やすだ 😺びょうたろうのブログ(仮)

安田鋲太郎(ツイッターアカウント@visco110)のブログです。ブログ名考案中。

自尊心が削られても、自尊心は削られていない

 

 某月某日、精神状態の悪化が悪化し、あの2011年にお世話になった薬を引き出しの奥から探し出してスルピリド2錠、ロラゼパム2錠を服用した(こうした薬の期限はだいたい5年らしいのだが、5年大丈夫なら8年でもいけるだろう)。ついでにお世話になったクリニックに予約も入れておいた。

 

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引き出し、枕元、カバンから出てきた断片をセロテープでくっつけたら若干気味わるくなった。

 

 そのクリニックの先生はおそらくソープランド依存症で、ソープランドに通うために馬車ウマのように働いている人だ。

 診察すると毎回オキニのソープ嬢のページを見せてくれるので、てきとうに相槌を打ちながらも、僕は自宅ポルノ派だと伝えるとそちらにはあまり関心がないようだった。おそらく想像で自慰行為するのが苦手なタイプなんだろう。

 ついでにいうと好きな女のタイプも、あちらはモデルのような八頭身美人(本人いわく「とにかく綺麗な女がええな」)、こっちはぽっちゃりした愛嬌のあるタイプが好きなので会話のすれ違いが甚だしい。メンタルのことで相談がある場合、先生のオキニ話やバイアグラ話を強引に遮って聞いてもらう。

 

 *


 僕は先生のそういう気さくで飾らないところに好感を持ち、2011年はまるごと一年間お世話になった。

 あの年はメンタル的に(中三で不良にトイレに呼び出されたときや大学二年で当時の彼女と別れた時を除けば)人生最悪の年だった。なにしろ東日本大震災……とはまったく関係がなく、ようは職場に入ってきた女性が、きわめて我が強く威圧感のあるタイプで、たちまちのうちに小さな古書店の従業員を精神的支配下に収めたのだった。彼女以外は全員男で、なかには二十年ほどのキャリアもある人間もいたのだから、まことに驚くべきことであった。
 そしてどういうわけかその女性は僕のことを嫌い、さまざまな陰湿な攻撃を受けることとなった。僕はすっかり気が滅入ってしまい、トイレの窓から見える竹藪を眺めながら「あれで吊ろうかな」と考えたりしていた。

 僕はおくすりを飲みながら、とにかく彼女がやめる日まで耐えることにした。それは二年後になるか五年後になるかはわからない。だが思い余って相談した父が「その子は絶対に長くは続かない」とやけに力強く言うので、それを信じて心の拠り所にした。

 普段は父に相談などしないのだが、この時ばかりは親に相談するほど苦しんでいたのだった。今思えば父が「その子は絶対に長くは続かない」と断言したのは、父なりの洞察だったのか、それとも僕に希望を持たせるためだったのか。どちらかというと後者だったような気がする。

 幸い、その女性は丸一年で、他の従業員と揉めてやめていった。

 

 *

 

 2012年はその反動で、連日仕事帰りに近所の焼き鳥屋で飲んだくれ、休日も飲酒以外ほとんど何もしていなかった。ほとんど空白の一年だった。それでも、ときどきその女性と似たような背格好の女を見かけると驚いて動悸が高まっていたので、後遺症に苛まれた一年だったとは云える。


 そんなことではいけないと思い、2013年から、抜書きと思索とスクラップと日記と家計簿と落書きをオールインワンにしたノートをつけ始めた。それは今日まで続いている。

 

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ツバメノートB5判100枚綴(200頁)。南方熊楠の『ロンドン抜書』をリスペクトして始めたもの。現在、29冊目。

 

 2014年からツイッターを始めた。そこから僕の生活は、けっこう大きく変わった。
 議論や雑談の相手、いわゆる「ネッ友」がたくさん出来た。それは老若男女、じつにさまざまな人がいる。またそのなかで直接会った人ははや二桁になった。

 幸いにしてフォロワー数も順調に伸び、日々なにげなく呟いただけで多量のふぁぼやRTがもらえる。

 「安田さんはスゴい」「博識」「安田さんのツイートが好き」等、とふとした会話のなかで言われることが増えた(反面、「安田は差別者」「ミソオス」「キモい」「日本語が読めない」といったかわいそうなうぞうむぞうからの声もそれなりに届きはするのだが)。また、時々女性から「尊敬してます」「ファンです」といったDMすら来るようになった。

  思えばツイッターをやる前はほんとうにお寒い状況だったことは、以前のブログでもちょっと触れた。

 

visco110.hatenablog.com

 

 ここに書かれているのは「ツイッター以前は友達がほんとうに少なかった」という話なのだが、加えて「職場でも毎日小言をくらい、まともなコミュニケーションが出来る人など存在していなかった」ことを述べなければならない。

 

 古本屋といっても、僕の好きな人文書は、少なくとも僕の職場では蔑視されていた。上司が好きなものは主に明治から戦前までの日本文学で、難解な横文字の躍る現代思想は「ミーハー」「ファッション」とからかわれた。

 僕がクラシック(といっても中世音楽ばかりだが)を好んで聴いているのも、「低俗な人間の聴く音楽」だとして蔑視の対象となった(上司が好きなのはロックだった)。

 また僕がジャケットに革靴で出勤してくるのも、なにやら軽薄な若者みたいに映っていたらしい。だが店主の息子のジーンズ趣味はベタ褒めしていた。いずれにせよベルト代わりにビニールひもを通したり、サンダルをホチキスで補強して日夜履いている人に褒められてもべつに嬉しくはないけれど。

 近隣に伝統芸能の先生がおり、店主の友人であったため、時々「パソコンの調子がおかしい」と言われて仕事を中断し、先生の家に行ってコンセントが抜けてますよだのなんだの「修理」してきた。先生には若いお弟子さんの娘がたくさんいて、僕が修理に入ると「おねがいしまーす」と一応声をかけてくれるのだが、基本的に古本屋の丁稚などまったく眼中にないようだった。

 先生にしても、修理に伺った時は「上がってください」と云うが、外ですれ違って頭を下げても、むこうは頭を下げている僕を眺めているだけだった。

 

 *

 

 ……えらい話が逸れまくっている。
 とにかくそんな時代もあったけれど、ツイッターのおかげで、僕はあたかも自分が高等遊民であるかのように錯覚するようになった。

 そう勘違いしたままずっと行けなくもないのだが、しかしたまに事実を突きつけられることもある。そう、一昨日だ。
 詳しくは書かないが、ようするに仕事中に、来月冒頭のイベントの打ち合わせがあり、そのピリピリした空気と経営者(れいのジーンズ好きだった息子が数年前に跡を継いだ)のよそよそしい態度に「所詮お前は雇われにすぎない」と、久しぶりに強く感じざるを得なかったのである。
 僕のメンタルは階段落ちのように転がり落ちた。
 そして一昨日、そして昨日とヤケ酒し、今日またヤケ酒気味に飲みながらこれを書いている。
 はたして、人はこんな状況でも精神の均衡を保つことが出来るのだろうか?

 

 * 

 

 例えばその、尊敬してるとかファンだとかいう子たちに愚痴を聞いてもらうことが出来るだろうか?
 無理だろう。あの子たちはあくまで蘊蓄や笑いに満ちた悠々自適な安田のキャラが好きなのであって、ただの中年労働者のつまらない愚痴を聞きたいわけではないのだ。
 なんということだろう。2500人のフォロワーがいても、こういうときに愚痴を聞いてくれる人は見当たらないのだ。みんな明るくて面白い安田を期待しているのだから。
 ……いやちょっと待て。そんなナルシスティックな思念に溺れている場合じゃない。

 

 昨夜、ある女性フォロワーさんとLINEグループで話していて、とうとうヒントを得た。

 それは簡単に云うと、「自分で自分を認めてあげる」ことがいまの僕には必要だ、ということだ。
 今回の仕事をめぐる問題は、自尊心が削られたところにある。まあ仕事とはしばしば自尊心が削られるものだ。
 だが「自尊心が削られる」ことは、私の価値を否応なく毀損するのだろうか?
 そうではない。「自尊心を削るようなおつとめに耐えたあなた」の価値は、何ら毀損されていないのである。それどころか、そうした汚辱に耐えることによって、むしろかれは崇高なものに近付いたとすら云えるのではないか。

 ひとことでいえば「お仕事がんばってえらーい」ということである。

  心の中の馬頭観音に呼びかける(これは僕のほとんど唯一の信仰だ)。

 

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馬頭観音さま(安田鋲太郎画)。『遠野物語』を読んでからの信仰の対象である。


 「僕はその仕事に耐えるよ。いや耐えるなどといって身構える必要はない。ただその仕事をやるだけ。そこで嫌な目に遭ったとしても関係ない。それは僕の価値を下げはしない」

 「おお?」

 「そんなことはどうでもいいんだ。本を読んで思索する、話や心の通じる相手と語り合う、妻とワインで乾杯していい気分になる。

 休日にはコーヒー、トースト、目玉焼き、サラダのモーニングを妻と食べる。新聞や雑誌に目を通し、面白い話があればツイートする。

 散歩をし、買い物をし、昼寝をし、キャスをし、AVを見て、風呂上がりにストレッチをし、思い出したようにブログを書く。ときどきオフ会ではじける。それが本当に大事なことだ」

 「ほーう」

 

 *

 

 「なんくるないさー」というのは悪くないが、このブログのシメとしては「なんじゃないき」を推す。

 昔、土佐ヤクザの映画でヒロインがここぞという時に口にしていた言葉だ。「どうってことないさ」という意味だと思う。ググっても出てこないので不安になるが、まあそれもふくめ「なんじゃないき」

六道、獣人、相模原 あるいは人間の「無」条件について

 

 以前、どこかのお坊さんの説法集を眺めていたら、次のようなことが書いてあった。記憶を頼りに書く。

 

 「悪いことをしたら報いを受けるなんて嘘じゃないか。先日そこのお地蔵さんに立小便したけれど、それから何も悪いことは起きていない」
 こう云う者がいるが、じつはすでに報いを受けていることに気付いていないのである。お地蔵さんに立小便するのは犬の所業だ。つまりこの者は、すでに畜生界に生きているのである。

 

 この話が強く印象に残っている。
 報い(因果応報)とは、悪事を働けば目に見えて災いとして返ってくるようなものではなく「自覚のないまま低レベルの世界に生きる」ことである、というわけだ。
 これは日々の生活のなかでわれわれが目の当たりにする疑問にうまく答え得ている。なぜあの人は良い人なのに報われないのだろうとか、なぜあんな悪いヤツが世にのさばっているのか、「まったく神も仏もありゃしない」というのはよくある嘆き節である。

 しかもこの説明ならば報いを待つ必要もなく、行いが即座に報いとなる明確さ。見事だと思った。

 

 このお坊さんの言う「畜生界」とは、仏教における六道輪廻の世界観に基づく。六道とは

 

 天界

 人間界

 修羅界

 畜生界

 餓鬼界

 地獄

 

 のことであり、かつては文字通りにそのような世界が存在し、我々の生前の行いによって輪廻転生を繰り返すと信じられていた。

 今日では実際に六道が存在するとは信じ難いが、それでもなにかしら六道輪廻の教義が我々に示唆を与えるとしたら、その一つは「心の状態をあらわす喩え」としてであろう(知人が師事した仏教系大学の元学長がこれとまったく同じことを言っていたそうだ。また中村元『新・仏教辞典』の「修羅」の項目にもこうした解釈が見られる)。上記のお坊さんの説く「畜生界」は、まさにこうした喩えであった。

 

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 六道輪廻図。安田鋲太郎所蔵


 『往生要集』その他に書かれた「いかなる行いが六道それぞれへの転生を招くか」また「そこでどんな目に遭うか」といった記述を「心の状態」としてとりまとめると、次のような心の価値観の体系が浮かび上がる。

 

 天界=悩みもなく優雅で快適に暮らしている人

 人間界=楽しい事もつらい事もある中で生きている人

 修羅界=常に争っており心に平穏がない人

 畜生界=無知で愚か、恥知らずな人

 餓鬼界=けち、貪欲、妬み嫉む人

 地獄=悪人

 
 だが感心しておいて何だが、この考え方には大きな問題がある。
 その問題とは、ここまでの話ですでに感づいている人もいるであろう、こうした考えが持つ根本的な差別性である。

 

 *

 

 なにしろ「畜生界」だ。

 ようするに回りくどく「こんチクショー」と言っているのと同じことで、絶対に言ってはいけないとは思わないが、本質的に罵倒であるものを高尚な(?)説法風にしているところに嫌らしさがある(健全な罵倒の可能性については以前のブログ記事「言葉の暴力について」を参照)。

  

visco110.hatenablog.com

 
 また「因果応報」という考え方にも問題があり、あれは現世だけではなく前世の行いまでもが報いとなって表れることを含意している。つまり障碍者差別に必然的に接近する考え方である。

 

 【補足1】

 ブログ公開後にSNSでコメントがあり、ある方は上の話について「因果とはそういうものではない」とし、印度哲学的な意味での「因果」の意味を説明していただいた。また別の方からは「このように仏教とは幅広いものなので一括りに批判することは出来ない」というようなコメントもいただいた。

 そうしたコメントを受け、この記事が示す「仏教」の範囲を明記しておくことにする。この記事が想定しているのは、まず本文中にあるように僕が読んだお坊さんの説法集そして『往生要集』、また六道については定方晟 『須弥山と極楽』や中村元『仏教語大辞典』、同『新仏教辞典』、因果応報や輪廻転生といった言葉についてもこれらの辞典を参考にした。つまり大まかに言って日本仏教、それも平安仏教・浄土教およびその後の大衆向け説法が範囲といっていいだろう。

 したがって本文中の「因果応報」とは印度哲学的な「因果」ではなく、「善因善果」「悪因悪果」といったような世俗的なニュアンスで用いていることをここに明記しておく。

 

 人間であるにもかかわらず畜生であるといったような、言説・規定によって人を「人間カテゴリー」から除外する話で真っ先に思い出すのは、グアンタナモ収容所における捕虜への拷問を擁護した悪名高い議論だ。

 ここでは拷問という非人間的な行為を遂行するため、逆に拷問される側が人間外のものとして規定されている。

 

 二〇〇四年の中頃にNBCで放映された、グアンタナモの囚人たちの運命をめぐる討論で、彼らが受けている待遇は倫理的にも法的にも許容範囲内だという妙ちくりんな主張のひとつに、こんなのがあった。「彼らは爆弾が殺し損なった連中だ」というのだ。彼らは米軍による空爆の標的であり、空爆は合法的な軍事行動の一部だったのだから、その後で捕らえられたとしても、その運命に不平を言うべきではないというわけだ。
 (中略)
 この推論は囚人たちをほとんど文字通りに「生ける死者」、すなわちある意味ですでに死んでいる人間にしてしまっている(彼らは殺人を目的にした空爆の標的にされたことで、生きる権利を失ったのだ)。かくして彼らはいまやジョルジョ・アガンベンがホモ・サケル(homo sacer)と呼ぶものの実例になってしまっている。
 (スラヴォイ・ジジェク『ラカンはこう読め!』)

 

 歴史を見れば、大航海時代のスペイン人がアリストテレスの「先天的奴隷人説」を援用し、インディオへの支配(と暴虐)を正当化するロジックを組み上げたことはつとに知られているが、それだけに留まらず西欧人は、非白人を野獣と見做すような多くの記述を残した。以下はほんの一例である。

 

 十六世紀のスペイン人が抱えていたさまざまな問題と彼らのとった態度は、太平洋上の島々で、こだまのように繰り返された。ハワイに渡った初期の伝道士は、この島の原住民は人間なのか、それとも「人間と他の獣とを結ぶ中間的な生物」なのかを疑った。

 (中略) 

 「シドニーのワーデル博士が、黒人を一人殺害したあるイギリス人の弁護に立った時、 彼はベーコンとプーフェンドルフに基づいて、人肉を常食する野蛮人(オーストラリア土人は間違いなくそうだと彼は言う)は、自然法によって法の保護の外に置かれているから、彼らを殺しても罪にならないと論じた」

 (中略)

 ロンドン人類学協会の創立者であるハント博士は、万民平等の説に激しく反対し、オーストラリア原住民が文明を受け入れることは「猿がユークリッドの問題を理解するのと同じくらい」困難であるとした。

 (ルイス・ハンケ『アリストテレスとアメリカ・インディアン』)

 

 さらに、より直截的に人間を「畜生」扱いしているものとしては、西欧中世の「狼男」をめぐる法令がある。

 

 右の条項(安田注:『サリカ法典』、『リブアリア法典』、イングランドのヘンリ一世の法令)以外にも、一般に、戦闘行為や公然たる復讐によらぬ秘密殺人の犯人、宣誓(誓約)破棄、大逆罪あるいは宗教的、魔術的犯罪に手を染めた者は、ゲルマンの刑法にしたがえば、「アウトロー」(平和喪失者)となり、オオカミに姿を変えると考えられた。
 (中略)
 裁判によって狼男と宣告された者は法の外におかれ、野獣のように森をさまようことを強いられたのである。まわりのすべての者は、かれを忌み嫌い、心底恐れ、そしてかれを「死んだ者」とみなすのである。
 (池上俊一『狼男伝説』)

 

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 狼男。1722年ドイツ木版画

 

 こうしたことは戦時ヒステリーや前近代的な迷妄として捉えるべきではなく、むしろ支配・排除・殺戮のための欺瞞であると見るべきだろう。つまり「人間ではない」から支配・排除・殺戮してもいいという議論は、実際には支配・排除・殺戮するために「人間ではない」と決めつけているのである。


 【補足2】

 ありふれた犯罪が起きたとき、よく被害者の防犯意識の欠如が責められる。いわく「騙されるほうが馬鹿なんだ」「ちゃんと鍵をかけないからだ」「女がそんなところに行くからだ」云々。
 これに対し「最も悪いのは犯人である」という指摘は、通常は自明のものとして省略されるか、「最も悪いのは犯人だが(しかし)」というように消極的な前置きとしてしか扱われない。なぜなら我々はありふれた犯罪に遭遇した時、犯人を「悪いことをした人」としてではなく、もともと世界に存在する「犯罪の脅威」の具現化として認識するからである。
 つまり「最も悪いのは犯人である」という前提が省略されるとき、我々は犯人もまた人間であることを――スムーズに会話を成立させるための便宜として――いったん棚に上げているのである。

 

 *

 

 こうした短絡を最悪の水準において表明したのが、相模原障碍者施設殺傷事件の犯人である。

 

 好き放題叩かれいい加減疲れましたが、私が殺したのは人間ではないと分かり一安心しました。
 氏名が公表されず遺影もない追悼式は、彼らが人間として扱われていない証拠と考えております。
 (『週刊文春8/17・24合併号』2017年)

 

 この一節を含む手紙がネットでは一部で「正論」だともてはやされたというから驚く。

 一応書いておくと、「氏名が公表されず遺影もない追悼式」が行われたから「人間として扱われていない」というのはレトリックとしては理解できるが、実際にはたんに関係者の思惑でそうなっただけの話であり、殺していいかどうか(生物として人間である/ない)という話とは一切関係がない。ようするに自分の殺戮を正当化するために子供じみた比喩に頼っただけの話である。

 

  だがこの戯言が一部とはいえ「正論」として受け取られたというのは、端的に云えばもともと差別心を持っていた人たちが「危険だが検討すべき問題提起」という免罪符(実際は単純な修辞的まやかしに過ぎない)を与えられたため、安心して自らの差別心を発露させたのであろう。

 そのこと自体は大罪ではなく、むしろありふれた反応と云える。人は多かれ少なかれ差別心を持っているものだし、同時にそれに対する後ろめたさも持っている。だからこそ通常、どんなに陳腐なものでも免罪符なしに自ら差別を語ることはない(これを僕は「差別のアウトソーシング」と呼んでいる)。

 しかし、殺戮者の弁を「絶対に実行してはいけないが正論」であるともてはやすことによって、殺戮者はたんなる薄汚れたヘイトクライムから「正論のために手を汚した英雄」の地位に祀り上げられる。そして、それは次の殺戮者に力を与えることになる。であるならば、やはりそこには隠微な共犯関係がある――と指摘しておくべきだろう。

 

 *

 

 かくして僕がかつて感心したお坊さんの説法もまた、単なるレトリックにすぎなかったのだとこの場を借りて言っておこう。お話として味わったり日常生活上の指針にするくらいは良いかも知れないが、しょせん事実でもなければ世間の洞察に役立つものでもない。むしろ洞察という意味では誤らせる危険のほうが大きい。
 地蔵に立小便をした者は畜生界に生きているわけではない。同様に、グアンタナモの囚人であれ非白人であれ犯罪者であれ障碍者であれジャッポスであれ(蛇足か)その他いかなる者であれ、人間はどこまでいっても人間である。

 

 最後に。

 さきほど「健全な罵倒」について触れた過去記事を紹介したが、別の記事で僕は「相手を理解しようとすることは、それ自体は悪いことではないがある種の危険を孕む。そのような意識は常に裏返るリスクが付きまとう(こんなに寛容で理性的な自分に比べ、不寛容で非理性的なあいつは下等である!)」という意味のことを書いた(以下参照)。

 

visco110.hatenablog.com

 

 ここで言いたかったのも近いことだったな、と思う。

 つまり諸々の良い心がけというのは、それ自体は確かに良いものではあるが注意しないとすぐ裏返り、差別的な意識が紛れ込むということである(こういうのを「魔境」というのだろうか?)。 

 一方、喧嘩や罵倒それ自体は良いものではもちろんない。だが無視や黙殺、スマートな排除に比べ、少なくとも同じ人間として扱い、同じ土俵に立っているという面が幾らかはある。

 

 人間はどこまで行っても人間。いくら精進したところで人間以上のものになるわけではないし、どんな人間であれ人間以下ではない……といったあたりで今日の話はお終いにしよう。

 

往生要集〈上〉 (岩波文庫)

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往生要集〈下〉 (岩波文庫)

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ラカンはこう読め!

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アリストテレスとアメリカ・インディアン (1974年) (岩波新書)

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狼男伝説 (朝日選書)

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ある錯誤のパターン 必要条件と十分条件

 

 たとえば「ロシア人は背が高い」ことを証明するためにはどうすればいいだろうか。背の高いロシア人を連れてきても無駄である。背の高いロシア人を100人連れてきても同じことだ。
 「ロシア人は背が高い」という命題にたいし「背の高いロシア人」は必要条件である。しかし、命題そのものの正しさを証明するには十分条件を提示しなければならない。ここではロシア人の平均身長と、他国の平均身長がそのような傾向を示していれば十分条件となりうるだろう。

 

 こうした錯誤のもっとも有害な例のひとつは、「〇〇〇でガンが治る」といった商法だ。その〇〇〇という治療法がガンに対して効果があることを証明するにはどうしたらいいだろうか。「げんに〇〇〇で治った人がいる」というのは「背の高いロシア人」と同じである。もちろん100人連れてきても同じことだ。
 そうではなく、「〇〇〇で治った人」と「〇〇〇で治らなかった人」の比率が、「〇〇〇以外で治った人」と「〇〇〇以外で治らなかった人」の比率に対し有意に多くなければならない(もちろんもっと直接的に、医学的に効果があることが立証されればそれでもいいのだが、どのみち効果があるなら統計に表れるので同じことではある)。

 

 有害度合いはそれに比べて少ないが、健康商品の広告にも似たようなことがある。ようは「×××を食べてから毎日調子がいい」というやつだ。健康商品については必ずしも効果がないとは思わないが、問題はその宣伝方法である。「×××を食べて調子がいい人」は「背の高いロシア人」と同じであり、「〇〇〇で癌が治った人」とも同じである。
 ようするに、そういう人を何人連れてきたところで「×××は健康にいい」ことは証明されないのである……しかしまあ、健康食品の広告くらいは大目に見よう。

 

 思い返すに、僕がこうした錯誤がとりたてて嫌いなのは、母親がガンで亡くなる前にさまざまな民間療法のカモになったからだ。そもそも人間はガンが全身に転移などしていたら冷静に物事を考えられるわけがない。僕だって同じ状況になったら、民間療法のカモになる可能性は充分にある。
 個人的には「〇〇〇でガンが治る」という類いの商法はけっこうな憎悪の対象である。が、すべての民間療法を知り尽くしているわけでもないので、公けには「本当に効果があるかどうか、きちんと検討してね(´・ω・`)」くらいのことしか言えない。

 

 *

 

 最近、ツイッターで(あまりブログで話題にしたくないけれど)「日本人男性のミソジニーは最低」という類いのツイートを目にする。一度や二度ではなく、それなりに頻繁に。
 さてこの命題を証明するためにはどうすればいいだろうか。
 ミソジニーな日本人男性の例を挙げれば十分条件と言えるだろうか? 言えない。
 ミソジニーな日本人男性の例を100個挙げれば十分条件と言えるだろうか? まだ言えない。
 正解は「日本人男性のミソジニーの質・量が、他国の男性のミソジニーの質・量と比較してより濃厚であることを示すなんらかのデータ」が必要ということだ(そんなデータがあるかって? それはこの命題を主張している人たちで捜してください)。
 いや、十歩譲って体感で語ることはべつにかまわない。それがあくまで体感の話だという自覚があるならば。
 また十歩譲って、何らかの法律であるとか要人発言に問題があるとすればともに抗議してゆくことはやぶさかではない(私は男女同権論者であり、人間は性その他のあらゆる属性にかかわらず尊厳を持つと信じている)。しかしそのことは「日本人男性のミソジニーは最低」であるかどうかとはまた別の話だ。

 

 僕自身が日本人男性だから怒っている? それはもちろんあるだろう。
 しかし、こうした錯誤はどんな属性をも脅かしうる。性別、エスニック、宗教、政治的信条、趣味、身体的特徴、その他ありとあらゆる属性を。
 なにか酷い例を挙げればその属性が最低だということになるならば、僕はどんな属性でも最低であることを証明する自信がある。

 僕の好きな西欧の慣用句に「スペインの宿屋」というものがある。これは「なんでも出てくる」という意味だ。ところで世界とは巨大な 「スペインの宿屋」ではないか? ……そういうことだ。

 

 ではなぜ彼ら/彼女らは、末期ガンでもないのにそのように判断が鈍るのだろうか。僕はツイッターでさまざまな議論をする人たちがとりたてて判断力に劣るとは思っていない。むしろ周囲の人たちより意識が高く、知識も豊富かも知れない。にもかかわらず易々とこうした錯誤に陥るのは、端的に云えば憎悪ゆえでしょうね(それについての考察はまた別の機会にしますが)。
 怒りも怖れも、ともに判断を鈍らせるものだ。

 

 *

 

 「必要条件と充分条件」以外にも、錯誤の例はさまざまある。とくに差別に結びつきやすいものとしては、T.ギロビッチの云う「パターンの非対称性」(外国人と犯罪・薬物の結びつきなど、もともと偏見を持っているものに対してはその偏見に当て嵌まる例が記憶に残りやすい)やウィリアム・パウンドストーンが紹介している「スコープ無反応性」(ウィリアム・H・デーヴスジェスらの実験による……人が統計的なデータよりも強烈なイメージに意見を左右されやすい傾向)といったものがある。


 いずれにせよ、物事を判断するときにはなるべく怒りや怖れを排除すること……は出来なくとも、少なくともそのバイアスを受けていることを自覚すること、そして人間が陥りがちな錯誤のパターンをひととおり頭に入れておくことが必要だろう。

 

 なお「人間が陥りがちな錯誤のパターン」を知るためには、T・ギロビッチ『人間 この信じやすきもの』がひじょうにうまくまとまっており、なおかつ鋭い指摘に満ちていた。この本が類書より優れているところは、やや愚かしい人間が錯誤に陥るのではなく(このての類書ではそういう印象を受けがちだ)、賢明な人でも錯誤に陥ることを示しているところにある。なぜならば、ギロビッチによれば錯誤とは認知的能力の欠如ではなく、むしろ人間が発達させてきた素晴らしい認知的能力の副作用だからである。推薦したい。

 

人間この信じやすきもの―迷信・誤信はどうして生まれるか (認知科学選書)

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クラウド時代の思考術―Googleが教えてくれないただひとつのこと―

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