やすだ 😺びょうたろうのブログ(仮)

安田鋲太郎(ツイッターアカウント@visco110)のブログです。ブログ名考案中。

あの子は統合失調症?(続・あの子はいまごろどうしてる)

 

 さて先日のブログ(「あの子はいまごろどうしてる 〈出離〉と〈懲罰〉考」)では、どうしても日常の生活秩序から逸脱してしまう女の子のことを書いた。誰にでも心当たりがあるような、職も居場所も男も定まらないあの子。言動に突飛なところがあり、何をするかわからない危うさがあるが、同時にどこか虚ろでなりゆきまかせのあの子。
 先日のブログでは、そういう逸脱した存在に対する共同体からの目線=噂は、民話にしろ都市伝説にしろあるいは「怖い話」にしろ、しばしば懲罰的な形――規範から逸脱するとひどい目に遭うぞ――をとる、ということについて検討した。

 

visco110.hatenablog.com

 

  だが、それはあくまで外部からの視線であって、そのとき彼女自身はなにを考えているのか、どういう心理があってひとところに留まれないのかについては、先日のブログでまったく触れなかったし、正直なところ僕にはよくわかっていない。
 しかし、手元に一つの解釈の糸口があり、もしかしたらそういう子たちの一部分については当て嵌まるかも知れないと思うので、今回はそれについて書きたい。

 

 なお、事例や見聞が多いこともあって女性を想定しているが、男性の事例もなくはないので(例えば後述のC・カリガリスが挙げているもの)、必ずしも女性に話を限定する意図はないのでご了解いただきたい。
 また、彼女たちが頻繁に住居や職や男を変えることについて、彼女たち自身の言い分というのはもちろんあって、いわく毒親だったとか、いわく彼氏が殴るとか浮気するとか、職場がブラックだとかいじめられるといった話をけっして嘘とも誇張とも思わないが、一つ一つの話を聞けば彼女たちの言い分ももっともだということと、全体として見たときに彷徨しているとしか云いようがないことは別段矛盾しないと思っている。いずれにせよ、本稿に女性をめぐる社会的境遇の厳しさを軽視する意図はなく、それについてもご了解を願う次第である。

 

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 先日のブログで紹介した「石けんを求めた死蠟のミイラ」(松岡照夫『日本の怪奇』所収)では、鈴村喜代子という娘が、高校生の時から男と夜遊びばかりしていて学校から問題にされ、ある日ふと実家を飛び出し、住込みのお手伝いやバーのホステスなどを転々とする。ホステスとしてはどの店でも人気で、男の出入りも激しかったが、最終的には痴情のもつれで男性客の一人に殺され、八王子の山中に埋められるという話であった。

 

 恐怖譚としてのオチが気になる方は先日のブログを読んでもらうとして、あれを書き上げてからも、僕は何か言い足りない気がして、そうした女の子のことを考え続けていた。
 とはいえ「どこにでもいる子」と言ってしまえばそれまでで、例えばかなり昔だが一瞬だけ一緒に働いていた女の子が、やはり職や男を転々としていて、なんというか喋り方といい化粧といい、いかにもろくに働きもせずに女を殴るようなクズ男が寄ってきそうなオーラを発している子であった。案の定その職場でも長続きせず、その後どうなったかはわからないが、やめ際に「これからどうするの?」と聞くと、「わからないけど、なんか働くと思う。しばらく姉に泊めてもらうかも」と呟いていた。姉はなにをしているの? と聞くと、「姉はキャバ嬢やってる」とのことだった。

 他にもあるのだが、そういう子には各人心当たりがあると思われるので、何人も例を挙げる必要はないだろう。

 

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 最近になって、そういう子の一部は軽い統合失調症(昔の言い方では分裂病)なのではないか、ということに思い当たった。
 というのも、統合失調症の初期症状に次のようなケースがあることを知ったのである。

 

 軽い分裂病をわずらったために生への欲求を喪失した人たちのなかには、自己建設の企図もなく、自己をつつむ環境の力が押すままに淡々として流れてゆく人びともある。たとえば、ふつうの家庭にそだった平凡な娘がごく徐々に分裂心性に代わってゆくときには、(中略)それまでの優雅な慎み深さがとれて、奔放な娘に一変し、自分のまわりに異性を惹きつける。この奔放さはしかし生の弾力性にみなぎった天性の娼婦のそれではない。虚の心性の誕生によって現実的な生への執着が枯れているので、自分をもとめる人が現れれば拒まずに身を委ねるし、彼が離れて行こうとすればそれなりにまかせる。人びとは彼女のまえに不意に現われ、まもなく立去ってゆく。彼女はそれにたいして個性的人格的な接触をいとなんではいない。人間だけではない、外界のすべてが彼女には関心の外である。家から追い出されれば、バーの女給になって住込んだり、料亭の下働きとなったり、あるいは娼婦の群に入ったりして転々とした人生を送る。
 (島崎敏樹『現代人の心』、以下太字は安田による)

 

 まあ、若干説教オヤジくさいトーンが気になるのだが、それにしても、これはまったく鈴村喜代子や、我々が知っている「あの子」たちのことではないか?
 家にいられずに、バーの女給などを転々とする、そのさい男の出入りも激しいといった表面的な一致もさることながら、短期的に見れば奔放で行動的なようでいて、俯瞰すれば受け身で流されるままといった二面性は多分に思い当たるふしがある。思えば鈴村喜代子の夜遊びが絶えないことも、呼び出す男たちがいるからであり、親から見れば奔放であるが実態は受け身であるともいえる。
 また、ここには行為そのものが持つ逆説があるように思う。つまり、短期的に見て活発な行為(付き合う、別れる、トラブルを起こす、転職する、売春する、失踪する等々)と、長期的に見たときに主体的-活動的であることとは似て非なるものなのだ、といったような。
 宮本忠雄は島崎の記述について次のように註釈している。

 

 分裂症者の場合、発病まえにそなわっていた対人的な閉鎖性や独善性、自己主張性をうしなって、適度の順応性を身につけるようになることがすくなくない。だが、その順応性は、状況の変化に応じて自己を柔軟に律していく創造的な順応性、ミンコフスキーのことばでいえば、ゆたかな順応性ではなく、恒常的な状況のなかで恒常的にふるまい、あるいは状況の変化のままに無抵抗に流水のようにふるまうあらわな順応性なのである。
 (宮本忠雄『精神分裂病の世界』)

 

 鈴村喜代子にしても「自己を柔軟に律してゆく」順応性を発揮して家や学校に留まることは出来なかった。その代わりに、男が絶えなかったり、バーのホステスで人気を得るような「流水のようにふるまう」順応性を、ひじょうに高度に発揮したのだった。

 

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 繰り返すが、なにもこういう子たちがみな「軽い分裂病」だと言いたいわけではない。しかし「軽い分裂病」のなかには、上述の他にも似た事例が見られる。
 たとえばブラジル・ラカン派のC・カリガリスは「非病相期の精神病構造」の患者の例を挙げている。

 

 精神病とは厳密には統合失調症だけではなく、双極性障害等の疾患も含むより広い概念だが、カリガリスは統合失調症とほぼ同義で用いている。また「非病相期の精神病構造」とは、「いかなる病相期も含まず、伝統的に精神病的と見なされるあらゆる表現(妄想、幻聴、体感幻覚、幻視、さらには古典的臨床で定義されるその他の精神病的現象すべて)をも含まない精神病的構造を説明するための前提です」(C・カリガリス『妄想はなぜ必要か』)と述べているように、幻覚や妄想を発症していない者でも統合失調症の文脈で診断しようとする構えである。

 

 カリガリスが挙げる事例は、ある若い男性がベトナム戦争に従軍したあと、通常の方法では帰国せず、そのままインドやビルマを放浪して薬物に染まったのち、フランスにおいてある大企業の社長令嬢と出逢い結婚したが、同時にその母親とも愛人関係を持ち、そうこうしているうちにたまたま立ち寄ったバーでギャングたちが銀行襲撃を企てており、なぜか彼はその計画に誘われ、彼はそれを受け容れて一緒に銀行を襲撃したところ逮捕された、という患者である。

 

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  カリガリスは、この男の何にでもなれてしまう器用さと順応性に舌を巻いているが、同時に彼の無軌道さに呆れてもいる。
 この男は妻である社長令嬢に言われるがままに診療室に通っていたのだが、本人にとっては治療を必要とする様子でもなかったという。彼にとっては診察を受けることさえ「さまざまな彷徨のひとつ」にすぎなかったのではないか、とカリガリスは述べている。
 このケースは、我々が問題にしてきた「あの子たち」と何もかもが似ているというわけではない。だが一見奔放なようで実は虚ろで受け身であり、また一見順応的なようで一箇所に留まれない性質が、「軽い分裂病」(「非病相期の精神病構造」)から発するのではないか、という点について通底するものがあるように思う。したがってカリガリスの彼についての見解は傾聴に値するであろう。

 

 お分かりのように、問題は意味作用の地平ですが、この患者の場合、それは他のすべての意味作用を決定する中心的意味をめぐって組織化されてはいません。その結果、主体は彷徨せざるをえません。しかし、究極の意味作用として出会うことができる何かを求めて彷徨するのではありません。
 (中略)
 精神病者は自身の意味作用の謎をひとつの意味で解き明かす必要は必ずしもありません。だからといって、精神病者は彼の人生のあらゆる瞬間、あらゆる場所で、主体的なひとつの意味作用を自身のために持つことができない、というわけではありません。神経症者にとって驚くべきことは、精神病者の意味作用が場合によっては無視されることではなく(中略)それが、不断の問いの対象ではないことです。
 (コンタルド・カリガリス『妄想はなぜ必要か』)

 

 いかにもラカン派の文章という感じで部外者には判然としない部分があるが、意とするところは、彼女(彼)らには「意味を統べる意味がない」、またそれがどうしても必要とも感じていないので、人生に対するある種の計画(=執着)を持つことが出来ないといったところか。
 そして、それが一見したところの奔放さや順応性にもなっている。つまり「変えることのできない生き方」といったものを持っていないので、変化に対して開かれており、自分を取り替えてゆくことが得意なのだ、といったような。

 

 カリガリスは彼の患者を、古典的精神医学では「成功した精神病質者」と呼ぶ、と述べている。もっとも逮捕されているのだから成功と呼べるかどうかは怪しいものだが、確かに、常人にはなんのコネもなく大企業の社長令嬢と恋仲になったり、同時にその母とも愛人関係を結んだり出来るものではないし、銀行強盗にいきなり仲間に見込まれることもない(ギャングにはそういうスカウトの勘が働くのだろうか?)。

 こうした人たちがある種のスキルを持っているというのはあるかも知れない。そう、「成りすますスキル」や「取り入るスキル」みたいなものを(僕がぱっと浮かんだのはショーンKこと川上伸一郎の驚異的な「成りすますスキル」だ)。外にも、人目を惹いたり、どこか他人をワクワクさせるスキル持ちでもあるかも知れない。
 そうやって考えると、鈴村喜代子や我々の知っている「あの子たち」も、彼女たちしか持っていない能力があるのだ、と言うことも可能である。

 

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 *

 

 偏執型(パラノイア)と分裂型(スキゾフレニー)を人間の二類型とし、後者の時代がやって来る、とアジテーションしたのは浅田彰であった。

 

 このパラノイアとスキゾフレニーの厳密な定義はややこしく、通常はスキゾフレニー=統合失調症としても間違いとまでは言えないのだが、浅田彰も依拠していると思われるドゥルーズ派……がまた依拠しているラカン派の用法では、いずれも統合失調症の下位カテゴリーであり、前者は妄想型の統合失調症、後者は非妄想型の破瓜型統合失調症に該当する等の整理がある(https://slidesplayer.net/slide/11150701/)が、本稿はべつに学術論文ではないので、浅田彰の言及のみを参照すれば充分であろう。

 

 スキゾってのは分裂(スキゾフレニー)型で、そのつど時点ゼロで微分=差異化(ディファレンシート)してるようなのを言う。つねに《今》の状況を鋭敏に探りながら一瞬一瞬にすべてを賭けるギャンブラーなんかが、その典型だ。
 (中略)
 これで舞台装置はととのった。いよいよ大予言が下されるべき時だ。すなわち:《パラノ人間》から《スキゾ人間》へ、《住む文明》から《逃げる文明》への大転換が進行しつつある。この大転換を全面的に肯定せよ! 男たちが家族なり女なりから逃げ出しつつあるというのも、この大転換の一つの現われなのだ。そして、何でまたこの大転換を肯定しなきゃならないのかと問われれば、答はカンタン、その方がずっと楽しいからに決まってる。
 (浅田彰『逃走論』)

 

 ただ、こうしたスキゾ肯定論(或いは脱アイデンティティ論)とでも呼ぶべきものに対し、後に出てきた批判も無視することは出来ない。その批判とは単純に言えば「学者が無責任にそんなことを勧めるのはいかがなものか」というものだ。

 これにも酌量の余地があって、浅田がこれを唱えていた八十年代は、モラトリアムやフリーターが「新しいライフスタイル」としてかなり肯定的に見られていたことが挙げられる。好景気に支えられた時代の風潮(仕事なんざその気になればすぐに見つかる)が、こうした生き方を肯定的に語ることを許していたのである。だが、今はもちろんそうした時代ではない。

 

 結局のところ「軽い分裂病」「非病相期の精神病構造」「スキゾ」は、一概にプラスともマイナスとも決めつけることは出来ないようである。それは時代との相性にもよるし、何より当人がその気質とどう向き合い、リスクを抑えて長所を引き出してゆくかにかかっているからだ。
 赤の他人ならいざ知らず、友達ともなればなかなか職が定まらない、毎度毎度彼氏がクズ、なんて話を聞くとどうしても心配してしまうが、余計なお世話ではある。結局、その人の人生はその人のものであるし、今回見てきたように、そういう気質だからこそ掴める成功もあるかも知れないからだ。
 でもくれぐれも「いのちをだいじに」、そこんとこはお願いします、ね。