初夏向けの涼しいジャケットを買いなさい」といった具体的な行動を促すものから「本当に満足する人生を送っているか?」といった精神的なメッセージまで多様であり、また意味のすぐわかるものやわかりにくいもの、わかったからといって何をすればいいとは簡単には言えないもの(人生の後悔であるとか)もある。

 

 ここはほとんど個人的な話なのであまり読む必要はないです。

 今朝も、繰り返し見る夢の一つについて自分なりに解釈したいと思い、こんな文章を書いてしまったわけだが、それは学生時代(つまり二十年も前)に、車で大学に行くついでに大学の近隣に住んでいる女友達に携帯電話から「あとで会おう」と電話あるいはメールをする、という夢だ。そのさい、登録されている名前と顔が結びつかなくて困惑したり、何度も番号を押し間違えたり、複数の用事がバッティングしててんやわんやになったり、あるいはすでに大学を卒業して何年か経ってしまっているのに果たして連絡していいものかどうか迷ったり、という場合が多い。

 ホロウェイ『夢のカルテ』で云えば「以前の恋人とよりを戻す夢」に分類されるだろうか。しかしあくまで未だ女友達であって恋人とはちょっと違う。あるいは「30~40代の恋愛の夢」のほうが近いだろうか。ホロウェイは次のように書いている。

 

 30~40代にかけての恋愛やセックスの夢は、つくり上げた男女関係を守ることや、残念な結果に終わった過去の恋愛を、もっと健全な正しいかたちで追体験することが中心になります。

 この年代は、突然、夢の中で、過去の激しい情熱や感情、絶望的苦しみを思い出すこともめずらしくありません。

 あなたの心が、恋が破綻したいきさつや、これから心がけること、避けるべきことを、夢というかたちで検討しはじめたのです。

 

 ……そう、珍しくないんやで! よくあることなんやで(`・ω・´)!

 まあ昔の恋が破綻したいきさつはあれでしょうね、ガチ彼女の理由は別として、ちょっと意識していた女の子とかの場合は、ドキドキしすぎてなかなかこちらから連絡できなかったことでしょうね。いつも一大決心だったし、ちょっと気まずくなるとそのままフェードアウトしてばかりだった。

 これから心がけることは? 避けるべきことは? まあ年齢は考えなければならない。しかし年齢は「気にしすぎてもいけない」というのが難しいところだ……まああとは自分で考えてみますが、とにかくホロウェイ『夢のカルテ』はそういう感じの本ということです。

 

 ……ともあれ、夢分析の方法について現状思っていることは述べたので、これで今回のブログは終わりにします。皆さんも自分の夢と向き合ってみると、意外な発見があるかも知れませんね!(テキトーな締めくくり)。

 

夢の王国―夢解釈の四千年

夢の王国―夢解釈の四千年

夢のカルテ

夢のカルテ

魔法の杖(新装版)

魔法の杖(新装版)