やすだ 😺びょうたろうのブログ(仮)

安田鋲太郎(ツイッターアカウント@visco110)のブログです。ブログ名考案中。

あの子はいまごろどうしてる 〈出離〉と〈懲罰〉考

 

 まず、怖い話をひとつ。

 

 時は昭和四十年頃、所は八王子。鈴村喜平さんの娘で当時高校一年生だった喜代子さんが行方不明になった。
 それからしばらく後、鈴村家では奇妙なことが起こるようになった。頻繁に石鹸がなくなるのである。誰かが盗んでゆくのだろうか。しかしたかが石鹸のことで波風を立てたくなかったので、鈴村家の人びとは近所にその話をすることもなかった。
 その日もまた石鹸がなくなった。夫婦で不思議がっていると、お婆さんのクニさんが仏壇で線香をあげながら言った。
 「ひょっとすると喜代子はもう死んどるんじゃないかねえ」
 お婆さんいわく、石鹸がなくなるのは決まって二の日(安田:二日、十二日、二十二日のことか?)であり、それは喜代子さんが行方不明になった日付(十二日)なのである。

 

 喜代子は、行儀作法にうるさいクニさんとあまり仲が良くなかった。喜代子は派手好みでおしゃれなタイプで、学校から男女交際の問題で注意を受けたこともある。
 夏休み中のある日、夜遊びのことでクニさんから叱られた翌朝に、彼女は家出してしまった。

 

 彼女の消息を追ってゆくと、最初は同じ八王子市内の市川家にお手伝いとして住み込んだが、そこでも数ヵ月経つとろくに働かなくなり、男をつくって夜遊びばかりしていた。ある日ひどく泥酔して帰宅したので注意したところ、数日後に居なくなってしまったという。
 それから喜代子はバーのホステスを転々とし、どの店でもなかなか客にもてたが、男の出入りも激しかった。彼女の客同士が店でカチ合わせてケンカになったこともある。
 彼女が最終的に消息を絶ったのは、家出から数年後の十二月十二日であった。当時彼女は新宿のバー「ランタン」に勤めていたが、相変わらずモテており、日野、八王子、立川方面からの客がよく彼女についたという。午後四時半ごろにアパートを出ていったん店に立ち寄ったが、男から電話がかかり、「ちょっと出かけてくる」と店を出たきり二度と戻らなかった。そして持ち物の整理から親元に連絡が行き、捜索願いが出された。

 

 その一年後の十二月十二日、森戸山の丘陵地をブルドーザーが切りひらいていたところ、死体が出てきたといって大騒ぎになった。それは死体といっても人の形をした奇妙なミイラのようなものであった。
 やがて鑑識の結果が出ると、それは死蠟化した喜代子の死体だったのである。他殺らしいが犯人は不明であった。
 人々の噂では、鈴村家から石鹸がなくなったのは、喜代子が親に会いたいという一念で、自らを死蠟化するために石鹸を欲しがったのだろうということである。

 

 この話は、松岡照夫『日本の怪奇』に収録されている、「石けんを求めた死蠟のミイラ」を要約したものだ。
 確かにジャンルとしては「怖い話」なのだが、哀しい話でもある。
 喜代子のような女は、誰でも一人や二人は心当たりがあるだろう。どうしても昼社会の規範からはみ出してしまうような、愚かさと自由奔放さを持った女。常にご近所の噂の的になるような娘。運が良ければ幸せになれるかも知れないが、現実はなかなか厳しく、こういう女性を待ち受けている世界は、大体がさまざまなリスクの連続である。
 この作り話(まあ、結局はつくり話だ)では流れ流れてデッドエンドまで行ってしまうが、最終的に彼女の「家に帰りたい、親に会いたい」という〈出離への悔悛〉が話を構成している点はきわめて重要である。というのも、この話はあきらかに逸脱に対する戒めのメッセージを持っている、きわめて保守的な物語だからである。
 喜代子のようになりたくなかったら、ゆめゆめ家出などするなかれ。親のいいつけを守って慎ましく暮らせ、というわけだ。

 

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 *

 

 こうした「逸脱を戒める物語」は、口承文芸のなかに多く見られる。いま述べたような「怖い話」にもよくあるが、私見では都市伝説にとくに頻繁に見られる。
 たとえば口裂け女は、美容整形の失敗で口が裂けてしまったと言われている。これは美容整形に対する年長からの警告的な物語といえる。
 また日焼けサロンをはしごした娘の内臓が焼けてしまうというのも、日焼けサロンに対する、やはり同じような懲罰的な感情を含んでいる。
 スプレーで固めたビーハイブヘアに毒グモが巣をつくるという都市伝説も、新奇な髪型にたいする親世代からのいかがわしげな視線を反映させたものであるし、ブティックの化粧室で誘拐され海外に人身売買されるというあの超有名な都市伝説も、華美なファッションに対する戒めといえる。それから、ピアスの穴から白い糸が出ていて、引っ張ると失明するという話も。
 美容整形、日焼けサロン、手間のかかる髪型、ブティック、ピアス……だいたいそういったものに「うつつを抜かす」若い女性が、ひどい目に遭うターゲットになる。そういえば、豊胸手術をした女性の胸が飛行機内の気圧の変化によって爆発する話もありましたね。
 つまるところ共同体の論理に属する人間は、家出して「凋落」してしまったり、男関係のトラブルに巻き込まれたりするような危険な徴候をそこから読み取っているのである。鈴村喜代子もまた、派手好きで恋多き女として設定されていた。

 

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 ビーハイブヘア。

 

 そのきわめつけが、八十年代に流行した「八王子の白いローレル」という都市伝説である。
 これは、八王子駅前で白いローレルに乗った中年男がナンパをしており、うっかりその車に乗ると、山中に連れ去られ、バリカンで丸坊主にされたあげく置き去りにされるという物語である。言うまでもなく、ここで戒められているのは「ナンパについて行くこと」だ。

 

 ところで勘のいい読者はすでにお気付きだろうが(最近この言い回しが多い)、この都市伝説には「石けんを求めた死蠟のミイラ」との重要な符合がある。それは、これらの物語がどちらも八王子が舞台となっていることだ。
 だが、なぜ八王子でなければならないのか。これには案外深い理由があるようだ。ルポライターの佐伯修は次のように指摘している。

 

 膨張する〈東京〉は、八王子まできて山にくいとめられる。「首都圏」はどんなに広がっても、たぶんこの山を越えられない。甲州街道も、中央線も、中央自動車道も、みなここから山に入り、古い言い方をすれば「他国」、でなければ別の「圏」へと抜けるのだ。
 そんな八王子とは、どこにいてもつねに西の山地を感じずにはいられない街といえる。そもそもこの街は、〈山〉を意識しているのだから。
 (『別冊宝島 うわさの本』所収、佐伯修「八王子の白いローレル、あるいは、明るい都市と暗い場所をめぐる物語」、以下太字は安田による)

 

 〈東京〉へ入って来る「自動車道」とよばれる主要道路のうち、山を抜けて来るのは中央道ただひとつだ。自動車、ナンパ、モーテル、山……。このうわさ話は、「山を感じる街」としての八王子のボーダー性の特徴と、やはり強く結びついている。
 (同書)

 

 つまり八王子より西の山は、手垢のついた言葉でいえば「他界」ということなのだろう。
 かくして「八王子の白いローレル」は、見方によっては山中他界で怖ろしい目に遭うという、あの『遠野物語』との共通点を持っているのであった。

 

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 してみれば、喜代子の生家が八王子にあり、彼女を連れ去った男も「日野、八王子、立川方面あたりからやってきた客」であり、また死体が掘り出された場所も八王子付近の丘陵地であったというのは偶然ではなく、八王子独特の物語的磁場が呼び寄せたものに他ならない、と言っても決して穿った見方ではないだろう。
 そして、喜代子の死体が発見された丘陵地には、当然ながら車で向かったことを考えると、じつは「石けんを求めた死蠟のミイラ」は「八王子の白いローレル」の類話の一つといってもいいくらい、きわめて酷似した内容を持っているのである。

 

 *

 

 ここまで口承文芸における「逸脱への戒め」の傾向、また共同体の内部と外部=〈郷〉(さと)と〈山〉の関係が、時として八王子とその西の山に置き代わっている例などを見たわけだが、さきほどちらりと出てきた『遠野物語』には、こうした要素のすべてが含まれている。
 というよりも、『遠野物語』の説話には少なからず《出離》に対する戒めの傾向があるという指摘は、吉本隆明によってすでになされているのである。
 吉本は『共同幻想論』のなかで、たとえば『遠野物語』の次のような説話を引用している。

 

 遠野のある長者の娘が、雲がくれして数年もたった後、おなじ村の猟師が山の奥で、その娘にあった。おどろいて、どうしてこんな処にいるのかと問うと、或る者にさらわれていまはその妻になっている。子供もたくさん生んだけれど、夫が食べてしまってじぶん一人である。じぶんはここで一生涯を送るけれど、ひとにはいわないでくれ、おまえも危ないからはやく帰ったほうがいいといった。
 (柳田圀男『遠野物語』)

 

 村の娘が栗拾いに山に入ったまま帰らなくなった。家の者は死んだとおもって、葬式もすませて数年すぎた。村の猟師があるとき山に入って偶然にこの女にあった。どうしてこんな山にいるのかと問うと、怖ろしい人にさらわれ妻にさせられた。にげ帰ろうとおもってもすこしも隙がない。その人はたけが大きく眼の光がすごい。子供も幾人か生んだけれど、食べるのか殺すのか皆もちさってしまう。ときどき四五人集まって何か話し、どこかへいってしまう。食物など外からもってくるのだから、町へ出るにちがいない。こう言っている間にも帰ってくるかも知れないというので、猟師も怖ろしくなってそうそうににげ帰った。
 (同書)

 

 こうした山人譚に対し、吉本は次のように言う。

 

 『遠野物語』のなかのこの種の話は、いわば村落共同体から〈出離〉する心の体験という意味でリアリティをもっている。村からなにかの事情で出奔して他郷へ住みついたものが、あるとき郷里の村人に出あって、あまり良いこともなかった出奔後の生活について語るという比喩におきかえてみれば、この種の山人譚のうったえるリアリティの本質はよく理解される。
 (吉本隆明共同幻想論』所収「禁制論」)

 

 この手の山人譚で重要なことは、村落共同体から離れたものは、恐ろしい目にであい、きっと不幸になるという〈恐怖の共同体〉が象徴されていることである。村落共同体から〈出離〉することへの禁制(タブー)が、この種の山人譚の根にひそむ〈恐怖の共同体〉である。
 (同書)

 

 いやはや。『遠野物語』についての指摘でありながら、そっくりそのまま、鈴村喜代子のあの哀しい物語について当てはまる話ではないか。
 結局のところ、民話も「怖い話」も都市伝説も、そういう点では変わりがない。そもそも「郷(さと)を出ていったあの子はどうなったんだろう」というかたちで、こうした物語が語られ、次第に醸成されてゆくことを考えるならば、そこには自ずと共同体を離れた者にたいする嫉妬と羨望の入り交じった感情が混ざり込む。「わたしたちはムラのオキテに従って単調でつまらない生活をしているけれど、あの子みたいな目に遭うよりはいいわ」「やっぱり、ここにいるのが一番ね。少なくともアッチ側へ行くより、ずっと安全で快適なんだから」云々。

 といってもそこまで強い感情でもなく、これは話の共通の「落とし所」というやつだ。誰しも世間話では、参加している顔ぶれをみて、本心でそう思ってるわけでもない予定調和の結論に、まるで共同作業であるかのようにして持ってゆく。
 こうした物語が共同体内で語られるかぎりは、避けがたく「逸脱への戒め」という方向性を持つのだろう。それは、共同体に居残った者がとくべつ意地悪いわけでもなく、また出て行った者がとくべつ愚かなわけでもないのである。

 

 

 

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